【1-8】 一ノ瀬夏祈がお姉ちゃんすぎる
代表者会議が終わり、解散となった。
会議の内容をもとにクラスで演劇について詰めて、速ければ明日から準備に取り掛かることができるだろう。
小一時間座りっぱなしで背中はバキバキだ。どのくらいバキバキかっていうと背中に鬼の顔が浮かび上がるくらいには刃牙刃牙。……それは親父の方か。
ともあれ一日の疲れが溜まっていたのは事実だ。
早く帰って寝よ……、
「ねねっ、キミ」
「…………ん、俺?」
「うん、キミ」
風鈴のように涼しげな声に呼び止められて、思わず振り向いた。
見れば、一人の女子生徒が両手を後ろで組んで佇んでいる。
直接顔を合わせるのは初めてだが、彼女のことは見知っていた。
「一ノ瀬、さんだよな」
「うん。夏祈でいいよ」
名を呼ばれた彼女の、青みがかったポニーテールが揺れる。
一ノ瀬夏祈。
所属は二年六組、あの桜川ひたちのクラスメイトだ。
彼女もまた有名人。文系特進クラスの代表であるというだけでその器量のよさが伺えるが、彼女の特徴はそれだけに留まらない。
一ノ瀬について語るならば、むしろこっちを述べるべきだろう。海南高校のバスケ部に所属する彼女は、昨年度のウインターカップでチームを優勝に導いた立役者のひとりなのである。
実力者ぞろいの海南で一年からレギュラー入りを果たす彼女は、なんでも小学校時代からミニバスでその腕を磨いてきたらしく、中学ではU15のクラブ大会で全国を制覇した実績をもっているのだとか。
まさしく勉強とスポーツ、二足の草鞋。どころかスタイルも良い。バスケをやってきただけあって身長は高く、無駄な肉付きがないのでスラっとしている。なのにちゃんと出るとこは出ているのだから、高校生とは思えない色気を纏っている。正直、こうして話しかけられて緊張しないわけがなかった。
「夏祈っていうのか。きれいな名前だな」
そんな彼女と接する機会などあるわけもないので、こうして言葉を交わすのは初めてだ。
名前を知ってはいたが、あえてその話題を深堀りすることにした。初対面の女子との掴みはとりあえず名前を褒めとけば好印象を与えられる。
「ふふ、ありがと。私、誕生日が夏でさ。だから夏祈っていうの」
「へぇ。俺も来月、誕生日なんだ」
「ほんと? 私も七月だよ。何日?」
「七日」
「うそ! 私、八日! 一日違いだあ」
「おお、マジか。近いな」
一ノ瀬の声色がひときわ明るくなった。
ほらな。女ってのはとりあえず自分にまつわることを語りたがる生き物なんだ。適当に関心あるフリして無理やりにでも共通点を見つけてやれば勝手に舞い上がってくれるもんなんだよ(あくまで天川周の個人的な意見であって、一般の通説とは異なる場合がございます)。
「まさか私と天川くんにそんな共通点があるなんて。こんなの運命じゃんね」
冗談交じりにそう言ってきた。や別に、そんな特筆すべき共通点じゃねえだろ。
ん? ってか、天川くんって。
「俺のこと、知ってんの?」
「そうそう。天川周くん。ずっと気になってたんだよね」
なんと。この一ノ瀬は俺のことを認知していたらしい。
あまつさえ気になっていただと? ならば教えてやろうじゃないか、俺のあんなとこからこんなとこまで余すことなく全てを……!
あやうく我を失いかけたが、すんでのところで踏みとどまった。待たれよ俺。
ふむ。学年屈指の美少女がわざわざ自分のことを知っていて話しかけてくる。ともすれば浮ついた勘違いのひとつ生まれてもおかしくないだろう。
だが、俺は知っている。天川周は往々にして知っている。
かのような見目麗しき美少女には、およそ信じがたい一面が付き纏うのがこの海南の常だ。というよりは経験則。
桜川ひたちに花室冬歌という二大美少女の本性を目の当たりにしてしまった俺は、もはや女の子に過度な期待を寄せることはなくなった。
清楚なコは心まで清廉潔白とは限らない。サバサバ系女子が骨の髄までクールに冷えていると思ったら大間違いだ。
どんな美人局だろうと俺には通じない。今や俺の純情は厳重にフィルタリングされている。悲しいなあ……。
「ひたちから話は聞いてるよ」
一ノ瀬は楽しそうにその名を口にした。そいつだよそいつ、桜川ひたちこそが俺の純心をへし折った張本人だ。
なにを聞いたんだ、嫌な予感しかしねえんだけど。
「ひたちも、天川くんの前では素直になるんだね」
「それ、喜んでいいことなのか」
「そうだよ? 私の前でしか本音を漏らさなかったんだから」
ふふん、とわざとらしく胸を張ってみせる一ノ瀬。比較的豊かな胸を突き出されると思わず視線を奪われてしまう。
しかし意外だ。誰の前でも完璧を誇り弱さなんて見せないような桜川が、他人に対して本当の姿を見せるとは。
「あの子はみんなの期待に応えようと、本当の自分をヒロインっていう肩書きで包み込んでる。それはあの子なりに思うところがあって、そのために頑張ってる。それがなにかは分からないけど、それでも頑張ってるってことだけは分かるんだ」
「単純に猫被ってるだけなんじゃ……」
「ふふっ、そうかもね」
一ノ瀬夏祈は、さざ波が揺らめくようにさっぱりとはにかんだ。
それだけで湿気を孕んだ外気が換気されたような気がした。
「でも、そうやって頑張るところもかわいいんだあ。応援したくなっちゃう」
その笑顔につられて、俺の頬も緩む。
「なんか、お姉さんみたいだな」
「そういう天川くんこそ。ひたちを手懐けちゃうなんて、なかなかやるね」
「ま、実際妹いるしな。扱いは同じだ」
前々から感じていた桜川への既視感の正体はそれか。オフモードの時の自堕落ぶりはうちの識と通ずるものがある。
手懐けているかは分からないけれど。
「ええー、意外かも。勝手に下の子だと思ってた」
「よく言われるよ。それこそ一ノ瀬は、見た感じお姉ちゃんっぽいけど」
「うん。私の家は四人姉弟なんだ。私が長女で、弟が三人」
「三人も? 大変そうだな」
「たしかに、両親は共働きで忙しいし、私が部活の練習とか試合ある時は休日も弟のお世話してばかりで大変そうだけど。それでも私は賑やかで楽しいよ」
言葉のままに、楽しそうに一ノ瀬は語る。
いや、大変そうっていうのは、一ノ瀬のことなんだけど――。
「……それってつまり、普段は一ノ瀬が弟たちの面倒を見てるってことか?」
「面倒だなんて大げさだよお。ご飯を作って一緒に遊んでるだけ」
「や、謙遜することねえだろ。もっと自信もっていいと思うぞ」
「うーん。あの子たちといると、私も楽しいから。だから大変だなあとか、自分のこと偉いなあなんて思ったことはないかな」
はにかむ彼女に、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
学力のレベルが高い海南で特進クラスとして委員長を務め、二年生ながらに部活で活躍し、家では家族を立派に支えている。
一ノ瀬夏祈。この少女は才能に恵まれただけじゃない、家族愛を糧にひたすら努力を積み重ねることのできる秀才なのだ。
同じく弟妹を持つ者として、自分と比較してやるせなくなってしまう。
「偉いんだな、一ノ瀬は」
「偉い、か。はじめて言われたかも」
こぼれ出た俺の素直な感嘆に、一ノ瀬は意外そうに眉根を上げた。それからすぐに破願して、ふたたび清涼感のある音色が奏でられる。
「でもね。私だって一つ、思うところはあるんだよ?」
「ほん? なんだ、弟が言うこと聞いてくれなかったり?」
「ううん。男の子はやんちゃなくらいが丁度いいよ。そうじゃなくて」
適当に思いついたことを言ってみるも、一ノ瀬は首を振って否定した。
「私、女の子一人だから。ずっと妹が欲しいなあって、ひそかに思いを馳せているのですよ」
なるほど。
たしかに、大家族でひとりだけ性別が違うのはいろいろと気を張るな。一ノ瀬といえど、女姉妹が他にいないのではどこか寂しく想ったりするのだろう。
「でさ、ひたちって、超お~妹っぽいじゃん?」
「まあ、どっちかっつうと下の子のイメージだな」
そしてふたたび桜川の名前が出る。俺はそれに反論することなく頷いた。
無意識に識を投影してしまっているのだろうけれど、桜川に兄弟がいたとしたら兄だな。家でやいのやいの言い争っている光景が容易に想像できる。
「うんうん。あの子といると姉心をくすぐられるんだよねえ。だから……」
一ノ瀬は左手を添えた腰を反らせて上目遣いで覗き込んできた。
人差し指を唇に当て、決めポーズと言わんばかりの体勢は妖艶さを醸し出している。
「独り占めはダメだぞ?」
「なぜ俺にまで姉キャラを……」
「ん、そうだね。誕生日は私の方が一日遅いんだし、どっちかというと妹かな?」
「そういう意味じゃないんだけどな」
俺の指摘を受けると、一ノ瀬は目をぱちくりさせて小首をかしげた。
「上の兄姉っていうのも悪くないかも。下の子の気持ちになれば、お姉ちゃんとして磨きがかかるかもしれないしねぇ」
「……なに言ってんの、一ノ瀬さん?」
「ふふ。せっかくだし、天川くんに手伝ってもらおうかな」
ほんとになに言ってんだこの娘。同い年で別に子供っぽくないどころかむしろ大人びた女子に妹ムーブされるなんても困るだけ――
「よろしくね、おにいちゃん」
「はい! よろしくお願いします!」
もうどうだっていいや! 俺がお兄ちゃんだぞ!
*
すっかり冴えわたった夕焼けが空に残る黄昏の下を、俺は駆けている。
足取りに比例するように、心は弾んでいた。
桜川と関わってからロクなことがないと思っていたけど、たまにはいいこともあるもんだ。
まさしく端から牡丹餅。一ノ瀬という美少女お姉ちゃんのお兄ちゃんになれるだなんて、それだけでお釣りがくるってもんだ。今度から桜川にはもっと媚びを売ろう。
アスファルトの歩道を踏みならし、丸く茂った植木を横切っていく。
そして感じた小さな手の感触。
その記憶を最後に、俺の視界は暗転した。




