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59:ひんやり温かいもの

こんなはずじゃなかった……申し訳ございません、遅い上に長くなりました。分割するべきか悩んでおります。


 気付いた時には、体が凄まじい熱に包まれていた。


 全身が焼けるようで、頭は割れるようだった。


 苦しくて仕様がない。


 体の内から焦がされるような灼熱に、気が狂いそうだった。


 これは、風邪のせいなのだろうか。


 こんな風に苦痛を味わうのは本当に久しぶりだった。


 安静にしていればよかったものを、無理に動いたからツケが回ってきたのか……あれ、でも何のために無理に体を動かしたのだったっけ。頭がうまく働かず、思い出せない。


 これは、夢なのだろうか。

 だとしたら、ひどい悪夢だ。こんなに辛い思いは久しぶりで、突然こんな苦痛に来られても耐えられるわけがない。


 ……何か、冷たいものが欲しい。冷水を滝のように浴びて、体を冷やしたい。

 でないと、熱に呑まれて死んでしまいそうだ。


 そんな私の気持ちが、誰に伝わったわけでもないのだろうけれど。


 燃えるような頰へと、不意に相反した冷たい何かがそっと当てられた。


 ––––……つめたくて、きもちいい……。


 地獄の底に、一筋希望が垂らされたようだった。


 そのまま慈しむように私のほっぺを撫でてくれるそれが、少しずつ少しずつ、苦しみを紛らわしてくれた––––。





****




「おはよ」


 目を開けると、叱られるのを待つ幼子のような顔をしたご主人様がいた。


 状況を確認する。


 居間にいた途中で途切れた記憶。けれども現在私が横になっているのはベッドで、さらに言えば––––辺りを見回しつつ––––ここは私の部屋だった。

 それはつまり、誰かにここまで運ばれたということで。


 ––––どうやら私は、あのまま意識を失ってしまったらしい。


 視線だけを上にやると、若干温くなってはいるけど十分冷たいタオルが額に乗っかっている。

 今度はやや下にやれば、布団の中に、水色の寝間着(ネグリジェ)に袖を通した貧相で凹凸のない己の胴体が見て取れる。

 また、人の手で着替えさせられてしまったようだ。


「……えぇと、おはようございます」


 お粥でご主人様たちが気絶したり、私は私で気絶したり。この屋敷では今、気絶することが流行っているのだろうか。……冗句にすらならない酷い冗談だ。


「……レーナちゃん、私が誰だかわかる?」


 仕様もないことを脳裏で考えていると、ご主人様は真剣な眼差しでそんな質問を寄越してきた。

 意識を失う直前、頭を打ったからだろうか。

 答えるついでで起き上がろうとするとズキリ、とおでこの少し上くらいに鈍痛が走った。


「ぅ、くぁ……っ」


「無理に起き上がっちゃダメだよっ」


 ––––この、痛みは……。


 軽くその箇所を触ってみると、ぷくりと腫れてしまっていた。……どうやら、たん瘤ができるほど盛大に転倒してしまったらしい。すごくすごく、いたかった。


「ぅっ……あなたは、私のご主人様、です」


 けれど記憶に混濁も欠落も見られない。幸い、認識している範囲でおかしくなっている記憶は無さそうだった。


「……本名は?」


「スミカ・タチバナさん、です」


「うん。正解」


 答えている間、鈍痛とは別に、元々の頭痛の方も脳に容赦なく火花の散るような痛覚を与えてくるので、二重の痛みで私は涙目になった。


「……う、ぐ」


「……頭、大丈夫?」


 語弊がある訊ね方だけれど、痛みの程度を聞かれているのは明白なので、鈍痛の発生しない範囲ギリギリで軽く頷く。


「痛い、ですけど……これくらいは、へっちゃらです」


 この数年で痛覚というものに弱くなってしまった私だけれど、それでも耐えられないことはない。


「ここがどこかはわかる?」


「私の部屋、です」


「正解」


 頷くに加えて、ちゃんと断言してくれて嬉しいな、とご主人様がこれまた意味のよく分からないことを口にした。

 どういう意味なのか、今度はすぐに訊ねてみると、


「あーいや、さ。レーナちゃんなら、変に遠慮して『私のお借りしている部屋です』とか、言いそうだなぁって思ったの」


 とのこと。

 その間ご主人様は口を動かしながら水差しを手に取り、カップに水を注いでくれた。ありがたい。


「あぁ……たしかに、場合によっては言いそうですね……はい、頂きます」


 背中を支えてもらってゆっくり上体を上げたのち、カップを貰う。

 その時、ぺらんと額から剥がれたタオルが布団の上に落ちる––––直前で、ご主人様がそれを掴んだ。反射神経が凄い。


 季節はもうすぐ冬。常温でもカップの水は十分冷たくて、カラカラだった喉はゴクゴクと嚥下される水分に潤され、それだけで気分が幾分良くなった。


「そうでしょ言いそうでしょ。……どうどう? 私、レーナちゃんの内心読み取り検定一級レベルくらいかな?」


「よくわからないですけど、それくらいは、あるかもしれませんね」


「やったね」


 まあ、どちらかと言えばそういう口振りをするのは今よりもちょっと前の頃の私だと思う。

 現在に至っては、私はこの屋敷を自分の居場所であるとちゃんと胸に深く刻みつけている。『借りる』なんて他人行儀な表現は、もう使わないと思う。

 その辺りの微妙な内面の変化をご主人様に悟られていないのは少し寂しい気もしたけど、私とて彼女の考えていること全てなんて言い当てられない。

 もしご主人様の内心読み取り検定? とやらが存在するなら、そこそこの高い階級に合格できるかもしれないけど。



「あれから……どれくらい時間が経ちましたか」


「丸一日とちょっとくらいだよ。やっぱり無理させちゃったみたいで、昨夜は高熱でうなされてた」


 ……それは、何となく覚えている。まるで炎に炙られるような、そんな苦しみを味わった気がする。

 そしてそれを和らげてくれた感触も、何となく。


「……ご主人様の手、ひんやりしていて気持ちいいですね」


「……あれ、起きてたの?」


 彼女は瞠目してみせる。


「あ、いえ……何となく、誰かが眠っている時ほっぺを撫でてくれた気がしたので。そんなことをするのはご主人様くらいかな、って」


 いくらか正常な思考ができる今では、眠っている時に私の頰に触れた冷たく柔らかなものが、おそらくは誰かの手だったことがわかる。

 私にそんなことをしてくれるのは、この世でたった一人だけだ。


「……まあ、やったの私だけどさ。気持ちよかったならした甲斐あるね」


「やっぱり」


 その節はありがとうございますと御礼を告げると、なんか行動パターン読まれてるみたいで落ち着かない、とご主人様は照れくさそうに目を逸らした。……ふふ、かわいい。


 しかし、



「……ねえ、ちょっと話変えてもいい?」


「はい?」


 次の瞬間、彼女の表情は引き締めたそれへと変わっていた。

 黒の双眸が、真っ直ぐに私を射抜く。

 その雰囲気から、何か真面目な話があるのだと悟った私は自然、横になったまま背筋を伸ばして、視線を彼女へ送った。


「……レーナちゃん、ごめん!」


「うぇ……な、何がですか?」


「今回は……というか今回も、私のせいでレーナちゃん酷い目に遭わせちゃった。全然学習できてなくて、懲りてなくて、鍋も爆発させちゃった。ごめん……ごめんなさい」


「え、と」


 鍋はともかく、一階に勝手に降りてきたのは私だ。ご主人様のせいではない––––そう言いかけて、私は押し黙った。

 よく観察してみると今のご主人様は落ち込み状態に陥っている様子だった。普段通りに見せていたのは、ただの虚勢だったらしい。

  とすれば……まず立ち直らせるのが第一か。


「……確かに、ご主人様のせいもあるかもしれませんけど」


  私同様、ご主人様もやっぱり面倒くさい人で、一度こうなると彼女の場合しばらく後に引きずる。

  私がお風呂でのぼせた時は涙と鼻水を流して必死に謝ってきたんだっけ。あの時は、どうやって話に区切りをつけたのだったか……顔中粘液塗れにされた記憶が印象深すぎて、全体的に記憶がやや曖昧だ。


「でも責めませんよ。私、皆さんの気遣いがとっても嬉しかったんです。どうしたって危険なことをしたっていう事実が先に来て怒ってしまいましたけど……三人が食べたのなら、私もあのお粥食べてみたかったですし」


  私を想って作ってくれた品だったのだ––––味は兎も角、食べたら気力だけは回復していたかもしれない。


「えっ……だ、ダメだよっ、あんな殺人兵器!」


「自作なのに酷い言い様ですね……」


  確かに、室内を支配していたあの悪臭は尋常なものではなかったけれど。


「事実だし。美味しい食べ物沢山無駄にしちゃったもん」


「その言い方では……お粥はやっぱり捨てちゃったんですか?」


  幾らか手間を加えれば、ギリギリ普通に食べられたかもしれないのに。

  勿体無いと思ってしまうのは、私が貧乏性なだけだろうか。


「まさか。私が責任持って全部口の中に流し込んで食べたよ。その後半日くらい意識失ったままだったみたいだけど」


「流し、こんだ、って……えぇ!?」


  清々しいくらいに言い切ってくれるが、そんな状態で体は平気なのか、と疑問に思った。……まあ、こうして普通に話せている時点で元気ではあるのだろうけど。


「まあ、それが自分自身へのせめてものお仕置きっていうか……」


「––––」


  危険物を自分の胃で処理したことで、彼女は自分を戒めたということなのだろうか……ずいぶん荒々しい手を使ったもので。

  そもそももう怒ってないしお仕置きも必要無いと思うけど、まあそれで本人の気が少しでも済んだなら、無意味ではなかったのだろう。


「とにかく沢山、レーナちゃんごめんなさい」


「怒ってませんし、爆発した鍋も買い換えられます。今度、一緒に選びに行けたら嬉しいです。……私の方こそ、高熱まで出してご心配おかけしました。スミレちゃんにも、ソフィちゃんにも迷惑がかかったでしょうし……ちゃんと謝って、御礼を言います」


  互いに頭を下げ合って––––私は頭が痛いから軽く会釈程度だったけど––––謝るのは、それでおしまい。


「あっ、というかレーナちゃん、迷惑なんかじゃないからね! レーナちゃんを心配するのは当然のことなんだからっ。レーナちゃん大切だもん!」


「そ、そんなに名前を連呼しないで下さい……」


「レーナちゃんレーナちゃんレーナちゃん!」


 これはいつもの調子が戻ってきたみたいだ、良かった。

  ご主人様はいくらか吹っ切れた表情で、けれど苦笑を浮かべた。


「でも、うーん……やっぱりレーナちゃん優しすぎない?」


「別に、普通だと思いますけど……?」


「うんとね、多少は根に持ってくれてもいいんだよって話。『お前のせいで私は苦しんだんだよ許さん!  ぶん殴ってやる!』みたいな感じで」


「えぇ……」


  私がそんな口調を取ったら違和感の塊になりそうだけども。

  というか殴るだなんて痛いこと、人にしようとは思わない。される側の苦しみはよく知ってるつもりだから。


「ん……相手を責め続けるくらいなら、私は問題をすぐ解決して関係修復を図りたいですよ。その人が大切なら尚更」


  私だって、色んな人に許し難いことを幾度もされてきたけど、その全てを覚えたまま、憎悪にいつまでも負の感情を焚べ続けても、疲れるだけで何も満たされない。

  過去は過去でしかない。それに囚われて復讐だとか、報復だとか考えて、大切な人といられる『これから』の時間までも無益に浪費してしまうのは、とても悲しいことだと思うのだ。

  あぁでも、ご主人様にひどいイタズラを受けた時は別だ。ちゃんとその分仕返ししてやるんだ。


「聖人か」


「大袈裟です」


  別にこんな風に考えるのは私だけじゃないはず。誰かと気まずいままは嫌だし、そもそも喧嘩した相手のことが許せないなんて、余程でもない限りあり得ないと思う。怒りなんて時間が忘れさせてくれるし、その場限りのちっぽけな激情でしか無い。

何より、私はご主人様とずっとずっと仲良しでいたい。仲違いしたままなんて、そんなの絶対嫌だから。


「聖人とかではなくて、いつまでも怒っていたって仕方ないという話ですよ」


「普通は、そこまで割り切れないと思うんだよね……」


  ご主人様が何かぶつくさ言っているけど、私が良いと言っているのだから、もう今回は別にそれで良いと思う。


  ともあれ、この件はこれで完全に終わり。これ以上掘り下げることも無いし、蒸し返すことも野暮だ。後で思い出して話の種くらいにはするかもしれないけど。



「ふぁ、ぁ……」


  沢山会話したからか、若干の疲労感と眠気が込み上げてきた。


  ––––布団に体を預けきって、気持ちよくお昼寝したいな……。


  そんな欲求が頭を支配する。

  普段の自分がこの有様を見たら、『労働しないなんて頭がおかしくなってしまったのか……!?』と錯乱しかねない怠慢ぶりだけれど、どうせこの状態では働きたくても止められるのだ。ならもう一眠りさせてもらおうかと思ったら、ご主人様が何か言いたげだったので、瞼をこすって眠気を若干飛ばした。


「……なんですか?」


「うんうん!  それでね、レーナちゃんっ。実はあれとは別にちゃんとしたお粥作ったのっ。無理じゃなければ、食べて欲しいなって」


「……は」


  突然ふざけた事をご主人様が宣い始めたので、私の頭の中で何かがぷつんと切れかかった。

  必死に理性でそれを繋ぎ止めつつ、私は彼女に冷たい声で問う。


「……約束、もう忘れちゃったんですか。まだ1日前ですよね。そんなにわすれんぼさんでしたっけ、ご主人様って」


「うぇ!?  ち、違うよぉ!  約束は破ってない! 今回はちゃんとした監視役についてもらったの。スミレちゃんとソフィちゃんが監視役〜、なんて屁理屈も言わないし」


「へぇ……」


「あー、疑ってる目ぇしてるな!  ちょいと待ってなさい、見返してやるくらい良い出来なんだからね!」


「え、ちょっと……」


  言うが早いか、ドバタン!  と凄まじく大きなドアの開閉音を重ねてご主人様は廊下へと走り出していった。

  徐々に離れていく足音を聞きながら、最近この屋敷の破損箇所が当初より増えているのは経年劣化以外にあの人にも一因があるのではないか、なんて冗談でも無く考えてしまう。

  興奮すると力加減も何も忘れて私を絞め殺そうとするくらいだし、十分にあり得ると思うのだ。



****



  数分後、けたたましい足音が複数聞こえてきた。

どうやら、ご主人様以外にも来訪者がいるらしい。


「じゃーん!  おいしーおかゆー!  ぐおっ––––!?」


「––––レーナ起きて大丈夫なのですか!?」


「––––レーナお姉さん無事!?」


「あ、あはは……はい、おかげさまで」


  いの一番に扉を開けたご主人様が入り口で誇らしげな顔と共にお椀を翳すと、すぐに後続の二人(・・)が彼女を吹き飛ばし、部屋へ駆け込んでくる。

  スミレちゃんとソフィちゃんだ。心配してくれているのか、少し顔色が悪い。

  その気遣いに対して、胸の内が少し暖かくなった。


「せ、せーふせーふ……おい、小さい子達危ないでしょ!」


  飛ばされて体勢を崩しつつ(丈の長い目なスカートなのに中が少し覗いていた)も、お椀の中身だけは一滴も溢さず確保しているご主人様。普段体を瞬時に動かす仕事をしている分、その辺りの反応速度と取捨選択は流石だった。……捨ててはいけない恥じらいまで投げ捨てているのはどうかと思うけど。


「入り口で立ち止まったらそうなるに決まってるのですよっ、もっと後ろのことも考えるのです!」


「みかちゃん邪魔っ!  レーナお姉さんのところ早く行けないでしょ!」


「……泣いて良いかな、私」


  もう十分涙目になっていたけど、私は苦笑混じりに軽く頷いた。




****



  正直、監視役が居たくらいでご主人様の料理が変わるとは思えなかったのだが。


「わっ……ふ、普通の見た目ですね」


「そこそんな驚くとこじゃないよね!?  そりゃ一回目は殺人兵器だけどさ!」


  お粥は思いの外––––というか、上から目線なようだけれど文句無くとても良い出来だった。

  パンの耳が浮かぶ、白くてほんのり黄色がかった粥からは、ほのかにミルクの優しい匂いがして、食欲が掻き立てられる。


「作ってる途中に鍋も爆発しなければ、真っ黒で変な匂いもしなければ、食べて気絶することも無いよ!  超自信作! 超安全!」


「あはは……」


  えっへんと胸を張っているけれど、まるで洒落になっていない。全て実際に起こった悲惨な事故だった。


「でも、ご主人様たちだけではこんな綺麗に作れませんよね。……その、監視役をされたという方に手伝っていただいたんですか?」


「野菜のおばあちゃん!」


「ファムさんに手伝ってもらったのですよ!」


「……二人に先に言われちゃったけど、うん。八百屋の奥さんがきてくれたの。あの人、ファムさんって名前だったんだね、さっき初めて聞いたよ」


「それは……」


  ––––私も、初めて聞いたかもしれない。


  思えば、長い間あの村にはお世話になっているのに、肝心の村民の方々の名前を私はほとんど知らなかった。


「私も、初めて知りました……」


「え、そうだったんだ」


  私自身、人の名前を呼ぶのが少し苦手なところがある。けれどやっぱり知り合いの名前は知っておくべきだと思うし、これを機会にこれからはちゃんと名前を聞いていこうと思った。


「それでね。お粥で無駄にしたもの買い直そうと思って村行って、世間話程度に事情説明したら、手伝おうか?  って言ってくれてさ。お言葉に甘えたら手伝うだけ手伝って、寝てるレーナちゃんチラッと見たらすぐ帰っちゃって……今度お礼しなきゃなぁ」


「その時は、私も一緒に行きますね」


「レーナちゃんはその前に体を治そうね」


「う……はい」


  諭されてしまった。


「そのための第一歩。はいお粥食べて」


「……じゃあ」


  よそわれているパン粥は、匙で軽く混ぜてみると、トロトロとそれに追従し、何らかの異物が入っているようには見えない。今回は変なものは何も入れていない様子。


  とても、美味しそう。



  ……きゅるる。



  食欲で気が緩んだ途端、私のお腹の中で間の抜けた音が鳴った。

  室内は静かだったので、そのまま響いてしまった。


「……あ」


  途端に顔に集まっていく熱。ニコニコと微笑ましげに私を見る三人。

  なんだろう。すごく、居心地悪い。


「レーナのお腹はもう元気なのです」


「それならレーナお姉さんお粥食べられるね!」


「ずっと何も食べてないもんねぇ……お腹空いてて当然よ。むしろ食欲あるみたいでよかったよ〜」


「……はい」


「別にそんな恥ずかしがることないと思うんだよね」


「……わかって、ますけど」


  なんだかがっついているみたいで、嫌なのだ。

  こればっかりは私の感性だし完全に理解されたいとも思わない。


  お粥の方は作られてやや時間が経っているのか、冷たくなってしまっている。が、火を通し直さなくて正解だったと思う。この三人だけに任せたら、きっと何らかの方法で再度鍋を爆発させる。今度こそ立派な放火犯の誕生だ。

  ……なんて、脳内に酷評を下されているとはつゆ知らずな三人は、私が食べるのを見守ってくれている。


「ねね、あーんしてもいい?」


  訂正、一人だけ見守らない人がいた。


「いやです。もっと熱が上がりそうです」


「……ちぇ」


  軽口の応酬はそれくらいにして、匙を深く差し入れた。

  粥は軽く揺れ、持ち上がる。


  匙に乗ったそれをよく見ると、黄色い粒が、点々と浮いていた。


「これ……何かのジャム、でしょうか」


「わっ、当たりだよ。レーナお姉さんすごい」


「果物のジャムなのです。ファムさんが持ってきてくれたのですよ」


「そんなことまで……本当に、きちんと御礼を言わないといけませんね」


「そうだよ。すごく心配してくれてたんだから」


  やっぱりあの人も心配……してくれたのか。

  買い物に行くたび、優しげに世間話をしてくれる老齢の女性の顔が頭に浮かぶ。

  そういえば、私がまだ麻袋を被って『不審者』呼ばわりされていた時も、あの人は気さくに話しかけてくれていたっけ。

  本当に、優しい女性だ。


「じゃあ……いただきます」


  私は、恵まれている。

  こんなにもたくさんの人たちに気遣ってもらえて。

  それなのに、私は自分の素性も隠したまま、今だってご主人様に魔法をかけてもらっている。


  いつの日か、この隠し(私が混じりである)事も、村の皆さんに打ち明けられたらいいな。


  受け入れてもらえるかは……ちょっと分からないけれど。



  色々考えるのはそこまでにして、匙を口に運ぶ。


「あ……」


  すると素朴で優しい、ほんのり甘めな味が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


  乳の良く染みたパンからは、軽く噛むたびに濃厚な汁が吹き出してくる。


「すごく、おいしいです……」


  なんだ、これは。こんなに美味しいものがこの世に存在していいのだろうか。


「……れ、レーナちゃんなんで泣いてるの!?」


「え……あ、れ」


  気づいたら、涙が流れ始めていた。

  濡れた視界の中で、三人が慌てふためいているのがわかった。

  胸の中で、ぐるぐる渦巻く激しい感情……感動、感激とでもいうべきそれが、猛威を振るう。心が振り乱される。


  なんで、どうしてと自分で自分の状態に驚いていたのは––––それこそ最初のうちだけだった。



  お粥の味自体は、変哲のない普通のものだ。

  けれど、いくら人の料理を模倣出来たとしても、私はこの味だけは真似できる気がしなかった。


  大切な人たちが作ってくれたという事実故、だろうか。この粥は、味とは別の部分でも確かに美味しいと感じるものがある。

  隠し味は愛情、なんて文句もあるくらいだし、作り手の気持ちは調味料になり得るのかもしれない。

  とにかくこのお粥は……私には、作れない味だ。

 

  ––––大切な人に美味しいご飯を作ってもらえることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。


  そのうち、私が悲しくて泣いているわけじゃないことに気づいたのだろう。

  ご主人様は心なしか誇らしげに聞こえる声で言った。


「お代わりも沢山あるからね。ゆっくり食べて?」


「はいっ……気持ちを込めて作ってもらった料理って、こんなにも、美味しいものなんですね」


  一度その味を知ってしまうと、匙を粥に差し込んでは口まで運ぶ手が止まらなくなった。

  こんなにもがっつくように食事をするなんて、今までの人生で記憶にある限り数回あるかないかくらいだった。

  それくらいに美味しくて……冷めているのに、とても温かくて。

  時間が経つにつれ、どんどん味がしょっぱくなっていった。

  もしかしたら……冗談ではなく生まれてから食べたものの中で一番美味しく感じているかもしれない。いくらでも食べられる自信さえあった。


「そーだよ、気持ちがこもってる料理ってすごいんだよ。レーナちゃんの料理なんか、これの数億倍の味なんだからね」


  ––––だから、ゆっくりで良いからちゃん元気になって、またレーナちゃんの美味しいご飯食べさせてね。


  そう破顔して言われてしまうと、早く体を治さねばと、俄然やる気になってしまう私だった。


「ダメだよ。急がなくていいからゆっくり確実に体治してね」


「……こ、心読まないでください」



****



  結局、私の風邪が完全に治ったのはそれからひと月半も後のことだった。


  思ったよりも、早く回復できた、というのが正直な感想だけど、ご主人様はレーナちゃんなかなか治らないよどうしようどうしよう、とゆっくり治せ発言をした本人とは思えない狼狽えようで後半は私の元を片時も離れようとしなかった。


  洗濯物などは恐ろしいほど溜まってしまったし、中には掃除の手が回らない部屋もできてしまったけど……それはまあ、別のお話。


  これまで、人に尽くすことに幸せを感じてきた私はその間、誰かに気遣われて尽くされる幸せを知ったのだった。


  慣れない感覚だった。けれど、嫌な気はしない。これもまた、一つの幸福の形なのだろうと思う。




  まあそれはそれとして、だ。




「げほっ……がほげほっ!」


  静かな部屋に響く咳の音。

  前述の通り、私の風邪はもう完治している。スミレちゃんに助けられながら、家事にも本格的に復帰し始めた。

  けれども止まない咳の音。

  その、発生源はといえば、


「……やっぱり移しちゃいましたね、すみません」


「……か、風邪は、人に移すと治るって言うし?  レーナちゃんの負担を、私が軽げほげほげほっ!」


「だ、大丈夫ですか!?」


「……の、のーぷろぶれーむ……」


  ……ご主人様、である。

 咳をしている時点でわかる通り、風邪を移してしまったのだ。

  私が闘病生活を送っている間––––特に最後の数週間、片時も離れようとしなかったツケがこんなにも明確な形で現れてしまった。

  申し訳ない気持ちで胸がいっぱいだけれど、何故かだか本人は熱を出し始めたその日からずっとにやけっぱなしなのだ。

  少し……否、かなり怖い。


「……えへへ、レーナちゃんの体内にいた菌が、今は私の中にいるんだね……なんかいいな、それ……へへ、えへへへへ……げほがほっ!」


「か、風邪の時でもそういった発言ができるのは……流石に、変態過ぎると思います」


  風邪にかかっても平常運転。それどころか発言の変態度が増しているような気さえするご主人様に、感心を通り越して呆れてしまう私だった。

 

最初幼女二人がいなかったのは多分、純夏さん自身がレーナさんの横でわんわん泣き噦っている姿を見られたくなかったから、二人きりにしてとでも頼んだのだと思います。実際泣いていたようです。



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