転売ヤーなんてすぃねばいいのに
芥川龍之介が文芸的な、余りに文芸的なで言ってそうなあるいは、太宰治がもの思う葦で言っていそうな2つの格言めいた物言いを残したいがためのこのエッセイは以下のとおり。
経済もクリエーションもそういうことではない。苦悩とかは関係ない。熱意や努力の賜物で結果は花のように咲いた瞬間である、それが市場に受け経済や作者を潤すこともあるだろう、そもそもが種々の可能性を勝算と見すえての発端がある。究極に自身のための行為であり他者の救済にもなりうることなのだ。
勢い、エネルギーは果てしない、それは中二病みたいなイノセントな衝動なんだ。
イノセントだし老獪な戦略の濃縮による賜物である、それは見知らぬ他者に出し抜かれたとて不変のエネルギーなのだ。創作は究極に純粋な気合いだ。
こういった、2つの格言は次のような流れにて生まれていった。
昨夜、ツイッターのタイムラインにはPS5の転売をめぐるツイートにあふれていた、その中心にあるツイートだったのかは不明だが、バズっているには違いない、あるツイートを見た途端に、なぜだか私自身のなかに、ムラムラとするものが湧き上がってしまい、それに促されるように一連の流れを作って意見を放った。
そこにはPS5の転売が、最高のゲーム機を届けるために動いたメーカーの努力をいかに踏みにじる背徳行為であるのか、ということを「葛藤」「苦悩」という言葉を駆使して批判が示されていたのである。私は、そのキーワードに疑問を覚えてしまった。それから、その批判への批判めいた文言を一連のツイートに乗せていった。その、一連の流れは、別段遺しておくに値するほどのものではないと思う代物にすぎないけれど、でも、先に述べたとおりをそのままに遺しておくというのも、味気ないばかりか無意味とすら思えてしまう表現だな、という感じもあって、その流れのすべてを記してしまおう、と考えたのだ。読者には、その2つの格言が、どこに配置され、どのように全体が流れ結末を迎えるか、を見てくれればなと思う。
以下、ツイートの写し。
その昔ケータイはただだった話と同じ構造です。
PSの価格は企業努力ではなく客寄せです、勘違いなさらぬように。
最高のゲーム機を届けたい一心なら端から50万円で発売します。
経済もクリエーションもそういうことではない。苦悩とかは関係ない。熱意や努力の賜物で結果は花のように咲いた瞬間である、それが市場に受け経済や作者を潤すこともあるだろう、そもそもが種々の可能性を勝算と見すえての発端がある。究極に自身のための行為であり他者の救済にもなりうることなのだ。
私はいま何に苛ついて真面目なことを言いはなったのでしょう?
確かに何かにいらついてたかもしれんが、ええこと言うた。
そうそう、創造性ってのはケチ臭い批判主義ではなくて、明るく開けた土壌だけに咲くものなんですよ、と言いたかったんだよ。
勢い、エネルギーは果てしない、それは中二病みたいなイノセントな衝動なんだ。
イノセントだし老獪な戦略の濃縮による賜物である、それは見知らぬ他者に出し抜かれたとて不変のエネルギーなのだ。創作は究極に純粋な気合いだ。
転売ヤー死ねとか言ってる奴って骨の髄からケチなんだろうね、そういう奴にゃあPS5を作り出す力はそもそもがございません。PS5を作り出す人々は元からケチ臭い意図なんてないんですよね、ケチ臭い意図とは別に、あ〜転売ヤー死んでくれねーかな〜って軽い気持ちで心中批判しているんだとは思いますよ。
メーカーは誰が売ろうが知ったこっちゃないよ。
メーカーがそれを阻止したい理由があるとするなら、転売ヤーのせいでユーザー個々人のソフトを購入する予算が大幅に削られていくということでしょうね。せっかく安くしたのにチクショーっていうね。でもさ、そういうこと含めての世の中って思いませんか?虫がたかるふうに批判する気になんてなれない。
まあでも、本来はゲーム機を数多く売るって目的じゃないだろうしそこは合ってるのかもしれないな。ゲーム機がユーザーの手元に届かないならいっぱい作りゃいいじゃんって安直に考えてしまいそうになるけど資本としてのハードは売れば売るだけ赤字だと考えられるわけで。やっぱ転売ヤー死ねは正しいか?
みたいな、ひとりミルクボーイ風の漫才。
このエッセイの目的は、創作についての心得を記しておきたいというものであり、PS5の制作者や転売についての批判の目的は何一つ含まれていない、おしまい。