1. 全てを失う朝
――人は誰しも、自分だけは特別だと信じている。
レオン・グレイフィールドもそうだった。
昨日までは――。
冒険者ギルドの扉が、ガン! と勢いよく蹴り開けられた。朝の光を背負って現れたのは、Aランクパーティ『太陽の剣』のリーダー、カイン・ウォーカー。その金髪は相変わらず英雄のように輝いているが、今日ばかりは違って見えた。
死神の後光のように――――。
「よう! レオン……」
カインの声には、獲物を前にした肉食獣の愉悦が滲んでいた。革袋から取り出した羊皮紙を、まるで決闘の挑戦状のようにパシンとレオンの顔面に叩きつける。
墨の匂い。それは、レオンの人生に終止符を打つ香りだった。
――借用証書。金貨三百枚。週利五パーセント。
恐ろしい文字が、レオンの視界の中で踊る。高利貸しグレッグの血判が、呪いの紋章のように紙面を汚していた。
「な……何の冗談だよ、これは」
レオンは自分でも情けないほど、声を震わせた。
「冗談?」
カインが肩をすくめる。
「昨日のダンジョンでの損害賠償だ。お前の【ルート鑑定】ミスで、俺の『太陽の剣』が溶けちまったからな」
――違う。
行く道を探査するレオンの【ルート鑑定】は、三年間一度もミスなどしていない。それが彼の、唯一の誇りだった。
確かに罠は動いたが、あそこの罠はずいぶん前から休眠状態になっていたはずだ。なぜいきなり稼働したのかが分からない。
「違う、あの罠がおかしいんだ。僕はミスなんて――」
「おいおい」
カインの声が、氷のように冷たくなった。ギルドの朝の喧騒が、まるで劇場の観客のように静まり返る。皆、ショーを楽しみにしているのだ。主役は、断罪されるレオン――。
「責任転嫁か? 見苦しいぞ、レオン」
言い返したい。叫びたい。でも、カインから放たれる圧倒的な『強者のオーラ』が、レオンの喉を締め上げる。
――これが、戦闘力を持たない者の現実。
「こんな高額な利子……、払えるわけない。そうだ、父に相談する。そうすれば……」
「ああ、そうそう」
カインが、まるで思い出したかのように額を叩く。三流役者でももう少しマシな演技をするだろう。
「お前の親父さん――グレイフィールド商会のご主人には、もう連絡しといた。『息子さんの不始末で、我がパーティの名誉が傷つきました』ってな」
「な、何でそんな勝手に……」
「『出来損ないに金など出さない、レオンは勘当だ』ってよ! はっはっは! 傑作だぜ!」
「へ……? う、嘘だ……。そ、そんな……」
世界が、足元から崩れていく音がした。最後の頼りだった実家――それが絶たれてしまったのだ。
「で、本題だ」
カインが背筋を伸ばし、胸を張る。その巨体が、朝日を遮った。まるで、レオンの未来を覆い隠すように――。
「レオン・グレイフィールド。お前を『太陽の剣』から追放する!」
ギルドホールに、カインの宣言が響き渡った。
「キターーーー!」「おっほぉ!」「いいねぇ!」
野次馬どもが楽しそうに大騒ぎ。
「無能な軍師は、もう要らんからな! はっはっは!」
カインは楽しそうに笑った。
――ああ、これが俺の結末か。
レオンの心の中で、絶望が広がっていく。でも、まだだ。まだ一つだけ、希望が残っている。
「セ、セリナ……」
震える声で、レオンは最後の救命ロープである恋人のセリナに手を伸ばす。
一年前、「あなたの優しさに惹かれたの」と告白してきた大切な恋人――。
「セリナ、お願いだ。何か言ってくれ」
しかし、セリナは伸びてくる手をパシッとはたいた――――。
え……?
栗色の髪を優雅に揺らしながら、恋人のセリナ・ブライトは立ち上がる。
レオンを見る彼女の目には愛しさはなく、まるで価値を失った商品を見るような蔑みが映っていた。
「ねぇ、レオン?」
甘い声。毒蜜のように、心に染み込む声。
「私たち、もう終わりよ」
レオンには予感があった。覚悟もしていたはずだった。
でも、実際に言葉にされると、心臓が止まりそうになる。
「理由を……せめて理由を教えてくれ」
セリナが、くすりと笑った。天使の微笑み。悪魔の嘲笑。
「だって」
彼女は優雅にカインの腕に寄り添った。
「カイン様の方が、ずっと素敵だもの。強くて、頼もしくて……夜も最高なの♪」
最後の言葉で、ギルドが爆笑に包まれた。
「ぶはは! 捨てられたぞ!」
「戦闘力ゼロじゃ、女も守れねぇか!」
「ベッドでも【鑑定】しかできなかったんだろ!」
「なっ! セ、セリナ……お前……」
レオンの顔が、燃えるように熱くなる。屈辱が、憤怒が、絶望が、ない交ぜになって胸を焼く。
「分かったらさっさと消えろ! このクズが!!」
カインがシャリィィンといい音を立てて腰の剣を抜く。朝日を受けた刃が、残酷なまでに美しく輝いた。その切っ先がレオンの喉元に突きつけられる。
ギラリと光る冷たい鋼。それは、死神の鎌のようにすら見えた。
くっ……!
レオンは歯を食いしばり、震える足で何とか立ち上がった。
見回すが――――侮蔑と好奇の視線ばかり。
もう、ここには彼の居場所などない。誰も、自分を必要としていないのだ。
背を向けて、出口へと向かおうとした、その瞬間――。
カインがレオンの耳元で囁いた。
「最後に教えてやる」
悪意に満ちた吐息が、レオンの耳朶を撫でる。まるで毒蛇が耳に這い込んできたような、ゾッとする感覚。
「ダンジョンの罠は、俺が再起動させたんだ。お前を追い出す口実が欲しかったんでね。くっくっく……」
「なっ――!」
怒りで振り返ろうとした瞬間、カインの拳が容赦なくレオンの腹部に突き刺さった。
「がっ……!」
内臓が破裂するような激痛。肺から空気が全て搾り出され、呼吸すらできない。レオンの細い体は、まるで壊れた人形のように膝から崩れ落ちた。冷たい石の床に倒れ込む。口の端から、赤黒い血が糸を引いて垂れた。
「今週末、利子が払えなければ奴隷商人が来る。お前も晴れて奴隷の仲間入りだ!! せいぜい最後の自由を楽しめよ? はーっはっはっは!」
カインの哄笑が、ギルドホールに響き渡る。セリナの鈴のような笑い声も混じっていた。二人の笑い声が絡み合い、レオンの心を切り刻んでいく。
全てを失った。
仲間も、恋人も、家族も――――。
薄れゆく意識の中で、レオンの脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
――リナ。七年前、幼くして死んだ妹。
あの日、市場からの帰り道。暴走した馬車が、小さな妹に向かって突進してきた。レオンは助けようとした。本当に、助けたかった。
でも――。
馬車のあまりの勢いにレオンの体は凍りついた。足が、まるで地面に根を張ったように動かない。声も出ない。ただ、恐怖に支配されて――。
妹の悲鳴。そして――石畳を真紅に染める、おびただしい血。
リナは最期まで、兄を恨まなかった。血に染まった小さな手で、レオンの頬を撫でながら、「お兄ちゃん、泣かないで」と微笑んで――。
それ以来、レオンは人の血を見ると恐怖で動けなくなる「血液恐怖症」になった。戦闘に参加できない致命的な弱点。それが、彼を永遠に「戦闘力ゼロの軍師」に縛り付けていた。
もちろん冒険者なんて仕事はやりたくなかった。だが、自分の【ルート鑑定】スキルを活かす道はここにしかなかったし、それで成功し感謝もされてきた。
なのに――――。
くぅぅぅ……。
全てを失ってしまったのだ。
冷たい石畳の上に崩れ落ちながら、レオンは笑っていた。
いや、笑っていたのではないのかもしれない。恐怖で顔が引きつり、それが笑みのように見えただけなのかもしれない。だが、その翠色の瞳だけは異常なほど見開かれ、虚空の一点を凝視していた。
狂気の淵に立つ者の目だった。
「……ふざけるな」
掠れた声が、喉の奥から絞り出される。
目の前には、自分を嗤う元仲間たち。カインの勝ち誇った顔。セリナの冷たい嘲笑。そして、見世物を楽しむ野次馬どもの下品な笑い声。
これが現実。
これが、三年間必死に生きてきた結末。
――認めない。
(このクソスキルのせいだ……)
レオンは血走った目で、自分の掌を睨みつけた。
【ルート鑑定】。
それは本来、道を探査するだけのスキル。ダンジョンの安全なルートを見つけ、罠を回避するための、地味で堅実な能力。
(もっと何とかなんねーのかよ……!)
ここだってダンジョンと同じような敵だらけ。ならば――。
(もっといいルートを教えやがれ!)
もっと深く。もっと遠くまで。
このスキルで、見えないものを見てやる。
レオンは壊れたレコードのように、【ルート鑑定】を発動し続けた。
(現実を鑑定)
【対象が不明確です】
エラーメッセージが視界に流れ込む。
(因果を鑑定!)
【対象が不明確です】
(未来を――鑑定鑑定鑑定鑑定鑑定鑑定――!)
【対象が不明確です】
【対象が不明確です】
【対象が不明確です】
脳が軋む。限界を超えている。そんなことは分かっている。でも、レオンには止められなかった――――。
ズキン、と脳の奥で何かが弾けた。
脳が焼き切れるような頭痛。視界が明滅し、世界が歪む。鼻腔の奥が熱くなり、ツーと温かいものが唇を伝って落ちた。




