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110. 嵐を呼ぶ歌

 翌日――。


 その歌は王都中に広がっていた。


 酒場で、広場で、街角で。噴水のほとりで、市場の雑踏の中で。無数の吟遊詩人が竪琴をかき鳴らし、あの英雄譚を歌い上げている。『運命の軍師(ストラテジスト)』と名付けられたその歌は、瞬く間に王都の流行となり、子供たちまでもがその一節を口ずさむようになった。


 けれど、その反応は様々だった。


 豪華な屋敷のサロンでは、貴族たちがワイングラスを傾けながら鼻で笑う。


「ふん、田舎町の出来事だろう? 吟遊詩人の誇張に決まっている」


「三万の魔物を五人で? おとぎ話もいいところだ。民衆とは愚かなものだな、そんな与太話を真に受けるとは」


 彼らは嘲笑の中に、ほんの僅かな不安を隠していた。もしこれが事実だとしたら、自分たちの知らないところで、世界が変わり始めているのかもしれない。その予感が、ワインの味を微かに苦くしていた。


 王都の訓練場では、騎士たちが剣を振るいながら一笑に付した。


「あり得ん。どうせ実際は三百くらいだろう。吟遊詩人というのは話を百倍にする生き物だからな」


「火山を噴火させて魔物を殲滅だと? 単なる偶然だろ? そんな無茶な作戦、正気の沙汰じゃない」


 けれど、その誰もが完全には否定できないでいた。クーベルノーツへスタンピードが襲いかかっていたのは事実で、王都にまで救援要請がきたが間に合わなかったという報告も。


 ただ、たった五人で鎮圧するという常軌を逸した功績は――やはり、信じ難かった。


 それでも、民衆の心は熱く燃えていた。


 市場で、路地裏で、居酒屋で、人々はその歌を口ずさみ、英雄たちの姿を夢想する。追放された軍師。傷ついた少女たち。絶望的な戦力差。そして――奇跡の逆転劇。


 それはまさに、彼らが渇望していた物語だった。


 そして――。


 王都の影に潜む者たちの耳にも、その歌は届いていた。


 陽光の届かぬ路地の奥。苔むした石壁に囲まれた、名もなき酒場の地下室。蝋燭の揺らめく光の中、黒い外套を纏った男たちが車座になって座している。その誰もが顔を深くフードで隠し、互いの素性さえ知らぬまま密談を交わしていた。


「……聞いたか。『運命の軍師』だと」


 低く、錆びた刃物のような声が響く。


「ああ。スタンピードを五人で止めたという、あの話だな」

「民衆は熱狂している。歌は王都中に広まった」


 沈黙が落ちる。蝋燭の炎が、誰かの息で揺れた。


「……調べろ」


 最も奥に座る影が、静かに命じた。その声には、有無を言わせぬ重みがあった。


「『アルカナ』……。そのメンバーの、全てを」


 闇の中で、複数の気配が頷く。


「もし彼らがあのお方のターゲットなら――」


 声が、冷たく続く。


「チャンスだ……クックック……」


 蝋燭の炎が、ふっと消えた。


 闇が全てを飲み込み、やがて地下室には誰もいなくなる。


 まるで、最初から誰もいなかったかのように。


 王都を吹き抜ける風が、どこか冷たさを帯び始めていた。


 人々は知らない。この歌が、やがて巨大な運命の歯車を動かすことになるのだと。


 英雄たちの名が王都に轟くとき、それは同時に、彼らを狙う者たちの耳にも届くのだということを。


 希望の歌は、やがて嵐を呼ぶ。



        ◇



 三大公爵家の一つ、アステリア公爵家。


 その書斎は、墓所のように静まり返っていた。


 重厚な樫の扉は、外界の喧騒を完全に遮断している。壁一面を覆う革装丁の古書は、数百年の歴史を刻んできた知の遺産。天井から吊るされた水晶のシャンデリアは、午後の陽光を受けて虹色の光を床に散らしている。


 けれど、それらを愛でる者はいない。


 部屋の中央に鎮座する黒檀の机。その艶やかな光沢は、代々の当主たちの手によって磨き上げられてきた証。そして今、その机に一人の男が座っていた。


 アウグスト・フォン・アステリア公爵。


 三大公爵家の当主にして、王国の重鎮。五十を過ぎたその顔には、歳月と重責が刻んだ深い皺がある。銀灰色の髪は後ろに撫でつけられ、鷹のように鋭い眼光は、かつて幾多の政敵を震え上がらせたものだった。


 けれど今は、何かが違っていた。


 表情がまるで蝋人形のように動かない。瞳の奥に、人間的な温もりが宿っていない。生きているのに、どこか死んでいるような。そんな不気味な気配が、彼の全身から滲み出ていた。


 公爵の視線は、机の上に置かれた一枚の報告書に注がれていた。


 報告書には、王都で流行している英雄譚の概要が記されている。『運命の軍師』と呼ばれる歌。スタンピードを止めた五人の英雄たち。そして、聞き取りを元に描かれた『アルカナ』メンバーの似顔絵が添えられていた。


 五人の肖像。黒髪の剣士、金髪の僧侶、赤髪の魔法使い、茶髪の軍師。


 そして――銀髪の弓手。


 公爵の凍てついた視線が、銀髪の少女の絵に突き刺さった。


 月光を思わせる銀の髪。凛とした佇まい。どこか寂しげな、けれど強い意志を宿した瞳。似顔絵は稚拙なものだったが、それでも彼女だと分かった。見間違えるはずがない。


 その瞬間――公爵の瞳の奥で、何かが揺らめいた。


 ほんの一瞬。まるで凍った湖面の下で、何かが動いたかのように。父親としての苦悩。娘への愛情。それが、氷の奥から浮かび上がろうとしていた。



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