【1-2】 ヒロインは今日もいつもどおり
【Ⅰ Are you ready? / Opening Move(e4)】
月曜日。
週が明け、俺の停学も明けた。
実に一週間。久方ぶりに袖を通したワイシャツは、部屋着のジャージと違ってぴったり肌に張り付いてくる。
海南は先週から衣替えをしたために、俺も今日からブレザーを脱いで登校している。装いだけに注目すればすれ違う社会人たちと似たような見た目だが、それでも自分が若々しく感じるのだから、大人ぶるにはまだ未熟なのだろう。
葛の葉が青く茂った歩道を抜ける。見上げた空には晴れ間を覆う雲が淡く広がっていた。
散乱した日光が目にしみる、そんな六月の通学路。
学園通りに沿った道を抜けると、我が学び舎が見えてきた。
私立海南高等学校。
県南の学園都市に位置する、およそ千人ほどが在籍している私立高校だ。
特筆すべき特徴といえば、目を見張る育成方針だろうか。
判断材料として持ち出されがちな部活動の成績について。前年度――今年の一月に開催された春高バレー大会、女子部門ベストエイト。男子準優勝。前年度の全国高校バスケ選手権大会――ウインターカップにて、女子の部『優勝』。
そして先週。サッカー部が地区予選大会を首位で突破し、夏のインターハイ出場が決定。
とまあ、覚えている限りでこのくらいである。他のスポーツや文化部なんかを合わせたら横断幕で校舎が埋め尽くされてしまうレベル。
その結果も驚くことではない。全国において名の知れ渡ったこの海南を志望して、全国からその道の猛者が集まってくるのだ。
この海南には、一般的な進学校らしく生徒の学業成績ごとにクラスが振り分けられる。入学試験やその後の定期考査で上位五〇位以内に入る点数を獲得すれば、年度初めに特別進学コース、通称『特進』のクラスに進級する資格を得るのだ。
中でも上澄み――レベルの高い海南でも最上位に迫る成績を有する者、あるいは部活動や学外活動で優秀な成果を収めた生徒には、学校側から声がかかり、そのさらに上の教室へのチケットが与えられる。
特別待遇コース、『特待』。便宜の上では特進と特待の二つのコースに属する生徒をまとめて『特待生』と呼ぶが、真の意味で特別なのは彼らだろう。
実践主義のこの学園においてなんらかの分野で名を残すことは非常に有利なことであり、学校側もそんな彼らを全面的にサポートする姿勢でいる。
なにせ特待はみな、なんらかのジャンルにおけるエキスパート――その道のプロに通ずるどころか世界に通用するほどの人材が寄せ集められた精鋭たちの集団なのだから。
第一線で活躍する人間を輩出した功績は、学園にとって大きな箔が付く。そのための支援として、授業料完全免除に活動資金の支給、授業はいくら休んでも公欠扱い、卒業後の進路への手厚い後押しという好待遇ぶり。
それが特待コース――我らが海南の顔とも呼べるエリートだ。
それに関連してもう一つ。そして最も印象的な、この学校を代表するような制度が、もう一つ存在する。
生徒の学業意識を促進させ、より強い人間を作り出すために掲げられた校則。
『特待・特進科生をはじめとする成績優秀者には各種優待権が確約される』
この会則が意味するのは、絶対的な権力社会だ。執行権を有する生徒は普通科生に対してあらゆる命令を遵守させることができる。
この法律から逃れるためには、テストで常に上位を維持し続け、特進クラスへ編入する以外に方法はない。
確かに理にかなっている。才能に恵まれた者、血の滲む努力を積み上げた強者には特権を。弱者に対する救済手段を提示し能力の底上げを図る。形だけ見れば無駄のない教育方針だ。
だが、そんな美しい理想など、この学園のどこにも存在しない。現実は酷く醜いものである。
事実、テストで好成績を収めるのは決まって特待生ばかりだ。周りが変われば自分も変わるように、特進コースと普通科では環境の差が歴然である。
実質的に這い上がることなど不可能なこのシステムに打ちひしがれた普通科の人間は、同じ成績不振のクラスメイトたちと傷を舐めあう。そんな彼らを獲物とばかりに見据えた特待生が特権を乱用して迫害する。
常に蹴落とされる恐怖と覚悟を持った彼らと、いつしか抗うことすら忘れてしまった彼らとの間には、埋まることのない強弱の溝で隔たれてしまっている。
それがこの高校の実態。生徒会会則第七条、通称を『学園法』。多感な生徒の間に根付いた学園ぐるみのスクールカーストだ。
俺は……俺たちは、そんな学園法を廃止するために、今まで暗躍を続けてきた。
なにを隠そう俺が謹慎処分を喰らった理由は、その学園法に関わる『課題』の一環で少々強引な手段を取ったからである。
なにはともあれ、その一件がどう影響を及ぼしたのかをこの目で確かめねば。はたしてなにか変化が訪れているだろうか。
大袈裟に一息ついて、正門を抜けた。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから歩いてきた影が俺を見て足を止めるのが横目に入ってきた。
振り返ってその影を見るや否や、その影は口の端を吊り上げながらこちらへ近づいてくる。
「――お。おうおうおう、おう! 天川くんじゃねーか」
「よう。……なんでそんなやけに鬱陶しいんだ」
「いやー、久しぶりに見たからよ。今日から現場復帰っすか」
茶化すような物言いで俺の肩に手を置いてきたのは、クラスメイトの滝田昴だ。
朝練終わりなのだろう、サッカー部の滝田の手にはトレーニングシューズが握られている。
「まあな。つか、なんで俺だけ謹慎でお前は反省文なんだよ」
「あったり前だろー。むしろ手伝ってやったのに巻き添えくらった俺の身にもなってみろ」
俺が文句を垂れると苦笑が返ってきた。
それもそうだ。本来関係のないこいつを巻き込んで責任を取らせるなんて、よくよく考えたら結構なことしてるな。
俺が以前取り組んだ、海南高校を改善するための『課題』。その一環として企てた作戦に、この滝田を付き合わせていたのだった。
全面的に真っ当な愚痴を叩く滝田だけれど、俺の頼みを二つ返事で乗ってくれるんだから、いいヤツではある。しかもこいつ顔いいんだよなあ……。むかつく。
昇降口からすぐのあたり、二年生のフロアへ続く階段に差し掛かった時、滝田が珍しいものでも見つけたように声を漏らした。
「おっと、ヒロインだ」
その言葉に、無意識に反応してしまう。
滝田が見やる先には一人の少女がいた。
始業のチャイムが鳴るギリギリの時間といえど、まだエントランスには人が多い。それでも滝田の差す人物が誰なのかは言われずとも判る。その群衆の中で『ヒロイン』なんて言葉が似合う人間は、ひとりしかいないのだから。
ふわりと巻いた亜麻色のミディアムヘアを見るのも久しぶりだ。マスコットキャラのぶら下がったスクバを提げながら歩く彼女に、すれ違う誰もが見蕩れてしまう。
桜川ひたちは相も変わらず泰然として存在していた。
「周に昴。おはよっ!」
「お、う」
ひらりと舞った繊細な髪が揺れると、ジャスミンやベルガモットに似た芳香が鼻に吹き抜けてくる。
そんな彼女にどう接しようか。距離感がつかめず身じろぎしてしまう。
視線を下げると、薄手の夏服に目が行った。
しかし、桜川も不憫なやつだ。
なにが不憫って、こんだけの博学多才ぶりを誇っているというのに、同時に致命的な弱点を持ち合わせてしまっていることだ。天が二物どころか万物を与えた彼女にも持っていない才能はある。どれだけ強さを盛ってもその慎ましやかな胸部は盛れなかったようだ。
「どしたの?」
「や、なんでもねえ」
前に身を傾けた桜川の、申し訳程度に主張された膨らみがぴったりめに張り付いた夏服により強調されてしまっている。や、強調されるべき胸なんてないんだけど。ネクタイと平行してるんだもんな……。
俺の心の慟哭をつゆ知らずきょとんとする桜川に、滝田が声をかける。
「ひたちちゃんも今来たん?」
「そうなの。いつももうちょっと早いんだけどねー」
問われた彼女は蕾がほころぶようにはにかんだ。非の打ちようのない黄金比のスマイルはまさしく学園のヒロインと呼ばれるに相応しい。
その表情に、思わず見蕩れてしまいそうになる。
たしかに、表面だけ見た桜川は素直に認めざるを得ない圧巻のビジュアルを誇る。夏服姿も相まってぶっちゃけめちゃめちゃ可愛い。
だけどな、俺はどうしても、この女のことを信用しきれないんだ。
そう。容姿端麗で才色兼備なうえ人当たりもいい、まるで造り物のような完璧超人は、その実で一驚を喫するような裏の顔を持ち合わせているのである。
それこそが俺の高校生活における最大の転換点であろう、一ヶ月前に遭遇した彼女の本当の姿。桜川ひたちは人気のない旧校舎で暴言を吐き散らしながらネトゲに熱中する、とんだ激情型ゲーマーだった。
演技をやめた桜川の本性は、それまでの清純なイメージを一八〇度ひっくり返した。口は悪いし愛想はねえしときたまBL脳を働かせることだってある。おまけに追い詰められると子供みたいに泣き出すし。
みんなのヒロイン桜川ひたちの正体は、弱点だらけのヒドインなのだ。
だが、そんな一面を滝田みたいな一生徒が知るわけもない。
「ヒロインが遅刻しかけるとは。なんかあったん?」
「大げさだよ。わたしだって遅刻くらいするよ?」
「ははーん、これは朝の準備が思ったよりかかったと見た。あれかー? 気になる男に気づいて欲しくて、思い立って髪型を変えてみたとか」
「そんな恋愛ソングの歌詞みたいなことしないよ。ただ寝坊しちゃっただけ」
顎に手をやりずいっと迫る滝田に、桜川は依然として柔らかい笑顔で応じる。
……うさんくせえ〜。
よし、ここらで一度、こいつの心を覗いてみるとしよう。
なに、俺も桜川と同じ空間で過ごしてはや一月。言葉の裏に秘められた本心を文字に起こすことくらい造作もない。
この滝田に対する反応から読み取ってやろうじゃないか。
「本当かー? よく見せてみ」
「ほんとほんと。やめてよー恥ずかしい(汗くせえんじゃボケ近づくな)」
「確かに、いつもと変わったトコはないな……。おかしい、男の影を感じたんだケド」
「ほら、急がないと授業始まっちゃうよ?(汚え下心が見え透いてんだよカス。おもろい冗談の一つも言えねえならはよ去ねや)」
うーん、たぶんこんな感じかな。にしてもなんなんだ、滝田から滲み出るセクハラオヤジ感。
詰め寄られた桜川が太陽みたいな笑顔とは裏腹にえげつねえこと考えているのは間違いない。まあ相手が滝田だし妥当か。
言い過ぎだと思うか? これでも足りないくらいなんだぜ……。
「それもそうか。じゃあな、ひたちちゃん!」
「はーい。じゃあねー」
飛び跳ねる滝田に手を引かれながら、俺たちはその場を後にした。
その様子を桜川はただただ笑顔で見送っている。ガールズバーじゃねえんだから……。




