ん、愛の力
前編です
思い出したくもないので詳細は割愛するが、原初の教祖ことクラーシェスが獣人嫌いになった一番の理由。
あれはかつての聖魔戦争の最中に起きた出来事だ。
原初の悪魔の陣営についた彼女には主からとある重大な役目が与えられており、その関係でジパングに訪れていた。
しかしそれを目ざとく察知した一人の獣人によってその計画は阻止されてしまい、挙句の果てには敗走まで強いられたのだ。
もちろん直接負けた訳ではなく一つのきっかけに過ぎなかったのだが、それでもたかだか獣人一人に計画を狂わされ、何よりその敗北によって敬愛する主人にまで被害を及ぼしてしまったことが許せなかった。
クラーシェスが獣人を嫌う大半の理由は、主への狂信的なまでの信仰心なのである。
◇◆◇◆◇◆
ガシャアアアアアンッ!!!
凄まじい冷気を放って荒野に巨大な氷の山が築かれた。
荒々しく凍結させられた斜面を滑るように下りながら、二本のダガーを携えた幼女、クロは白い息を吐いて跳躍する。
空中でくるりと一回転すると、自由落下に身を任せ体重を乗せた重い一撃を振り下ろす。
耳を劈く金属音。
それを奏でたのは、クロの殺意を遮るかのごとく二人の間に割って入った氷の壁だ。
キラキラと光を乱反射させる分厚い氷にヒビが入り、砕けると同時に奥から殺意に満ちた何本もの氷柱が飛び出してきた。
一瞬だけクロの両腕が残像を残して消え、再び交差した腕を視認する事ができた頃には、彼女の周囲をスターダストのような煌めきが舞っていた。
比較的大きな欠片も混じっており、それがクロと相対する女性の顰められた顔を反射する。
氷のように冷たい髪色のこの女性こそ、"原初の教祖"クラーシェス。
かつて一方的にボコボコに打ち負かされた因縁の相手である。
鋭い視線が交差。
クロは右手のダガーを逆さに持ち替えて斜めに振り下ろす。
バックステップでそれを回避すると、クラーシェスの手のひらで尾を引いていた凍える冷気がパキパキと周囲を凍結させながらクロの元へと殺到。
一瞬で分厚い氷の中へ閉じ込められた。
身動きが全く取れない。
しかし身体強化による飛躍的なステータスの上昇によってビシリと亀裂が走り、初めは一箇所だけだったそれがすぐに全体へと広がった。
氷の塊が砕けると共に〈剛脚〉を発動。
強化された脚力で瞬時に距離を取ろうとするクラーシェスの懐に潜り込む。
「舞え─────"氷華"………!」
クラーシェスの背後で魔法陣から出現した何かがキラキラと輝く。
それはタクトのように振るわれた彼女の右腕に従って、ザアアアアアアッ!!と濁流のごとくクロの元に押し寄せる。
クロスしたダガーで防いだもののあまりの勢いに押し負け、青白い波に呑まれて宙に放り出された。
クロの周りを舞ってキラキラと殺意を煌めかせるのは、目を凝らすとギリギリ見えるかどうか程の細かい氷の塊だ。
クロに炸裂したことによってバラバラになっていた"氷華"は、空中で渦を巻いて再び集まると今度は下に向けて波打ち、ガードの上からクロを押し潰さんと躍進する。
波に揉まれて落下、叩き付けられた事で圧に耐えきれなかった大地に亀裂が広がる。
うっすらと"氷華"に混じって飛び散るのは鮮血だ。
落下によるダメージか、それとも細かな砕氷によって肌を傷付けられたか…………。
ザアアアアッ………!!と蠢いていた"氷華"が中央部から膨らみ蹴散らされる。
中から飛び出したクロは圧倒的な速度で"氷華"の追跡を振り切り、魔法を放とうと向けられたクラーシェスの腕を真上に蹴り上げた。
クラーシェスが目を見開いたのは、クロの速度が考えていたよりもずっと早く、魔法を修正した時には既に懐に潜り込まれていたからだ。
弾かれてビキビキと痛むであろう手首にかまけている暇を与えず、クロの剣閃がクラーシェスの体に走る。
ガシュッ………!!と馴染みの無い手応えと共に斬撃がクラーシェスの肌に沿って走り、流れるように明後日の方向に飛んで行った。
当の本人は顔を顰めているが、クロが与えられた傷は表面に付いた浅い溝のようなものだけ。
クラーシェスが常に肉体に纏っている氷の鎧にちょっとした傷を付けただけだ。
じゃあ何が気に食わなくて顔を顰めているのかと言えば………………上手く言えないが、まぁクロの全てだろう。
ギリッと歯を食いしばると同時にクラーシェスの体から魔力と冷気が噴き出し、それだけで辺りをパキパキと凍り付かせる。
放たれるは禁忌魔法。
「鬱陶しい………!怯えながら凍りなさい、【フリージングコフィン】!!」
渦巻いた魔力が極寒の息吹となって四方八方に瞬く間に拡散。
一瞬にして荒れていた荒野を美しい氷の世界に染め上げる。
当然ながら直前でバックステップを取ったとは言え、そう距離を離せなかったクロも巻き添えを喰らい、神秘的な景色の一部に───────。
「んっ!」
アイデンティティの一言を放ちながらクロが差し出した左手が、なんと迫り来る冷気を簡単に押しのけたのだ。
手のひらから細長いドーム状に冷気が広がって彼女を避け、背後に消えていく。
極寒の息吹が収まった後もクロの周りだけは大地に色を残していた。
一度はまともに喰らって半身が凍ると言う酷い目に遭った禁忌魔法。
しかしパワーアップを果たしたクロにはもはや通じなかった。
クロの変化に気付いていたとは言え、まさか片腕で防がれるとは思っていなかったのかクラーシェスは目を見張り、怒りで頬をひくつかせる。
「ん、冷たい…………」
前面だけ軽く凍ってしまった薄いグローブを見てクロは手をブンブン振るが、それがまたクラーシェスをイラつかせる。
正面に向けた手のひらを勢いよく握ると、クロの周囲に大量の魔法陣が展開。
無数の氷柱が降り注ぐ。
これしきの魔法、対処されるのは想定済みだ。
見事に全ての氷柱を捌きつつあるクロの背後で殺意に満ちた無数の光が煌めく。
「──────ッ、んんっ!!」
ダガーで受けた"氷華"を、体を捻りながら斜め方向に受け流す。
通り過ぎた"氷華"によって空いた弾幕の穴から包囲網の外へ飛び出すと、再び殺到した"氷華"をギャリギャリと受け流して着地。
魔力を解放する。
揺蕩うクロの魔力は、原初の一柱であるクラーシェスでさえ驚愕するほどの重圧感を秘めていた。
「ありえない……………一体、この短期間に何があったと言うのです?」
「ん、気になる?」
「ウザったい反応はもうウンザリですわ。答える気が無いのならそれで結構」
本気でイライラしているのか舌打ちも混ぜてクラーシェスは顔を最大級に歪める。
「私、不快です」オーラが凄い。
余程クロの言動が気に食わなかったようだ。
憂さ晴らしのために左手を掲げて魔法を行使しようとするクラーシェス向けて、しかしクロは待ったをかける。
クロがここまで成長した理由を教えてやろうと言うのだ。
正直、クラーシェスからすればどうでも良い事。
だがここまで劇的な進化をもたらす力や方法があるとするならば、後々のためにそれを押さえる事は戦争を有利に……………引いては戦争に勝利した際に必ず役立つはずだ。
自軍の強化や反乱因子に戦意を持たせないためなど。
そのため何も聞き出さずに殺すのも如何なものか。
少し考えた末、耳を傾けることにした。
これが時間稼ぎだったとしても。
もちろん魔法は完成させるだけ完成させて、後はトリガーを引くだけ。
もしくだらない事をほざいたら即行で殺すつもりだ。
己を睨むクラーシェスの瞳をしっかりと見返し、クロは得意げに口を開いた。
「ん、主の愛」
色々と言葉足らずなところは置いておいて。
やっぱりくだらない事だった。
半分知っていたとは言え、このふざけた問答には怒りを覚えざるを得ない。
完全に時間の無駄だ。
即行で魔法のトリガーを引いた事でバキバキッ!!と迸った氷結がクロを呑み込もうと覆い被さる。
クラーシェスのスキルを応用して魔法に組み込んである。
今度こそ抜け出すことは出来ない鉄壁の氷だ。
………………ちなみにだが。
もしここでクロが本当のことを話して、危険因子であるタケルの元に大量の兵力を割こうものならば。
"原初の悪魔"の軍勢にとって、有りうる結末の中で最も悲惨な結果となっていただろう。
それはさておき。
己に覆い被さった氷の群れを見据えてクロは右のダガーをかざす。
そして唱えるのは、己の内に眠る力を解放する術。
主人のおかげでやっと御したクロの本来の力である。
「〈転幻〉」
凛と周囲の空気が張り詰めた静けさに支配されると同時に、クロの足元に展開された解読不能な記号の陣。
凄まじい冷気が漏れ出し、瞬く間に広がるその後を追うようにしてパキパキッ!!と凍結、ついに迫っていたクラーシェスの氷とぶつかって相殺された。
粉々に砕けた双方の氷がスターダストのようにキラキラと輝いて舞い落ちる。
それはまるで祝福だ。
舞台上のクロは霜の降りたスカーフに口元を埋め、隙間から白い息を吐き出す。
スカーフを持ち上げる左手は荒々しくも美しい氷の鎧に覆われており、黒髪の毛先が氷のような凍てつく半透明な水色に変化。
尻尾や耳も一部が凍り付いている。
そして唯一、前回の〈転幻〉と違ったのは頬に浮かんだアザのような薔薇の紋様だ。
花びらの縁取りだけされたその紋様の内、一枚がスゥ………と水色で塗り潰された。
残りは四枚。
「……………これ程の冷気を操って見せたことは褒めて差し上げましょう。ですが、どれだけ力を持とうが所詮は獣風情…………私に挑もうなど笑止千万ですわっ!!」
せめぎ合っていた二種の冷気。
しかしクラーシェスが魔法から「スキルの行使」に変更したことによってあっさりとその均衡を崩した。
────────エクストラスキル〈氷陽〉
氷系の頂点たるスキルにして、クラーシェスを原初たらしめる圧倒的な力だ。
一瞬にしてクロの冷気を呑み込んだ氷の群れが再び彼女に覆い被さる。
ガシャアアアアアンッ!!と氷結が広がる音に乗ってクラーシェスの鼓膜を打ったのは、小さく、しかしよく通る声。
「"氷牙閃鏡"」
「ッ!!?」
そして、それを認識した時にはもう遅い。
氷の波に風穴が空き、かざした左の手のひらから肩にかけて一直線に斬撃が駆けて血が噴き出す。
直前で辛うじで体を逸らしたため被害はそれだけで済んだが、それにしても……………。
(速すぎるでしょう…………!?)
クラーシェスは驚愕を隠せない。
まさかいくら自分が武闘派では無いとは言え、相手の攻撃がほとんど見えなかったなんて。
しかも相手は格下。
ギリギリのところで避けられたのは長年の感と張り巡らせていた魔力探知のおかげだ。
それでも探知に対して体の反応が追いつかない。
「接近された」と脳が理解する時には既に攻撃されていたのだ。
クラーシェスが傷を治しながら振り返りざまに放った氷結を掻い潜り、間合いに踏み込んだクロの足元にビキッと亀裂が走る。
「"乱刃"」
放たれたのは残像を残す神速の剣撃。
鋭い斬撃が乱れ舞う。
だがクラーシェスは驚異的な精密度でその全てを弾くと、至近距離で魔法ではなく〈氷陽〉版の"氷華"をクロにぶつける。
純粋にパワーアップした"氷華"の重さは凄まじく、踏ん張った地面を砕いて近くの氷山にクロを叩きつけた。
今の攻撃は見えた。
どうやら一番最初の尋常じゃない速度は常時出せるスピードでは無いようだ。
自らの元に舞い戻ってきた"氷華"を侍らせながらクラーシェスは口元に指を添える。
……………あれは正直、死ぬほど厄介。
ほとんど視認出来ないとなると防御すらままならないからだ。
とは言え。
この程度で破れるほど原初の壁は薄くない。
思考を巡らせる傍ら、向こうの氷山が崩れ去って発生した白煙で尾を引く何かがこちらに接近してくるのを捉えると、クラーシェスは手のひらに集束させていた冷気を解き放った。
「"絶対零度"」
世界が凍りついた。
そう錯覚させるほどの広範囲、かつ即効性の氷結によって少なくともクラーシェスを中心とした数km単位が氷に覆われた世界と化した。
もはや速度など関係がない大規模な技の行使のおかげで、さすがのクロでも無傷では済まない。
クラーシェスはニヤリと負の感情がチラつく笑みを浮かべて視線を上に向ける。
上空では、凍り付いた腕を無理やり動かして薄く張った氷をバリバリ剥がすクロの姿が。
ダガーの下部で最後の邪魔な氷を砕くと、逆手に持ち替えて〈空脚〉を発動。
ジグザグした不規則な動きと速度で惑わしつつクラーシェスに迫る。
「"八重霞"」
「甘いですわ!」
空中のクロの姿が掻き消えた。
背後だ。
軽く足を曲げてしゃがんだ体勢で、クラーシェスの背後に回っていたクロは逆手に持ったダガーを振るう。
しかし、今度はちゃんと視覚的にもそれを捉えていたクラーシェスは振り返りながら手に生成した氷の剣でクロを弾き飛ばす。
地面を跳ねて裏返ったクロの視界に映ったのは先程、己のダガーと衝突した氷の剣。
投げたのか勝手に飛来したのか、それともまた別物なのか。
定かでは無いが、クロの本能が激しく警鐘を鳴らしている。
それもそのはず。
何せこの剣は"氷華"の塊なのだから。
「"氷華・千本桜"」
無数の氷の塊に戻った"氷華"が降り注ぎ、クロの真っ白な肌を次々と傷付ける。
ズドドドドッ!!と地上に撃ち込まれた"氷華"が粉塵を巻き上げて氷の破片を辺りに散乱させるが、クロは舞い上がった大きめの破片を足場に踏み砕いてその場から離脱。
幅跳びのようにして地上に降り立つとすぐさま〈剛脚〉を発動して一気に"氷華"を引き剥がす。
しかし同時に正面から迫ってくるのも"氷華"だ。
当然ながらたった剣一本を形取るために全ての"氷華が必要なわけが無い。
二つに別けて挟み撃ち…………。
ふと視線を向けるとクラーシェスの姿が消えていた。
だが別に隠れている訳では無いらしく、どうやら上空に移動したようだ。
視界いっぱいに広がった"氷華"をクロはスライディングで回避。
真後ろで合流し巨大な波となって押し寄せる"氷華"を引き連れて跳び上がる。
ほぼ同時に。
〈空脚〉を発動しようとしたクロの頬を凍てつく冷気が撫でた。
上空から降り注ぐのは大規模な氷の波と無数の氷柱。
あとは鋭い氷刃など。
〈氷陽〉による圧倒的な攻撃の数々だ。
一つでもまともに喰らえばクロとてどれほどのダメージを受けるか…………。
霜焼けした左腕がズキンと痛む。
先程の"絶対零度"は明らかにクロの冷気を上回っていた。
今まさに迫っている攻撃も同等の冷気で構築されているため、相殺は困難に思える。
また背後からは"氷華"の波。
まさに"前門の虎、後門の狼"と言うやつだ。
上から見下ろすクラーシェスと視線が交差する。
一ミリたりとも油断してはいないため、これだけの弾幕の中からクロが何か仕掛けてくるだろうと確信しているのだ。
それほど、クラーシェスはクロを警戒している。
そしてその確信は見事に的中した。
──────ドパパンッ!!
まるで空気が爆ぜたかのような音が耳を打ち、クロの姿が掻き消えた。
まただ。
またあの速度。
クロを見失うとほぼ同時に、背後から凄まじい衝撃がクラーシェスの体を貫く。
「ゲホッ…………!?」
体を傾けながらちらりと向けた視線の先では、おそらくドロップキックをかましたであろうクロの姿。
獣人に足蹴にされるという屈辱以外の何物でもない行為に、当然ながらクラーシェスがブチ切れた。
「よくも獣人風情が……………汚らわしいですわ!!」
放たれた氷結が一瞬にしてクロを呑み込む。
ところが、またもや空気が爆ぜた。
クロを覆っていた氷が爆散して霞のようなキラキラした白煙を立ち上らせ、そこから飛び出したクロが四連〈空脚〉。
スローモーションの世界でクロだけが通常以上のスピードで動き、瞬時に弧を描いて反対側へ。
半身になって冷気を放った姿勢のまま固まった(ように見える)クラーシェスの腹部に強烈な突きを繰り出す。
命中した途端に拳から気が波状に広がるそれは、師匠であるヤマトから教えられた気功術の奥義、"破動"。
いわゆる発勁と同義の一撃によって、彼女が纏っていた氷の鎧にビシッ………!と細かな亀裂が走る。
原初でも吐血するほどの一撃だ。
クラーシェスの口から血が零れるが、その瞬間にクロの背筋に悪寒が走る。
それは何も場を極寒の冷気が支配しているからだけでは無い。
クラーシェスの瞳が、確かにクロを捉えているのだ。
「何度も何度も───────無駄にひけらかし過ぎではありませんこと!?」
直後、ズンッ………!!と重々しい衝撃がクロの腹部を貫いた。
息と血を吐き出してクロの華奢な肉体が赤黒い空に打ち上げられる。
痛みで細めた視界に微かに映ったのは超巨大な氷山の一角。
この一撃はかつてマシロから逃げ遂せる際や、一度はクロを瀕死に追いやった技と同じ。
しかも今回は最大出力の〈氷陽〉を駆使しているため、威力はもはや比べ物にならないだろう。
何故、急にクラーシェスは超速で動くクロを視覚的に捉えられるようになったのか。
簡単に言えば"慣れ"だ。
三度も見てしまえば、いくら最初は目で追えなかったとしても徐々に慣れてしまった。
それだけの事。
簡単に言っているが、やはり原初は別格なのだと再認識させられる。
「んっ…………ぐっ………!!」
弾かれたピンボールのように数度地面をバウンドして、何とか体勢を立て直すことに成功したクロは「ぺっ!」と血を吐き捨てて口元を拭う。
間髪入れずクロを囲んだ氷を自らの氷で相殺して抜け出し、ザアアアッ!!と地を這う"氷華"も拳で粉砕。
いつの間にか地上に舞い降りていたクラーシェスに肉薄する。
お互い、腹部を中心に氷の鎧にはヒビが入って崩壊寸前。
駆け巡る氷結が勢力争いに勤しむが、押しては負けて押しては負けての繰り返しでどちらかが長く突出することは無い。
バキバキッ!と凍り付いた地面を踏み砕いてクロの姿が掻き消える。
例のトップスピード。
しかし、先程も言った通りもはやこの速度はクラーシェスには無意味だ。
「つまらない一つ覚えの芸ですわねぇ!!」
案の定、一度も見失わずにクロを捕捉してきたクラーシェスが背後に回ろうとしていたクロに向けて最大出力の氷結を放つ。
確かにクロを閉じ込めた。
頬を歪ませたクラーシェスの瞳が、直後に見開く。
そこにクロは居なかったからだ。
そんなはずは無い。
確かに…………確かにそこに居たのだ。
驚愕したクロの表情を見た。
氷に呑まれるクロの姿を見た。
それなのに……………。
では、先程まで自分が見ていたのは──────?
戸惑いによってクラーシェスが固まったコンマ数秒。
たとえ短すぎるその時間でも、トップスピードに至ったクロからすれば充分な時間だ。
「"砕破氷燐"」
「─────ッ!!!??」
一撃目。
逆袈裟斬りの要領で繰り出された冷気を纏った斬撃がクラーシェスの氷の鎧を貫通し、薄く彼女の肌に傷を付ける。
砕氷舞う空間を、二刃が左の脇腹から右の肩にかけて深い斬撃をクラーシェスの肉体に刻んだ。
傷口や噴き出した血すら瞬時に凍る程の超極寒。
(あれが最高速度じゃ…………!?)
獣人に遅れを取っただけでなく、最強の氷使いである自分が凍らされるという恥辱にまみれた状況。
荒れ狂う感情の中で最後の理性が現状を淡々と理解した。
自分の思い込み。
あれが最高速度だと思っていた。
その上があったのだ。
直前に微かに視界に入ったのは〈限界突破〉のオーラ。
尾を引くそれを、クラーシェスは見逃さなかった。
「ガボッ…………!?」
吐き出した血の量は尋常ではない。
深く深く刻まれた傷は血ごと凍結させられており、現状を維持するだけでも一苦労。
今の状態で治すなんてかなり難しい。
ぐらりとふらついたクラーシェスは倒れるように両膝をつく。
体が傾くとそれだけでボタボタと血が流れる。
氷結が幸いにも内蔵がまろび出るのを防いでくれているが、それだけで大いにダメージを受けていることに変わりは無いのだ。
腹部から逆流した血が口を伝って外に吐き出される。
脂汗が酷い。
これほどのダメージを負ったのはいつぶりか………………いや、そんなのはどうでも良いのだ。
何よりも。
理性と共に意識が薄れ行くのを感じて、ついには俯いてピクリとも動かなくなってしまった。
「はぁ…………はぁ…………」
〈転幻〉に〈限界突破〉という肉体の激しい酷使によって疲弊したクロはひとまず〈限界突破〉だけを解いて片足をつく。
荒い息と汗は無理を繰り返した証だ。
咳き込んで口元を覆っていた手のひらを見るとドロッとした血が付着していた。
内蔵にもかなりダメージを受けているらしい。
全身に霜焼けを負っているため少し動かすだけでも痛みが広がって顔を顰めざるを得ない。
今回の勝利はたまたまだ。
偶然、隠し玉が上手く敵の裏をかけた。
二度も通じる手じゃない。
それでも……………リベンジは達成だ。
クロは重い体を引きずって───────。
────────憎い。
己より劣っている氷使いに、それも獣人ごときに敗北する…………?
そんなの許されるはずがない。
私は誰だ?
そう、"原初の教祖"だ。
あらゆる生物の頂点たる原初の一柱が、こんな生まれたばかりの小娘に負けるなどあってはならないのだ。
獣人ならば尚更のこと。
ああ、憎い…………。
獣人が憎い。
何度も何度も…………。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い──────────。
理性が憎しみで塗り潰されて真っ黒に染まる。
もはや誰にも止められるはずもない。
制御していた〈氷陽〉の力が無差別に暴走を始めた。