【5-2】 桃園はとりの告解
昼休みのこと。
委員長――桃園はとりに呼び出された俺は、人気の少ない本棟の通用口へと連れてこられた。
二人で購買のパンを食むっていると、委員長がいきなり俺へと向き直った。なんだなんだ、告白? こんなところに異性を呼び出すなんて告白以外の何者でもないよな? ……なんて現実逃避に近い妄想を脳内で呟いていたが、実際に彼女の口から発せられたのは俺が本心では予想しえない言葉だった。
「ありがとう、天川」
「……いきなりどうした? まずはありがとうってそれ告白断るときの決まり文句じゃねえか」
冗談めかしてとぼけてみると、彼女は力なく笑った。桃園はとりから軽口が返ってこないとなると、俺としても煮え切らない気持ちになってしまう。
「つかむしろ逆だ。悪かったな、あんなやり方で」
「確かに驚いたけど……今は感謝の方が強いわよ」
なんでこうも慈愛に満ちた思考に至れるんだ。もしかして俺のこと好きなの? や、ヘンに罪悪感に駆られるからどっちかつーと嫌がらせなんだが。
「天川だけじゃない。私に代わって抗議してくれた滝田や北原に、クラスのみんな――みんな、私よりよっぽどクラスのために頑張ってる。痛感した、二年五組で私がいちばんクラスの足を引っ張っていたのよ」
それではいけない。
クラスの代表者がクラスのことで誰より傷心しているようでは、俺たち下っ端はろくに機能しない。トップに立つのならば下の者の隣で喜びも悲しみも共有し、けれど心の根底に枯れない野心を秘めているべきだ。
自分自身の心に折れない芯を通して信条に従う人間。リーダーにとって必要でなくとも絶対の条件だ。
それが今の彼女にはない。桃園はとりは度重なる不条理に心を削られ切ってしまっている。自分自身がクラス代表者であることを疑わざるを得ない状況に追い詰められている。
だから俺は、無言に徹した。顔色を変えることもなく、ひたすらの、無。
「やっぱり委員長なんて、やるべきじゃなかったのよね」
その言葉には応えなかった。
気休めの否定などかけなかった。それで立ち直るくらいなら、そいつはその程度の人間だ。
少なくとも、そういうことを自分で言ってしまう時点では、そいつにリーダーとしての資格はない。
「その言葉は、本音か?」
だから、問い返す。
桃園はとり。俺たちのリーダーの、存在理由を問いただす。
「自分は誰かの上に立つべきでない。そんなのが桃園はとりの本音だっていうのか?」
「……っ、本音よ。認めたくないけど、本当のことだから」
俺は応えない。
この女はまだ、本音を隠している。吐き出した言葉のさらに深く、本音を認めたくないという本音が桃園はとりという人間を象っているはずだ。
まだ。彼女がその先を続けるまで、言葉の奥底に隠した真意を吐き出すまで、俺は応えない。
「天川って、そういうカンジだったのね」
俺は応えない。
「…………小学校の時に、ピアノ教室に通っていたの」
俺が応えないでいると、それに根負けした委員長が重々しく口を割った。
「始めたのは三歳とか、もっと前だったけど、小学校に入学する前に一度やめたのよね。やっているうちにメンドくさくなってきちゃって、まともに弾けてなかったから幼いながらに挫折したのかも。
でも、その数年後にまたピアノを再開することになった。もともとお母さんが好きで習わされてたんだけどね、そんなお母さんとたまたま観に行った近くのコンサートで、プロの奏者が生み出す音に、音節に、曲に……なによりその美しさに魅せられたわ。
あんな風に綺麗な音で。あんな風に美しくかっこよく弾きたい。私自身がそう思って、それまで見ないようにしてきた鍵盤にもう一度指を掛けることにした。
それが私の分岐点だった。
もう一回始めるっていっても、五年生とか……中学年を過ぎてからのことだったから、ぶっちゃけ上達する見込みは薄かった。教室に通いだしたけど、周りはみんな上手で、同い年どころか自分より下の子たちに置いていかれている事実に、毎日葛藤してたわね。
そのことが、けっこう辛かった。
だから私は努力した。昨日より少しでも上手くなれるように、憧れた目標に少しでも近づけるように、毎日ピアノのことだけ考えて、家でもずっと弾き続けた。周りの子たちや先生の引いている姿を見て盗もうと、毎日必死に食らいついたわ。弾いて、聞いて、弾いて、見て、弾いて。幼いころの感覚っていうのは意外と刻み込まれてるもので、慣れてくると勝手に指が動いたりしてね、自分から吸収することでみるみる上達していったわ。
日を追うごとに技術が身についていく気がした。パッセージを弾けるようになってワクワクした。一曲弾けるようになるたびに高揚感に見舞われた。
音を奏でることで、自分自身を認めることができた気がした。
ある日、教室で全国規模のコンクールの話が上がった。先生の指導も必要になってくるから出れるのは部門ごとに一人だけ、推薦みたいなものね――をかけてオーディションをやることになったの。
もちろん私も出たかった。あの日見た光景に、あの舞台のように。誰かの前で美しく在りたい、その想いを糧にいっそう練習にのめり込んでいったわ。
その努力が報われて、私は部門別の代表に選ばれた。選んでくれた先生の言葉と、競い合った友達が喜んでくれているのが嬉しかった。それはもう嬉しくて、夢心地だったわ。
先生とのレッスンを終えて、みんなのところに合流した時…………私は耳にした。同じ高学年クラスの生徒たちが声を荒げて言い争っている様子を。そして目にした。彼ら彼女らが、まるで抗争でも始めそうな風に睨みあっているのを。
いきなりのことで呆気に取られちゃったけど、その内容は自分たちのオーディションについて――つまり、私がコンクールに出場することの賛否をめぐってのものだった。
派閥は綺麗に分断されていた。私の合格が気に入らない男子たちが食い下がるたびに、女子陣が私を庇ってくれていた。
とはいっても、あれくらいの年頃なら仕方ないわよね。いきなり現れて自分たちよりへたくそだと思ってた人間が、自分たちを差し置いてコンクールに出るだなんて、面白く思わないのも分かるわ。
私は止めようとした。間に割って入って、みんなの争いを鎮めようとした。けれどそれは逆効果で、事の張本人が表立っていさめようとしたって、相手の神経を逆撫でするだけだった。どころか私はその口論から突き飛ばされて、ヒートアップした討論はいつからか相手を非難して貶すだけの惨状になっていた。
そんな中でも私はピアノを弾き続けた。言葉じゃない、みんなが納得できる演奏を聴かせることができれば、あんな争いはしないで済む。それに、もう一度踏み出した道だから。挫折を乗り越えて目の前に立てた目標だから。
舞台袖までは平気だった。期待、不安、焦燥、憧れと葛藤。目まぐるしく巡る思考に苛まれながら、ステージに立って。
すべてが白く染まった。
拍手が鳴りやんでからは誰も声を上げなかった。ただ黙って私の顔色を見る。静かに整列された同じような無表情だけど、それぞれ頭の中では思考を巡らせている。静寂から無数の音が伝わってくる気がした。無数の視線が私を突き刺してくる。あの憧憬と同じ空気なのに、立っている場所が違うだけでこんなにも違う世界だったなんて。
夢見た舞台に立った私は、真っ白になった思考と真っ暗に沸き立つ感情でごちゃ混ぜになっちゃった。
結局、私のしてきたことは全部裏目に出ちゃってた。みんなが円満な終わりを迎えるように、なんて綺麗事を願っておきながら、結局最後にとどめを刺したのは他でもない私だった。今回もそう、私が作ったきっかけでみんなが揉めて、あやうく崩壊しかけちゃうところだった。
あの日からなにも変わってない――私は、桃園はとりは、ただの弱い人間なの。
本音っていうか思い出話だけど……、これが、私が今ここにいる理由。なんてことない失敗談よ」
そう言って恥じらう風に振舞ってみせる委員長。
隠した過去を、悲愴な本音をさらけ出した彼女は、けれどすっきりと澄んだものになっていた。
それはどこか、靄が晴れたようであり。肩の力が抜けたようであり。
淀みのない瞳が、純として潤っていた。
俺には、その輝きはいささか眩しすぎる。
「しおらしくすんな、ガラでもない」
「……どういう意味?」
「いつもの委員長らしくやかましいくらいに口うるさいくらいがちょうどいいんだよ」
「どういう意味⁉」
「そういう感じ」
ただまっすぐ指を突き立てた。
「それでいいんだよ。声がデカくておせっかいで実はポンコツで頭ん中でエロいこと考えてて……それでこそ桃園はとりだろ。他でもない、二年五組の委員長だ」
「……っいろいろ余計よ」
ふいっと鼻を鳴らした彼女の目尻から、雫が一滴零れた気がした。
けれど、俺が二度見したころには、そこにはもう、これまでの『彼女』はいなかった。
そこに弱さはなく……否。弱気を受け入れたからこそ、彼女は勝者たり得るのである。
「そうだったわね。私は私よ。『普通』の人間なんだから、助けてもらって戦うのが性に合っているわ」
絶対的じゃなくていい。一人で戦わなくていい。
俺たちは、弱者なんだから。
「でも、どうしよう。こんな直近で、この窮地を脱せる方法なんてあるのかしら……」
「その辺は任せてくれ。俺に考えがある」
「今度はどうするつもり? まさか、また花室さんに」
「いやいや、あいつは赤べこじゃねえんだから、俺の提案なんてめったに引き受けないぞ」
じゃあどうするの、涙の滲んだ目で見つめる委員長に、俺は笑いかけた。
「誘い込むんだよ」
「……仲間よね? 花室さんって」




