後編
「っ母上! なんという御慧眼!」
一瞬で復活したスコルが、美丈夫に魅力あふれる笑顔を浮かべてソウレイの手を取った。
「俺を飼ってください!」
「お断り申し上げますっ。そもそも私は未婚です!」
声高に言うようなことではない。けれど今ばかりは言わねば、と叫んだソウレイの声を最後に沈黙が落ちた。
「……本当に?」
恐々と聞かれてソウレイはため息をつく。
「嘘をついてどうするんですか。私はこの年まで独身です。結婚どころか、男女交際すらしたことがないですよ」
「しかし、貴女はこんなにも魅力的なのに!」
「魅力は知りませんが、適齢期のころに有翼人との関係がきな臭くなってきて。家が魔物の調教をしているものだから、天馬や鷲獅子をはじめとした飛行可能な魔物の調教に精を出しているうちにあれよあれよと数十年が経っていて……」
そのまま嫁き遅れて四十歳を迎えてしまった。
有翼人との争いのせいばかりではないけれど、と言わなかったのは着飾ることもせず魔物の調教に明け暮れた日々をソウレイなりに誇りに思っていたからだ。
彼女自身が戦いに赴いたわけではない。育てた魔物たちが役立つ姿を見たわけでもない。けれど、微力ながらも国を守る助けになれたかもしれない、というささやかな自尊心だった。
そのはずなのに、すぐそばに立つ老夫婦は目に涙を浮かべて「なんてこと」と打ち震え、目の前の美丈夫は言葉もなくソウレイを見つめている。
そこに浮かぶのが嫌悪ではないとわかりながらも、視線の意味がわからなくてソウレイは戸惑った。
「貴女の育てた魔物が居なければ、兄上は五体満足でここにいなかったでしょう」
静かな声とともに入室してきたのはスコルの弟である青年だ。
やわらかな笑顔を浮かべる彼の目元にも、よく見ればにじむものがある。
「そんな、私は貴族の方が騎乗するような希少な魔物は育ててないです」
「いいえ、貴女です」
ソウレイをさえぎったスコルがそっと彼女の手を取った。自身の袖をまくりあげ、剥き出しの前腕に彼女の手を触れさせる。
でこぼこと盛り上がった傷跡にソウレイの指先が引っかかる。
「この傷は、有翼人に斬りかかられたときについたもの。鷲獅子に乗った部下が横から突進してくれなければ、切り落とされていたでしょう」
「そんな……」
「背中から刺されたとき、俺が騎乗していた魔物は敵を恐れて逃げました。空に投げ出され、有翼人に嬲り殺されるところだった俺を救い出してくれたのは天馬を駆る部下でした」
「でも、私が調教したとは限らないです。父が調教した子もいたし……」
ソウレイの否定をスコルはゆるく首を振って止めた。やさしく微笑んだ彼は大きな手で包み込むように彼女の頬に触れて、そっと上向かせる。
「貴女と、貴女の御父上が俺を救ってくれたのです。多くの魔物が怯えて逃げ出すなか、乗り手を信じて戦い続けてくれた魔物を育てたのは、親子で魔物を調教している牧場だと聞きました。戦いが終わり、特別な褒賞をと伝えたら報奨金だけ受け取って帰ってしまったと聞いていましたが」
「それは……たしかに、父さんだと思います……」
思い切り思い当たることがあったソウレイは、ふらりとよろけてスコルの手から離れた。
記憶にある。
戦いが終わってしばらく後、父が「たんまり褒賞をもらったぞ!」と帰ってきたのに喜んでそれでおしまい。
牧場が大きくなり、暮らしがすこし豊かになってめでたしめでたしだと思っていたソウレイは大それたことをしたつもりなど無かった。
(もっとちゃんと話を聞き出せば良かった!)
長く続いた戦いが終わった喜びで、それきりにしてしまったことを後悔してももう遅い。
身内の常識外れな行いに頭を抱えたソウレイは、ふとやわらかな視線を向けられていることに気がつき顔をあげた。
にじむ涙をハンカチで押さえて、微笑んだのは老婦人だ。
「貴女が私たちの息子を生かしてくれたのね。それも、一度ならず二度までも」
「二度?」
いよいよ本当に思い当たる節がなく、首を傾げたソウレイの目の前でスコルの姿がふと掻き消える。瞬きの後に、そこに居たのは銀の毛皮が美しい天狼だ。
天狼は一歩踏み出してソウレイに近づくと、彼女の手の甲に毛皮を押し付けるように擦り寄った。
「この毛皮に見覚えはありませんか」
「毛皮に? こんな見事な銀の毛皮なんて……」
否定を口にしようとしたソウレイの意識に、森の香りが蘇る。
やわらかな木漏れ日。頬をなでるささやかな風。
(キンポウゲの咲き乱れる森の一角で拾った薄汚れた子犬を洗ったら、銀の毛皮がきらめいてはいなかっただろうか……)
「あなた、あのときの子犬……?」
信じられない思いでつぶやくソウレイを見つめる天狼の目は愛おしさに満ちた目をしていた。
瞬きをすれば、同じ目をした美丈夫が彼女をやさしく見下ろしている。
「あのとき、俺はまだ自分の意志で人型になれない未熟者でした。その隙を突いた政敵に連れ去られ、国の端に捨てられて。帰る手段どころか生きる手立てもわからず、死を待つばかりのときに拾ってくれたのが貴女でした」
「そうだったの……だから、だからあの日、突然いなくなったのね」
子犬が姿を消す前日、父親の仕事道具を広げて見せた覚えがソウレイにはあった。そのなかでも子犬が興味を示していたのは父親の手製の地図だ。獣の皮に乱雑な記号が記されたそれを熱心に見つめる様子を「おいしそうなにおいがするのかな」などと微笑ましく見ていたのだけれど。
「……はい。あのころの俺は幼く、未熟で。とにかく親元へ帰ればなんとかなると信じていました。だから、貴女が王都はあちらだと教えてくれた方に向かい帰宅したは良いものの、貴女の家の方角すらあやふやで恩を返しに行くこともできませんでした」
申し訳なさそうに眉を下げるスコルに、耳を伏せたしょげる魔物の姿を見てソウレイは思わず彼の頭に手を伸ばしていた。
「いいえ、生きていてくれて良かった。あなたを拾ってお世話したことで、私は父の跡を継ごうと思えたの。いつかまたあなたに会えたときに、二度と逃げ出そうと思わないような立派な調教師になろう、って思えたんだから」
叶わないと思っていた『いつか』が訪れた喜びに胸を震わせながら、ソウレイはスコルの銀髪を撫で梳く。
どんな魔物よりもなめらかな手触りは、三十年前に触れ合ったあの魔物の子を思い起こさせた。
「スコル、と呼んでください」
ソウレイに撫でられるため、身を屈めたスコルが気持ちよさそうに目を細めたままささやく。
「貴女に会えたらお礼を言って、名を呼んで欲しいとずっと思っていたのです」
一心にそう願っているのだ、と訴えかける彼の目はまるでソウレイに褒められたがる魔物のようで。身分の差やソウレイをためらわせる色々なものをほろりと解かす。
「……スコル」
「ああ……!」
歓喜に満ちた声とともに、スコルがソウレイを抱きしめた。力強く、けれど彼女を傷つけはしないやさしい抱擁だ。
「うれしいです! こんなにうれしいことはない! 貴女を探しに国中を回ろうと、王に訴え続けてようやく王都を離れる許可をもぎとったその日に貴女を見つけて名を呼んでもらえるなんて! 今なら天をも駆けられそうな心地です!」
喜びのあまり飛び出た尾が振り回される向こうでは、スコルの家族が茶を飲みながらふたりを眺めて涙をぬぐっている。
胸板の硬さにどぎまぎするソウレイの耳に「良かった良かった」「おめでたいわ。お祝いだわ!」「いやあ、これで我が家の長年の憂いも晴れましたね」と賑わう一家の声が届く。
まるで芝居見物の後のような感想を聞きながら、ソウレイが思うのは「私もそっちで観客をしていたい」ということだ。
けれどそうはスコルが許さない。
ふと抱きしめる腕が緩み、大きな手がソウレイの肩をつかむ。
「それでは改めまして。オルトとはどなたでしょう」
これ以上はない、と断言できるほどのきれいな笑顔と共に落とされた問いかけに、ソウレイは思考がついていかない。
「え、と?」
「オルトです。貴女が先程口にしていた」
「あ……あー! オルトね、オルトですね。番犬です! うちの牧場の番犬、オルトロス!」
きれいな笑顔のなか、笑っていない目に見つめられてソウレイの背中を冷たい汗がつたう。
事実を述べているだけなのに悪いことをしたかのような心地を味わう彼女に、スコルはますます笑みを深めた。
「番犬。犬ですか。貴女の寝顔を眺め、あまつさえ御尊顔を舐めるなどという不届きな犬……!」
耳をくすぐる重低音が地を這うような迫力を伴っているけれど、ソウレイの意識はその内容に向けられる。
(犬だから嫉妬してるの? 同じ犬系の魔物だから!? 天狼なのに!? 大公なのに!?!!)
「俺が舐めます」
「は?」
にっこり笑顔だけれど滲みだす圧力と天狼の尾までは抑えきれず、呆気に取られたソウレイの頬にスコルの顔が寄せられた。
「舐めて起こす役割も俺にください。夫の座が空いているなら俺を据えてください。できれば愛玩動物の座も、貴女を乗せて運ぶ役割も、何もかもを俺に……」
吐息が感じられるほど近くに寄せられた顔は、まだ止まらない。ゆっくりと顔が近づき、近づきすぎてだんだんぼやけてきたスコルの唇の熱がソウレイの唇をなでる。
ふたりの距離がぜろになる、その一瞬前。
「ま、待てっ!」
叫んだソウレイの声にスコルは素早く姿勢を正す。
一歩下がり、手足をきちりと揃えて立つスコルの前でソウレイは飛んでいきたがる意識を必死に呼び止める。
(いま気絶したら良くないことが起きる気がする! 気がするだけだけど! でもたぶん気のせいじゃない!)
とんでもなく存在感のある嫌な予感を覚えつつ、ソウレイは言葉を選ぶ。
「あの、私、調教一辺倒で四十まできてしまったから、できたらその、お友だちからはじめませんか!?」
恋愛初心者なりの精一杯の申し出に、スコルの顔がぱあっと明るくなった。それなりに年齢を重ねた男であるのに、その表情はまるで主人に構ってもらえた子犬だ。
「はい、喜んで!」
満面の笑顔を浮かべた彼の頭に、ひょこりと耳が立つ。ふさふさの毛が生えた三角の耳は天狼のものだ。
やわらかな毛並みはゆったり揺れる尻尾と相まって、魔物をはじめとした動物好きのソウレイの心を大いにくすぐる。
「友人からはじめてゆくゆくは、生涯、俺の手綱を握っていてくださいね」
「はい……えっ?」
魔物がするように頭をすり寄せられたソウレイは、うっかり返事をしてから我に返った。けれどもう遅い。
「彼女の親御様への挨拶に向かわねば! かわいい息子が長く想い続けた相手と友人になれるのだ。我が家の最大の敬意をもって相手方の親御様への挨拶に!」
「旦那さま、衣装を仕立てましょう。挨拶のための新しい衣装を! それから馬車も新調して、絵師も必要ですわ。ふたりが友人になった記念の絵を残さねば!」
「おふたりの友情を祝して贈り物をさせてください、兄上。ひとまずおふたりが逢瀬を重ねるための屋敷などいかがでしょう?」
スコルの家族は大いに盛り上がり、貴族らしい微笑を浮かべたままおかしなことを口走っている。
(と、止めなきゃ……!)
彼らの暴走を止めるべく一歩踏み出したソウレイは、腹に回された腕に引き留められてたたらを踏んだ。
「貴女の名を」
耳元でささやかれる重低音に、ソウレイの身体が熱くなる。
「友人として、貴女の名を呼ぶ許しを俺にください」
背中を包み込む熱が、密やかな懇願の声が、彼の全身全霊がソウレイを欲していると伝えてきて、彼女は胸が苦しくなった。
「そ、ソウレイです」
「ソウレイ。オレのご主人様。ずっとお傍に置いてくださいね」
息も絶え絶えに告げた名を慈しむように耳に吹き込まれて、彼女はいよいよ立っているのも難しいほど。
友人からはじまるふたりの関係が変わるのは、もうすぐだろう。