第2章『神託者の日常』(続き6)
「準備が整いました」
戻ってきたエリカが、慶一の分の荷物を差し出す。
シンプルな革の鞄の中には、水と携帯食。
そして、古の本が大切そうに包まれていた。
神殿を出る頃には、太陽が真上に近づいていた。
石畳の参道を下りながら、慶一は先日訪れた村のことを思い出していた。
水脈の光の糸を調整しただけのはずなのに、なぜ問題が再発したのだろう。
「慶一様」
並んで歩くセイラが口を開いた。
「先ほどの...『実装』という考え方について、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか?」
その声には純粋な好奇心が感じられた。
慶一は少し考えてから、できるだけ分かりやすい言葉を選んで説明を始めた。
「プログラミングの世界では、システムを作る時、大きく分けて二つの段階があります。
まず『設計』があって、それから『実装』。設計は青写真のようなもので、実装は実際にそれを形にすることです」
エリカも興味深そうに耳を傾けている。
「今まで私が見ていた光の糸は、世界の理の『設計図』のようなものだったんです。
でも、あの本に書かれていた方法を使えば、その設計を実際に...その、形にできる」
「なるほど」
セイラが深く頷いた。
「それは、まさに古の神託者たちの言葉と一致します。彼らは『理を視る者』と『理を織る者』がいたと...」
その時、村の方角から風が吹いてきた。
どこか生暖かい、不自然な風だ。
「これは...」
慶一の足が止まる。
視線の先、村への道には、普段より濃い光の糸が絡み合っていた。
そして、その中に、先ほどの書庫で見たような黒い靄が微かに混じっている。
「セイラさん、この風...」
「ええ、ただ事ではありません」
セイラの表情が引き締まる。
エリカが不安そうに二人を見つめている。
慶一は古の本を取り出した。
ページを繰ると、光の糸のパターンを読み取るための解説が目に入る。
そこには、異常な状態を示すパターンがいくつも図示されていた。
「これは...recursion?」
慶一は思わず技術用語を口にした。
光の糸が、まるで無限ループに陥ったように、同じパターンを繰り返している。
「どうやら、先日の修正が...」
「予期せぬ再帰を引き起こしてしまったのですか?」
セイラが慶一の言葉を理解したように続けた。
慶一は驚いて振り返る。
セイラは穏やかな表情で答えた。
「古の書物には、『理は時として己を呼び、果てなき輪を成す』という警句があります。現代の言葉で言う再帰...でしょうか」
(やっぱりこの世界の神託は、プログラミングと根底で繋がっているんだ)
慶一は改めて光の糸を観察した。
確かに、水脈を調整した箇所で異常な循環が起きている。
それが徐々に範囲を広げ、周辺の理にも影響を及ぼしているようだ。
「修正が必要です」
慶一は古の本を広げながら言った。
「でも今度は、再帰を制御する仕組みも組み込まないと...あ、この呪文の組み合わせなら」
ページの端に小さく記された注釈が目に留まる。
そこには、理の循環を制御するための補助的な術式が記されていた。
「行きましょう」
セイラが杖を掲げる。
その先端の水晶が、不穏な風の中で凛と輝いた。




