【2-5】 その女、『高嶺の花』につき
遠くから慟哭が聞こえる。
その声のするところへ、できるだけ自然な風を装って駆けつけた。
「おいおい、飯田。花室にちょっかい出すなよ」
「天川、なんのつもりで……」
ここからが、俺の本当の作戦だ。
当初の予定も悪くない。が、それには多少のリスクが伴う。
先も述べたように、気の強くなさそうな女の子に男二人が寄り付くのは、警戒される恐れがある。
だからあえて俺が言及することにより、少なくとも俺は大丈夫、というように彼女の警戒を解くことができるのだ。一人を切り捨てることで大きな成果を得ることができる。飯田には尊い犠牲になってもらおう。
「悪い、花室。いきなり声かけちまって。驚かせたな」
「……いえ、大丈夫」
予想していたことだが、すげえ警戒されてんな。
無理もないか。俺はまともに話すのが初めてだしな。
飯田は授業で世話になったと言っていたが、花室は飯田のことを認知しているのか?
「ええと、ごめんなさい。誰と誰だったかしら」
飯田が固まってしまった。気を確かに持て、こんなんジャブだぞ。
まあそうだよな、記憶にあるはずもない。
飯田は彼女の優しさに惚れたというが、それはきっと飯田だけに向けている一面ではない。
モテる女子は誰にも分け隔てなく一定の距離感を保つものだ。それを哀れな男どもが勘違いして勝手に舞い上がっているだけにすぎない。
「俺は天川周。でこっちが飯田晃成。俺が同じクラスで、飯田は隣の六組。よろしくな」
「そう。それで、なにか用かしら」
うーん。やっぱやりづらいな。
こちらがいくら策を講じたとしても、さすがは高嶺の花、とっつくところが見当たらない。
「こいつが花室に話があるみたいでさ。よかったら、少し話を聞いてやってくれないかな?」
「はあ。少しだけなら」
よし、エクスキューズは取れた。あとは話の持っていき方次第で状況を好転させることができる。
俺と飯田は目を合わせ頷く。
「いやあ、助かるよ! 単刀直入に言うと、勉強を教えてほしいんだ!」
「私に勉強を? 構わないけれど、具体的にはなにをしたらいいの? 課題の手伝いとか?」
「え、っとねー」
飯田がその先を言いかけて、言葉を呑みこんだ。
こうもぶっきらぼうな対応をされると、このまま続けていいのか逡巡する気持ちも分かる。
だが、やっと一歩踏み出せたのだ。ここまで来たらノリと勢い。飯田は自分の発言を反芻させるように大きく息をした。
「中間テストあたりまでつき合ってくれたらうれしいんだけど、どうかな?」
「中間テスト……。今から二週間ほどくらいかしら。それまで私に勉強を教わりたい、というわけね」
お、意外と好感触?
中間テスト――二週間後に迫る定期考査。勉強を教わる口実としてはそれが一番現実的だ。
「そうなんだ。ほら、中間で赤点とったら補習あるじゃん? 俺、この時期は部活に集中したくてさ」
部活。
飯田(と滝田)が属するサッカー部は、中間考査のちょうど一週間後にインハイ予選を控えている。
「ほら、花室さん、五組じゃずば抜けて頭いいじゃん。花室さんが力を貸してくれたらきっと成績が上がると思うんだ」
「なるほど。……事情は分かったわ」
飯田の熱弁を聴聞し、静かに頷く花室。
「飯田くん、だったかしら。あなたの現状は把握したわ。そうなるのは道理だと思う。けれど、赤点回避で悩むほどの成績なの?」
「恥ずかしながら……」
エッジの聞いた質問に、飯田はぽりぽりと頬を掻く。
「勉強ができるかなんて、もちろん個人差によるけれど、少なくとも授業に耳を傾けていれば赤点で思い悩むことはないと思うのだけれど」
痛いところを突く。これには返す言葉もない。
「普段ろくに授業も受けずに、今になって他人に施しを受けようとするなんて、虫のいい話だと思わない?」
「う。それは」
「た、確かに花室のいう通りだ。この件に関しては百パー飯田が悪い。でもさ、こいつもこいつなりに頑張ってる部分はあるんだ」
ぐうの音も出ない飯田に代わって、俺が説得を試みるしかないようだ。
「授業だって、聞いてはいるし(嘘)、テスト勉強だってもう始めてるし(嘘)、友人として――こいつの事情を知る身として、俺からも頼みたいんだ」
頼むよ。そう言って深く頭を下げる。
どうよ、この完璧な紳士的振舞い! ここまでされちゃ、さしもの高嶺の花も断れまい!
男の熱い友情を実感して、花室は大きな目を見開いていた。
「……天川くん」
そして一拍、その様子に感嘆した風の彼女が重い口を開く。
「あなた、直近のテストの順位はどのくらいだった?」
「へ? えっと、五十位くらい? です」
言って、失態を犯したことを自覚した。
「そう。……なら、あなたが教えてあげればいいじゃない」
「は? いや、俺にはそんなんできねえよ」
「いくら海南といえど、テストで赤点を回避するくらい容易なことよ。教科書を丸暗記するくらい読みこめば、自分で考える頭がなくても七割は取れるわ。……それに、学年五十位なら、人にものを教えるくらいできるでしょう」
「や、そうかもしれないけど。やっぱ学年二位の花室の方が向いてるんじゃ」
咄嗟に出た俺の言葉に、高嶺の花はわずかに眉間を吊り上げた。
「順位なんて結果でしかないわ。初対面の私より、あなたが教えてあげた方が緊張しなくて済むだろうし、あなた自身も理解しやすいでしょ」
ぐ、確かに。花室の言うことはひどく合理的だ。
やはり、論理で花室を説き伏せるのは厳しいのか。
微かな期待を抱き、俺は目配せで飯田に合図を送る。頼む、お前からもなんとか言ってくれ。
「俺は人に教えるの、向いてないんだよな。それに飯田と二人で勉強なんてして集中できたためしがねえしな」
「そうそう! 俺、天川にだけは教わりたくないんだ!」
舐めてんの? こいつ。
無論こんな言い分で花室が動くわけがなく、
「なら、その程度の意識だということでしょ。本当に追い込まれているのなら些細なことで集中は乱れないと思うけれど。天川くんも、友人なら飯田くんのことを思ってしっかり面倒を見てあげるものではないのかしら」
ど、ド正論……。
だめだ。俺らがどんな理屈を並べようと、完膚なきまでに崩されていく。
さすが高嶺の花。などと一口で片付けてしまっているが、ともかくこの女は強敵だ。花室に理論武装は通じないだろう。
となると、俺たちに残された手段は一つ。
……俺は深く息を吐いて、右足を一歩後ろに引く。
そのまま膝を折り曲げて床に着け、同じ動作を左足でも行う。
両の掌を膝と同じ高さに置き、深く深く、礼をするように上体を曲げた。
誠意を伝えるには、思いをそのまま言葉にするべきだと思うのだ。
「おねがい花室、勉強教えてええーー‼」
「「⁉」」
見たか、これぞ天川家に伝わる伝家の宝刀。
ディス。イズ。ジャパニーズ・DOGEZA。
膝、掌、額と素早く地に擦りつける。流れるような、精巧かつ滑らかな所作だ。誠意を見せつけるにはこれが最も覿面だ。いや作法とかよく分かんねえから適当だけど。
いきなりの挙動に、花室は動揺を見せた。
「ちょっと、やめて。恥ずかしいから」
対照的に、飯田は俺の姿勢に感銘を受けたように拳を握っている。
「くっ、天川にここまでさせて自分が情けない! 花室さん、ぜひ俺に勉強を教えてください!」
「飯田くんまで……。とりあえず、顔を上げて。変な誤解をされたらどうするの」
「いーえ! 花室の口からYESと出るまで上げられません!」
「その通りです! 花室さん、俺の気持ちを受け取ってください!」
お前それもう告白だけど、いいのか?
「こんな人目のつく場所で、恥ずかしいという感情はないのかしら」
「滅相もない! 恥も外聞もプライドさえも捨てた身、花室が首を縦に振るまでここから動かねえ!」
「花室さあああん!」
「私が恥ずかしいからやめてもらえるかしら……」
空気が一層冷たくなる。
廊下を通る生徒たちが奇妙な目で俺たちを見る中、目の前の少女の視線が際立って冷たく痛々しい。
ドライアイスみたいな花室の視線を受けながらも、二人の恥晒しは床に額を擦り続ける。
「はなむろおおお!」
「花室さあああん!」
「……本当にやめて」
「「はい」」
やべ、調子乗りすぎた。
しかし、花室は諦めたように額を抑えている。
「…………はあ。分かったわ。やればいいのでしょう」
「マジか! いいの?」
「これ以上つき纏われても面倒だわ。警察沙汰になんてなったらもっと面倒だし」
何罪になるんだよ、これは。公然わいせつとか?
とにもかくにも。高嶺の花を説得することができたわけだ。説得なのかは怪しいところだけれど。
愛想を尽かされたというのが正しい表現かもしれない。否、愛想などない。
呆れられた。
「とはいっても、さすがに私も自分の勉強をないがしろにするわけにはいかないから。私が手伝えるのは中間テストの一週間前まで。基本的に私の予定が空いてる時だけ、その範囲でなら教えてあげることはできるわ」
予期せぬ展開。まさか本当に土下座が功を奏すとは。
にしても、十分すぎる条件だ。
忘れちゃいけないのが、俺たちの目的は飯田と花室の接点を設けること。この二人が関わるのが自然な流れを作り出すことである。
赤点回避、なんてのは口実に過ぎない。勉強会を開くことはあくまで手段、大事なのはその勉強会で花室にいかにアプローチできるか。
約束を取り付けるだけでこの体たらく。先が思いやられる……。




