【1-9】 霞ヶ浦千束の襲来
「……やばいかも。全然起きない。でも息はあるしなー」
ぼんやりした靄の中、俺の脳は活動を再開した。
ゲームのロード画面みたいに、段々とテクスチャを拡げていく視界。暗黒の景色が徐々に白みがかっていった。
やがて取り戻した五感で、俺は現状を目の当たりにすることになる。
「あ。やっと起きた」
聴覚――耳元に打たれる声は、記憶にない誰かのものだ。
そして触覚――頬をぺちぺちと叩く小さな手は、俺が失う前の意識で感じた最後の感覚と一致していた。
そして見開いた瞼。視覚で捉えたのは、一人の少女の姿だった。
俺は、見知らぬ少女の前で寝そべっていた。
「……よし。いったん冷静になろう。ここはどこだ。雑草や木の生え方と埃の舞い方から、海南高校の本校舎と旧校舎のちょうど境だ。記憶を辿る限りじゃ、俺はさっきまで買い出しに向かっていた。そして太陽は沈み切っていない。つまり、俺は誰かに拉致られたってことか。そんで、目の前の女がその主犯、と」
淡々と、確かな情報だけを頼りに思考を巡らせていく。
我ながら優れた状況判断能力だ。
「いやなんでモノローグみたいに独り言呟いてんスか。冷静すぎでしょ」
「慣れって怖いな」
ここのところ個性が強すぎる連中と刺激が強すぎる毎日を送っていたからな。今さらちょっとやそっとの異常事態じゃ驚かない。
そんなことより、俺には確認しなければならない事項がいくつかある。
「……で、アンタは誰なんだ?」
壁に寄りかかっていた状態から立ち上がり、ズボンに付いた土を払いながら問いかけた。
その少女は、ありていに言ってガラの悪い見た目だった。
胸元が開かれたシャツの上に通した学校指定外のカーディガンが目を引く、小柄な女の子。
派手なピンクベージュの髪をツインテールで結び、ぱちくりしたマツエクと童顔が合いなって、小柄な体系がしっくりくる。
くりんとしているけれどとんがった目つきが、彼女がどんな人物か教えてくれた。
「わたしは千束。霞ヶ浦千束。ひたちさんの直属の後輩です」
不機嫌そうに名乗ったあとに、聞き覚えのある名前が付随してきた。
「桜川の? ……あー、言われてみれば」
彼女を観察してみる。
うわ。どことなく似てる。特にこのゴミを見るような目つきとか。既視感の正体それか。
にしても後輩か。まあ高校生だし、先輩後輩がいてもおかしくないっつーかむしろ自然なんだけど、直属ってなんやねん。同中とかってことか?
「せんぱい、でいいんすよね。二年の教室にいましたし」
どうやら俺はこの子に目撃されていたらしい。上履きの色に注目してみると赤。つまりこの子は正真正銘、俺たちの後輩ということになる。
俺が教室から出てくるところを確認して尾けてきたのだろうか、偶然居合わせたのか。そもそもどうして俺がこの子に拉致されたのかの事情を聞いていない。
「単刀直入に聞くっすよ。えっと、誰だっけ……まあいいや。せんぱい」
え? 聞いてくれないの? 俺だよ俺、天川周だよ!
いやまて、この状況。この霞ヶ浦とかいう女の殺伐とした雰囲気から察するに、こいつ、俺に危害を加えるつもりだ。
おおかた俺が桜川と近くにいたから厄介な嫉妬心を燃やして俺に手を出しに来たのだろう。だとしたら名前を聞かないのも納得できる。これから死ぬから意味がない的なアレだ。
身構える俺に、霞ヶ浦千束はじりじりと詰め寄ってくる。
そして、鬼気迫った表情で開口した。
「あなた、前にひたちさんと一緒にイーアスいましたよね!」
「……あー、はいはい」
「なんすかその反応は!」
俺は一人、合点がいったように頷いた。
ちなみに、イーアスというのは県で最大級の大型複合施設だ。こじゃれた街中にあって立地も悪くないので市内外から人が訪れる。
前に行ったっけな。花室冬歌とまともに話すための練習と際して、飯田と三人で。
その時の様子を見られてしまっていたようだ。
「わたしはあなたに、幻想をぶち殺されたんすよ!」
「幻想って、なにを。桜川のヒロイン像ってことか?」
たしかにあいつはみんなの桜川ひたちって感じで浸透してるから、休日に男と出かけている姿を目撃されたらそりゃあスクープにもなるし、こうやって厄介オタクが湧いてくるのも理解できる。
でも、そうならないように桜川は俺をあの場に呼びつけたわけであって、むしろ逆だ。特定の男と二人きりにならない配慮をあいつなりにしていたはずだが。
それを伝えてみたのだが、対する霞ヶ浦の反応は、
「そんなん当たり前のことでしょう! せんぱいとあのゴーレムみたいな男の人がひたちさんを独占しようとしてたことについては本題なので、いったん後回しです!」
ゴーレム? お前いまゴーレムって言った?
まさか飯田のこと言ってんじゃあるまいな。って、飯田のことは今は(今も)どうでもいい。
なんだこいつ、どんなキレ方してんだ? トピックを整理する論理思考は持ってんのかよ。
「わたしはね、船長が昔っから好きだったんすよ。あのかわいらしい体にフクロウさんの顔。ところがなんですか! ぎこちない動きをしだしたと思ったら、いきなりズッコケて頭が外れて、中からせんぱいが出てきたんですよ!」
そんな理由?
船長というのはいわずもがな、市のマスコットキャラクターの『フックン船長』だ。愛くるしい見た目から子ども人気はありそうだが、ここにも熱烈なファンが一人いたようだ。
「つかなに、お前、フックン船長に中の人がいないと思ってたの?」
「船長に中の人なんていません‼」
めんどくせえこいつ!
レベル的にはサンタさん信じてるみたいなもんだぞ。
「だからわたしはあの夜、せんぱいが走り去ってく様子を取った動画を拡散まいてやりました」
「お前かよ!」
「けっこうバズってて嬉しくなりました」
俺がどんだけ頭を抱えたと思ってんだ。結果オーライじゃん⁉
「って! そんな話はどうでもいいんですよ!」
どっちだよ。前言撤回、こいつ論理性の欠片もねえわ。なんなんだこのやかましさは。
「せんぱい、ひたちさんのなんなんですか。彼氏気どりですか?」
「なんか勘違いしてるようだけど、俺とあいつの間には断じてそんなことはない。俺はむしろあいつのこと嫌いなくらいだしな」
「なんで嫌いなんですか!」
「悪いかよ」
お前があらぬ誤解をしてたから解いてやっただけだろうが。
「いいですか、ひたちさんはヒロインなんてものじゃないんです、こんな学校如きで評価されるようなタマじゃないんですよ」
「お、おう……」
いきなり桜川の魅力を熱弁しだした霞ヶ浦。脈絡とか人格とかめちゃくちゃだが、こいつが桜川のことを相当慕っていることだけは伝わってきた。
「分かりましたか?」
「わ、わかりました」
「分かればいいんす。なら、改心の証に『ひたちたそ、マジ天使!』って叫んでください」
「しねえよ。なんつーこと言わせようとしてんだ」
「は? ……ダメですね、これは再教育が必要なようです」
やべえ地雷踏んじまった。どうやらこいつにとってそのセリフを口にしない者は異教徒とみなされ狂った教えを説かれるらしい。なんだよその気色悪い令和の踏み絵。
……だがまあ、それで許してくれるなら、言う通りにするさ。
別に意地でも言いたくないわけじゃない。むしろあいつの信仰心が行き渡ったこの学園だからこそ、俺のような一生徒がヒロインを崇め奉っていようと違和感など生じないのだ。
その一言で解放されるというのなら俺は躊躇しない。
「ひ、ひたちたそマジ天使」
「なにを恥ずかしがってんすか! ほら、わたしに続いてください! ひたちたそ、マジ天使!」
「ひたちたそマジ天使!」
「声が小さい! ひたちたそマジ天使ぃっ‼」
「ひたちたそマジ天使ぃい‼」
「はぁ⁉ せんぱいごときがひたちさんを語んないでください!」
こいつぶん殴っていいかな。
「で。本題ですけど。なんでせんぱいがひたちさんと一緒にいるんすか」
ダン、と壁に打ち付けられた。これもうカツアゲの構図じゃん……。
短いスカートから下着が見えているが、あえて言わないでおこう。これは霞ヶ浦に対する思慮深い気配りであって、けして俺が後輩女子のパンツを見つめていたいからなどではない。
「なんでって。あいつが誘ってきたから一緒に行っただけで、俺からなんかしたわけじゃないぞ」
「イーアスだけじゃないでしょ、今日だって廊下で仲良く喋ってましたし、昨日なんか一緒にプールに入ってましたよね!」
「誤解を生むような言い方はやめろ」
学校一のヒロインと一緒にプール! なんて甘い青春のワンシーンなんて存在しなかった。実際はそれぞれ死んだセミみたいな目でひたすら水を流したりブラシを擦ったりしていただけの無賃労働でしかない。
そこまで見てたのかよこいつ、もうストーカーの類だろ。どこの花室冬歌だっつの。
昨日感じた視線の正体はそれだったのか。
「……あれも仕方なくで、俺たちの間に浮ついた関係は存在しない」
俺が否定するも、霞ヶ浦は納得してない様子だ。確かにこんだけ目撃情報がありゃ、疑り深くなるのも無理はないけれど。
「仕方なくでひたちさんがせんぱいの傍に居たりしませんよ。一体どんな弱みを握って脅したんですか」
そんなゲスい真似するわけねえだろ。
「わたしにだけ教えてくれてもいいんですよ。てゆうか教えてください。そしたら見逃してあげます」
「お前もゲスいのかよ!」
なんなんだこいつは、ただの桜川の厄介オタクじゃねえか。
最終的に血走った眼ではあはあ迫ってくる後輩に、俺は憐れみの視線を向けることしかできなかった。
「――おい、霞ヶ浦! 補習サボってどこで油打ってるんだ」
「げ! やばい、せんこーですよせんこー」
どう切り抜けるか思案していると、思わぬところから助け船がやってきた。
さっきまでのアホ面はどこへやら、今度は必至の形相に冷や汗をにじませている。
「いったん休戦です、ここは逃げるっスよ」
腕を引くが、俺はそこから動かなかった。
「なにしてんすか、捕まったら補習地獄なんスよ!」
「や、俺は別にサボってるわけじゃねえし。だから事情を説明すれば怒られることはねえよ」
「なッ、ハメやがったっスね‼」
テメエが嵌ってきたんだ。
「ぐぬぬぅ……。この借りはぜったい返しますから! お礼参り楽しみにしとけっス!」
舞い上がっていた傍から変なヤツに絡まれた。
なんだったんだ一体……桜川の狂信者はやはり関わっちゃいけない人間ばかりだ。
よし、桜川とは縁を切ろう。




