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111. 回収せよ

「……シエル……」


 その呟きは、あまりにも小さく、あまりにも儚かった。掠れた声は、喉の奥から絞り出されたもの。それは命令ではなく、懇願だった。助けを求める、魂の叫びだった。


 けれど次の瞬間、公爵の表情が苦悶に歪んだ。


「ぐっ……!」


 胸元を強く押さえる。まるで心臓を鷲掴みにされたかのように、その手が激しく震えている。呼吸が乱れ、額に脂汗が滲む。


 ワイシャツの襟元から、黒い血管のような紋様が這い上がってきた。


 それはまるで生き物だった。脈打っている。ドクン、ドクンと、まるで第二の心臓のように。紋様は蛇のようにうねりながら首筋へと這い上がり、公爵の肌を侵食していく。


 公爵の顔が汗に濡れる。歯を食いしばり、何かに必死で抗っている。その表情には恐怖と苦痛、そして――絶望が浮かんでいた。


 違う……。


 心の中で叫ぶ。


 シエルは……娘は……私の、大切な……。


 守らなければ。あの子を。何があっても。


 けれど、その想いは黒い紋様に飲み込まれていく。ドクン、ドクンと紋様が脈打つたびに、公爵の意識が侵食され、彼自身の意思が奪われていく。まるで砂の城が波に攫われるように、彼の心が少しずつ崩れ落ちていく。


 数ヶ月前のことだった。


 政敵との会談を終えた帰路、何者かに襲われた。気づいた時には、自分の胸に何かが埋め込まれていた。闇の組織が作り出した禁忌の生体兵器――『支配の核』。それが、彼の心臓の傍で脈打っていたのだ。


 以来、公爵の意思はもはや彼自身のものではなかった。核が命じるまま、核が望むまま、彼は傀儡として動かされている。自分の体が、自分の言葉が、自分の意思ではないものに操られている。その恐怖と絶望を、誰にも伝えることができない。


 声を上げることも、助けを求めることも、核が許さない。


 ただ、自分の体が愛する者を傷つけるのを、氷の牢獄の中から見つめることしかできない。


 やがて、紋様が首筋まで這い上がり、そしてゆっくりと引いていった。


 公爵の表情から苦悶の色が消える。代わりに戻ってきたのは、冷たく無機質な仮面のような顔。瞳から光が消え、そこにはただ、暗い虚無だけが広がっていた。


 彼は再び報告書を見た。銀髪の少女の絵を。


 その瞳にはもう、父親としての光はない。ただ、指示通りに動くまるで機械のようなうつろな闇だけが宿っていた。


「出来損ないが」


 その声は氷のように冷たかった。自分の娘を、そう呼んだ。


「計画を邪魔しおって」


 報告書を握りしめる手に、青筋が浮かび上がる。


 公爵を操る『核』にとって、シエルは失敗作でしかなかった。政略結婚という鎖から逃げ出した、制御不能の駒。回収すべき資産。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「計画の障害を『回収』する」


 公爵は机の上の銀のベルに手を伸ばし、チリンと鳴らした。


 その澄んだ音色は、静寂の中に波紋のように広がっていく。けれどその響きは、どこか不吉だった。まるで運命の終わりを告げる弔いの鐘のように。



       ◇



 書斎の重厚な扉が、開かれた――。


 ギィィ……。


 蝶番の軋む音が、静寂を破る。


 そして、一人の男が部屋に入ってきた。


 身長は二メートル近い。鋼のように鍛え上げられた肉体。顔には無数の古傷が刻まれ、それは彼が幾多の死線を潜り抜けてきた証だった。腰には、並の騎士では持ち上げることすらできない大剣。その存在感は圧倒的で、部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。


 ギルバート・フォン・シュタイナー。


 アステリア家に代々仕える騎士の家門。その現当主にして、王国最強と謳われる騎士団『(あお)獅子(しし)騎士団』の団長。


 最強の剣士。


 鉄の忠誠心を持つ男。


 そして――幼いシエルに剣の手ほどきをした、もう一人の父親のような存在。


 彼は公爵の前で片膝をついた。ガシャリ、と軽鎧の音が響く。


「団長ギルバート、ただいま参上いたしました」


 その声は低く、力強い。けれど、どこか硬かった。いつもの朗らかさが、今日は影を潜めている。


 公爵は背を向けたまま、窓の外を見ている。まるで石像のように微動だにしないその背中。重く、息苦しい沈黙が流れる。


 やがて、公爵が口を開いた。


「ギルバート」


 その声は、氷のように冷たかった。


「我が娘、シエル・フォン・アステリアを『回収』せよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの体がわずかに硬直した。


 回収――?


 まるで物を扱うかのような言葉。このお方は今、ご自分の娘を、そう呼んだのか。


 ギルバートは何も言わなかった。言えなかった。ただ、膝をついたまま、床の木目を見つめている。


「……はっ」


 絞り出したのは、たった一言。


「抵抗するようであれば、傷つけても構わん」


 公爵の声が、追い打ちをかける。


「アステリア家の栄光を阻む者は、何人たりとも許されん。たとえ、我が血を分けた娘であろうとも」


 『傷つけても構わん――』


 その言葉が、ギルバートの胸を貫いた。


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