【1-4】 昼下がり、ヒロインとふたりきり
四限目を終え、憂鬱な午前が過ぎた。
終礼を済ますと同時、俺はある場所に向かうため後ろの扉を出た。
教室を後にしてどこいく先は、学食でも屋上でもない。昼飯を食うために移動しているわけじゃない。
背を丸めてあくびを漏らしながら、やってきたのは特別棟――いまや使われなくなった旧校舎だ。
歳月を経てゆるやかに朽ちていった廊下を踏み込むたびに埃が舞い上がる。別空間に居るような静閑な空気には、じめりとした暑さが立ち込めていた。
そして俺はとある部屋の前で立ち止まる。
旧生徒会室。俺が廻戸先生に呼び出された集合場所だ。
「……よ」
「周」
慎重に戸を引くと、部屋の中には一人の少女が居た。
桜川ひたちは、エアコンガンガンに扇風機をかけて涼し気に事務椅子に座りこんでいる。
旧びた無人の教室で一人、それもこの桜川ともなれば並々ならぬ存在感と繊細な哀愁すら感じさせる風景だ。
……もっとも、机に足乗っけながら雑誌を読んでなければの話だが。
「珍しいね。こんな時間に」
その様子に呆けていると、桜川も俺の来室に気がついたようだ。
「いやまあ、呼び出されれば無視するわけにもいかねえからな」
「なんで周が知ってんの?」
「は? 同じグループに居たろ」
訝しむ桜川に、俺はポケットにしまっていたスマホごと右手を抜いた。
押しつけるように見せた画面にはさっきまで開いていたグループトーク履歴が表示されている。
メッセージを送ってきた廻戸先生と、俺ともう一人。アイコンは本人じゃないけど、名前から桜川だとすぐ分かる。
俺のスマホを覗き込んだ桜川は、感情を覗かせることなく淡泊な反応を見せた。
「ああ、あれ周だったんだ。ブロックしていい?」
「俺じゃなかったら誰なんだよ。……するなよ」
いくら桜川とはいえ、女の子にブロックされたら傷つくぞ。
「どっちかというと追加しといてくれよ。どうせ連絡とることもあるだろうし」
「まあ。できることなら極力避けたかったけど、生理的嫌悪を忍んで周の連絡先を追加してやらなくもないか」
「どんだけ嫌なんだよ。俺はあれか、歩くスパムメール? リアルインプレゾンビ?」
はっきり口にされるとショックってより腹立ってくるな。ぜんぜん忍べてねえから。
そんな具合に憎まれ口を叩いていた桜川だったが、俺の連絡先を追加するなり、言葉とは裏腹に目を輝かせている。
「……えへ」
なぜか口角なんて上げて、朗らかな表情だ。どういう風の吹き回しだ?
あ、そういうことか。こいつ仲いい友達いないんだったな、確か。
桜川ひたちはその絶対的な存在感ゆえに、他の生徒から一目置かれるついでに一線を引かれてしまっているのだ。
それが彼女の密かな悩み。
才能を持って生まれてしまったために、一般人とかけ離れた価値観が備わってしまったのだろう。
けれど、本人はその才能を隠すつもりはないらしく、むしろ前面に押し出していくことでヒロインとしての地位を確立している。変な意地張らなけりゃいいのに。
ようするに、こいつも大概めんどくさい。
クーラーの効いた部屋で待つこと数分、廻戸先生がポケットに手を入ながら気だるげに歩いてきた。片方の手には缶コーヒーが握られている。
「お前ら、来るの早いよ」
「あんたが遅いんでしょ」
こっちは貴重な昼休み使って来てるのに。飲み物買ってきてるし。
「まずはお疲れさん。前回の『課題』。様子見とばかりに課した恋愛沙汰だったが、うまく成し遂げてくれたな」
合流するや否や、先生は早速本題に入ったようだ。
「それでだ。早速、次の『課題』を与えようと思う」
「で、でた~」
『課題』。
廻戸先生が俺と桜川に課してきた、極秘任務のようなもの。内容は主に海南内での生徒同士のトラブルの解決。色恋沙汰だったり喧嘩だったりに割って入って間を取り持つのだ。
記憶に新しいことでいえば、サッカー部の飯田晃成と野球部の粟野、柿岡の間に勃発した喧嘩。俺は仲裁しようとしたら殴り合いに巻き込まれて拳をもろに喰らってしまった。
そんな飯田たちのいざこざの延長戦で、飯田の恋路を手伝ったりもした。高嶺の花である花室冬歌へ恋心を抱く飯田のサポート――結果的にその課題は解決には至らなかったものの、解消という形で幕を閉じた。
そう。今まで個人で取り組んできた『課題』だが、ある日廻戸先生が課したそれは俺たちの意識を大きく変えることとなった。同じ課題に、俺と桜川が同時に解決に臨むことになったのだ。
その内容は、海南高校に根付く形のない法律――『学園法』。特進・特待クラスの生徒が優遇され、普通科生徒が排斥されるという、学内差別を助長する規則。
それに対し廻戸先生が打ち出した案は、スクールカーストを制して海南の常識を変えよう! というものだ。
ここまで効けば、察しのいい読者諸兄ならばすでに勘付いていると思う。俺はニーナの父親でもアレキサンダーの飼い主でもないので勘のいいガキは好きだ。
俺が桜川の本性を知ってこうして一緒にいること、一週間の謹慎処分を喰らったこと、花室冬歌を無意識に目に入れてしまう今の現状……そのどれも、この学年主任のおっさんによるものなのである。
そんな廻戸先生は缶のフタを開けて一口煽ると、言葉の続きを口にした。
「次の『課題』。文化祭でお前たちのクラスが上位二位を獲ること」
「……はい?」
俺は思わず聞き返した。
「先に行われる文化祭の総得票数で首位を独占し、五組と六組でワンツーフィニッシュを決めること。それが今回の『課題』だ」
文化祭といえど重要な学校行事――そんな通説を裏付ける証拠のひとつとして、学年ごとに独自の評価によってクラスの順位付けがなされる。
評価内容は二つ。全校生徒の投票と、学校側の審査員票だ。
一人につき一点分加算される生徒票は、生徒一人一人が自分のクラス以外にどれか一つ投票できる。単純に人気投票的な側面が強い。
対して審査員票は、海南の定める評価基準と照らし合わせて教職員が下すポイントで、各クラスごとに割り振られる。生徒票が人間の影響力に依存するのに比べて審査員票は公正なジャッジがなされる分安心感がある。
つってもこれまでの『課題』とは一味違う。飯田の恋愛相談のようにトラインドエラーで解決することはできない、一回こっきりの挑戦。課題というより試験では?
そして難易度よ。特進クラスの六組、そして本人が絶大な人気を博する桜川にとってはつっ立ってるだけでクリアできるような消化試合だろうが、俺からすりゃ無理ゲー極まれりなんですが。
「不安か、天川? お前の所属する五組は桃園はとりや花室冬歌を筆頭に能力の高い人間は多い。無理難題と放り投げるには人材に恵まれていると思うぞ。決して不可能ではないはずだ」
先生の意図が、だいたい分かってきた。
今回の文化祭は俺たちの強化イベントなんだ。桜川にはカリスマ性の維持を。個の力じゃ足りない俺を補う手段として周りの人間を味方につける。
クラス単位でのステータス向上を図る、ということか。
「ふふん。そういうことなら、わたしは賛成ですよ」
桜川は乗り気だった。そりゃな、今回の『課題』はお前にとって有利だから乗って損はねえだろ。
「周は? なんかキツそうだし、いやだったら断ってもいいけどお?」
朝に見た完璧スマイルはどこへやら、今目の前には直視すら耐えがたいほどに歪んだヒロインの挑発顔が浮かんでいる。殴りたいこの笑顔。
「てめえ……」
たぶんそれは、内心の揺らぎを悟らせないためのものだったかもしれない。
俺だって断りたい。こんな面倒なこと、いちいち付き合ってたら身も気も持たないっつーか、やってらんない。
いやまあ、一概に切り捨てるのも悩ましくはあるのだけれど。
学園をめぐって起こる問題を解決する。普通に考えて、そんな正義感溢れる殊勝なマネをしようとは思わない。が、やりようによっちゃリターンを得ることだってあることは否めない。
俺はいわば見返りを求めて『課題』に取り組んでいるのだ。
たとえば相談に乗ってくれる。たとえば関係性を取り持ってくれる。アンニュイな世界を生きる高校生は、ふとしたきっかけで心が動き他人に特別な感情を抱く。優しさには愛情を、敵意には憎しみを。因果応報なんて言葉を、高校という世界ではわかりやすく味わうことができるのだ。
そしてその感情たちで彩られたキャンバスを、人はこう呼ぶ。
青春、と。
それは遠からず、俺自身が学校生活を謳歌するために都合よくはたらくものであり。
『万物は己がため』『青春を謳歌する』『みんななかよく』――俺の掲げる信条にも合致する。
もっとも、この信条を抱くまでにおいて、この廻戸先生が深く関わってくることは言を俟たないのだけれど。
断れる道理などない。
中学時代まで遡る因縁――因果とも。
この人のせいで、俺はここに在るのだから。
「――それは、どういうことかしら」
俺が言葉を返そうと口を開いた瞬間。
部屋一面が、異質な冷気に覆われた。
旧生徒会室に吹き込んだ凍風は、初夏の蒸し暑さすら巻き込んで、俺の思考をもろとも冷却した。
声の主に目をやって、俺は言葉を見失う。
開け放たれた扉から現れたのは、『高嶺の花』――――花室冬歌だった。
 




