196 行商人とミューズ
池での静寂な時間を過ごし、心も体もすっかり冷えた僕たちは、そのまま市場へと足を向けた。氷の池から市場までは少し距離があったが、シャズナは歩くたびに雪をはじく小さな足音を立て、僕の隣をぴったりと歩いていた。時折、風に舞う雪の結晶がシャズナの柔らかな毛に降り注ぎ、きらめいている。そんな愛らしい姿に、僕は思わず口元が緩んでしまう。
市場に到着すると、朝の冷え込みに反して活気に満ち溢れていた。行商人たちの声が響き渡り、新鮮な野菜や肉、魚が所狭しと並べられている。僕たちがよく顔を出す行商人の店へ向かうと、彼が目ざとく僕たちを見つけ、手を振ってくれた。
「おや、来たな。今日もシャズナが一緒か。にゃんとも愛らしい相棒だな」と行商人は笑い、手際よく商品を並べる手を一瞬止めて、シャズナを眺めた。シャズナは耳をぴんと立て、彼の言葉に応えるように「にゃー」と鳴いた。まるで本当に言葉を理解しているかのようだ。
「今日はちょっと珍しい種を探してるんだ。ミューズっていう植物の種、持ってるかい?」僕が尋ねると、行商人は「おお、あるさ」と言って、小さな袋を取り出して見せてくれた。袋の中には黒くて小さな種が数粒入っている。僕は袋を手に取り、その軽さを感じながら行商人の説明を待った。
「ミューズは、育てるのが少しコツがいる植物だ。日当たりは良い場所がいいが、乾燥しすぎないように気をつけな。水やりは朝方が一番効果的だ。そして、実がなったらそれを煮込んでスープにすると、ほのかな甘みと香りが特徴の美味しい料理になるんだよ。」行商人はそう言って、手を動かしながら種の育て方と収穫後の調理方法を丁寧に教えてくれた。話を聞いている間、シャズナは鼻をひくひくとさせ、好奇心たっぷりの瞳で行商人と僕のやり取りを見守っていた。
「納品するときの相場も知りたいんだけど」と聞くと、行商人は少し考えてから答えた。「収穫の時期によるけれど、品質の良い実は結構高値がつくんだ。特に寒い季節には需要が増すからな。最近では料理人たちがミューズのスープを求めて、相場も上がってきている。いい商売になるさ。」
僕はその話を心に刻み、シャズナのために良い実を育てる決意を新たにした。話が一段落すると、行商人はニッと笑って「そうだ、今日は特別にこれをやろう」と言い、包みを取り出した。中からは香ばしい匂いが漂い、豚肉のポワレが顔を出した。脂身の焼けた香りが僕たちの鼻をくすぐり、お腹が思わず鳴りそうになる。
「これは、シャズナへの感謝の気持ちだよ。いつもお前さんたちが来てくれて市場が賑やかになるからな。」行商人がそう言うと、シャズナは大きな瞳を輝かせて「にゃー」と嬉しそうに鳴いた。まるで本当に「ありがとう」と言っているかのようだった。
僕は行商人に深くお礼を言い、シャズナと一緒に帰路についた。市場の活気に後ろ髪を引かれながらも、手にしたミューズの種と豚肉の香りが心を温かくしてくれた。今日もまた、シャズナとの日々に新たな思い出が刻まれたのだった。




