前編
美丈夫がソウレイの首筋で鼻を鳴らしている。
「この匂い……間違いありません」
すんすんと匂いを嗅いだ美丈夫の声が近い。触れそうなほどに近い頬が熱いのは自分の熱か彼の体温のせいかわからないけれど、重低音が鼓膜に甘く響いてソウレイはたまらなかった。
なぜなら彼女は王都に着くまでの五日間、野宿をしてきたのだ。日ごとに濡らした布で拭うくらいはしたが汗臭いということに変わりない。
遠路はるばる運んできた魔物の納品を済ませ、さてこれから宿屋で水浴びしてはじめての王都を見物して歩こうと思っていたところだったのだ。
(こんな銀髪、切れ長の目の誰もが振り向くような美丈夫に汗臭いって、拷問だ……!)
異性との付き合いも無いまま四十歳を迎えてしまったソウレイは、残りの人生を魔物の調教に捧げようと決めている。とはいえ、さすがに汗臭さと旅の汚れにまみれた姿で衆人環視のなか、美丈夫に匂いを嗅がれるなど拷問以外の何物でもない。
羞恥と混乱でいっぱいいっぱいのソウレイをよそに、美丈夫はとろけるような笑顔で膝をついた。
「どうか貴女のその手で俺の頭を撫でてください、ご主人様」
艶やかな銀髪の頭を差し出されて、ソウレイの口からは「ひょえぇ」とおかしな音が飛び出した。
サラサラの銀髪は手入れが行き届いて、身に着けている衣装もひどく手がこんでいる。
(明らかに高貴な御方がなぜ、土に膝をついて私に懇願を……ていうか、ご主人様って言った? 聞き間違い?)
ソウレイの疑問は当然、民衆のなかにも湧く。
「大公が膝をつくなんて……!」
「ご主人様って言ったぞ。あの旅人、もしやどこかのお忍びの王族か」
「あの天狼大公が……」
(天狼大公!?)
人垣から漏れ聞こえた声に、ソウレイの頭はいよいよ許容範囲を超えた。
「天狼大公って、あの有翼人種との戦いを治めた国の英雄の……?」
呆然とつぶやいたソウレイの声が聞こえたのだろう。銀髪の美丈夫が顔をあげ、灰青色の瞳をとろりととろけさせる。
「先の戦いで運良く生き残ったものですから、王より大公の称号を頂戴しました。貴女に英雄などと呼ばれるのは恥ずかしいですが、うれしいです。……褒めてもらえますか?」
撫でてほしい、と期待を込めた上目遣いではにかむ美丈夫に、人垣のあちこちから黄色い悲鳴が上がった。
(私もそっちで悲鳴をあげていたかった。この笑顔を第三者視点で見たかった。直撃は攻撃力が高すぎる。無理、精神が持たない。っていうか、あのブンブン動いてるふさふさは……?)
失神する女性が続出するなか、ソウレイは美丈夫の背後でご機嫌に振り回される尻尾を呆然と眺めていた。
「兄上、尾が出ております」
それが幻影でないと教えてくれたのは、どこからか現れた青年だ。こちらも絶対に高貴な生まれだとひと目でわかる。歩き方ひとつとっても優雅で隙がない。
「ああ、うっかり本性が出るだなんて恥ずかしい」
美丈夫と同じ髪と目の色をした青年に言われた美丈夫が頬を染めたかと思うと、尾が消える。
瞬きした間のできごとに、ソウレイは思わず彼を凝視した。
「大公さま、ご先祖に狼神が……?」
天狼のように空を駆け、浮島に暮らす有翼人種と戦ったという話はソウレイの暮らす国の外れにも届いていた。
けれど、本物の天狼だったとは。
(尾は犬系の魔物のそれに見えたけど、長さと毛艶の良さが並みの魔物のものではないし)
ソウレイの感嘆まじりのつぶやきに美丈夫が笑顔を輝かせる。
「ひと目でお分かりですか! さすがです。俺は先祖返りでして、空こそ飛べませんが遠い祖先に天狼の血が入っていると聞いております」
「はあ、まあ、この年まで魔物の調教をしておりますから。これほど近くでお目にかかるのは初めてですが」
十の年に家業を継ぐと志してから三十年、長く続けていれば目も肥える。両手を取って感極まったと言わんばかりに褒められるようなことではない。かと言って、しまったばかりの尾を出現させてブンブンと勢いよく振っている美丈夫の手を振り払うこともできない。
(手が、大きくて硬い。父さんよりずっと大きい。私の手がすっぽり包まれてる。これが男のひとの手……)
魔物ばかり相手にしてきたソウレイは、慣れない熱に顔が暑くなるのを感じてどうしていいかわからなくなった。
助けて欲しいと巡らせたソウレイの視線を受け止めて、銀髪の青年が微笑む。
「例の方ならばぜひ我が家にお招きしましょう」
それが助け舟なのか泥舟なのか。判断できる余裕はソウレイにはなく、とにかく頷くことしかできなかった。
が。
(泥舟だったかな……)
見上げた先に城しか見当たらないことを認めたくなくて、ソウレイは意識を過去にやる。過去といってもほんの数分前だが。
王都の中心部に向かって迷いなく進む銀髪のふたりに不安感しか無かったソウレイだが、城下を過ぎ家族街も通り過ぎて城しか見えなくなったあたりから記憶がない。
記憶は無くとも腰掛けた毛皮のしなやかさや温もりは、否応なくソウレイの意識を刺激する。
「乗り心地が悪くはありませんか」
「いえ……たいへん、よろしゅうございます」
気遣う大公の声に応えるのは、もはや反射の成せる技。半ば意識を飛ばし気味のソウレイを背に乗せて、銀の毛皮の天狼が街を行く。
招待にソウレイが頷くが早いか、天狼に姿を変えた大公は彼女を背に乗せた。乗るまで動かない、とばかりに地に伏せる高貴な方の姿にソウレイが耐えかねたとも言える。
「ふふ、王でさえ兄上の背には乗れないんですよ」
「うえっ!」
銀髪の青年の追撃をまともに食らったソウレイの背後で天狼の尾がふさふさと揺れる。
「はじめては貴女に、と思っておりましたから」
人のなりであったならば見惚れるような顔を染めていただろう。その成熟した色香を思えば、今ばかりは大公が天狼の姿で良かったと安堵するソウレイだが。
「あの、大公と私はどこかでお会いしたことが……?」
過去に会ったことがあるような大公の物言いが、遠のきたがる意識を押し退けて引っかかる。
ソウレイが王都に来るのは生まれて初めて。過保護な父親が腰を痛めさえしなければ、生涯を国の外れの魔物牧場で過ごしていたかもしれない。
(田舎は人の出入りが少ないからみんな顔見知り。でもこんな美丈夫、会ったことない。若いときに会ってたとしても、ひと目で見惚れる自信がある)
弟である青年も見目麗しい。歳の近いだろう美丈夫は言わずもがな。
つまりソウレイが彼と顔見知りであるはずはないのだけれど。
答えを求める問いかけは、青年の微笑で包まれた。
「そういった話も含めて、我が家でゆっくり致しましょう。ね、お義姉様」
「いま、なにかおかしな呼び方を……?」
ソウレイが眉を寄せる間は無い。
王城をぐるりと囲む広い、あまりにも広大な庭園と宮殿がソウレイの前に聳えていた。
そして。
「スコルの大切な方が見つかったって!?」
「さすがはうちの子! 探しに出かけたその脚で見つけて帰るなんて!」
宮殿から飛び出してきた高齢の男女が、叫んでいる言葉がソウレイを圧倒する。
「はい、父上、母上! とうとう我が生涯の主人を見つけました!」
目の前、というか尻の下に敷いている天狼からの言葉が止めを刺して、ソウレイはようやく意識を飛ばすことに成功した。
※※※
葉擦れの音を聞きながら花のじゅうたんに寝転んでいると、木漏れ日に温まったソウレイのほほをそよ風がやさしく撫でていく。
森の深く、キンポウゲの花が咲き乱れる野原は幼いころからソウレイのお気に入りの場所。
目を閉じて、深く息を吸った。さわやかな森の香りを胸いっぱいに吸い込む心地良さに、ソウレイはこれが遠い記憶だと気がついた。
(まだ少女だったころの思い出だ……そう、このあと)
「クゥン」
ちいさな、ちいさな鳴き声が風に運ばれて幼いソウレイの耳に届く。見渡して、湿った木陰にちいさな犬型の魔物の子を見つけた。
とっさにあたりを見回したのは、魔物の調教をしていた父の教えで子のそばには親がいると言い聞かせられていたから。
けれどあたりはしんと静かで、無害なリスが木の枝を渡るだけ。
「あなた……怪我してるの?」
「グゥルルル……」
そうっと近寄ったソウレイに唸りはするけれど、子犬は逃げない。逃げるそぶりも見せられないほど弱っていると気づいて、ソウレイは恐る恐る子犬に手を伸ばす。
噛みつく気力も無い子犬は、ソウレイの腕にすっぽりおさまった。
「……あったかい」
弱っていた子犬を連れ帰り、親に隠れて世話をした。一生懸命に世話するうち、懐いたと思っていた子犬はふらりと姿を消してしまった。
いつかまた会えたとき、あの子が離れたく無いと思ってくれるような立派な魔物調教師になるのだと決意してから三十年も経つのだと、浮上しかけた意識のなかでソウレイは感慨を覚える。
(あの子犬、どんな魔物になったかな……)
記憶のなかの銀の毛皮を思い出していると。
ぴちゃり。熱いくらいの温かさを持った薄い舌がソウレイの頬を舐めた。
「もう、オルトったらやめてよ……」
寝ぼけながら言った途端、「ガゥウウウッ」という唸り声と共に殺気に包まれてソウレイは飛び起きる。
「な、なに!? え、こ、大公さま!?」
目の前で唸っているのは牙を剥き出しにした大公だった。
銀髪灰青眼の美丈夫のなりをして、魔物めいた牙を剥き出しにした大公だ。なまじ見目麗しいだけに怒気を露わにしたその姿はぞっとするほど恐ろしい。
けれどソウレイはその牙を見て反射的に声を放つ。
「伏せ!」
ぺたん、と美丈夫が床に伏せた。
長い手足を折り曲げて腹ばいになるその不恰好な姿を自分が取らせたのだと知って、ソウレイは顔面蒼白になる。
衣擦れの音にハッと顔をあげて、部屋の入り口に立つ老紳士とドレス姿の妙齢のご婦人に気がついた。
(見られた!)
不敬罪、打ち首、一族郎党皆殺し。
頭をよぎった未来を打ち砕いたのは、明るい喜びに満ちた声だった。
「あらあらまあまあ! なんて腕の良い調教師なのかしら。天狼を手名懐けるなんて!」
「さすがは我らが息子、スコルの選んだ女性だね」
「素敵ねえ、あなた」
「ああ、素晴らしいねえ、きみ」
うふふ、はははと微笑み合う老夫婦にソウレイはついていけない。
目を点にした彼女だが、銀髪の美丈夫ことスコルが上目遣いに見つめる視線に気がついて慌てて追加の指示を出した。
「よし!」
待ってました、と言わんばかりにすっくと立ち上がったスコルは、ソウレイの肩を掴んで顔を寄せる。
「オルトとは誰ですか! 貴女はすでに結婚をしておられるのですか!?」
「へっ!」
問いに応えるより先にソウレイは言いたいことがあった。
(近い! 顔が近い! そして顔が良い。すごく良い。整ってるだけじゃなくて、ほどよく年を重ねて生まれた目尻のしわが何とも言えない色気を醸し出してて、すごく好み……)
間近に迫る好みの顔に意識を持っていかれているソウレイをよそに、周囲は盛り上がりを見せる。
「なに、既婚者か!」
「そうですよね……こんなに魅力的な女性が何十年も未婚のままでいるはずがありません。俺が見つけ出すのに三十年もかけてしまったばっかりに……!」
目を見開く老紳士の横で美丈夫がうなだれる。
その肩を叩いたのは老婦人の扇子だ。
「まああ、だったら飼って貰えば良いのよ。夫の座は奪えなくとも、愛玩動物の座はきっとまだ空いているわ。そして生涯をかけて寄り添えばよろしいのよ!」