6:独り待つ平日
風呂入ってから予約投稿忘れて寝落ちする一連の流れ。またやった。
奴隷時代の一日の始まりは早かった。
起床するのが深夜帯なんていうのはざらで、それに比べてこの屋敷で送る目覚めの時は、なんと眩しいものか。
「んっ……ん、ぅ……あ」
瞼を持ち上げれば、どうやらもう朝が来たらしい。
太陽が頭を出し始め、鳥たちはそれを喜ぶように囀っている。
「んっ……んーっ!」
軽く伸びをすれば、微かに残る頭の重みを除いて、眠気の類いはどこかへ消えた。
––––ああ、いい朝だ。
数日前から享受している、爽やかな朝の始まりだった。
****
フライパンに流れ込む白いトロトロとした液体。
火を通していくうち、甘い匂いが鼻腔を刺激し始めた。
「いい匂い……ご主人様喜んでくれるかなぁ」
なんとなく呟いた独り言が主人を想う僕そのもので、思わず苦笑する。
ここに来てからの毎日は、とても明るく充実している。
ご主人様は数日経っても相変わらずだ。
よく笑う人で、彼女が寄り添ってくれるだけで私も嫌なことを思い出さなくてすんだ。
この頃はスキンシップが増えて、毎朝寝起きに抱きついてきたり、事あるごとに私のことを撫で回してきたりする。別に嫌じゃないと思っている自分がいることに驚いたりもした。
スキンシップを嬉しく思うように調教––––もとい、嬉しく思うようになってしまった私は、きっとご主人様に依存し始めているのだろう。
もうとっくに私は彼女を信じきっている。あの笑みや、優しい眼差しが全て嘘虚実で塗り固められてできているものなら、もはや私は誰も信じることができなくなってしまうだろう。
「おっはよー、レーナちゃんっ!」
噂をすればなんとやら、だろうか。もはや当たり前のように背後に忍び寄り、私に抱きついてくるご主人様。
私も私で調理中に抱きつかれた勢いで料理を台無しにしてしまわないように、彼女からスキンシップが来ることを常に警戒しているので、いつどのタイミングで衝撃が来ても和らげる事ができるだろう。……すごい下らない技術だ。
「おはようございます。ご主人様」
ご主人様は笑っている方が好みのようなので、できる限り微笑んで見えるように頑張る。
抱擁したことを冷静に対処されたのが気に食わなかったか、ご主人様は文句を申し立てた。
「えぇー? 反応薄いよぉ。もう順応しちゃったのかよーこいつめこいつめ可愛いやつめぇっ!」
くすぐられた。
「ひゃぁっ、く、くすぐっちゃ、だめ、れすっ、笑っちゃっ……ひっ、はひっ、料理、台無しにっ……」
「……あ。それもそうだね。ふっ、命拾いしたな、レーナちゃん」
パッと手を離してキリリッとキメるご主人様。カッコよくない。むしろ可愛……なんでもない。
「無駄に命を拾わないで済むように調理中はちょっかい出さないでくださいっ」
それ以外の時なら出しても良いって意味でもないけど。
「はーい! 今日はもう調理中ちょっかい出さないよー」
「『今日は』……?」
大きく手を挙げてから、そのまま居間へと駆けて行くご主人様。まるで童女だ。確か十七歳で私より二歳年上なのに。
明日以降もこのやり取りが続くことを仄めかす発言をしたご主人様に、ウンザリ半分、嬉しさ半分の細めた目を向け、私は目の前のフライパンに意識を戻した。
「ところでいい匂いだね。……今朝は何つくるのー?」
いつのまにか戻って来ていた彼女が、すんすんとフライパンからの匂いを嗅ぎ取って訊ねてくる。走り去ったのではなかったのか……というかどさくさに紛れてなんで私の匂いも嗅ごうとするの。
相手にしてもこれだけはやめてくれないと三日目で悟ったので、もうされるがままに好きなだけ嗅ぎ回らせてあげた。本当にそんないい匂いするのかなぁ。
臭いと言われるのに比べれば、ずっと嬉しいのだけれども、それを言ったらスキンシップが過激になるだろうから絶対言わない。
「パンケーキ、作ってみようかなって」
「……マジでかっ!? 私パンケーキだいすき!」
「なら、よかったです。……というか、もうすぐ食材が切れそうなので渋々お菓子にしただけですからね。明日以降はちゃんとしたもの作りますからね」
「な、なんかごめんなさい……」
「いえ、別に責めてないです。ご主人様、テーブルで待っていていただけますか?」
「ん。わかったー、できるの楽しみにしてるねー」
とてとてと歩いて行く。今度こそ、椅子を引き摺る音もしたし、戻ってこないだろう。
先も言った通り、今朝はパンケーキをつくってみた。理由としてはご主人様が甘いビスケットを好んでいることから、甘味に目がないことは知っていたため喜んでくれると思ったのと、ただ単純にロクな食材が残っていなかったためである。そろそろ買い物にでも行かなければ、調味料を舐めて生活することになりそうだ。
それはそれとして置いておいて。
手元のフライパンの上でホカホカと湯気を上げているしっかりとした焼き目のそれを見る限り、失敗はしていないと思う。
甘くて優しげな匂いが、お台所いっぱいに広がっている。
一度は彼女が自力で自炊しようと思ったのか、台所の隅に料理のレシピを書き留めたメモが立て掛けてあって、微笑ましく思いながら、それを参考にしてみた。
料理下手だという割にはキチンとした手順が記されていたため、大方誰かに教えてもらったのだろう。そして、結局は失敗したのだろう。
料理ができないのが奴隷購入に踏み切った一番の理由であると思う。……ご主人様が料理、できなくて良かった。
「まーだー?」
頭の悪い笑みを口元に浮かべていると、首を長くした彼女が間延びした声で催促してくる。
楽しみにしてくれている。ただそれだけで嬉しい。
「もう少しだけ、待ってくださいね」
「ういっすー」
どういう盛り付け方が一番喜んでくれるのか。
どんなものを出しても、彼女は美味しい美味しい、ワショクの百倍美味しい、なんて呟きながら、ガツガツとものすごい勢いで食らいついて行く。本当に女性なのかと疑うくらいの行儀の悪さで。
ワショクとは、彼女の国の伝統料理らしく、故郷の味よりも気に入ってくれるなんて、お世辞が多量に入っているのだとしても、十二分に嬉しい。
しかし食べっぷりは凄まじくとも、感想が『美味しい!』のワンパターンなのだ。
そうなってくると嬉しい気持ち半分、張り合いがなくて虚しいという気持ち半分に苛まれる。
何を出しても喜んでくれる。ならば、より一層質のいいものを出して、もっと喜んでほしい。なんて、考える。
いつから私は、こんなにもご主人様の喜ぶ姿を見たいと思うようになったのだろう。
「こんなものかなぁ……」
パンケーキを二つ重ねて最後にバターを天辺にのせたて完成。あ、シロップ忘れてたっ。ちゃんとかけよう。
「これで、よしっと」
うん、美味しそうにできたよね。
小さく頷いて拳を軽く握っていると、再度催促がかかる。
「まーだー?」
「できましたよ」
「やったー!」
「ふふふっ」
無邪気で可愛い、なんて考えてしまうのは、きっと贔屓目に見てしまっているからだろう。
こんな自然に笑みが零れるようになったのも、ここに来てからだ。
「お口に合うと、いいんですけど」
実を言えば、一度同じ手順で作って、味見はした。問題なく美味しくできていたと思う。百点に限りなく近い味だ。
概ねそれと同じ焼き加減で完成したから、きっと美味しい。大丈夫……大丈夫……。
初めてこの屋敷で作ったご飯といい、初めて他者に口にしてもらうのだと思うと、緊張してしまうのは当然だと思うのだ。
そっと、お皿を彼女の前に置く。
反応は半ば確信しているのに、それでもドキドキしてしまう。
「わぁ……! すごー! 焼き目すごー! おいしそー!」
本格的に今朝の彼女は幼児退行が進んでいる気がする。
見た目の評価は良好。けれども肝心なのは味だ。
極端な話、見た目が酷くとも、味さえ整っていれば料理は成立するのだから。
「いただきまーす!」
「召し上がれ、です」
本当にこの人は、なんでこうもキラキラと目を輝かせて、嬉しそうに食べてくれるんだろう。
そういう顔をされると、何故か無性に私も嬉しくなる。
置かれたナイフとフォークを使って、器用かつ行儀よく一口の大きさでパンケーキを切り取ると、はむはむと口に含んだ。要所要所では妙に立ち振る舞いが綺麗なんだよなぁ、ずっとそのまま維持してくれればいいのに。
しばらくもぐもぐと咀嚼して飲み込むと、ご主人様は顔を大きく綻ばせる。
「……お、おいしい……これはホットケーキミックス軽く超えてる……!」
感想の後半部の意味がよくわからなかったけれど、これは好感触。失敗はなかったようだ。
そうして、行儀も何も忘れた獣のような勢いで、彼女がパンケーキは貪り出すのだった。
「お代わりください!」
*****
「いってらっしゃいませ、ご主人様」
できる限りの笑みを浮かべて、手を振る。
品位を重んじた礼よりも、こちらの方がご主人様は好きであるらしく、最初に指摘されて以来礼法は捨てて対応するようにしている。
想定通り、彼女は破顔した。
「行ってきます! ……なんだか、こうやって家で待っててくれる人がいるって、やっぱりいいね」
一抹の寂しさを覚える表情が浮かんだが、同調も否定もする間も無くすぐにそれを打ち消し、ご主人様は手を振り返しながら、敷地の外へと出て行った。
さほど気負った様子はないが、これから彼女は命がけの稼業へ赴くことになる。ご武運を、ご主人様。
防犯の為と彼女に強く言われているため、玄関を施錠する。
「さて、暇だ……」
私はといえば、これからずっと、ご主人様が帰宅する頃まで、待機である。
言ってしまえば、前日までに働き過ぎたのだ。
窓拭きに、廊下掃きに、お台所のカスタマイズに、浴室掃除に、使用している部屋の掃除から整理整頓、エトセトラ。
労働時間は正確には忘れてしまったが、少なくともご主人様が帰宅するまでキビキビと立ち回っていたため、十時間以上はぶっ通しだったと思われる。うん、別に普通だ。
いざそれを彼女に言えば、顔を青ざめさせて、「八時間労働! 労働基準法に引っかかってる!?」「ワーカホリックだめぇ!」とわめき散らしてきたため、今日は事実上の休暇日になってしまったのだ。
「……暇……うぅ、掃除したい」
テーブルに突っ伏して、頭をガシガシと掻き毟る。
奴隷期間の反動か、私は一日の大半仕事していないと落ち着かない体質になってしまったらしい。もはや開き直って労働に楽しさすら見出だし始めていたのだ。そうでもしなければ劣悪な環境に精神が崩壊していたかもしれないし、一概にマズイとも言い切れない。
今だってそうだ。使っていない部屋の掃除だってしてしまいたいし、シャンデリアも掃除しなきゃだし、ベッドのシーツは変えられるなら毎日変えたい。布団だってほぼ毎日干したい。初日から延期になってしまった大掃除だって今すぐ……あぁ、働きたい働きたいぃぃっ。
「ほ、箒でちょっと掃くくらいなら……ちょっとだけ、ちょっとだけ……」
どういうわけかこの、辺境にぽつりと立つ大きな屋敷には私と主人以外に人がいない。一度は自力での家事も考えたのだろうけれど、結局私を買うに至ったということは、いろいろ察することができる。
例えば、ひっそりと隠すように置かれた、例のレシピのメモだとか。
物置にあった、真新しい箒だとか。
生活習慣の維持が、苦手な人なのだろう。
だからこそ、私が働くことで彼女の手助けになるのだ。そうだ、そうに違いない。だから私は働く。ほら正当化、私は働いていいんだ……!
『もし明日少しでも働いたら、明後日から一週間仕事休んで私がレーナちゃんの労働環境監視するからね。体壊したら何にもならないよ!』
「うぅっ……!」
昨夜夕食時に言い渡された忠告が頭をよぎり、抑止力となる。それが功を奏し、なんとか強烈な波は鳴りを潜めた。
しかしこの耐え難い欲求、それは何も一つではない。もう一つの方は、別に耐え難くもないが。
それは"寂しさ"、"孤独感"。たった一人でこの屋敷にいることが、今の私は寂しくて寂しくて仕方なかった。
これは明確な精神的変容だった。以前の私はたとえ一人きりで檻に放り込まれても全く動じなかった。
それがどうだ。明るく、面白おかしく騒がしいご主人様に買われてから、私は優しさに触れ、その温かみに溶かされるように、日に日に彼女に依存していく。
ご主人様が側にいると、どうしようもなく安心することさえあるのだ。
出会って数日、されど数日。もしもこの想いが何年経っても変えることなく、むしろ募っていく一方だったら?
わたしはいつか、寂し過ぎて泣いちゃうかもしれない。
これも全て、彼女のせいだ。彼女が優しすぎるから、私はこんなにも一人が辛くて。
「早く、帰ってきてください……」
ご主人様のいない孤独が耐え難くて、私はこんな独り言を呟いてしまうのだ。
****
呼び鈴が鳴る。
「ん……ん? あっ!」
ガバリと上体を上げる。
辺りは真っ暗。肘から伝わるこの感触はテーブル。
「……やっちゃったぁ」
どうやら眠ってしまっていたらしい。何気なしに目元を擦ると、少し潤っていた。
「寂しくて泣いちゃうって……もう泣いちゃってるよ」
……早く、休日来ないかなぁ。
そこへ再度呼び鈴が鳴る。また呼び鈴が鳴る。また、また、また––––。
「あっ!? もうご主人様帰っていらしてるっ!?」
ご主人様は夕暮れ時には帰宅する。でも、部屋には一切光が漏れ込んでおらず、辺り一帯真っ暗で……。
「あわ、あわわわわ……」
こんなにも焦ったのは初めてだ。図らずも間抜けな声が零れる。
かれこれ一時間以上、彼女は外で待っていることになる。
「す、すぐ開けますー!!」
––––これはまずいと慌てながらも、
「すみませんでした……お、おかえりなさいませご主人様……」
––––彼女の帰還を喜悦する、私がいた。
施錠を解き、玄関を開け放つ。
扉の前には、黒髪の少女が泣き目で突っ立っていた。
開いた先に私がいることを認めると、少女は涙腺を爆発させ、私へ抱きついてきた。
「うぐ……れえええなちゃぁぁぁぁぁん!! ごのままずぅっどあげでぐれないどおもっだぁぁぁぁぁ!!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!」
主人を外に数時間捨て置くなんて、奴隷でなく給仕でも、万死に値する。
どんな罰でも許容する、その覚悟はついているのに、
「嫌われちゃったのかと思った……明かりもついてなかったし、家出しちゃったのかもって……よかったよぅ……」
なんでそんな、全て終わったことのような顔で、安心したように私にしがみつけるのだ。
「その……仕事が無くて眠ってしまって……本当に申し訳ございません。それに、私にはこの屋敷以外にもう居場所はありません」
「ここに留まってる理由ってもしかして消去法!?」
「えぇっ!? ち、違いますよ!?」
たしかに今の言い方には語弊があったかもしれない。でも、そんな風に思われるのは心外だ。
「それで……その、怒らないのですか?」
「え、なんで?」
やっぱり彼女は不思議そうな顔をする。
「だ、だって……ご主人様を外に放置して、私はのうのうと眠り込んだりして……」
季節は春だ。夜だって、冬ほどでないにしてもそれなりに冷え込む。
寒かっただろうに。それに対して、私はぬくぬくと温かな屋敷の中で働きもせず昼寝だ。死んだ方がいい。
「んー……やっぱりそれは私のせいだよね」
にへへとなんでもないようにご主人様は言う。
「へ?」
「レーナちゃんに無理させてるって気づかなかった私の責任。レーナちゃんは限度を知らなかった。なら、私が教えるべきだったんだよね。やっぱり私のせいだ」
「そ、そんなこと……」
「あるよ。だって現に、働き続けたレーナちゃんは、疲れが祟って眠り込んじゃったわけだよね。適度に休むこと、私が教えそびれちゃったから」
「……」
「これからは、分からないこと私が教えていく。だから、今回のレーナちゃんはあんまり悪くない! それでおしまい! 私が悪い! さ、中に入ろう入ろう!」
声を張り上げ、私を元気付けるように、ご主人様はまくし立てた。ずんずんと屋敷の中へ歩いていく。
こんなの、反論できるわけないじゃないか。
「は、はい……」
渋々頷いて、私は後に続く。
「それで、お夕飯どうしよっか」
「……何も作ってないです。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「じゃあ、川で適当に魚釣ってきたから。それ丸焼きにして食べよ?」
「うぅ……不甲斐なくて申し訳ございません」
「しおらしいレーナちゃんも可愛いですぞ」
今日も今日とて、ご主人様の優しさが身に沁みます。
後、
「可愛くなんて、本当にないですから……」
筆が乗ってしまって2話分の話が1話統括に…
余談ですが、純夏に買われなかった場合、どんな人に買われようとレーナちゃんの人生はバッドエンド確定だったりします。