【2-6】 花室冬歌のウラオモテ
恥を捨てた努力が実り、なんとか花室との約束を取り付けることができた。
本棟に併設されている図書館。
ここの自習室で勉強会を開く予定だ。美少女と放課後に定期テストの勉強会。いいね、これぞ青春って感じがする。
張り切って待ち合わせの十分前に教室を出た。
とはいっても、向かう先は図書館ではない。
旧校舎だ。旧校舎の、旧生徒会室。
その理由は一つ。俺の推察通りだと、昨日、あの部屋に筆箱を置き忘れた。桜川ひたちとの奇妙な邂逅を果たしたあの場所で起こったイベントの印象が強すぎて、荷物を置いていってしまったのだろう。
昨日訪れた場所はそこくらい。家で勉強なんてするわけがないのでそこ以外では取り出していないとなると、消去法で旧校舎に行き当たる。
どうせ昨日のように、狂気に満ちた桜川がネトゲに熱中しているんだろうなんてことを考えながら、ペンケースを取りに足を運んだ。
ちなみに旧校舎から図書館までの往復を考慮すると二十分弱くらいかかるので、たぶんというか絶対勉強会には間に合わない。すまん飯田、お前は先に行け。
「ん?」
と、そこでなにかを踏んだような感触に、俺は足を止めた。
目線を落とすと、踏み込んだ上履きの下に一冊のノートが転がっていることに気がついた。
なんの変哲もない、ありふれたA4サイズのノートのはずなのだが。
そのノートに、俺は目を奪われた。
おそるおそる近づいて、そして手に取って見る。埃は被っていない。最近のものだ。
そして俺に魔が差したのが嚆矢となった。少しでもノートの落とし主の手がかりを把握しようとした俺は、彼女のものと断定できるそのノートの表紙に手をかけた(というのは建前で、ピンク色の表紙から女子のものと推測したからである。女子生徒が落としたとなれば、此方も舐め回さねば……無作法というもの……)。
興味を駆られて手に取って表紙をめくる――と、均整の取れた細く力強い字で綴られた数式や英語のスペルと、真ん中にどかどかと一言、殴り書きが記されてあったのだ。
『打倒、桜川ひたち‼』
「は?」
思わず声が出た。
こんな奇異なものを目の当たりにしては、掻き立てられた好奇心に逆らえず、おもむろにページをめくっていく。
初めの数ページこそ一般的な学生の学習の足跡が残されているが、だんだんとページをめくっていくにつれ、定期テストに起因する桜川ひたちへの対策法(というかほぼ悪口)が増えていき、後半に至ってはもう桜川への恨みが見開きの端から端までびっしり羅列されていて、もはやホラー的な要素さえ孕んだ怪文書へと変貌していた。
「な、んだこれ」
震える手で呪いのノートを凝視し続けていると、どこからか悪寒が襲ってきた。
顔を上げて見回した。この先に部屋は一つしかない。誰か人がいるとしたら、おそらくそこに居るのだろう。
そしておそらく、そいつがこのノートの持ち主だ。
この先は美術室。なんの用があってわざわざ訪れるのかは知らんが、絶対にロクでもないやつなのは確かだ。もし仮に人がいたとして、またヘンなことに巻き込まれるというのは目に見えている。
しかし、本能とも呼べる人間の機構――好奇心には逆らえなかった。
俺は当初の目的そっちのけで寄り道し、疑惑の部屋の前に立つ。
深い呼吸をひとつして、扉に手を掛け、勢いよく引いた。
「だれかいま――っぶ」
扉を開けると同時、飛び込んできたのは、たった一色の白だった。
戸を引いた勢いからだろうか、開かれた窓から吹き抜ける風に乗ってか、俺の顔に一枚の紙が貼り着いた。
これは――画用紙? びたりと張り付いた紙を剥がすと、その向こうには――部屋の中心には、さらに異様な光景が広がっていた。
降りしきる桜の花弁のように舞い、不規則に落下していく画用紙やキャンバス。嵐のように勢いよく飛散する千紫万紅の彩を放つ雨粒。
その嵐の中には、一人の少女。
煌々とそびえるイーゼルに向き合った少女は、俺の存在を知覚することなく一心不乱に扇型の筆を握った拳を振り回している。
筆、紙……部屋中に飛び散った雨の正体はインクだ。絵を描いているのか?
飛び交う備品の中で、長い黒絹が揺れる。
その人物は、目の前のイーゼルに喰らいつかんほどの剣幕で、血走った瞳に狂気を浮かべながらキャンバスを塗りつぶしていく。
キャンバスが、赤く、青く、黒く、塗りつぶされていく。
「くそ、くそ、くそ、くそくそ! 桜川、ひたちぃ――ッ‼」
右手にファン、左腕でナイフを振るい、乱雑に塗り固められたその絵は、もはやベースの原型を留めているのかすらも判らない。
ただかろうじて、画溶液の剥がれた凹凸から咲く花びらが認識できた。
白、赤。キャンバス上部を埋め尽くすように散った桜並木に覆われるように、生い茂った新緑と花を反射する清流がスフマートで表現され奥行きを感じるように流れている。
これは。この、『桜の景色』は――。
「な、んだこれ」
呆然と佇んでいた俺が思わず感嘆を漏らすと、少女はそこでやっと俺の存在に気付いたようで、不意に振り向いた。きっ、と鋭い視線に貫かれて、俺は蛇に睨まれたように身動きできなくなってしまう。
その迫力に怯えながら立ちすくんでいると、俺の耳に這いよるような低い声がこだました。
「み……た、な――」
「ひっ‼」
顔を覆い隠す黒髪が揺らぎ、その影は腕をだらんと振り下げよろめきながらこちらへ近づいてくる。
一歩、また一歩と。
「く、くるなああ‼ 幽霊!」
「失礼ね。ちゃんと人間よ」
「…………花室?」
そして俺は、目を見開いた。
花室冬歌が、そこに居た。




