【2-6】 赤塚朱音は勉強ができない
「だから、朱音。ここ違う」
そして放課後。
俺たち五組はさっそく、期末テスト対策の勉強会を開いていた。
花室との契約により、俺はみんなに教える側として勉強会に参加することになったので、人手の少ない数学担当として一人一人順番で面倒を見ている。
「うぇ~、またあ?」
すっかり脱力してしまった少女は教科書に突っ伏し、魂ごと抜けたんじゃないかってくらいの大きなため息を吐きだした。
その姿を見て、俺は分かりきっていた結果に顔をしかめる。
赤塚朱音は勉強ができない。
言葉の意味はそのままに、この元気ハツラツ体育会系アホ毛サイドテールはおよそ座学において致命的なまでの苦手意識を抱いている。
全国的に高い水準に位置する偏差値を誇る海南高校の生徒の中でも澱のテスト順位。
無理もない。スポーツ推薦でこの海南の門を通過した朱音にとって、うちの授業のレベルはいささか骨折りものだろう。
幼い顔立ちが映える赤茶けたボブ髪を片方でまとめた彼女は、本人の無邪気さがはたらいて小柄に見えがちだが、実際そこまで小さくはない。
けれどやっぱり彼女が同級生であることに疑問を抱かざるをえないのは、その学力だけでなく小ぶりな胸元によるものが大きいだろう。小さいのに。まるでどっかのヒロインを彷彿とさせる控えめなプロポーションだ……まだ朱音の方が膨らみを帯びている分、あいつにおいては言い表しようのない悲壮感が――ってか俺女子の特徴おっぱいでしか捉えてなくね?
とまれかくあれ、朱音の場合はそのスリムな体系が幸いしているということを言いたいのだ。
部活の推薦で入学を決めた朱音の所属はバレー部。身長がモノを言うネット型競技で一目置かれているのは、ひとえに朱音の持つずば抜けた身体能力にある。
体格の不利をものともしない跳躍力と細い腕からは想像もつかないまでの膂力で、中学時代から選抜選手として県内で名を馳せていた。三年次の総体では一人で連続得点をもぎとる弾丸サーブと殺人スパイクを武器に初の関東大会出場を喫した、人によっちゃ英雄的存在である。
余談だが、俺と朱音、ついでにもう一人のクラスメイトである滝田昴は同じ中学の出身だ。こうして朱音について詳述できるのも、かれこれ三年は続けて同じ教室で過ごしてきたからだと補足されれば腑に落ちるだろう。
事実、こいつが海南からのオファーを受けたと聞いた時は、クラス全体がざわついたものだ。
同時に勉強についていけるかの懸念が当時から囁かれていたが……。
結果、見事に置いていかれました!
当時の部員やクラスメイトの表情が目に浮かぶ。信じて送り出したエースが落第常習犯に成り下がっていた件。
「だからこうすると?」
「なるほど! 沸騰する!」
沸いてんのはてめえの頭だ。
「ちがいます。数学の世界に沸騰するなんて現象は観測されません」
「だって先生言ってたもん! 授業のとき、たまたま目が覚めたとき言ってたもん」
「じゃあ後ろの索引見てみようか。『ふ行』は……っと、ほらありませんね、ふざけたこと抜かしてないで公式から覚えようか」
中途半端に授業を聞くというのも考えものだな。廻戸先生も苦労してんだな……。今度から気が向いたらちゃんと授業は受けよう。
それにしても。分かってはいたが、なかなか厄介な相手だぞ。
基本的に全教科ぬかりなく苦手な朱音だが、数学に関しては一線を画すレベルでできない。まあ本人に取り組む気力があるのは幸いだが。
「な~んですぐ、公比? とか初項? とか出そうとするのぉ。こんなの将来使わないのに!」
「そうでもねえぞ。こんなまどろっこしい計算はしないかもしれねえけど、こういう基本的なのは実社会でも役に立つもんだ……そうだな、じゃあ茨城らしく、この等比数列を鹿島スタジアムで例えるとしよう」
正式にはメ○カリに買収されたからメルスタなんだけど。
「スタジアムの運営も立派な仕事だろ? 観客を増やせば経済も回るし、地域の発展につながる。だからこのスタジアムの動員数を上げる企画を練るということにする。いついつの年までにどんくらいの観客が来るかって考えるには、それぞれの年のデータが必要だし、伸び幅を正確にするためには基準となる年の動員数を定めりゃ明確になる。数列なんてこんな感じだ」
「う~ん。どうすれば増えるかなあ。場所が悪いもんね」
「や、実際に考えなくていいから」
話を変な方向にもってっちった。
「やっぱり行きづらい場所にあるのが悪いと思う! だからもっとみんなが来たくなるコトすればいいんだよ!」
「いやいや、あれは鹿嶋だからいいんだよ。それに見栄えのあるとこなら結構あるぞ、鹿島神宮とかコンビナートとか」
「ほんとだ。じゃあどうすればいんだろ。そだ、食べ物とか」
「ばっかお前、鹿島のスタグルめっちゃ美味いだろ」
特におすすめなのがもつ煮な。あれ初めて食った時感動したぞ。ビール片手に観戦してアウェイチームに野次飛ばすおっちゃんとか見てて超楽しそうだし。
「じゃなくて、数学の話だ。この等比数列、初項と公比が与えられてる基礎中の基礎だ。これくらいは解いてもらわねえとなにも進まねえぞ」
俺が脱線した話題を戻すと、朱音はあからさまに嫌そうに頭を抱えだした。
「むぅ。数字がいっぱいあってごっちゃになっちゃう」
「頭ん中で考えようとするから迷うんだ。こうして実際に図とかにしてみると、すんなり理解できるもんだぜ」
そう言いながら俺はノートの余白に十字線を引いて、ちいさなグラフを作った。そこに曲線を伸ばして視覚的に説明することにした。
「ほら」
「おー! なんかすっごい、ぎゅーんって」
壊滅的な語彙だが、ニュアンスだけ伝わればそれでいい。
「そう。同じ数を掛け続けると、こうやって勢いが増してくんだよ。要するにあれだ、公人がデビューして爆速でベストイレブン入りしたみたいな感じ」
「例えが鹿島しくてイミわかんないよ!」
かしましいって意味ちげえよ。
「うぅ~、やっぱり難しいよ~。ちっとも伸びてる気がしない」
「そうでもないぞ。よく見ろ、これもさっきの問題も、全部似たようなミスだ。単純な間違いのパターンだから一度直しちまえば同じ間違いは減ると思うぞ。まあ朱音の場合パターンが無数に存在するからイタチごっこみたいなもんだが」
「なるほど! わかんない!」
「お前は分からなくていいよ。……俺が教えるから」
ため息交じりに呟いた俺の言葉は慰めでもなんでもない。むしろ朱音との勉強会という終わりなき戦いに身をやつす自分への願掛けだ。
字面だけ見ればロマンチックなセリフになりかねないが、断じてそんな展開にはならないのでご容赦いただきたい。
そんな具合に苦戦している俺に、別方向から声がかかる。
「天川あ。これ教えてくんね?」
「あー、今行くわ。……とりあえず朱音、お前は今言ったところをもう一度解いておけ」
「ふぇええ」
言いながら、俺は教室内の面々を睥睨した。
教科ごとに部屋を区切って固めると、その進捗の差というのは一目瞭然で、特に国語を担当する花室のほうは順調そうだ。
対して俺はさんざん。人に教える経験がほぼゼロだったから仕方ないにしろ、俺らがいる一区画だけはてなマークが飛び交っていた。
効率化を図って教科ごとに担当を分けたが、こと花室や委員長のような全教科ぬかりなく成績のいい人間はその都度他の科目も教えている。特に花室、あいつがつきっきりで面倒を見てくれりゃあ、テストなんて朝飯前というもんだろう。
はじめこそ消極的な花室だったが、やっていくうちに段々と勝手を掴んだようで(どこかの文特に付き合ってやったばかりだから感覚として残っているのだろう)、個人、というよりはクラス全体を把握して指導に回っている。委員長が頼み込んだのもあって、期末テスト勉強会における実質的なリーダーは花室ということになっていた。
だが、このテストは演劇とは勝手が違う。いかに指導者が優れていても、それですべてが上手くいくほど甘い話ではないのだ。
そもそも各教科の上位二人というルールなら、全教科に委員長と花室をぶつければ勝負にはなる。だから本当の狙いはそこじゃない。
これは団体戦ではなく、個人戦。相対的に能力が向上しても、絶対的な数字を獲得できなければ意味はない。
必要なのは、試されるのは団結力ではなく、個々の力だ。
そして、劇もテストも、俺たちは勝たなくてはいけない相手がいる。
二年七組。理系特進クラス、そして彼らの先頭には、すべてにおいて手綱を握る圧倒的なリーダーがいる。
美浦悠馬がなにもしてこないとは考えにくい。できることなら、早いうちに手は打っておきたいが。
それにしても、トップの人間一つでここまで組織の色が変わるものなのか。元の環境は多少なりとも違えど、七組生徒の持つあの殺伐とした雰囲気を美浦が助長しているのは確かだ。
美浦……あいつがなにを考えているのかも、まだ分からない。単純に好奇心で委員長を狙ったのか、あるいはもっと先のなにかを見据えているのか。あいつの見ている景色が、見えている世界が俺には分からない。
それで言えば、この桃園はとりに対しても同じだけれど。
リーダーごとに世界観が違うのかね。俺は頭の中でそんなことを考えていた。
あるいは、見ている世界。




