少女の夢は不味すぎる
悪魔。
それは対価を渡せば願いを叶えてくれる存在。
対価の内容は非人道的な事もあるが、それだけの事を願ってしまったのだから仕方がないのだろう。
天使は決して願いを叶えてなどくれない。どんなに辛くとも。どんなに懇願しようとも。
ならば悪魔の方が余程良心的だ。
たとえ、代償として命を手放すことになろうとも。
梅雨の季節が訪れ、世界はジメジメとした空気に包まれていた。
そして少女の心の中にもまた、雨が降っている。
びしょ濡れになった高校の制服。それが全く気にならないのか、着替えようともせずに少女は父の書架へと足を踏み入れた。
ポタリポタリと零れ落ちた雫が床にシミを作る。
彼女は入り口から3番目の本棚で足を止め、一冊の本を手に取った。
パラパラとページを捲る。
間違いない。この本こそ……悪魔召喚の媒体。
父はオカルトマニアだった。きっとここにある……何故かそう確信していたのだ。
そして予想通り、ソレはここに存在していた。
ぎゅっと本を抱きしめる。
いかなる代償をも払う覚悟は決まっていた。
悪魔を呼ぶのに特別な呪文などいらない。ただ願えば良いのだ。そうすればその願いを成就することのできる悪魔が自動的に選ばれる。
「悪魔さん、私に夢を……あの日の夢を見させてください」
口にした願いは本の中に溶けて行き……目の前には一人の少年が立っていた。まるで、初めからそこにいたかのように。
「僕はナイトメア。100回だけ、好きな夢を見せてあげよう」
輝く銀髪に青い瞳。眉目秀麗な顔立ち。それは悪魔というよりむしろ……。
天使のようだった。
――おいナイトメア! いつまで昼寝してるつもりだ!
上司の怒鳴り声が煩い。悪魔なのに堕落してはいけないとは、いったいどういう了見なのか。
「……起きてるよ、アスモデウス」
悪魔なのに生真面目な彼は、かの有名な七つの大罪に名を連ねるエリート。そして、自分の……いわば飼い主だ。
毎日のように耳まで真っ赤にして激昂していて、ご苦労なことだと思う。
「主に向かってなんだその口の利き方は!? ……いや、今は良い。それよりお前、最近全く人間界に行っていないだろう?」
「んー、召喚されませんからね。良いんじゃないですか、誰も悩みがないってことで」
「そういうことではないわ!」
「いって!?」
突然、硬く重たい何かで殴られ、脳がぐわんと揺れる。遠退きそうになる意識を必死に掴み取り、自分を殴ったものを視認した。
「なんですか、その本は……」
アスモデウスが手に持っていたのは一冊の本。装飾こそないが真っ黒に彩られたその本は、とても禍々しいオーラを放っていた。……主が持って来るモノなど大抵ろくなものではない。ナイトメアは咄嗟に身構える。
だが、それに反してアスモデウスはニヤリと醜く口元を歪めた。
「人間に悩みがない? 違うな。人間は欲望に満ちている。なんせ、我々七つの大罪が人間の心を支配しているのだからな。奴らの欲は底なしだ」
「はあ、あくまでもアスモデウスなので、あんまり地位を鼻にかけてるとルシファー様の立場がなくなりますよ」
「……茶々を入れるな。そして何故他の大罪にはちゃんと様を付けるんだ。おかしいだろう」
コホン、と一つ咳払いをし、アスモデウスは話を続ける。
「何故昨今めっきり悪魔を召喚する者がいなくなったのか。それは悪魔召喚の術が失われつつあるからだ。そこで、私は召喚方法をまとめた本を造った。魔力が込めてあるから難しい事など何もない。完璧である」
ほら、やっぱり。ろくなものではなかった。そして、続く言葉も大体想像は付く。
「そこでお前には――」
「この本を人間界に置いて来いって言うんでしょ。はいはい、分かってますよ。何百年の付き合いだと思ってるんですか」
その言葉を聞き、アスモデウスは満足げに笑った。……この人は、いや悪魔は。時々とても綺麗な顔で笑うからずるい。
ナイトメアは本を受け取り、漆黒の翼を広げ羽ばたいた。
それが、数千年前のことである。
それから悪魔たちは数多の人間たちと契約を交わし、人類史を滅亡あるいは繁栄させてきた。願いと引き換えに過剰な代償を奪い取りながら。
100回だけ好きな夢をいつでも好きな時に見せることが出来る悪魔ナイトメア。
伊東芽衣子はそんな悪魔の召喚に成功した。
「さあ、君の見たい夢を聞こうか。お代は100回見終わった後で構わないよ。後払い制だからね」
夢の内容など考えるまでもない。芽衣子はぐっとナイトメアに顔を近づけた。
「今年の5月5日。私の誕生日……。この日を100回見せてください」
100回全部同じ夢。予想外の返答に思わず眉間に皺を寄せる。
「100回全部かい? それまたなんで?」
芽衣子はぎゅっと口を結ぶ。それから一呼吸おいて、語り始めた。
「あの日、私と彼氏の2人で遊園地に行きました。それが最期の思い出なんです」
最期の思い出。その言葉がどうも引っかかる。だが悪魔にとっては契約者の事情などさほど問題ではない。ナイトメアは芽衣子の頭に優しく触れた。
その瞬間。視界がぐにゃりと歪み、意識は夢の中へと誘われていく。それは揺り籠に抱かれるかのような心地だった。
「……変わった女」
100回全部同じ夢だなんて、気が狂ってるとしか言いようがない。夢の中でなら何にでもなれるのに。どんなユメでも叶うのに。
ナイトメアはそっと本を持ち、立ち去った。
星が見たい。
遊園地の帰り道。芽衣子はなんとなく、そんなことを口にした。ただなんとなくだったのだ。それが、まさか……。
「うん。良いよ」
彼氏の立木純はにっこりと優しく笑う。その笑顔が嬉しくて、芽衣子は純の腕に自分の腕を絡めた。
デートという特別な幸せ。学校という平凡な幸福。そんな日常がこれからもずっと続くと信じて疑わない。それこそが間違いだった。
星が良く見えると人気のスポット。……なのだが、この日は何故か自分たち以外に人影はなかった。
「貸切って感じで良いね!」
「うん……。そうだね」
明るく話す芽衣子とは対照的で、純の表情はとても暗かった。
だが、芽衣子はそんな事には気付かない。
「今日は楽しかったかい?」
「うん! とっても!」
芽衣子は無邪気に笑う。その笑顔がとても眩しかった。眩しすぎて……純の決意は揺らぎそうになる。
「今日はね、僕の命日になるんだ」
「え? どういうこと?」
彼は悲しそうに、そしてどこか寂しそうに俯く。けれど、その言葉の意味が芽衣子には全く分からなかった。いや、分かりたくなかったのだ。
「これ、僕からのプレゼントなんだけど……受け取ってもらえるかな?」
純はパーカーのポケットからケースを取り出す。それは小さなアクセサリーケース。芽衣子はそれを受け取るが、その蓋を開けることは出来なかった。
「きみのおばあ様はね、やっぱり僕の事が気に入らないみたいだ」
静かに歩みを進める。……この先は崖なのに。
「きみは高嶺の花だ。僕なんか相応しくないことは初めから分かってた。……だから幸せのまま、時計の針を止めるよ」
にっこりと笑う純。その悲しげな笑顔は月明かりに照らされ……彼は最期の一歩を踏み出した。
「待ってッ! なんで――ッ!」
必死に腕を伸ばす。けれど指先が彼の指に触れただけで、掴むことが出来なかった。
その瞬間、彼の唇が僅かに動く。
『ありがとう』
風に乗って届いた言葉は、芽衣子の心を叩き割った。
――なんで、そんなツラい夢を繰り返し見ている。
同じ夢が何回繰り返された頃だろう。決められた100回という数。その半分は過ぎていたと認識はしている。
ただ、何度もこの契約を交わしてきたナイトメアでさえ『回数』という感覚が分からなくなるほど、この夢は心を蝕み、抉った。夢を糧とするナイトメア。しかしこの夢はあまりにも……吐き気を催した。
だから、契約の履行中ではあるが、ナイトメアは彼女の夢の中に降り立った。
「なんで、そんなツラい夢を繰り返し見ている」
崖の下をじっと見る彼女の傍らに立ち、そっと問いかける。
芽衣子はボロボロの心で、狂った笑顔を浮かべた。
「これはね、あの人の復讐なの」
復讐。その単語を口の中で繰り返す。その言葉にはどこか違和感があったが、何をそうさせているのかは分からなかった。
「私の家は代々続く政治家一家なの。権力と金に溺れた強欲の塊。……そして彼の家は、私の家が食い物にしてしまった」
彼女はその詳細までは語らなかった。だが、それで構わない。ナイトメアにとっては人間界の事情などどうでもいいのだ。
「彼はいつも、家の事情なんて関係ないって言ってくれた。私たちが愛し合っていれば、それで良いんだって。……でもね、おばあ様はそんなささやかな恋も許さなかった。変だよね、加害者は私たちなのにさ……」
もう涙も枯れ果てたのか、彼女は乾いた瞳で、焦点の定まらない瞳で、ただ笑っていた。
ナイトメアと契約してから芽衣子は眠り続けている。
もはや植物状態。彼女はやがて病院へと移された。脳死と診断されるのも、そう遠くはないだろう。
ナイトメアは彼女の心が欲しい。
夢を100回見せた後は心だけ魔界へ連れ去り、自分の監獄に軟禁する。今までずっとそうしてきた。彼女にもそうするつもりだった。だが、彼女はあまりにも……。
「ほんと、変な女」
芽衣子の病室の前に立つ。アルストロメリアの鉢植えと、小さな宝箱を持って。
そっと病室のドアを開ける。
白い壁。白い天井。点滴の管に繋がれた彼女。
……きっと、自分は彼女に惚れている。
なんで? そんな質問は野暮だ。感情に理由など必要ない。ただ、強いて言うのなら。彼女が『変わり者』だったからだろう。今までの人間とは違う何かを感じていた。
「僕が、お前を幸せにしよう」
ナイトメアはそっと窓際に鉢植えを置く。自分と同じ名前の花を。小さな婚約指輪を添えて。