第8章 墓守は聖者の行進に怯まない
カムーコタ寺院、ドザノーヴァ大聖堂。
聖人ドーザの名を由来に持つこの大聖堂は、奥行き200mという巨大な空間の至る箇所に名だたる芸術家達が残した、美しい彫刻や壁画を見ることができる。
薄暗い聖堂内を照らすのはステンドグラスの窓と蝋燭の炎のみ。
それらが、白い大理石の彫刻や金細工の装飾を柔らかく照らし出し、大聖堂内を神聖で厳かな空気で満たしていた。
特に目を見張るのは司祭達が説法を説く教壇付近。
大聖堂の奥に描かれた黄金色に輝く世界樹のステンドグラス。
そして、その遥か上方。ドーム状の天井から雲を裂いたように神々しく降り注ぐ陽光である。
奥に黄金がひしめいているかのようにゆらゆらと光揺蕩うステンドグラスと、天から斜めに降る光の粒子を背景に、何も知らない状態の俺が司祭達からの説教を受ければ、もしかすると教えを信じてみたいと思うかもしれない。
不覚にもそのように感じてしまう程、神々しさと荘厳さを兼ね揃えた、この美しい建造物は心を打つ物があった。
だが、俺達が大聖堂へと足を踏み入れた時、そこは既に屍人達で溢れ、阿鼻叫喚の地獄絵図のような光景へと変わり果てていた。
俺達よりも先に大聖堂に辿り着いた屍人達は先程俺で練習していた時以上に生き生きとした様子で、悲鳴を上げ逃げ惑う人々を追い回していた。
彼らは床を滑るように移動しているのだが、その速さは人が走るスピードに決して劣ってはいない。
──セ◯ウェイにでも乗ってるのか?
あまりにも滑らかな走行を見せる屍人達に思わず見惚れていると、俺の隣に立っていたプロスペローがそわ、と身体を揺らした。
どうやら彼も早いところエキサイトに混ざりたいようだ。
ならば、俺は早急に彼に聖衣を返してお別れをしなければならない。
俺は再びプロスペローの手を引きながら、混沌とした大聖堂の中へと足を踏み入れた。
とりあえず入り口の方へと歩いて行きながら、隠れることができそうな物陰を探してみる。
その間、この世界の人々、もとい参拝者の方々と何人か出会えたのだが、皆、悲鳴を上げて逃げ出したりその場にへたり込んでしまった。
まぁ、上手く変装できているようで何よりではある。
逃げ惑う人々を更に追撃しようと前のめり気味なプロスペローを宥めながら、俺は歩き続けた。
そんな中、周りを見渡した俺はふとある事に気が付く。
この場にいる参拝者達は皆、イクシオやヴァローナさん、そして屍人達と同じようなローブを着込み、フードを目深に被っている。
そういえば、先程戦った教会関係者であろう女性もフードを被っていた。
あのローブを纏う服装というのはきっとワミヤート族特有の装いで、教会に入る際には参拝者や教会関係者のようにフードを被るのだろう。
──学ラン姿ではやはり目立ってしまうだろうか?いや、しかし、こんなにもパニック状態になっていれば、案外大丈夫かもしれない。
この聖衣も幾ら利便性が高いといっても、本来は教皇にしか着ることの許されない代物だ。このまま外を歩けば人々の目に付くことは必至である。
そう考え事をしながら歩いていた俺は完全に油断していた。
「どうかお眠りください!教皇様!」
突如叫びが上がった。
途端、背中に熱風を浴び、俺の視界が赤く染まる。
聖衣の炎耐性が発動したことで、ドライヤーの温風が吹きかけられた程度の影響しか受けなかったのが、不幸中の幸いだった。
──というか、火気は駄目だろ。文化財が燃える…っ
勿体ないだろっ
俺は炎による攻撃を止めようと慌てて後ろを振り返る。
そこには白いローブを着た教会関係者の男が、此方へと向けた両手から炎を放つ姿があった。
はためくローブの袖から覗く男の両手首には、赤い石が嵌め込まれたバングルが見える。
──あれをどうにかするしかないのか…
炎に炙られながら俺が一歩男の方へと足を踏み出すと、彼はヒッと喉から引き攣った悲鳴を漏らして後ずさってしまった。
当然といえば当然の反応ではある。教会関係者と言えど、屍人と闘う経験など滅多にないはずだ。さぞかし怖かろう。
──だが、どうしたものか。下手にバングルを奪おうとするのは、周りの物に引火しそうだし…
俺達のいる通路の両端には礼拝用の木製の椅子が隙間なく並べられている。
もし、これらに火が着いたら大変な事になる。
その時、手詰まりとなっている俺の隣で大人しく成り行きを見守っていたプロスペローが、突然男の方へ近付いていった。
彼の羽織っいるローブもマントと同じく防火機能がついているらしく、プロスペローも炎に包まれても何のダメージも受けないようだ。
涼しい顔で炎の中を滑りながら男の前に立ったプロスペローは、炎を放ちながらその場に固まってしまった男を見下ろす。
そして、彼は自らの腹部の辺りで干からびた手を合わせ、指先を真っ直ぐに正面へと向けた。
「きょ、教皇様…っ」
男は呆然とした表情で目の前の屍人を見つめ、力なく手を下ろす。
戦意を喪失した彼の両手は、最早炎を放つことはなさそうだ。
一体何をしたのかと疑問に思っていると、男はプロスペローの眼前で膝を付き頭を垂れた。そして、彼もまたプロスペローと同じポーズをとってみせる。
どうやらこの動作は世界樹信仰の祈りの姿のようだ。
男は突如として目覚めてしまった教皇達を眠らせようとしていただけの、真面目な信者であるようだ。
──ナイスな対応だ。グッジョブ、プロスペロー
俺がさり気なく拳を握り小さくガッツポーズを決めていると、プロスペローも此方を振り返り親指を立てて見せてきた。
そして、彼は完全に戦意喪失となった男の耳元に顔を寄せ、ボソボソと何やら囁き始める。
おそらく、呪言が俺の耳へと入らぬように気を遣ってくれたのだろう。
プロスペローの口内から青く光る文字が溢れ、男の外耳へと吸い込まれるように入っていく。
文字が鼓膜に触れ爆ぜるたびに、男の身体が痙攣しながら跳ねた。
「……頼むから、やり過ぎないでくれ」
半開きの口元から涎を垂らし、虚空を見つめる両眼からは 涙がとめどなく流れ続けている男の様子に既視感を覚えた俺は、慌ててプロスペローの肩に手をかけ男から引き離す。
「まだお喋りし足りない」というように、どこかムスッとした様子のプロスペローに俺は首を横に振った。
「ありがとう、助かった。でも、やり過ぎはよくない」
しゅん、と項垂れるプロスペロー。
まぁ、人を傷つけてはいけないというイクシオの言いつけは守っているだろうから、この人が再起不能になるようなことはないだろう。
俺はプロスペローの肩を軽く叩いた。
「あまり落ち込まないでくれ。助かったのは本当のことだ」
俺はプロスペローを促しその場を後にした。
こうして、狂乱状態になっている大聖堂の内部を歩いていた俺達は、入り口付近の壁に沿って木でできた小屋のようなものが幾つも置かれているのを見つけた。
焦がした飴のように輝く磨き抜かれた三角屋根の小屋は、大人が二、三人ようやく入ることができる大きさで、手前側と奥側に一つずつ小さなドアが取り付けられている。
このようなものを実際に目にするのは初めてだが、何であるのかは知識として持っていた。
これは多分、告解室と呼ばれるものだ。
俺がいた世界でも洗礼後の罪を告白するための場として教会に設置している宗教があった。
告解室は内部を小さな穴を無数に開けたり布をかけた窓付の木の板で二分されており、片方に信者が入る。そして、もう片方に神父が入り、信者の罪の告白を聞くことができる箱だった筈だ。
海外のサスペンス物で何度か見たことがある。
もしや、いや、もしかしなくても、この告解室、マントの受け渡しとお別れにもってこいの場所なのでは。
そうと決まれば、すぐに決行だ。
俺は手近な告解室の扉に手をかけるとドアノブを手前に引いた。
重厚感のある質感にしては扉は薄く、予想以上に勢いよく開く。
意外な感覚に少々驚きながらも、俺は暗闇のなかを覗き目を凝らした。
「あ…」
そこには先客がいた。
長椅子と壁の隙間に蹲るような体勢で、此方を見上げる若い女性が一人、この世の終わりが来たような表情を浮かべている。
「お邪魔しました」と心の中で謝りながら扉を閉めかけたところ、女性が大きく口を開いた。
──叫ばれる!
俺は急いで黒瑪瑙を握っている方と反対の手で、女性の口を塞いだ。
「ん゛────っっ」
ぐもった悲鳴が俺の手の中で上がった。
いくら周りが狂乱状態とはいえ、ここで、騒ぎ立てられては誰かの目に留まってしまうかもしれない。
俺は罪悪感をかなぐり捨て、プロスペローを呼んだ。
「プロスペロー、頼む」
合図を送った直後、背後でガサガサと嗄れた声が聞こえる。
それと共に青く光る文字達が波に揺蕩うかのように流れながら告解室へと入り込み、俺と女性の間で次々と弾けた。
しゃぼん玉が爆ぜるように音もなく消えゆく文字とは裏腹に、俺の脳は鼓膜を破り外へと流れ出すかのような衝撃を受ける。
俺は手の中の黒瑪瑙を握り締め、プロスペローの放つ呪言に耐えた。
一方、何の防衛手段を持っていない女性の方は呪言の影響を直接受け、ぐるりと白目を剥いた後、がくりと気を失った。
俺は女性の口から手を離すと、後ろに仰け反るように落ちていく彼女の頭を支え、そっと長椅子の上へと置いた。
「ありがとう。このまま反対側も見てみよう」
俺は告解室の扉を開けたまま、壁側に設置してある扉の方へと回り込む。
こうしておけば、もし告解室に隠れようとする者が他にいたとしても、わざわざこの告解室を選ぶことはないだろう。
幸い次に開けた扉には誰もいなかった。
「よし、プロスペローは先に入ってくれ」
俺はプロスペローを促し告解室に入ってもらうと、自分もその中へと入り扉を閉めた。
自動的に視界が暗視モードへと切り替わったため、視覚に影響はない。
俺はマントを脱ぐとプロスペローへと手渡した。
「ここで別れよう。マント貸してくれてありがとう。こっちのスカーフは、もう少し貸してくれ。絶対に返しに戻ってくるから」
俺が礼を言うとプロスペローは俺の右目を覆うスカーフに手を当て、首を横に振る。
「こっちはあげる」
彼の仕草からどうやらそのように伝えているようだ。
「くれるのか?」
頷くプロスペロー。
「ありがとう」
本当に彼は優しい人だ。
死者が動いているというホラー嫌いの俺的には絶対受け付けられない存在であったというのに、今では別れることがとても辛い。
だが、彼とはここでお別れだ。
「じゃあな、元気でやってくれ」
プロスペローに別れを告げた俺は、長椅子から立ち上がろうとした。
しかし、その手をプロスペローが掴む。
かさついた死者の手の感覚に思わず動きを止めた俺を、彼はそのまま自分の方へと引き寄せた。
バランスを崩した俺が倒れ込んだ先には当然プロスペローがいる。
プロスペローに引き止められた俺は彼の胸の中で熱い抱擁を受けることとなった。
物凄い状況ではあるし、気恥ずかしさも湧き上がるが、呪言は唱えることができても言葉を話す事ができない彼が自分の気持ちを最大限に伝える方法はこれしかないのだ。
それに彼もまた俺のことを慕っていてくれていたことが分かって嬉しい。
恥じらいを捨てた俺もまた、プロスペローへ感謝と名残惜しさを伝えるため、彼の背中に両手を回し、しっかりと抱きしめ返した。
と、熱い抱擁を交わしている俺達が入っている告解室の扉が、突然勢い良く開いた。
反射的に振り向くと、そこには見覚えのある人物が立っていた。
彼女は先程俺とイクシオが一戦交えた、教会関係者の女性であった。
血濡れの白いローブではなく紺色の物を着ているところを見ると、あれから一度着替えに戻ったらしい。
──これが、女子力…
追跡の最中に着替える余裕も有しているとは、彼女こそが淑女の中の淑女なのかもしれない。
肩の上で無造作に切り揃えられた波打つ暗灰色の髪と、とろりと無気力に垂れた瑠璃色の目。
気怠げでミステリアスな雰囲気を醸し出す女性からは殺気どころか覇気さえ感じられず、先程凶暴な攻撃を仕掛けてきたものと同一人物であるとは信じ難い。
だが、あの時俺達に相対し、戦った相手は間違いなく彼女だ。
俺とプロスペローがお互いを抱きしめ合ったまま女性を見上げていると、彼女は薄く眼を細めて顔を顰めた後、何も言わずに扉を閉めた。
──絶対、何か誤解されたような気がする
再び訪れた暗闇の中で気まずくなった俺はプロスペローから離れ、そっと扉を開ける。
そこには女性が起立姿勢で微動だにせず立っていた。
彼女は薄目のまま俺に尋ねてくる。
「ゾンビとのイチャイチャ、終わった?」
やはり、彼女は俺が特殊な性癖の持ち主だと思い込んでしまったようだ。
俺はすぐさま弁解する。
「別に逢引をしていたわけではないんだが。彼とはここで別れを惜しんでいただけだ」
女性の顰めっ面が幾らか緩和した。
「そ。じゃあ、これあげる」
そう言いながら女性は白と黒の糸を結い合わせた紐に翡翠の勾玉を通した物を、俺の首に引っかけた。
「これはエッカというヌイ族の魔除けに、ジョモート族の魔除けを通したもの。貴方、屍人の呪言に耐性ないみたいだからあげる。その代わり──」
女性は俺の握り締めている俺の右手を指差す。
「その石は置いていった方がいい」
「え?」
俺は思わず声を上げた。
何故、彼女には俺が石棺から取り外した黒瑪瑙を持ち歩いていることがわかったのだろうか。
もしかして、これが墓守の勘というものなのだろうか。彼女は泥棒をしたかどうか見分ける能力があり、その能力が買われ教会で働いているのかもしれない。
などと俺が勝手に女性の設定を妄想していると、彼女は若干不思議そうな表情を浮かべた。
「私は見ての通り、ヌイの民」
「?」
突然の自己紹介に、俺も不思議に思いながら首を傾げる。
すると、何らかを察したらしい女性は一人頷いた後、自分の眼を指差した。
「ヌイ族は精霊や幽霊といった存在と繋がりが強い。私達は彼らを可視化することができる精霊眼を持って生まれる。ヌイ族の精霊眼は青い色が特徴。それはワミヤート族でも知ってるはず」
「あ、えーと。そーなんですね。すいません、無学なもので…」
黒板前の問題が解けず、塾の講師に問い詰められた時のことを思い出しながら、俺はしどろもどろに返事を返す。
俺が無表情ながら気まずそうに視線を泳がせていると、女性はじぃっと俺の顔を覗き込んできた。
「貴方、絶対ワミヤート族じゃない。一体、何者なの?」
「ええと…」
女性から先程のような殺意は感じられなくなったのは喜ばしきことだが、彼女は一応教会関係者。
あまり、自分の身のことは明かさない方が賢明だ。
冷や汗を流しながら固まっている俺に女性は小さく溜め息をついた。
「私を警戒するのは当然。仕方がない。でも、とにかく、そのエッカは精霊眼を持つヌイ族が身を守るために身に付けるお守り。ホントはエッカは女性用のお守りなんだけど、私が持ってたお守り、これと自分用しかなかったから…」
そう言って女性は右手首に巻いてあるモノトーンの結い紐を見せてくれた。彼女のエッカは勾玉の代わりに鮫の歯をチャームにしている。
エッカか。確か俺がいた世界でも北海道の先住民族であるアイヌ民族に、エカエカという同じようなお守り文化があった。お守りとして使用する際には腕に巻き、体調が悪い時は首から掛けるらしい。そう考えると確かに俺の場合は首から掛けていた方がいい。
そういえば、彼女が腰に下げている装飾刀も、蝦夷刀によく似ている。
カイソロンは何かしら俺の暮らしていた世界と似たような部分があるようだ。
「これは、本当は妹のために作ったもの。だけど、貴方にあげるから、その石の代わりに使って」
「あ、ありがとう。そんなに大切なものをくれて…」
俺は素直に礼を言う。
すると、女性は小さく笑みを浮かべた。だが、すぐに表情を引き締め、彼女はプロスペローへと指を向ける。
「私達の目は魔素の流れも見ることができる。その手に持っている石には盗難防止の追跡魔法がかかっている。この人達の装飾品にも」
「へぇ…」
間抜けな相槌を打つ俺の隣で、プロスペローは彼女の言葉に驚いたように身体を強張らせた後、しげしげと自分の指に嵌められた指輪を見つめた。
「だから、貴方がここから上手く逃げるなら、その石は彼に渡して行った方がいい」
「え?貴女にではなく?」
てっきり墓守である彼女に石を返すのかと思っていた俺は驚き尋ねる。
そんな俺に、女性は今度は腕に掛けていた臙脂色の布を肩に羽織らせた。
見ればそれは周りの人々が着込んでいるものと同じローブだった。
「これもあげる。寺院では原則ローブ着用だから。私のだから丈は少し足りないけど、色も地味だし目立たない。ないよりずっといい」
女性の軟化した態度とこれまでのやり取りで、俺もようやく彼女の意図に気が付く。
「このローブもとても有り難いんだが、もしかして、俺に付いて来ようとしているのか?」
俺の問い掛けに女性はあっさりと首を縦に振った。
「教会兵で墓守の私は、さっき貴方に殺された。ずっと守ると決めていた助祭の妹もいなくなった。私達を守ってくれていた司祭様ももういない。ついでに墓で寝ていた死体もいなくなった。仕事も守るものもなくなった。だから、もう、ここに用はない」
随分きっぱりと言い切られてしまった。
しかし、彼女は凄いな。
話を聞く分には、彼女は世界樹を信仰するためではなく、妹さんが不便な生活を強いられぬよう心配して自分も教会に籍を置いたということだ。
家族のためとは言え、考え方も価値観も異なる周囲の環境に違和感なく溶け込むには、苦労も多かっただろう。
だが、出会って間も無い不審者に付いて行こうとするのは、如何なものか。
「だからと言って…、俺は先程、貴女を殺しかけた奴なんだが。素性も知れた者ではないし…」
「そう。貴方は私を虫のように叩き潰した人。そして、地下墓所から扉を粉々に吹き飛ばして、ゾンビと一緒に出てきた謎だらけの人。でも、何故か敵を助けた上に交渉もボロボロだったし、世間知らずな妹に似ていてなんだか心配になった…」
──ああ、不甲斐ないコミュ障が、名前も知らない人を物凄く心配させていた…
女性に余計な気を遣わせてしまった気がした俺が申し訳なく思っていると、俺の隣から干からびた手が女性の方へと差し伸べられる。
見れば、プロスペローがうんうんと何度も首を上下に振っていた。
──友人にも激しく同意された…っ
女性は差し出された手を前に一瞬戸惑うような様子を見せたものの、プロスペローの手を取り固い握手を交わした。
「貴方、保護者だったの…」
女性の言葉にプロスペローは大きく頷く。
「そ。じゃあ、これからは私がその役目、引き受ける」
──俺の周りで勝手に親権が発生し、移動していく…
頷き合いながら繋いだ手を何度もシェイクしている2人へ、俺がじと、した眼差しを向けていると、やがて、女性が俺の方へと向き直った。
「私はジョット・コンルーシカ。もう一度人生をくれた、貴方の旅の力になりたい」
此方に手を差し出すジョットの手を俺も握り返す。
「さっきはお互い死ななくてよかった。俺はカイ・マツタケだ。それから、こっちはここで仲良くなったプロスペロー。保護者ではない。だが、俺はこの世界については全く知らないに等しいから、色々教えてくれると助かる」
ジョットは小さく笑うと、首を竦めた。
「分かった。これからよろしく」
ジョットと握手を交わした俺はその後、荷物の入れ替えを行った。
まず長い間握っていた黒瑪瑙をプロスペローへと渡す。
そして、学ランを脱いでリュックサックにしまうと、ジョットからもらったローブに腕を通した。そこでジョットが自分の荷物鞄からの濃紫の帯を取り出し、腰の位置で手早く締める。
後はフードを被りリュックサックを背負えば荷作り完了である。
ここで今度こそ、プロスペローとはお別れとなる。
俺は告解室の長椅子に腰掛けながら此方を見上げる友人へと向き直った。
「じゃあ、本当に色々ありがとう。元気でな」
アンデットに「元気で」も何もないが、彼には残された時間を出来るだけ楽しく過ごして欲しかった。
俺に続いて、ジョットもプロスペローへと歩み寄る。
「私も貴方には礼を言わないと。私は貴方達が必死で私のことを助けようとしてくれていたのを覚えている。貴方がカイに魔素を分けていなかったら、私はあの場所で死んでいた。貴方も私の命の恩人。ありがとう」
俺達の言葉にプロスペローは嬉しそうに身体を揺らしながら、うんうんと頷いていた。
こうして俺達三人は互いに別れを偲びつつも挨拶を済ませた。
そして、いよいよ別れの時。
フードを目深に被った俺とジョットは告解室の陰から飛び出すと、一気に屋外へと繋がる出入り口へと走り出す。
その後ろからはプロスペローの絶叫による特大の呪言が迫り、次々と弾けた。
敵のふりをして追い立ててくる優しき友人を振り返ることなく、俺達は走り続ける。
彼の別れの言葉が爆ぜる度に三半規管が揺さぶられ、ふらつきそうになったが何とか堪えて足を動かす。
「大丈夫?」
隣でジョットが一息も乱すことなく尋ねてきた。
「大丈夫だ…。妹さんのお守りは、効果抜群だな…」
俺が息を切らしながら応えると、彼女は口角を僅かに吊り上げて笑う。
「おっけー。じゃ、付いてきて。殺人的ジャンピング ニー・バットの子の所まで走るから」
──凄い覚え方されたな、イクシオ
「どうやって見つけるんだ…?」
「私の精霊眼は魔素の流れが見える。例え隠蔽の魔術を掛けていても全てが見える。あの子でしょ?ゾンビのボス」
──ヌイ族のその眼、チートなのでは?ワミヤート族が錬金術を躍起になって極めようとしていた理由が分かる気がする
俺の沈黙を無言の肯定と受け取ったのか、既に確信しているのか、ジョットは加速し前に出ると俺を先導し始めた。
いつのまにか、プロスペローの呪言は止んでいる。
俺はジョットの後を追いかけながら、背後を振り返った。
俺達が駆けて来た通路の中央に、プロスペローは静かに佇んでいる。
俺達を見送っくれているようだ。
──なんだろう。すごく寂しい
鼻の奥がつん、とする。
思わず鼻をすすった俺は、俺達を見送る友人から無理矢理視線を引き離し、ジョットの背中を真っ直ぐに見据えた。
大聖堂から外へと続く扉に近付くほど、気を失い床に倒れ伏す者達が増えていく。
ただ、失神した者達が踏まれぬよう屍人達が通路脇によけたのか、避難経路自体は確保されていた。
そのためか、今は扉付近は然程混雑はしていない。
俺達は三つある扉のうち、向かって左側の大きく開かれた真鍮の扉から外へと走り出る。
そこでジョットは足を止めた。
「見つけた」
彼女が力強く指差した先に広がる景色に、俺は目を見開く。
そこに広がっていたのは円形の巨大な広場であった。
粗く削り出された青白い大理石の石畳と雲一つない快晴の青空。
その壮大なコントラストに俺の足は自然と竦む。
円形の広場を取り囲むように周囲は教会や礼拝堂群が建ち並び、まるで一つの町のような景観を作り出していた。
──この神聖かつ、別世界な感じ。世界樹信仰に魅せられる人の気持ちも分かる
──目の前で、教皇の格好をした屍人達が、嬉々として信者達を追い回していなければの話だが…
「ちょっと、観光客してないで行くよ」
ジョットの呆れた声で我に返った俺だったが、間髪入れずに背中を小突かれる。
「も、申し訳ない…」
確かに目新しいものばかりではあるが、緊張感を失うのは良くない。
「貴方はゾンビ達と仲良しだから、倒れた人達が大丈夫なことを知ってる。けど、普通の人がこの光景を見たらどう思うのか、忘れたら駄目」
「すみません」
──しっかりした人だ
俺が頭を下げて反省の意を示すと、ようやく彼女は許してくれた。
しかし、確かに彼女の言う通りだ。
彼らが生きていると言っても、カムーコタ寺院の現状は惨状以外の何者でもない。
人々は突如として現れた教皇達の屍に襲われ絶望し、逃げ惑っている。
親と逸れた子供はその場に立ち竦み、声を上げて泣いている。
不幸にも屍人による呪いの唄を聴き、倒れ臥してしまった人々の顔は皆、恐怖に引き攣り苦悶に歪んでいた。
自分が逃げることに一杯一杯だった俺は、そこでようやく自分達が引き起こした騒動の深刻さを自覚することとなる。
──俺はこの人達にとって、厄災でしかない
──でも、俺はこの逃げ方に後悔はしていない。今は、教会側に俺の存在がばれるわけにはいかないのだ
「じゃ、行こうか。カイ」
先を歩くジョットの後ろに付いて、俺は狂乱した人々で溢れ返った広場を進んでいった。
逃げ惑う人々やそれを追い掛ける屍人達を避けながら、広場の中央へと歩いて行くと、美しく精巧な彫刻が施された噴水へと辿り着いた。
大樹に嫋やかに凭れ、柔和な笑みを浮かべた大理石でできた女性の像が噴水の中心で、此方を見下ろしている。
おそらく、彼女がカイソロンの創造主とされる女神、カイソロンディアだろう。
その噴水の周りを見渡せば、見慣れた人影を発見することができた。
燻んだ金髪の尻尾を深く被ったフードの隙間から垂らした少年。
彼はイクシオに違いない。
しかし、
「坊や、大丈夫よ。すぐにお兄様も貴方を見つけてくれますからね」
「う、うぇ…、兄様、にいさまぁ〜っ」
つぶらな瞳に大粒の涙を湛え、泣きじゃくっているのは、本当に俺が知るイクシオなのだろうか。
親切な御婦人に宥めてもらいながら「兄様」を待つ健気な美少年の存在に、ただただ戸惑う他ない。
そんな俺の肩にぽん、とジョットの手が置かれた。
「ほら、迎えに行ってあげて。『兄様』」
「え、えぇ…?」
思わず変な声を上げた俺の背を、ジョットは容赦なく押してくる。
と、イクシオの変貌ぶりに混乱している俺の方へ、幼気な美少年の淡い青色の瞳が此方へと向けられた。
途端、彼は愛らしい笑顔を咲かせ、俺の方へと駆け寄ってくる。
「兄様っ、兄様ぁっ、イクシオは心配しておりましたぁ〜っ」
両手を此方へと精一杯広げて、ぱたぱたと駆けてくる美少年。
ふわりと、吹いた風で彼のフードが後ろへと払われ、束ねた金髪がさらさらと後ろへと流れる。
先程、教会兵相手に飛び膝蹴りをキメた人物とは到底思えない無垢な笑み。
風が吹けばそのまま攫われてしまいそうな程に儚げな彼の様子に、俺も思わず両手を広げてしまった。
「兄様っ!」
「イクシオ!」
美少年イクシオは周囲を花畑にする勢いで、俺の懐へと飛び込んだ。
「う…っ」
途端に走る、腹への鈍い衝撃。
ずしりとした重い塊が俺の腹へとめり込み、俺の口から思わず呻き声が漏れる。
「ふ…」
──こいつ、今、笑ったぞ。わざとか。わざとなんだな
彼は正真正銘、イクシオだ
ぶりっ子しているがこいつはイクシオだ
皆さん!こいつが、屍人のボスです!
しかし流石、水晶の内骨格。100kgは有に超えているだろう彼のタックルは、凄まじいものだ。
本気で突進されたら、ただでは済まないだろう。
では、これ食らっても尚立ち上がったジョットの身体機能は一体どうなっているというのか。
何はともあれ…
「無事で良かった」
──俺が。
殺人タックルから生還した俺自身への言葉は、再会を喜ぶ兄が弟へと向けた言葉であると思われたようだ。
イクシオの面倒を見ていた御婦人がほっとした様子で此方へと歩み寄る。
「よかったわね、坊や。これも世界樹のお導きね」
「あの、弟をありがとうございます」
一応俺も設定に則り親切な御婦人に礼を言う。
「いいえ、いいえ。こんな時ですもの。気になさらないで。私も夫がこんな状態ですから、動くに動けなかっただけなのです」
御婦人が眉を下げ視線を送った先には、一人の男性が噴水の縁に凭れるかかるように気を失っていた。
「幸い少し気絶しているだけのようなのですが、私一人ではどうすることも…」
彼女の悲しみを湛えた微笑みを前に何も言えずにいると、隣でジョットが口を開いた。
「とにかく見つかって良かった。これで寺院から逃げられる」
と、俺の腕の中に収まっていたイクシオが、彼女の言葉を聞いてピクリと震える。
ゆっくりと顔を上げたイクシオは俺の隣に立っているジョットをその大きな両眼で捉えた瞬間、俺の懐から飛び出した。
そして、俺を背後に庇うように、俺とジョットの間で仁王立ちになる。
ジョットはフードを深く被り、目元を隠していたのだが、イクシオの視点からは彼女の顔を窺うことができたようだ。
身を低く落とし、睨みを効かせるイクシオを宥めようと、俺は彼の両肩を押さえる。
俺の方を振り返り混乱したように見上げるイクシオにゆっくりと首を横に振れば、いよいよ彼の頭上に大量の疑問符が浮かび上がった。
「シャーされた…」
「何でそんなに嬉しそうに言う」
──あんた、さっき殺人的ジャンピング ニー・バットの餌食になったのを忘れたのか?
──いや、しかし、理由は分かる
彼女にはイクシオが毛を逆立て威嚇してくる仔猫に見えているのだ。
俺にもそう見える。
そのようなことを本人に告げようものなら手酷い仕返しが待っているので、決して口にはしないが。
一方、胸元を押さえ、キュン死にしかけているジョットに何かしらの身の危険を感じたらしく、イクシオは無言で俺の方へと後退りした。
そんな俺達を眺めながら、御婦人が自らの片頬に手を添えて微笑む。
「あらあら、坊ちゃんはヤキモチ妬きねぇ」
「!!」
不名誉な言われようにイクシオは、バッと御婦人の方へと顔を向けたが、彼女の柔和な微笑みを前には敵うはずもなく、最終的には拗ねたように俺の背後へと隠れてしまった。
──心配してありがとう、イクシオ
お前は立派な相棒だ
ジョットはというとイクシオに警戒されていることなどお構いなしに、むしろ、それさえも悦へと昇華しているらしく、口元を緩めきっている。
そんな彼女へ、御婦人がふと声を掛けた。
「あ、それとねぇ、お嬢さん」
「はい?」
我に返ったジョットへ御婦人は困ったように溜息をつき、言葉を続ける。
「貴方達、ここから逃げるご予定?」
御婦人の質問にジョットだけではなく、俺やイクシオも各々眉を顰める。
「そのつもり。どうしたの?この先、何か起こっているの?」
御婦人は頰に手を当てたまま目を閉じると、静かに頷いた。
「ええ。実は私も先程夫と共にカムーコタ大橋まで向かったのだけれど、封鎖されてしまって通れなかったの」
「な、何故?緊急事態時は、一般信者達の避難が最優先のはず」
御婦人の発言にジョットが明らかな動揺を見せる。
彼女は一瞬カムーコタ寺院の方へと駆け出す勢いで振り返ったが、今の自分の立場を思い出したらしく、ぐ、と唇を噛み締め此方へと向き直った。
そういう俺も内心非常に焦っていた。
白花から送ってもらった地図を確認しながら打ち合わせを行った際、俺達もカムーコタ大橋から脱出する算段でいたのだ。
カムーコタ大橋は渓谷カムーコタに架かる唯一の橋だ。
他の地に向かうには、橋の手前にあるカムーコタ駅から魔鉱列車を使用するか、カムーコタ大橋から向こう岸に渡る他手段はない。
「じゃ、魔鉱列車は?」
「そちらも運行を見合わせているそうよ。だから、あの一帯は今、とても混雑しているはずよ」
「そんな…っ」
悲痛な声を上げるジョットの両手を、御婦人が落ち着かせるように握る。
「大丈夫、ここは世界樹のみもと。きっと我々の祈りも直ぐに聞き届けてくれることでしょう」
世界樹信仰の信者として彼女なりの気遣いなのだろう。
ここにいる三人、御婦人の言葉にはそれぞれ思うところはあったが、そこは素直に彼女の厚意を受け取る。
「そ、ね。少し元気が出た。ありがとうございます」
ジョットは口元を微かに緩め、御婦人へと微笑む。
──まぁ、白花もそのうち世界樹を歩かせる予定だし、そのうち本当に人類のピンチに駆けつける戦闘ロボのように颯爽と現れるかもしれないな
──ビジュアル的には怪獣側だが…
俺が御婦人の言葉を受けて脳内で世界樹を歩かせていると、唐突にイクシオが俺のローブの裾を引っ張ってきた。
彼の方を見れば、人差し指を立て上から下へと振り下ろす仕草をしてみせる。
指示を出されるまま、イクシオの傍にしゃがみ込んだ。
すると、彼は急いで俺が背負っているリュックサックを開き、自らの魔石を宿した胸飾りを外し放り入れる。
「え…っ」
──お前、それ、大丈夫なのか?
魂が抜けてそのまま骸骨に戻るのかと身構えたが、イクシオは動き続けている。
どうやら魔石は肌身離さず持っていなくとも良いらしい。
ファスナーを手早く閉めたイクシオは今度は正面へと回り込むと、俺の首にかけられていた勾玉を掴んだ。
「ちょ…」
──それを外されると非常に困る…っ
「何してるの?」
そこへジョットが俺達の横に膝を付き声を掛けてきた。
そして、俺を一瞥するやいなや告げる。
「カイ、また襟元だらしなくしてる。弟に直してもらうなんて呆れる」
「兄様、だらしない」
──何だ?何で突然俺は二人に仲良く貶され始めたんだ?
──第一ボタンまでは外してOKなのは、万国共通ではないのか。教会は駄目なのか?
戸惑う俺に構うことなく、ジョットの手がワイシャツの襟元へと伸びる。
間髪入れず、彼女の手により第二ボタンが外された。
「何故、脱がす方向へ?」と疑問を抱いた俺だったが、掴んでいた勾玉をワイシャツの中へと投げ入れたことにより、その疑問は即座に解決される。
後はジョットがエッカを服の中へとしまい込みボタンを閉めた。
勿論、第一ボタンまでしっかりと。
非常に息苦しい。
なれない感覚に襟元に指を掛けて引っ張っていると、俺の両耳に二人の顔が寄せられる。
「ひぇ…」
思わず情けない声を漏らす俺の鼓膜が、美女と美少年の美声によって震えた。
「「奴らが来た」」
二人の声に俺は振り返る。
白い人影が二つ、此方へと近付いて来ていた。
残念ながら我らが仲間の屍人ではない。
それは長槍を携えた教会兵であった。
次話で世界樹脱出編、完結です!