62:結婚前にしておくこと〈後〉
素性も定かではない私に良くしてくれた村の皆さん。
村へやってきた当初の私の怪しさなど、尋常ではなかったと思う。
視界と呼吸だけを確保した麻袋を被って道を歩いていた最初の頃は、完全に不審者を見る目を向けられた。……今思うと、容姿を隠す方法なんて他にいくらでもあった気はするけど。
それでも、最終的には受け入れてもらえた。他の人と何ら変わらない態度で、接してくれたのだ。
そんなこれまでの恩に加えて、彼らは結婚まで祝福してくれるという。
ならば私とて、それ相応に誠実でありたいと思った。
「……でも、もし受け入れてもらえなかったら、今の生活を壊してしまいます」
「……ん。そうかもね」
私の一存で、どうこうしていい問題ではない。
村にも行きづらくなる、外を出歩きづらくなる。他種族であると知れるということは、そういう可能性が付きまとうわけで。
「スミカさんや、スミレちゃんにも、迷惑がかかってしまいます……」
被害が私だけならまだしも、同居人である二人にも、悪意の矛先が向いてしまうかもしれない。いや、確実に向けられる。
なのに、スミカさんは首を振って、
「それは違うよ」
「……何が違うんですか」
「迷惑だなんて思わないよ。むしろ、私たち普段からレーナちゃんに迷惑かける側じゃん? もし駄目だったとしても、何ならこの村の人たちが知らない、どこか遠くに逃げたっていいと思うんだよね。ここ、丁度いいことに国境近くだしさ」
何処へだって行けるよ、と彼女は両の腕を広く広く広げた。
見れば、スミレちゃんもコクコクと頷いている。
「でも……」
「あーもうっ、でももだっても何ですぐそうネガティブになるのかなぁ。好きな女の子のやりたいことを手助けしたいって思っちゃいけないんですかっ! それくらいには私レーナちゃん好きなんですけど?」
「や、あの、……だ、駄目じゃない、ですけど……」
私だって、スミカさんにしたいことができたならできる限り力を貸したい。その気持ちは同じだと思う。
「じゃあ、いいじゃん?」
その、『じゃあ』に余りに多くの問題を抱え込み過ぎている気がしたけれど、彼女にはそれも些細なことなのだろうか。
「伝えたいって思ったことはね、やっぱりその時伝えた方がいいんだよ。やらないでうじうじするのは一番ダメだよ」
そう考えるに至った出来事が、彼女にはあったのだろうかもしれない。
スミカさんは、元いた国に戻らずに私といることを選んでくれた。もう二度と帰還できないかもしれなかったのに。
故郷のご家族に伝えたいことなら、それこそ山ほどあったのではないか。
「本当に、いいんですか……?」
「レーナちゃんがやりたいって思ったことだよ。むしろ大人しく従いやがれって強気なくらいでいいんだよぅ」
「それでもし駄目だったとしても、一緒に逃げて下さるんですか……?」
「うん。当たり前でしょ」
やはりスミカさんには敵わない。もしかしたら虚勢なのかもしれないけれど、私が彼女の立場ならこんな沢山のものを背負った選択にすぐさま頷けるとは思えないから。
「やりたいよーにぶちかませ。当たって砕けちゃえよってね」
「…………はい」
「声小さいよ」
「は、はい!」
「よし上出来」
そこで、それまで固唾を飲んで見守ってくれていたソフィちゃんが、ふと思いついたように手を叩いた。
「あっ、そうだ! レーナお姉さん」
「は、はい?」
「もし遠くに行くことになっても、どこに住むのか決まったらお便りとか頂戴。わたし、お小遣い貯めて絶対会いに行くから!」
「ソフィちゃん……」
それは、とても素敵なことだ。彼女の方から会いに来てくれるだなんて。
「えぇ〜ソフィちゃん大丈夫? 結構遠く行っちゃうかもよ? 帝国の端っことかだったらひとりで来れるかなぁ?」
……どうしてこうスミカさんは茶化すように他者を煽るのが好きなのだろうか。
「むっ……だ、大丈夫だよ、行けるもん!」
「ほんとにぃ?」
「ほんとだもん! 何でそういうこと言うのっ!」
腹が立った様子の私の親友は、スミカさんにぽかすかと殴りかかる––––が、彼女には届かず拳は空を切り、挙句突進しようと突き出した頭は片手で押さえてしまった。強い。
「このっ、このぉっ!」
「あはは〜、いたくないぞぉ––––あだだだ!? ちょ、本気で手ぇ噛んだな!?」
「いひはふいふははあよ! はほ!」
掌にくっきり残った歯型を涙目で見やるスミカさんと、してやったりと得意げな表情で胸を張るソフィちゃん。
たとえこの場所にいられなくなってもこんな分け隔てない関係を続けていけたらいいなと、私は思った。
****
「いざとなったら私がいる。何かされそうになっても全部止めるから」
そんな心強すぎる言葉に背を押され、私は村へ向かった。
スミカさんの手を取り、歩みを進める。右の手から伝わる彼女の体温が、気持ちを落ち着かせてくれる。
より安心感を得たくて強く握ると、同じだけ握り返された。
「不安? やめたい?」
「……不安ですけど、やめたくありません」
「んーん、偉いっ」
外なのを構わずわしゃわしゃと撫で回される。恥ずかしい。でも気持ちいい。心が安らぐ。
「くふ……く、くすぐったいです……」
「わかっててやってる。––––髪の毛の感触も良いし、ふにゃふにゃになる顔も普通に可愛いんだから。他の人と違うなんてこと、全然ないんだからね。あっ、でも全宇宙一かわいい。それは他の人と違うね! うん!」
茶化すような口振りが、激励の意味を孕んでいることを知っている。
「ありがとう、ございます……」
「頑張れ、応援してる」
「はい」
そうこうするうち、村へとたどり着く。
活気は然程無いけれど、普段から各々が自分の役割を全うするために足を、手を確実に堅実に動かしているその場所。
けれど今はお昼時。仕事を休憩している人も多く、通りの人の数は常のそれよりずっと少なかった。
「––––行きましょう」
「うん」
今の私は、幻惑魔法を使っていない本来の姿だ。歩みを進めると次第、不特定多数の視線がこちらに集まり始めた気がする。
「……他種族?」
誰かがそうぼそりと呟いたのが聞こえた。それを境に、『何故ここに』『どうして』という疑問の声から、『エルフ……』と何か含みのある声音まで多様なこと。
「えっ、と、あの……」
予想していた通りの反応。なのに今更ながら怖気付きそうになる。
しかしこうすることを選んだのは私だ。やり遂げなくてはいけない、有言は実行してこそ。
だから深呼吸した。そうして足を進ませ続けた。
歩き続けて、真の目的地へと到着する。
そこは広場だった。行事でも使うような、広く空けた憩いの場所だった。
少なくない人がお昼ご飯を食べ、微睡んで、体を休めている。
ソフィちゃんと同年代の男の子たちもいて、楽しそうに追いかけっこをしていた。
平和そのものな空間の中、私だけが場違いに神妙な面持ちでいる。張り詰めた顔で、声を張り上げる。
「––––あの、急に現れて申し訳ありませんっ。皆さんに、お話ししたいことがあるんです……」
突如として現れた異分子。
この姿を披露するのは初めてだ。だからなのか、今のところ誰もエルフがレーナであると気付いている様子はない。
––––ところがやがて、一人が気がついたような顔で、
「あいつ、見たことある気がする」
なんて、私を指差し声を上げた。
一人が反応すると、それに乗じるのが人の性質で、
『でも誰だ』『銀髪に見覚えはない』『なら服装か』『あのエプロンドレスは見たことがある』『それなら目鼻立ちも見たことがある』『そうだあの子だ』『あの子と相違ない』『間違いない』
やがて、全員が思い至った。
––––目の前の他種族の女が、私であると。
「この姿では、初めまして。私は……レーナ、です。よく、ここで買い物をしているものです」
声は震えていないだろうか、心なしか消え入りそうになっている気がする。
バクバクと拍動する心音を鼓膜が拾い上げ、そのおかげで自分の声も満足に聞こえない。頭も緊張して真っ白で上手く働かない、この心臓は何のために血を送り出しているというのか。いざという時、こんなことでは堪らない。
その姿はどういうことだと、誰かが疑問を呈した気がする。
「驚かせて、不安にさせて、すみません。これが私の本当の姿なんです。私は、エルフの血を引く人間で……今まで、皆さんを騙してきました」
ひそひそと、何かを囁く声がする。ただでさえこんな心理状態、その内容までは聞き取れない。
「この姿を見られて、拒絶されるのが怖かったんです。皆さんに、化け物だと言われるのが嫌だったんです。だから騙しました。袋を被って、魔法を使って、嘘をついてきました」
誰も表立って声を発さなくなった。ただただ、小さく何事か交わされる言葉があって。
「この度……私は、村近くの丘の上で共に暮らしているタチバナさんと、結婚させていただくことになりました。皆さんにも、それを祝福していただけると聞いて、とても嬉しく思いました。自分はこの上なく幸せ者だと思いました」
だってエルフだ。祝福とは無縁だった。だから何度だって思える。––––私は幸せ者だと。
「だから、私もまた祝われる身として、皆さんに誠実であろうと思いました。自分の隠してきた素性を、打ち明けようと思いました」
受け入れてもらえるかもしれないと、当初は一切信じられなかった可能性に、身を委ねて。
「これまで騙してきたのに、虫のいいことを言っていることはわかっています。ですが、どうかお願いします。……これまで通り、隔てなく同じヒトとして、私と、接していただけないでしょうか」
深く頭を下げた。精一杯の誠意がこれだった。これで駄目なら、もうやりようがないと思う。
『……』
いつしか止んでいた囁き声。私が話し終えると、辺りは人の声を紡がなくなった。
それからどれだけ経ったか。時間にして、ほんの数十秒、長くて数分ほどだったかもしれない。
「……一つ、いいか」
誰かが挙手をしたのが見える。聞き覚えのある低い声に、太くてごつごつとして、大きな手だった。
「俺の娘は、そうと知らされた上で、おめぇらと付き合ってたのか?」
彼は先ほどまでそこにはいなかった。肩が激しく上下している様から見て、何事か聞きつけてここに現れたのかもしれない。
挙手者の正体は、酒場の店主様だった。
「……違います。ソフィちゃんに打ち明けたのも、つい先程でした」
彼が何を求めて訊ねて来たのかはわからない。けれど、この場において偽りを口にするのだけは許されない行為に思われた。
「それにソフィは、なんつったんだ」
「それは……」
「––––変わらないよって言ったの!」
女の子の声がする。つい先程、励まされたばかりのそれ。
そちらを見ると、先に行っているからと村へ向かった親友が、大声で叫んでいた。
「どんな姿でも、レーナお姉さんはレーナお姉さんでしょ? わたしと仲良くしてくれたのは変わらないもん! わたし、レーナお姉さんのこと大好きだもん!」
「……そうか」
そんなソフィちゃんの訴えを聞いた店主様は、複雑そうな安心したような、考えを汲み取りづらい表情で頭を掻くと、
「あー、なんつうかな」
辿々しく、何事か話し始めた。
「嬢ちゃん––––いや、レーナさんか……あとタチバナ。うちの子はな、レーナさんみてえになりたいっつって、家の手伝いしてくれるようになったり、タチバナみてぇにはなりたくないっつって、遊ぶだけじゃなくて一生懸命勉強するようになったんだ」
「私の評価だけおかしくない?」
「妥当だろ」
隣でスミカさんが不満を垂れるけど、五文字で一蹴されてしまう。
「……だからな、上手く言えねぇが、うちのソフィのいい友達でいてくれるおめぇらが、悪いやつだとは思わねぇよ」
「……店主様」
「様とか付けんな。俺はそんな大層なもんじゃねぇよ」
むずむずするんだよ、と店主様は一言付け足す。
店主様は、私の正体を気にしないでくれるらしかった。それはとても嬉しいことで……けれど、他の人たちは?
「オレたちも、思わねーよ!」
今度のそれは、声変わりを終えていない男の子の声だった。ソフィちゃんが『うげ』と顔を顰めるのが見えた。
「オレさ、あの姉ちゃんにクッキー貰ったことあるんだ! すげー美味しかったんだ! スミカは兎も角、姉ちゃん悪いやつじゃねーよ!」
確かに、ソフィちゃんの友達だと思って男の子らに焼き菓子をあげたことがある。
後になって『あんな苛めっ子に渡さなくていいんだよっ』とすごく不機嫌な顔のソフィちゃんに注意されてしまったけれど、甘いものをペロリと平らげてしまった時の幸せそうな顔は、とてもとても悪い子たちには見えなかった。ソフィちゃんにちょっかいを出してしまうのも、何か理由があったんじゃないかと思う。
「スミカは暴力女だけど、髪が長い姉ちゃんは良い奴だよ!」
「私だけ酷い言われようなんだけど?」
その遠慮のなさは親しみの現れだと思う。良くも悪くも、スミカさんだって村の人に親しまれているのだろう。
––––それらの肯定が、キッカケになったのかもしれない。
「うーん、確かにうちも贔屓にしてもらってるしねぇ……」「花が好きな子に悪いやつはいないさ」「祭りの時助けてもらったしなぁ」「タチバナが耳から砂糖が出るほどいい子いい子言ってやがったしな」「五年かそこいらだったか? それだけこの村にいたら、人となりも見えてくるだろ。あの子普通の女の子だよ」
次から次へと、賛同するような肯定の言葉が広場に飛び交い始めた。
「え、えっと……」
先程とは別の理由で言葉に詰まる。だって、こんな、予想できるわけない。
正体を知られた。なのに否定されない。それどころか、『それでもいいよ』と投げかけられる。
夢のような空間だ、不安になっていたのが馬鹿みたいだ。
なんて……なんて、私は幸せ者なのだろう。
そして彼らの気持ちを纏めるような言葉が、最後に付け添えられる。
「いい子なんだし、他種族だろうと別に良くないか?」
『他種族だろうと』。その一言で、私はこの村に受け入れられたのだと実感した。
「ありがとう、ございます……っ」
言葉とともに、涙が溢れて。
そのまま大きく嗚咽を漏らし始めた私は、周囲の人たちにゲラゲラと笑われてしまうのだった。
その時、何かを探るように辺りを見渡していたスミカさんの様子には、一切気がつかずに。
****
「……もう、幻惑魔法に頼らなくてよくなりましたね」
「うん。もう隠さなくていいからね」
夢のような体験を経て、その日の夜。
出来事を振り返るように言葉を交わしつつ、灯りの消えた寝室で微睡む。
「本当に本当に……夢みたい、です」
「夢じゃないよ。ほら、ほっぺ抓ったらちょー痛い」
「ふふ……スミカさんが抓っても私は判断できないじゃないですか」
胸の内を満たすのはこれまで以上の幸福感だ。誇張なく、私はこの世で一番の幸せ者なのではないだろうか。
そんな多幸感に包まれつつ、強烈な眠気に意識が晒され始める。
「……明日も、この夢が、覚めない、よう、に……」
閉じてしまいそうな視界の中、夢の終わりを幻視して、私は何でもない空気を掴むように腕を伸ばした。
その腕は、他でもなく最愛の人に握られて。
「夢じゃない、夢じゃないよ。眠っても大丈夫だから」
「……はい」
その言葉と背中を撫でてくれた手が、最後の一押しになって。
私の意識は、深い深い眠りの世界へと誘われていく。
––––夢へ落ちる直前、
「……ちょっと、隣空けるね」
そんな声と、そっと離れていった体温に、私は一抹の不安を覚えたけれど。
そんなものは、直後忘れてしまった。
****
雲に月が遮られ、闇夜と形容すべきその日の深夜のことだった。
複数の灯りが丘を登り、その先の屋敷へと向かっている。
灯りの正体は松明で、持ち主は勿論人間。
その手に他に何も持たれていない。けれど瞳には憎悪と嫌悪が宿っていて、胸中にただならぬ感情が渦巻いていることは明白だった。
彼らは全員が年老いた男女だった。年長者であることから、周囲には長老とまで呼ばれている。
王国ではその昔、大きな戦争があった。それが人間とその他の種族が袂を分かった最もな原因であり、重ねて言えばそれは人間の王の欲望で引き起こされたものだった。
ただの平民の彼らには、上層の人々の思惑など知らされていない。代わりに記憶しているのは『他種族が国を荒らした』という改竄された情報であり、
––––戦争で家族を失ったという、忘れがたく心に刻まれた喪失感だった。
妻子を兄弟姉妹を父母を、殺された、失った。理由は戦争。原因は他種族。
そこまで判明していれば、憎悪を向ける相手が誰かなど分かりきったこと。
やがて屋敷へ肉薄した彼ら彼女ら。物音を立てぬよう、敷地へ侵入していく。
『––––』
何も、ここに住む少女を襲おうなどとまでは考えていない。ぶつける先を失って久しい激情は、ただ相手が『彼奴等』と同族というだけで対象になるほど、見境を失ってはいなかった。むしろ、年々鎮まっていくばかりで。
けれど、完全に無くなってはいないのだ。
だから、小さな小さな、小石を拾った。
どこにでも落ちているような、掌に収まる大きさの塊。それさえあれば、目的は達成される。
––––ほんの少し、脅してやれればそれで満足だ。
老体は酷使できるほど丈夫ではない。よって各々は近場の窓硝子を狙い、悪意を投擲しようとして、
「……はぁ」
溜息と共に漏れたような若い声が、突如頭上から聞こえた。
『!』
刹那、何者かに足をかけられ、なす術なく地に倒れ臥していく老人たち。松明は不可解な形で掻き消され、自然のままの暗闇が辺りに広がる。
視界が黒に塗りつぶされた。何が起きたか把握できない。怖い。恐ろしい。
悪意を放つ側だった自分たちが一転、何者かの襲撃に恐怖を覚えることになるとは、露にも思わず。
––––こんな気持ちを自分たちはあの少女に味わわせようとしていたのかと、後悔し始めて。
「……やっぱり、来ると思ってた」
深い深い落胆のこもった、悲しげな声だった。
真夜中の闇に沈む漆黒の頭髪は、日差しの下で眺めたならさぞ流麗だったことだろう。月明かりも心許ないこの日の夜においては、知る由もないことだったが。
「……一応、何をしにこんな時間にここへやってきたか、聞いてもいいですか?」
国単位の差別思想なんて根深いに決まっている。もし仮に大多数の人々が異分子を受け入れたとしても、それに含まれず拒絶したがる少数派は必ず存在する。
警戒していてよかった。例えそれが、村の人たちの大半を信頼していないことの表れだったとしても。
そんなことを考えながら、闇に潜んでいた女––––スミカは、姿を現した。
「万一美味しいもののお裾分けとかだったら、謝らないといけないですし」
老人たちの視界はようやく闇に慣れつつあった。だからこそ、その時のスミカの形相が朧げながら捉えられた。
––––彼女は、たまに村へ現れる時と何ら変わらない笑顔で、こちらを見ていたのだ。
ぞくりと、背筋に冷たいものを当てられたように、寒気を覚える。
「……わ、儂らは……」
「……他種族を……レーナさんを、脅しに来たんじゃ」
「やっぱり」
知っていたと言わんばかりに頷く、黒髪の女。
「あれだけ人数いれば、そういう人たちもいると思ってました。……一応、理由を聞いてもいいですか?」
悪意は筒抜けだった。ならば、黙っている理由もない。屋敷まで老人たちの先頭を歩んできた覇気ある禿頭の男は、代表してポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「……他種族に対し納得できないものがあった。御誂え向きに差し出された標的がいた。だから、行動に移した。儂らの総意は……概ね、それじゃ」
「……その気持ちは、不意打ち食らった今も変わりませんか?」
待ち構えていたスミカに転ばされ、確かに多少は頭も冷えた。
しかし、
「……完全に無くなっていない、と言えば嘘になる。儂らは『彼奴等』に家族を殺された。その無念を、忘れることはないじゃろう」
「そうですか。……小石を窓に投げようとした以外、何かしようと思っていましたか?」
「……レーナさん自身に危害を加えるつもりはなかった。ただ、割られた窓を見て彼女に少しでも恐怖を覚えてくれれば、それで儂らは満足じゃった」
「……そうですか」
そしてまた、溜息。スミカが今どんな表情を浮かべているか知るのがとても度胸のあることに思えて、老人たちは一様に顔を俯かせた。
「質問、これで終わりにしますね。……日を改めて、同じことを何度でもする気はありますか?」
「––––いいや」
その質問に対しては、即座に返答できるほど考えが纏まっていた。
「悪意をぶつけられる側の気持ちを、儂らは分かった気になっていた。家族を奪われた側のつもりが、いつの間にやら加害者になっていた。……儂ら自身が嫌った負の感情を、レーナさんに味わわせようとしてしまっていた」
「……つまり?」
「……もう、こんなことはしない。ただ人種が同じというだけの赤の他人に––––何の罪もない娘に、辛い想いはさせられない」
彼らとて長い時を生きた人間。血が上っていた先ほどまでならさておき、冷静に思考できる今ならば、それ相応の道徳心で物事を測ることができる。
事前に考えを擦り合わせていなくとも、それは倒れ伏した者達の総意だった。
「そうですか」
ふっと威圧感のようなものが消える。そもそも、そのような息苦しいものに自分たちが覆われていたことにさえ、たった今気がついたくらいの長老たちだった。それほどまでに、スミカのそれは自然な形で溢れ出た敵意だった。
「それさえ分かれば、もう私は十分です。松明、勝手に消しちゃってすみません。足引っ掛けちゃったのもごめんなさい。痛かったですよね、一応、治癒魔法かけますね」
「あ、あぁ……ありがとう」
顔を恐る恐る持ち上げれば、本当に申し訳なさそうな面持ちでスミカは謝っていた。
が、老人たちにはそれが何か恐ろしいものに思えてならない。
レーナへ害をなそうという気はもうさらさら起きない。それは彼女に恐怖を味わわせるのはやはり間違っているから、というのがまず理由の一つ。
もう一つは、それに対する眼前の女の報復が、惨憺なものになるだろうことが何故だかありありと想像できたからだ。
レーナが害されることがあれば、この女はどこまでも復讐するために追ってくる。そんな確信がある。
もう絶対に手を出してはいけない。治癒の温かな光が闇夜に一等輝く中、老人たちはそう胸の内に刻みつけた。
「これでもう安心だよね、レーナちゃんっ」
スミカだけは、その中で場違いに明るい声で笑っていた。ずっとずっと、笑っていた。
裏で暗躍して好きな子を守る女の子とか大好物です。
でも闇の中に笑顔で潜む女とか普通にホラーです。




