【6-2】 一ノ瀬夏祈は……
一年生の演目が全て終わり、四〇分間の昼休憩が訪れた。
休憩とはいっても、俺たち二年生は午後からの出演を控えているため、この時間を使って製作物の搬入やメイクに入る。
学年の八クラス分のセットは、一度武道館一階の倉庫に保管しておくことができる。実行委員が警備についているため、この倉庫ならば意図的に破損されるリスクは極めて少なくなる。
渡り廊下に続く通路を歩いていた時、そいつと目が合った。
「わっ」
「うお」
「びっくりしたぁ~。周か」
角でぶつかりそうになって、咄嗟に急ブレーキをかけて踏みとどまった。っぶねえ。両手に機材を抱えた俺はさながらガーグァの卵を運搬するハンターだ。蚊に刺される程度の衝撃でも落っことしちまうから常に細心の注意を払わなければいけない。
梅雨明けの蒸し暑さに吹いた柔風の正体は、我らがヒロイン桜川ひたちだった。彼女も例に漏れず自分たちの劇の準備に取り掛かるのだろう。
「なんでいるの?」
「お前の場合、修飾語がねえと物騒に聞こえるから気をつけような」
「うん、だからなんでいるの」
まさかの存在否定前提だった。
「こう見えても俺は学校行事ガチ勢なんでな。文化祭の準備には進んで取り組むんだよ」
「いや。だから。五組って出演停止になったんじゃないの?」
なおも怪訝に首をかしげる桜川。
そういうことか。言葉足らずすぎててっきりイジメかと思っちまったじゃねえか。
「理特のやつらはそう望んでるだろうけどな。会長さまのご厚意で参加資格は残してくれたよ」
「ふうん。でも、なにもお咎めなしってワケじゃないんでしょ」
「ああ。文化祭の予算を半分削られた」
「……それ、絶望的じゃない? むしろ余計にタチの悪いことになるって、美浦は知ってて受け入れたんじゃないの」
さすがの洞察力だ。今のやりとりの微かな情報から、俺たちの間に起こったできごとの本筋に辿り着きやがった。
「それでも勝ち目はある。お前が協力してくれたおかげでな」
「協力? ぇ……もしかして」
俺が呟くと、桜川は一瞬きょとんとしたものの、すぐに合点が行ってしまったように肩をわななかせている。
「昨日のあれのこと? ちょっと、なにに使う気よ」
「心配すんな。有効活用する」
「そういう問題じゃないから! あんたマジでやめてよね。あの情報、わたしとテニス部の子くらいしか知らないんだから。特定されちゃうから」
「知ってるよ。だからこそお前に聞いたんだ」
顔をこわばらせる桜川に対し、俺は涼し気に笑んでやった。
「あんな情報を仕入れるには、お前しか頼れなかったからな。お前のおかげで俺たちは理特に勝てる。感謝してるぜ」
「へ。う、うん……」
素直に感謝を伝えると、桜川は面食らったように俯いてしまった。
「って、騙されるか! いい、誰かに広めたらタダじゃおかないから!」
「敵対関係にある俺にみすみすと情報を流したのが悪い。恨むんならてめーの浅はかさを恨みな」
「あんたが脅してきたんでしょーが!」
校舎のど真ん中で、けれど他人には聞こえないくらいの声量をキープしつつ、ヒロインはキャンキャン吠えてくる。
そんなやりとりを広げる俺たちに、どこからか涼しげな声がかかった。
「二人とも、楽しそうだね」
その声色には心当たりがある。
風鈴の調べを感じさせる音の主は、背中からひょこりと顔を覗かせていた。
「天川くん。久しぶりだね」
「一ノ瀬。確かに、久しぶりだな」
青みがかったポニーテールを揺らしているのは一ノ瀬夏祈だ。清涼感のある声が耳に突き抜けてくる。
「ところで天川くん。今、ひたちを脅すとかなんとか聞こえてきたんだけれど、どういう意味かな」
俺の顔を覗きこむ一ノ瀬の瞳が――ぱちくりとした眼の虹彩からハイライトが消えていった。なんだ、流れ変わったぞ。
薄まっていく光を侵食するように、目の奥から真黒が広がっていく。まるで恋人の浮気現場に居合わせたような、最愛の妹でも手にかけられたみたいな虚無感と不気味さ。
こわいこわいこわい。なにこのモード、惨劇でも始まるんですか?
「私を差し置いてひたちと二人きりで、なにをしていたのかな? かな?」
ほら見ろ! かなかな言い出したぞ! 間違いなく例の症候群発症してるだろこれ!
保護者かよ。いや、過保護だ。
まさか一ノ瀬、俺と桜川の会話を耳にして……二人しか知り得ない秘密の共有を目の当たりにして、こんなヤンデレじみた表情を浮かべているとでも言うのか?
「や、べつになにも……」
とぼけようとしてみたものの、一ノ瀬の発する無言の圧がそれを許さない。
この気迫と鬼気迫った眼力なら「嘘だッ‼」とか言ってきそうだ。雛見沢に居てもまるで遜色ないだろう。
「そっかあ。なんだ、勘違いしちゃうところだったよ」
してました。もう勘違いどころか刺し違える手前まで来てましたよあなた。
「前にも言ったけど、ひたちを一人占めしちゃダメだからね」
「むぐ。ちょ、夏祈、苦しんだけど」
そんな一ノ瀬は優しく破願すると、横の桜川を自分の胸に引き寄せる。
……つまりあれか。一ノ瀬夏祈、こいつは桜川を妹同然のように扱っているのだ。
納得した。一ノ瀬にとっては俺のような男に嫉妬を抱くまでもない、彼女の目に映るのは桜川ひたちのみ。こいつこそが一ノ瀬にとっての妹、自分を満たすヒロインなのであって、つまり俺などヒロインに寄り付くモブ程度の認識でしかないということだ。俺、不憫すぎじゃね?
「夏祈、周と知り合いなの?」
「うん。……ちょっと、ね」
そこで切って、とろけた視線を俺に向けてきた。
意味ありげな間に、桜川が俺たちを訝しんでいる。
「……周あんた、なにしたの」
「なんもしてねえよ。な、一ノ瀬。俺たちは大した関係じゃねえよな」
「そうだね。お兄ちゃんと妹みたいな関係かな」
「一ノ瀬さん、それシャレにならないんすよ」
さらっと聞き捨てならないことを言いやがったな。さっきまでおもっくそ敵対視してたくせに。
や、確かに俺もあの時はノリノリで応じたけれど。でもそれを他人に共有するのはすげえ恥ずかしいからやめてくれ。
「マジでなにしてんの」
じっとり湿度高めな視線に射すくめられて、俺はそっぽを向いてしまう。
しかし一ノ瀬の方は涼し気な表情を崩すことなく、どころかにこやかに微笑んでいる。
「ひたちと私みたいな関係だよ」
「それどういう関係……。友達だよね、親しい友達ってことでいいんだよね」
ぱあっと爽やかに微笑んで、一ノ瀬は桜川を再び自分の腕で包み込んだ。一ノ瀬の胸元に押し付けられた桜川は複雑な表情でなすがままにされている。
「そっか、友達か……ならいいんだケド」
抱きかかえられた桜川はしかし、ほっと胸を撫で下ろしたようにも見える。なんだその反応、お前も一ノ瀬に妹扱いされるのが気に入ってたのか?
「ひたちちゃーん。そろそろ準備しないと」
「あ。ごめん、今いく―!」
遠くからクラスメイトに呼びかけられて、桜川は一ノ瀬から解放された。
「じゃ、わたしたちは行くわ。せいぜい頑張んなさい」
「おうよ。互いにな」
「それじゃあね、天川くん。……これからもよろしくね」
「……はい」
爽やかさに秘められた不穏な予感に、思わず敬語になってしまった。
一ノ瀬夏祈。やっぱあいつも、一筋縄じゃいかなそうだ。




