春雷
朝の天気予報では「雨の心配はない」はずだった。いつもなら、鞄に折りたたみ傘を忍ばせておくのだけれど、この日は会議の資料が詰まっていて傘は家に置いてきた。おかげで会議はうまくいったのだけれど、帰りに突然降り出した雨には何の抵抗も出来なかった。道行く人々は雨除けを探して右往左往している。そこに目に入ったのがひときわ大きな街路樹の木陰だった。大したスペースではなかったのだけれど、人ひとり雨宿りをするのには十分だった。僕はまっすぐにそこへ駆け込んだ。
「やれやれ。早く止んでくれるといいんだが…」
雨は止むどころか次第に強くなってきた。ゲリラ豪雨ってやつだろうか…。ふと気配を感じて視線を移すと、そこにはコートのフードを被ってこちらを見ている少年が居た。僕はこっちに来るように手招きをした。すると少年は申し訳なさそうに僕の横に並んで立った。少年は既にびしょ濡れだった。
「大丈夫かい? びしょ濡れじゃないか」
少年は何も言わず、ただ、俯いているだけだった。フードからはみ出した髪からは雨の雫が滴り落ちている。
辺りはもう日が暮れて真っ暗になっていた。少年はぶるぶると震えながらただ、じっと雨が止むのを待っている。
「どうした? 寒いのか?」
相変わらず少年は何も言わない。3月の初めはまだ気温もそれほど高くはない。こんなに濡れてしまっては寒くて震えるのも致し方あるまい。それにしても、この震え方は尋常ではない。僕は熱でもあるのではないかと心配になり、そっと彼の額に手をあてた。すると彼は僕の手を払いのけ、初めて口を開いた。
「勝手に触らないで」
「えっ?」
僕はその声を聴いて驚いた。少年だと思っていたその人物は女性だった。キッとした目で僕を睨みつけている。
「ごめん…。あまりにも震えているから熱でもあるんじゃないかと思って」
「大丈夫だから!」
そう言って、彼女は駆けだそうとした。その瞬間、ひときわ明るい閃光が走った。直後に轟音が唸り声をあげた。春の雷、春雷だ。そして、すぐにまた暗闇が訪れた。気が付くと、彼女が僕に抱きついていた。僕は遠慮気味に彼女の背中に手を回した。
「大丈夫?」
僕の声にハッとした彼女は慌てて僕から離れた。そこにまた閃光が走った。今度は同時に轟音も鳴り響いた。彼女は再び僕の体に張り付いていた。彼女は震えていた。怖くて震えているのか寒くて震えているのか…。おそらく両方なのだろう。
「場所を変えた方がいいかもしれない」
雷が近くなって来ている。この木に落ちないとも限らない。僕は上着を脱いで彼女の肩にかけてやった。そして、彼女の手を引いて街路樹の傍を離れた。雨は激しさを増していた。
通りの反対側に公園がある。池のほとりに東屋があったのを思い出した僕は彼女を連れてそこまで走った。
「さっきはごめんなさい…」
東屋に駆け込んでしばらくすると彼女は落ち着いたようで自分から口を開いた。
「男の人に優しくされたことがなかったから」
「僕の方こそいきなり失礼なことを…」
僕が彼女に話しかけようとした瞬間、彼女はよろめくようにベンチへ座り込んだ。
「ちょっとごめん」
そう言って僕は彼女の額に手を当てた。
「すごい熱だ!」
僕はすぐに携帯電話で救急車を呼んだ。
雷の音が遠のいていく。雨も小降りになってきた。もうすぐに止むのだろう。遠ざかる柔らかな雷の光りが時折彼女の顔を照らす。ベッドで横たわる彼女は安らかな顔をしている。
救急車が到着すると、救急隊員に状況を説明した。
「あの、僕も一緒に行っていいですか?」
「知らない方なんですよね?」
「でも、これも何かの縁と言ったらおかしいですけど、当事者としては心配なので」
「ではどうぞ」
こうして僕は彼女と一緒に病院までやって来た。彼女の診察が終わるのを待っていると、看護師がやってきて状況を伝えてくれた。熱は疲労から来たもので感染症などの疑いはないとのことだった。しばらく安静にしていて、熱が下がったら帰っても大丈夫なのだと。案内された病室で彼女はベッドに横たわって静かに寝息を立てていた。
「それではお大事に」
にっこり笑って看護師はその場を後にした。
病室に案内されて一時間ほどして説き、彼女が目を覚ました。
「私…」
「熱が出たのは疲れから来たもので熱が下がれば帰ってもいいそうだよ」
僕は看護師に説明されたことを彼女に伝えた。
「ごめんなさい! 私のせいで迷惑をかけてしまって…」
「気にしないで」
僕はナースコールをして、彼女が目を覚ましたことを告げた。すぐに担当医と一緒に先ほどの看護師がやって来た。
「熱は下がったようですね。どうされます? 念のために一晩泊まりますか?」
「帰ってもいいのら帰りたいです」
「解かりました。ではお大事に。気を付けてお帰りくださいね。旦那さん、あとはお任せします」
そう言い残して医師は病室を後にした。その時彼女の顔が赤くなり、申し訳なさそうな表情で僕の方を見た。僕は首を振って大丈夫だと合図した。
濡れた彼女の服は病院内の施設で乾燥機にかけられていた。彼女が着替えるのを待って僕たちは受付で必要な手続きを終えると二人で病院を出た。
「お世話になりました」
彼女は深々と僕に頭を下げた。
「本当に気にしないで。あの場に居たら誰だってそうするでしょう」
彼女はバスで駅まで行くという。僕はバス停まで彼女を送った。彼女がバスに乗るのを見届けて、ゆっくり歩きだした。
雨宿り 隣の君の 濡れた髪 春の雷 胸を焦がさん