序章4 そのトンネルは…
「このトンネルは…」
「ただのトンネルだ」
俺は冷静に答えた。
だが、内心は穏やかではなかった。
──心霊スポットだとは言わないでおこう
白花を無駄に怖がらせてはいけない
「さっき松竹君が話してくれた、心霊スポットではないの?」
──俺の馬鹿野郎
「いや、ただのトンネルだ」
ただのトンネルのわけがない。
眼前で大口を開けて待ち構えているこのトンネルは、神居古潭トンネルという。
詳細は恐ろしくてよく調べてはいないが、つまりはそういう場所のようだ。
本来ならばホラー嫌いの人間は気安く近寄ってはいけない場所であるわけだが、今回ばかりは仕方がない。
先に続く道がこのルートしかないのだ。
「大丈夫?松竹君、貴方、顔色が悪いわ」
「だ、大丈夫だ。何も問題はない」
本来なら絶対に、絶対に、入りたくはないが仕方がない。
蛇紋岩地帯に通された、木々の枝に覆われた曰くのトンネル。
トンネル自体はコンクリートでしっかりと補強されてはいるが、上部は年季を感じる赤銅色の煉瓦が積まれている。
薄くかびを纏わせた暗灰色の口内を曝け出す様は、ホラー嫌いには刺激が強過ぎる。
無風状態のためトンネルの呼吸は感じないが、静寂が逆に俺の恐怖を掻き立てていく。
──覚悟を決めろ、松竹 凱
背筋を行ったり来たりしている冷たいものを追い払うように俺は拳を強く握りしめた。
そして、スマホを取り出すと懐中電灯機能を起動する。
その時だった。
白花がやけにはっきりとした声で告げた。
「誰か呼んでいるわ」
「やめてくれ…」
彼女の発言を悪い冗談だと流そうとしたわけではない。
彼女の発言を事実であると認めたくなかっただけだ。
もし、それが彼女にとっての事実であれば、俺はとてつもなく恐ろしい。
俺には誰かが呼ぶ声など、一切聞こえなかったのだから。
俺の訴えに白花は小さく首を傾げる。
「聞こえるのよ」
仕草とは裏腹に、確信に満ちた彼女の声。
俺は冷や汗が自分のこめかみを伝うのを感じた。
「……悪いが、俺には白花以外の声は聞こえていない」
今の状態が危険であるという意味を込めて、俺は彼女に俺にとっての事実を伝える。
そこでようやく白花も自分の身に起こっている違和感に気が付いたらしい。
切り揃えられた前髪の奥で、不安気に眉を顰めた。
「貴方には、聞こえないの?」
「ああ、聞こえない。だが、白花、冷静でいてくれ。白花には何が聞こえるのか、俺に教えてほしい」
俺は出来るだけ白花を動揺させぬよう、普段通りに淡々と語りかける。
更に身を屈め白花に視線を合わせてみせた。
すると、白花は怯えたように彷徨わせていた視線を俺へと移し、凛と表情を引き締めて頷く。
「ええ、わかったわ」
白花はトンネルへと向き直ると、長い睫毛で縁取られた瞼をゆっくりと下ろし、彼女にしか聞こえていない声に耳を澄ました。
暫し完全な静寂に辺りは包まれる。
やがて、彼女は瞼を押し上げると俺の方へと向き直った。
その表情は不可解なものに対しての戸惑いの色が濃い。
「正直、声が何を言っているのか分からないわ。何人もの声がずっと何か呟いてるの。不思議なのは意味が分からない言葉だし、よく聞き取れないのに、何故かこの声達に呼ばれている気がしてならないところね」
なんとも奇妙な話である。
つまり、彼女は「おいで」とも「ようこそ」とも聞き取れない声に、招かれているような心地に陥っているわけだ。
「まぁ、このトンネル以外に行く宛もないからな。招かれなくともこちらから行く他ないのだが…」
白花に聞こえて俺には聞こえていないとなると、この先に導かれているのは白花だけの可能性が高い。
しかし、この曰く付きのトンネルの中へ、白花だけを送り込むなどあり得ない。
「松竹君はこんな怪しげな話を信じてくれるのね」
白花が苦笑しながら首を竦める。
どこか自嘲気味の彼女に俺は応えた。
「現実的な話ではないが、もう既にこの状況が現実的とは程遠いからな。白花の身に起こっていることを事実として捉えることに、何の抵抗も抱かない」
「そう、信じてくれるのね」
身に起こっている状況を俺に説明しているうちに、白花自身が不可解な衝動に捕らわれていたことを自覚したようだ。
ブレザーの胸ポケットから自分のスマホを取り出しながら白花は微笑む。
「私がおかしな行動をしたら直ぐに止めてほしいわ。今みたいに」
「わかった」
思わぬ出来事でお互い動揺はしたが、俺達はスマホのライトをトンネル内へと翳し、内部へと足を踏み入れることができた。
俺はウォークスルーのお化け屋敷を歩くのでさえ、友人の腕が頼りの人間だ。
普段ならこのような心霊スポットなど、目を開けて歩くことも満足にできないだろう。
しかし、このトンネル内においては不思議と冷静に足が進む。
トンネル特有のひんやりとした空気。
所々黒かびに侵され、斑らに壁や天井に浮かび上がる不気味な模様。
明かりの灯らない蛍光灯。
いかにもホラーな雰囲気にげんなりとはしているが、頭はやけにクリアだ。
俺と白花、二人分のスニーカーがアスファルトを掻く音だけが響くトンネル内に意識を張り巡らせ、異常や違和感がないか慎重に進む。
ふと、隣へと視線を移せば、白花もまた唇を固く結んだまま辺りを警戒するように歩を進めていた。
そのためだろう。
程なくして俺達はこのトンネルの違和感に気付いた。
「このトンネル、出口が見えないわ」
「どこかでカーブしているのか、下り坂になっている可能性があるな」
あくまで、俺の回答は現実的な可能性に限ったことだ。
そして、案の定。俺の予想はそこから更に100メートル程奥へ進んだ地点でまるで嘲笑うかのように、実に盛大に裏切られた。
トンネルの壁の質感が変わったのだ。
スマホのから放たれる白い照明の光を薄ぼんやりと反射していた灰色のコンクリートの壁が、徐々に黒い岩壁へと変化していく。
「某夢のテーマパーク並みの巧みな景色の移り様だわ」
某夢とイマジネーションの国は未経験なので何ともコメントしづらいが、彼女が言わんとしていることは何となく分かる。
現実世界の建造物から自然にできた洞穴へと移行していく様は、不自然である筈なのにそう感じさせない。
細やかだったコンクリートの隆起が段々と大きくなり、やがて洞穴の壁と同じ黒色の岩が混ざっていく。
そして、完全な岩肌へと変化していくのだ。
人工物と自然が不可解に融合し合う空間。
いくら心霊スポットとはいえ、神居古潭トンネルは本来このようなトンネルではない。
俺達はどちらからとでもなく顔を見合わせた。
「俺、ここから無事に帰れたら、白花と某夢の国に行くんだ」
「デートのお誘いは別にいいけど、変なフラグまで立てないでちょうだい」
──デートのお誘いはいいのか
それならば、今度真面目に誘ってみようか
「ほら、先に進みましょう」
ふい、と俺から視線を外した白花は、長い黒髪を揺らしながら先導をきって歩き始める。
華麗な足捌きで足場の悪い地面をいとも簡単に進んでいく白花の後を、俺も躓かないよう注意を払いながら歩いていく。
壁ばかりに気を取られていたが、地面も滑らかなアスファルトの路面から、薄く剥離した岩の欠片が散らばる黒い地面へと変わっていた。
歩いていると時折、スニーカーの先に岩盤から剥がれた欠片が当たり、蹴り飛ばされたそれらがカラカラと回る音が無音の世界に奇妙な彩りを添える。
一本道の洞穴内。
暫く歩くと俺達はその終焉に辿り着いた。
薄緑に光る洞窟の先に、出口なのかと期待しながら歩みを進めた俺達が行き着いた場所は、巨大な空間だった。
例えるならば、一般的な学校の体育館程。
行き止まりの空間に俺達は絶望感を抱く前よりも、目の前に突如として広がった幻想的な景色に息を飲んだ。
「これは、ヒカリゴケと呼ばれるものかしら」
濡れて黒羽色に光る岩肌の所々から柔らかな緑色の光を零す苔類に近付きながら、白花が俺に尋ねてくる。
「ヒカリゴケもあるし、違うものもある」
本来、ヒカリゴケの群生地は道東に限られていた筈だが、その驚きとはまた別の驚きを俺は告げた。
「後、翡翠の鉱脈があるな」
「ヒスイ!?」
ここで白花が今までにないくらい嬉々とした表情を俺へと向けた。
アーモンド型の両眼が普段以上に輝きを増し、キラキラと瞬きを繰り返しながら俺を凝視してくる。
「………」
熱っぽい視線に圧倒され、俺が口を半開きにしたまま何の言葉も返せないでいると、我に返った白花は気まずそうに咳払いをしてみせた。
「そ、それで、翡翠は暗闇で光る鉱石なのかしら?」
宝石大好き女子、白花がそわそわとこちらに目配せを送りながら問い掛けてくる。
俺はヒカリゴケに混じり、岩盤に幾重にも帯状に走る淡い緑を放つ鉱物へと目を凝らした。
近付けたスマホのライトを浴びてゆらゆらと潤った輝きを放つ美しい翠緑は、翡翠で間違いはない。
「神居古潭は古くから翡翠が採掘される地だが、本来蛍光を放つ翡翠は新潟で僅かに採れる程度だ」
「……松竹君の知識が、最早一般高校生のそれを超えているのは置いておくとして、この場所がとにかくあり得ない場所であることは理解したわ」
「そうだな、この空間が世に知れたらあらゆる方面で大発見かもしれないな」
「でしょうね」
横で俺に倣って翡翠の輝きをスマホライトで堪能していた白花は、名残惜しそうに岩壁から離れる。
「もういいのか?」
「……お気遣いなく。それに、さっきから聞こえている声も気になるの」
例の白花にしか聞こえない謎の呼び声。
彼女は特に話題には出さなかったが、声はあの後も絶えることなく白花な耳に届いていたらしい。
「この空間に入ってから声がよりはっきりしたのだけれど、人影は…ないわよね」
辺りをライトで照らす白花に続き、俺も辺りを照らしてみる。
すると、空間の奥の方に何やら人工物のような影が見えた。
「奥に何かあるようだな。石碑か塚か、ここからではよく分からないが」
「近付いてみましょう」
石碑のように見えた物体は、空間の丁度中心部に置かれていた。
俺と白花はゆっくりと佇む影へと近付いてみる。
「これだけ…?」
白花が落胆した声を上げた。
結果、俺達が発見した物は石柱であった。
石柱といってもせいぜい俺の腰までの高さの丸みを帯びた石だ。
その周りに円を描くように大小様々な石が並べられている。
こぶし大から漬物石程の物まで、川原に転がっているようななんの変哲もない石が置かれ描かれた直径3メートル程の円が一つ。
「これは、縄文時代の地層から見つかる環状列石に似ているな」
「カンジョウ、レッセキ…?」
「所謂、ストーンサークルだ。何を目的として作られたのかは諸説あるが、儀式を行う際に使用されていたという説が一応、有力ではある」
「儀式…」
白花がぽつりと呟いた。
俺はその場に片膝を付くと、石柱を囲う石を観察しようとライトを当てた。
川底で磨かれた滑らかな砂岩。明らかにこの洞窟の岩ではない。
その石の表面には何やら不可思議な模様が幾つも描かれていた。
本来土砂に埋没した状態で発見される環状列石に、絵文字のようにも見える謎の模様。
この空間の意図する事が分からず、俺は首を傾げる。
──これは、最早俺が知る史跡とは異なる意義と目的により作られたものなのかもしれない
──そう、例えば……
俺の隣でゆらり、と白花が動いた。
「白花?」
思わず白花へと伸ばしかけた手は、彼女の細い指を掠めることしかできない。
ただ、視線だけはスローモーションのように、ストーンサークルの中へと踏み込む白花の姿をはっきりと捉えていた。
彼女の肩から鞄が滑り落ち、地面に鈍い音を立てて落ちる。
流れるような黒髪が優雅に靡いた。
見開いた俺の目に、白花が何やら口元を小さく動かす様子が映り込む。
「……呼んでいるわ」
一瞬遅れて彼女の無機質な声が脳内にはっきりと響き渡った。
「──駄目だ、しらは…」
──白花っ
俺が呼び止める間もなく、白花の身体がストーンサークルの内側へと収まる。
その瞬間──
緑の閃光が辺りを駆け抜けた。
その光の色に俺は戦慄を覚える。
朝露に濡れた深緑のように濡れた輝きを持つ光は、岩壁に走っていた翡翠の鉱脈と全く同じものだった。
まるで壁から溶け出した翡翠を、ストーンサークルが吸い上げているかのような光景は美しくあるが、何かの儀式めいた雰囲気を感じさせる。
──そうだ、これは儀式だ
白花をこの世界から連れ攫うための儀式なのだ
俺の確信を証明するかのように、円形状に並べられた石に彫り込まれた模様に沿って、翠緑の光が注ぎ込まれていく。
「白花!こっちに戻れ!!」
俺はあらん限りの声を張り上げた。
白花の身体がびくり、と震え、ゆっくりと此方を振り返る。
虚ろだった彼女の黒水晶の瞳に光が宿り、不安の色を湛えた。
「松竹君…っ」
くしゃりと白花の顔が歪む。
今にも泣き出しそうな表情のまま此方へ駆け寄ろうとする白花に、俺は両手を伸ばした。
白花も俺と同様にめいいっぱいに腕を伸ばす。
だが、俺達の手が触れ合うことはなかった。
白花の指先が強張るように曲がり、彼女の表情が恐怖に染まると同時に、円形状に置かれていた石の全てから緑の陽炎が勢いよく噴き出した。
「松竹君っっ!!」
白花が悲鳴を上げた。
まるで後方から何者かに引き摺られているように、白花の身体が引き離されていく。
俺は自分自身もストーンサークルの中へと踏み込もうと立ち上がった。
──白花が連れていかれてしまう
俺は無我夢中で暗闇で輝く翠緑の陽炎へと腕を突き入れようとした。
しかし、その行動を咎めるかの如く、今度は辺りの空間がゆらゆらと揺らめき始める。
そして、みるみるうちに岩盤の世界は融解し、俺達の四方に青空と深緑の木々に覆われた神居古潭の景色が現れた。
──若葉色の旧駅舎…っ
岩盤の壁が崩れた先に広がる見覚えのある景色に、俺は思わず動きを止めた。
今、俺達がいる位置は小さな橋を渡った先。丁度サイクリングロードの上である。
実際はその程度しか移動していなかったのか、はたまた白花の誘拐を邪魔する俺の気を逸らそうと幻を見せているだけなのか、真実は定かではない。
ただ眼前に広がる神居古潭の景色はまるで曇った眼鏡を掛けたかのようにぼやけて見えることから、向こう側と此方側には何らかの境界線が引かれていることは確かだ。
すると、バリケードの前に一人の人物が現れた。
「松竹君!!白花さん!!」
薄氷を透かして覗き込んだ世界のように揺らめきぼやけた空間で、俺達の名を必死に呼ぶ人影。
俺には彼が何者なのか、すぐに察することができた。
彼は担任の館先生だ。
生徒達にも好かれている、穏やかな初老の男性教員。
下校時間になると窓から見える夕日を眺めにこっそり教室へ訪れる、この温和な先生が俺は好きだった。
「先生!!」
俺が思わず館先生へと呼び掛けると、何か感じ取ったのか彼は動くのを止め、此方へ向けて真っ直ぐに視線を向けた。
後方に、彼の他にも幾人かの人影が見えることから、複数の引率の教員達で俺達を探しているようだ。
──もしかしたら、戻れるかもしれない
脱出の希望が湧き上がってきた俺の耳に、白花の声が届いた。
「貴方は戻るのよ!松竹君!!」
その我に返り、慌てて白花の方を見れば、彼女の姿は既に陽炎に包まれ、最早はっきりと姿を捉えることのできない状況に陥っていた。
このまま、何もしなければ俺は元の世界に戻れるだろう。
──だが、白花は?
白花はどこへ行ってしまうのだろう?
暗示のようなものまで掛けて、連れ去っていくような相手だ。
連れて行かれた先でどのような扱いを受けるか、想像に容易い。
彼女は自分に戻れと言ったが、その前に見せた恐怖で満たされて泣き出しそうな表情が彼女の本心である。
恐怖に震える人を一人にするわけにはいかない。
それが自分の好きな人なら尚更だ。
もし、このまま白花を追わなかったとして、その後悔はこれから一生付いて回る。
──ならば、決まっている
必死に自分達を探す恩師の心中を察すると、心苦しい。
しかし、俺は今まで暮らしていた世界へ踵を返した。
そして、薄れゆく陽炎の残骸へと駆け込む。
「白花!!」
──独りになんてするものかっ
燻っていた緑の陽炎に無理矢理手を突っ込めば、とてつもなく強い力が俺を引き摺る。
俺が陽炎の中に吸い込まれるのは一瞬の出来事だった。
だが、襲った衝撃と痛み。
俺は一生忘れることはないだろう。
陽炎に触れた指先から腕、肩、そして顔に全身と、俺を襲ったのは壮絶な「痛み」であった。
──俺は、死ぬのかもしれない
死というどこか遠くに感じていた存在に肩を叩かれた刹那、俺に想像を絶する恐怖が襲い掛かる。
この日、俺と白花はこの世界から忽然と姿を消したのだ。
序章はこれで終わりです。
次回からようやく異世界のお話に入っていきます。
神居古潭の描写を少し変えました。(2019.6.3)