メンズ・アベンジ
「、やけに遅いな…」
僕は左腕を持ち上げて、入学祝いにもらった銀の時計をひと目見てぼやいた。もうすぐ日付が変わろうとしている。窓の外を見ると、道路の向こうのコンビニで少年が集まってタバコをふかしていた。店からは、僕らを除いて最後の客、細身の大学生風の男が出ていったところだった。だだっ広い店内の照明は、僕らだけのためにしては過剰なほど明るい。
「貧乏ゆすり、出てるよ」
四つ足のテーブルを隔てた彼女は軽くウェーブのかかった短い茶髪を揺らして、あたかも他人事のように僕の悪い癖を指摘してくるけれども、彼女の方だって僕と同じだけ待たされているのだから多少苛立ったような動作を見せてくれてもいいんじゃないか。
「…」
僕はわざとらしく目つきを若干尖らせて、貧乏ゆすりを止めた。利口ぶっているのかただ要領が悪いだけなのか知らないが、こういう変に他人行儀で身の回りの状況が分かっていないような彼女の態度が僕には少し不愉快に思えた。僕は店で食事を待たされている立場なのにもかかわらず、貧乏ゆすりをする自由さえ奪われてしまうと、まるで僕が悪いみたいな気分になる。
「でも確かに遅いよね。もう二十分くらい経つのかな」
彼女は僕の不機嫌を悟ったように同調してくれた。そこで僕はすこし冷静さを取り戻して、そのまま彼女にさっきの失礼な態度を謝った。謝るときだけ勢いを失う自分の言葉と臆病が嫌になった。
自虐もほどほどに、僕はスクムンと立ち上がった。木の椅子が床と擦れて音を立てる。彼女はそんな僕をみて「まだ私に腹を立てているのか」と内心思ったかもしれないが、そうではなく、僕はこのラーメン屋が彼女にラーメンの提供を遅らせていることに腹が立っていた。めったに外食を希望しない彼女が、同棲を始めて初めて僕をラーメンに誘ってくれた。そんな記念すべき出来事に泥を塗るような「鹿児島ラーメン 豚の奴隷」の遅延行為を、なんとしても断罪する必要があると思った。それも今思えば、義憤を装った八つ当たりだったのかも知れない。先週に祖母を亡くした動揺が、未だに尾を引いていたとも思える。
「ちょっと、殴り込んだりしないでよ」
半笑いで発した彼女の言葉は、僕ら以外に誰も客がいない店内でも、空調やその他設備の音、スピーカーから流れるヒット曲に吸収された。彼女を尻目に僕は厨房へ歩き出した。もちろん暴力を振るうつもりは断じて無いけれども、深夜とはいえ注文から二十分も待たせるラーメン屋は非常識だから、それなりの文句を垂れる権利はあると思った。注文を取らせた金髪男の店員の顔を頭に浮かべて、募る苛立ちをさらに募らせた。
「ちょっと、九番の席のマジキチ豚ラーメン二杯ですけど、いつまで待たせるつもりですか!」と、さっき彼女に謝ったときとは一転して非常に強い口調で叫んだ。その途端、それまでずっと垂れ流されていた音楽が突然止まって、室内は一瞬驚くほど静かになった。
「えっ」
僕は不気味なハプニングに驚いて情けない声を漏らした。一瞬無音に感じた空間に環境音が戻ってきた。それまでよりも、やたらと大きい音のように感じた。つい先程まで偉そうに大声を出していた分、余計に僕が惨めに思えた。
なにか見えないものにつままれているような気がして恐ろしくなってきた。手のひらには汗が握られているし、すっかり怖気づいてしまって急いで彼女の方を見ると、あちらもすこし不審そうにコチラを見ていた。厨房の方に向き直ってみると、店員が一人たりともいないことに気がついた。でも麺は茹でられていて、スープの匂いはこちらに漂ってきているし、器だって、2つ用意されていた。 いよいよ、ラーメンどころではなくなったな、と思った。何も理解できないけど、今はこの場をなんとか切り抜けることが先決だと感じた。
彼女のいる席に戻ろうと踵を返したとき、視界の隅でなにかが動いた。同時に、「ぬちり」というような音が聞こえた。ふたたび空調の音は耳に届かなくなって、僕は恐怖と孤独を背中に感じた。心臓が瞬く間に速くなる。彼女は立ち上がって僕の方を見ているが、僕を見てはいない。僕の後ろの、厨房を見ている。彼女の顔はみるみるうちに青ざめていく。うしろに何かいるのか?と彼女に聞けばよかったのだけど、いかんせん、動いたり音を立てたりしたらだめだという強迫観念が働いて、そうもいかない。とはいっても、最終的にはここを脱出しなくてはいけないのだから、いつまでもこのままというわけにもいかない。南無三!と念じて勢いよく振り返った。厨房の奥の方で、銀の調理台に隠れて全部は見えないが、明らかに、店員がラーメンに食われていた。
息が詰まった。同時に、下から上へ震えが走った。倒れ込んだ店員にまとわりつきウネウネと這うような動きをする大量の麺の切れ目から時折、生気を喪失した目がこちらを覗いている。その目からも、すぐに麺が入り込んでいった。僕たちはその光景の一部始終を、なすすべなく見続けていた。
やがて麺が店員を食い終わると、麺は彼の体から離れ、およそ放射状に各々、厨房内の収納に散っていった。すると、自然と餌食になった人間の姿が曝される。それは、さっきまでとりあえずで恨んでいた金髪の店員だった。一部肉が溶かされて赤くえぐれた部分もあり、さっきこちらを見ていた目はもうなく、黒く沈んでいる。でも、不思議と床に血は流れていない。おそらく、あの麺がすべて舐め取ってしまったのだろう。
事情が一切不明の現状、僕らがああならない保証はどこにもない。とはいえ、どうすればあの地獄を避けて家へ帰れるのかもわからない。
ゆっくりと彼女のほうを見直すと、今にも叫びだしそうな顔こそしていたものの、理性でそれを抑えているような感じだった。僕は心底、この人を恋人に選んで良かったと思った。
僕は高卒の脳みそで、この苦境を乗り越える方法を考えた。あの麺に言語を介する知能と、こちらの言い分を汲み取ってくれる温情さえあれば、ここを無事に出ることは不可能では無いと思う。逆にそれ以外に何一つ算段がない。仮に麺がこちらを真っ直ぐ狙ってきた場合に、僕らは逃げることができない。二人を同時に食べてしまうほどの量は確実にいたし、おそらくスピードもぼくらより圧倒的に速いのでは無いだろうか。ぼくは、いささか早計だったかも知れないが、彼らの理性に期待することにして、麺に対してこう言った。
「…たすけて」
すると、どこからともなく、甲高い男の声が聞こえた。
「日本語の分かる僕がいてよかったね。」
金髪の死体がおもむろに立ち上がった。そのはずみで、左腕が自重に耐えきれず根本からグズっと音を立てて床に落ちた。僕が後退りすると、落ちくぼんだ目のスペースから一本の麺が伸びてきた。
「僕はメヌーメ ここらのニューメナーをまとめるリーダーで、ブレインさ」
「人間の言葉を話せるニューメナーは少ないのさ 皆何も考えられない 時たま僕みたいに知能を持って降りてくるやつもいるけれど、そういうやつは大抵、自分と同じくらいの頭を持ってるニューメナーと巡り会えないまま死んでいくのさ」
麺が鼻につく声で話すたび、金髪の口は醜く開閉する。時折、金髪の歯が勢いよくぶつかる音がカツカツと聞こえた。
「俺達はお前らにどうされるんだ」
と、僕は震える足に力を込めて、勇んだ声で聞いた。
「『お前ら』っていうか、他のニューメナーがあんたたちをどうするかは 全部僕の裁量だって分かんない?ぜんぶ、僕の傀儡なんだって」
「じゃあお前は、俺達をどうしたいんだ?」
「まあ、いっちゃえば、あんたなんかに興味はないんだ 適当にニューメナーの餌にしてもいい」
「僕が本当に用があるのは、あんたの後ろの彼女さ」
金髪の死体を使って、彼女を指差す。彼女は、怯えるでも気絶するでもなく、今までとは全く違う神妙な顔つきでメヌーメの方を睨んでいた。
「あんた メンヂカから逃げたネオメニックのお嬢さんだろ 分かるんだぜ」
メヌーメがそう言い放ったかと思えば、金髪の頭部の右上が突然吹き飛んだ。厨房の壁に黒ずんだ血が張り付いて、メヌーメもいささか動揺した。
「うわ、すごい!伊達にメンヂカを抜けてないな」
「こんなところで、ましてこの程度のネオメナーに見つかるとは迂闊だった」
彼女の茶色く透けていたショートヘアはすべてが薄黄色の麺に変化していた。粉がまだ落とされていない。
「メンヂカの腐敗は今や白日の下に曝されているはずだ お前たちが雇われている組織の覇権もそう長くないことくらい、お前のような市井のネオメナーにもわかるはずだが」
彼女の声は普段よりもずっと低く沈んで、目つきはより尖っていく。
「ネオメナー?それは、僕の分類上の名前かなにかか?」
「父上は幼き日の私に崇高な使命を賜った 人とニューメナー、ニューメナーとネオメナーの融和…メンヂカを抜けたのも、父上の命ずるところだ」
「ネオメナーっていうのは一体何なのさ?それが分からないと、あんたを売っぱらう前のピロウ・トークにお互い花が咲かないぜ」
メヌーメは明らかに当初よりも動揺していた。僕の彼女が彼にとってなんなのか少しも見当がつかないけれど、彼女の気迫が想定以上のものであるから手詰まりになっているような感じがあった。
「お前にこちらから話すことはない 私を見つけた以上 消えるか、消されるか選べ」
気づくと彼女は僕よりも前に踏み出していた。麺の髪がふわりと宙に浮かぶと同時に、徐々に先端がペティナイフのような鋭利な形状に変化した。
「王家の末妹とはいえ、地球に汚れちまった同族はやっぱ見るに堪えねぇよ」
刹那、二人の間を何かがくぐった。その瞬間、メヌーメの駆る金髪男の体は細切れにされ、彼女の額にはスパッと傷が刻まれた。すると中から、メヌーメの本体らしき黒い麺が一本這い出してきた。
彼女は厨房に飛び込むと、逃げようとするメヌーメをつまみ上げ
「あわれなネオメナー、メナーの革新を象徴するフラッグシップの一員であったのに」
と語りかけるようにつぶやいて、一心に握りつぶした。「ぎぎゃっ」と、断末魔の叫びのような音がした。
そのあと彼女はこちらを振り返って、「ヒヒ」と笑った。顔つきも声も髪の毛も、すべてが元に戻っている。
「店員さんいないから、私達でラーメン作っちゃおうか」
「うん」
僕はすべて忘れたふりをして、こぼれた涙を拭いて厨房に入っていった。