【5-3】 花(巨)と桜(貧)
夕刻。
すっかり日は沈み始め、青と赤のコントラストが鮮やかに溶けた空に、ツツジの甘い香りがふんわりと舞っている。
グラウンドからは甲高い金属音。野球部の振るうバットの打球音だ。本棟と旧校舎を繋ぐ階段からは軽快なサウンド――聞こえてくるのは行進曲『国民の象徴』。吹奏楽部が演奏会の練習に勤しんでいるのだろう。
色が、音が、匂いが。この季節を、空間を象ることごとくが飛び込んできて、五感で感じる春の風を心地よいと思う。
そう。心地よいはずなんだ。なのに、今はそれどころじゃなくていたたまれない。
「にしても、粟野と柿岡か。いかにも怪しいな」
机にへばりつきながら呻く俺に、花室が訝し気に反応してきた。どうやら心当たりがあるらしい。
「特進クラスの二人のことかしら」
「ああ。知ってるか?」
「今日、話しかけられたわ。いきなりのことだったから、そっけない態度を取ってしまったけれど」
お前がそっけないのはデフォルトだよ。
しかし、この花室にまで接触しているとは。ますます不安が募ってくるというものだ。
「飯田くんのことを聞かれたわ。彼らの間に、なにかあったの?」
「ああ。ついこないだ、あいつらは揉めてたんだ。んで今になって仲直りつって飯田に手を貸そうとしてる。まあ口実だけだろうがな」
「手を貸すって、なにに?」
「そりゃお前……あ、やっぱなんでもない」
「なぜ濁すのかしら。気分が悪いわね」
お前をオトすためだなんて言えるか。
「あれだ、飯田のテストこと。特進のあいつらが手伝うって言ってんだけど、十中八九罠だな。俺の読みだと、あの二人は飯田を嵌めようとしてる」
「根拠に欠けるけれど、私も似たような懸念は抱いているわ」
「どうすっかなー……」
「ちょっと待って」
頭を抱える俺たちの耳に、春風みたいな柔らかい声が飛んできた。
「なんだ桜川。今真面目な話をしているんだ。ちょっかいなら後にしてくれるか」
「まったく空気の読めない女ね。そんなところでなにをしているの?」
「わたしのセリフよ!」
戸惑い気味に俺たちに切り込んできた少女、桜川ひたち。
なんのことか解らぬ様子で、コントローラーを握りながら俺たちの方へ首だけ向けてくる。
今日も今日とてゲームに熱中しているようだ。
「あんたたち、なんで当たり前のようにわたしの部屋に居座ってんのよ!」
「聞き捨てならないな桜川。前にも言ったろ。この旧生徒会室はお前の私物ではない」
「私は知らされていなかったわ。あろうことか学校の施設を一人で占有しようだなんて、海南の生徒として恥ずかしくはないのかしら」
「んなつもりないわよ!」
んなつもりはあるだろ。
「それよか、なんであんたがいんのよ!」
「私としてもおまえに会うのは嫌だけれど、用があるから仕方なく来たわ。もてなしなさい」
「誰がもてなすか! 勝手に入ってきて横暴すぎるでしょ」
キャンキャン吠える桜川を鬱陶しそうにあしらう花室。
ストレートに不快感をぶつける花室も大概だが、対する桜川もなんと人前でのヒロインスイッチをオフにして裏の本性で食いついている。
「おい、桜川」
「なによ」
ちょいちょい、と桜川の肩をつつく。
鋭い声が慣性に乗って俺まで飛んできた。
「いいのか? 花室にそんな態度をとって」
「あー。コレは別に大丈夫。もともと知ってるから」
「え。なに、お前ら。知り合いなの?」
旧知の仲だったとは。そんな気はしていたけど、この距離感には正直驚いた。
「いろいろあったのよ。この女がケンカ吹っ掛けてきたの」
「失礼な。私はただ、おまえに物申しただけよ。傲慢で下衆な尻軽女に思う所を述べただけに過ぎないわ」
「わたしだってあそこまで言われたら耐え切れないわよ!」
一体どんなことを言われたんだ。
「あれは確か、ちょうど一年前……」
そう、一年前の四月。わたしがこの学校に入学して、ひと月も経たないうちの出来事だった。
単位制を採用しているうちの高校は、授業ごとにクラスが分かれるじゃない? まあ、特進と普通科は基本的に分けられてるけど。分断されているけど。断たれて分けられているけれど……それでも、冬歌と晃成くんみたいに被る授業もなくはないけど。
その中でも芸術は特別で、四クラスごとに音楽、美術、書道の三つの分野で分けられる。そこで、わたしとこの花室は出逢ったわけ。
「……あ、美術って、そういう」
「知ってたの? そう、わたしたちは美術の授業で初めて出会ったの」
冬歌はもともと有名人だから知ってはいたけど、特進と普通科で普段の授業は被らないし、わざわざ教室まで出向いて話しかけるなんてかえって不自然だから、言葉を交わしたのはその時が最初。
油絵の講義で、ありきたりだけど校内の風景画を描くことになった。テーマは桜。そのデッサンを描くために、みんなが校内を散策することになったの。
まだ『ヒロイン』の認識が定着する前だったわたしは、一人で絵に集中できる場所を探す口実で校内を出歩いていた。
でも、わたしはぶっちゃけ場所なんてどこでもよかった。完全記憶能力とまではいかずとも、写真記憶くらいはできるわたしは、グラウンドから見た桜を想起してそのまま白紙に描き写すくらいなら難なくできた。それが果たして美術的に美しい術かは判じかねるけどね。だから実際のところは、慣れない人の波に開放されたくて非難してきただけなんだけど。
で、やってきたのが屋上。海南は屋上が解放されてることを当時から知っていたから、そこで一息つこうと思っていたわけ。ノブをひねって、扉を開けて吹き込んできた風。花びらを吹き上がらせる風に、なびかれた黒髪がそこに在った。
そこに居たのが、花室冬歌。
一枚のキャンバスを抱え、右手でスケールを作りしなやかに佇んでいたこいつは、他のなにも寄せ付けない風だった。そのときのこいつも、まだ『高嶺の花』なんて呼び名は定着してなかったけど、それでもわたしには、わたしの脳裏にはその言葉がよぎった。
その時の冬歌が見つめる先に、煌々とそびえ立っていたのは、一本の桜。
海南の正門をくぐってすぐに構える桜の木だけど、この視点から――いつも見上げる地面じゃない、屋上から見下ろす桜と、目の前の少女に、わたしは目を奪われたの。
目を奪われたのは冬歌自身にだけじゃない。
好奇心に逆らえず、キャンバスを覗き込んで。
「そして、圧倒されたわ」
乱れ咲く花は抽象と具象の二つの世界を繋ぎ合わせるように舞っていて、木々の隙間から差し込んでくる光、そして桜の木の幹の力強さを演出するマチエール。白と黒の世界に、まるで色が指していた。
「悔しいけど、この女の才能は本物。才能なんて物差しで測れないくらいにはね」
「なにを言うか。この期に及んでまだ嫌味事をのたまうとでも?」
「あんたこそ。まだイミわかんない維持張ってんの?」
花室冬歌がひとりきりで、目の前に。これはチャンスだ、わたしは思った。
ここでこの女に取り入って、普通科の庶民どもの支持を得ることができる。
「ところどころ独白がひでえんだけど」
「ちょ、いいから聞いててよ」
だから、踏み出した。笑顔を貼り付けて。
『すご! その絵、あなたが描いたの?』
『……なにか?』
「その時のこいつの顔といったら、ないわ。なにあのギラついた目。しつこい飼い主にキレてる猫みたいな」
「おまえが鬱陶しかったからでしょう。不必要に他人のパーソナルスペースに這入りこんでくるなど、非常識極まりない」
「やかましいのよ」
「それは私のセリフね。どういうつもりなの。そうやって私に才能を見せつけているつもり? 今も昔も、私にとっておまえはずっとそうだった」
双方が後ろめたそうに水掛け論を展開する桜川と花室。
なんなのこいつら。気付いてないのかしらんが、こんなん互いの才能を褒め合ってるだけじゃん。ただの痴話喧嘩とかじゃれ合いにしか見えねえぞ。
「そうか。つまり、桜川の圧倒的な才能を目の当たりにした花室と、同じく花室の絵を見た桜川との間に確執が生まれたと」
「は? 誰もそんなこと言ってないでしょ」
「こっちがは? だ。じゃあなんで」
「それを今から話そうとしてたのよ」
『わたし、桜川ひたち! あなたは、五組の花室冬歌さん、でいいんだよね?』
『なにかしら。宗教勧誘なら他をあたってくれる?』
『なにそれー。意外、花室さん冗談言うんだね』
『至って本音よ。冗談はあなたのその化けの皮だけにしてくれないかしら』
『……え?』
『大方、機会を見計らって私につけ入ろうとしにきたのでしょう。そんな愚鈍な行為に意味はないどころか逆効果よ。今ので私はあなたに対する嫌悪感を膨らませたわ』
『なんでよ! ……あ』
こっちがなに言ってもそっけない返事しかしない冬歌が、だしぬけに放った一言で、わたしはうっかり虚を突かれてしまった。
『あら。突然声を荒げて、どうしたの? その貧相な胸部同様、器の小さい人間ね』
『ひんそっ……⁉』
『いい表情をするじゃない。人前でもその捨てる前のティッシュのような悲惨な顔で振舞ったら? 瞬く間に人気者になれるのではないかしら。笑いものとして』
そんなこんなで、無人の空間をいいことに応酬が続いて、
『――あーもう! っるさいわね! ていうか、なんであんたはわたしに突っかかってくるのよ』
『純粋な心を持った普通の人間には普通の態度で接するわ。どうして自分が人並みの扱いを受けられないか、平らな胸に手を当てて考えてみなさいな』
『ちょっと乳がでかいからって調子のんな! ばーかばーか!』
「――これが、わたしと冬歌のなりそめよ」
「いやそんな理由⁉」
おっぱいか! 不仲の理由、おっぱいか!
「まあ。今となっちゃ感謝してるわよ。あんたとのやり取りがなきゃ、わたしは今みたいに完璧美少女を演じきれていなかっただろうし。結論、こいつはわたしに逆恨みしてるだけなの」
「脳みそをどう捏ね繰り回したらその結論に至るのかしら。胸だけでなく頭まで残念なようね」
「うっさいばかあ!」
顔を赤らめて平らな胸を覆い隠す桜川。胸の大きさを指摘されると途端に調子を乱しやがった。
弱点を突かれて荒ぶる桜川に、花室は容赦ない追い打ちをかける。
「いえ、それとも逆かしら。勝手に無駄な対抗心を抱いて勝手に私に執着して勝手に優越感に浸っているなんて、相当おめでたい思考回路を持ち合わせているようね」
「でたでた、被害妄想。あんたみたいなのは劣っている自覚があるからそう捻くれたことしか言わないんでしょ? 実際見下してるけど」
ぴきぴきと血走った形相で拳を鳴らす桜川と、組んだ腕の指を顎にやり涼し気に佇む花室。
捻くれたツンドラ系女子花室VS他人をマントルまで見下し果てた腹の中暗黒色の桜川。
「どっちもどっちじゃねえか。お前ら人間性に問題がありすぎる!」
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