53:バレンタインなのだぜ。
今更すぎる。
背中に小さな袋を隠して、居間へ向かう。
今日は、ニホンの暦で言うところの『ばれんたいん』という特別な日であるらしい。
日頃の感謝や好意の現れとして、意中の相手や友人へチョコレートを贈るのだと、ご主人様は言っていた。
「……ふぁーぁ。ねむぃ」
言っていた、のだけれど。
そのことを覚えているのかいないのか、ご主人様は普段通りの気の抜けた顔でソファに背を預けている。
ニホンの女性も男性も、この日を少なからず意識していると彼女は言っていたのに、だ。
「……ご主人様。今日は、何かご予定とかってありますか」
「予定? えぇとねぇ……別に、このままダラダラしてるくらいだねぇ」
「……そ、そうですか」
やはり、ご主人様に『ばれんたいん』を特別意識している様子は無い。
ひょっとして、私はいつも通り揶揄われただけなのではないだろうか。
「––––」
『ばれんたいん』も、実は存在しない架空のお祭りなのかもしれない。
ご主人様は私を揶揄う時平気で嘘をつくから、今回だって、もしかしたら。
考えれば考えるほど、推測が事実のように感じられて、袋を握る手に力が入る。
が、中に入っているものが割れてしまう可能性に気がついて、慌ててに力を緩めた。
折角心を込めて作ったのだ、勝手に決めつけて、壊してしまうなんてあり得ない。
––––いつにも増して、気持ちを込めて作ったお菓子なのだから。
チョコレートは高価で、そうそう手に入らない。そもそも、この村には売ってすらいなかった。
これでは感謝の気持ちが贈れない……とがっかりしていると、たまたま最近お菓子作りにハマったという酒場の店主様が、ほんの少しとはいえチョコレートを分けてくれた。
彼には感謝の気持ちとして作りたてのクッキーを贈った。娘に渡したら喜ぶな、と嬉しそうに言っていた。
そうして手に入れた、大切で貴重なチョコレート。
大事に溶かして、液体状になったそれの中に自作のクッキーを沈め、取り出して固める。
かくして生まれたチョコレートクッキーが、今、私の背中に隠されている袋の中身の正体だった。
「……さっきからどしたのレーナちゃん。私の顔なんかついてる?」
「えっ? あっ、いえっ! と、とても可愛らしいお顔がついてます……!」
「んん……? ありがとう?」
黙ったまま自分を見つめ続けてくる私に対し、ご主人様は怪訝な表情で問うてくる。
焦ってややズレた返答をすると、やはり首を傾げながらも、ご主人様はまたへにゃりとソファに溶け込むように体を沈めていった。
––––渡そうか、渡すまいか。
歩みを進め、彼女の眼前へ。
「––––ご主人様」
食べて欲しい。美味しいと、喜んで欲しい。
悩んだ末、私は渡すことを選んだ。
****
今日はバレンタインである。
日頃の想いを女の子が意中の男の子へチョコレートに込めて贈る、とても繊細で美しい日……らしい。
らしい、というのは日本に居た頃の私には、意中の男子などいなかったからだ。
同世代の男子は例外なくガキンチョにしか見えていなかったし、かと言って年上も年上でおっさんにしか見えなかった。友達にそう言ったらアンタやっぱ変だわ、と真顔で言われた。何故だ。
ともかく、好きな異性いないウーマンの私の脳内には、バレンタイン=チョコが安い=女友達同士で気軽に友チョコを贈り合う日、の式が成り立っていた。
成り立っていた、のだが。
––––レーナちゃん、チョコレートくれるかなぁ……。
現在の私は、今までのバレンタインで味わったことのない緊張感を胸中に抱えていた。
レーナちゃんには、今日という日の概要を印象に残りやすいように何度も何度も、擦り込むようにして伝えた。記憶力がいいあの子なら、きっとチョコだって用意してくれていると思う、のだが。
「……ふぁーぁ、ねむぃ」
取ってつけたように下手くそな欠伸の演技をする。
あくまで自然体で。チョコレート? あぁ、そういや今日バレンタインだったね☆くらいの爽やかさを発揮して、レーナちゃんをキュンキュンさせるために……というのは勿論冗談。
本当のところは、ソワソワ感を表に出さないためのカモフラージュ。気の抜けた表情を顔に貼り付けて、バクバクと破裂しそうな心臓をひた隠しにする。
「……ご主人様。今日は、何かご予定とかってありますか」
平時の自分を装っていると、どこか強張った表情のレーナちゃんがこちらへやってくる。
おっと、もしかして本命チョコくれるの? 本命チョコなの?
「んん? えぇとねぇ……別に、このままダラダラしてるくらいだねぇ」
チョコレート! チョコレート!
「……そ、そうですか」
内心ワクワクしながらダラダラとした口調で答えると、レーナちゃんは何故か私を見つめたまましゅんとしてしまった。
あれ、私何か間違えてしまったのか。
「……さっきからどしたのレーナちゃん。私の顔なんかついてる?」
「えっ? あっ、いえっ! と、とても可愛らしいお顔がついてます……!」
「んん……? ありがとう?」
微妙にズレた返答を寄越すレーナちゃん。
こういう時、彼女は話を聞いていなかったり、考え事をしていることが多い。
何を考えているのだろう。チョコレート渡そうか渡さないか迷ってる、とか? ……いやいや待て待て。思考がバレンタインに毒され過ぎてさっきからチョコレートの事しか考えられてないぞ私。もしかしたらもっと別のことかもしれないじゃないか。
ここは、素直にチョコレートの有無を聞くべきだ。
「あっ、あのさ、レーナちゃ––––」
「––––ご主人様」
私の声を遮るように、レーナちゃんが言葉を発する。
そのまま目の前まで歩いてきたので、隣に座ることを促した。
どこか硬い不自然な動作で、レーナちゃんはソファに腰を下ろす。
「……何?」
「あの……今日が何の日だか、覚えていらっしゃいますかっ」
「え、あ、う、うん。もちろん覚えてるけど」
王国ではなんの変哲も無い日だったはずだけれど、日本ではバレンタインデーという、チョコレートが安くなるとても素晴らしい日だ。
首肯する私へ、レーナちゃんは慎重な面持ちで確認してくる。
「ばれんたいん……ですよね」
「ば、バレンタインだね?」
「チョコレートの日、ですよね」
「チョコレートの日、だね」
そんなやり取りを繰り返すと、レーナちゃんは得心したように、
「よかった……揶揄われてた訳じゃないだ」
嬉しそうな笑みを浮かべながらうんうんと何度も頷いた。……よくわからんけど、可愛いからまあいいか。
そして、
「そうです、今日は『ばれんたいん』です。ですから……その、こ、これをどうぞ」
言いながら、レーナちゃんはおずおずと『これ』とやらを差し出してくる。
成る程、動作がやけにぎこちないと思っていたら、彼女は背中に何かを隠していたらしい。
受け取ってみるとそれは、ピンクのリボンで上部を閉じられた両手に乗っかるくらいの袋だった。はぇー、やっぱり可愛いセンスしてるなと袋に顔を近づけた途端、僅かに苦味と甘味の混ざった特有の香りが、鼻腔をくすぐる。
やはり、これはまさしく––––、
「チョコレート、です。日頃の感謝の気持ち、親愛と、想いを込めて作りました。受け取って下さい……」
正直なところ、日頃の感謝なんて家事なりお世話なり美味しいご飯なり愛でさせてもらってるなりで、私の方が積みに積まされているわけなのだが。
強い意志に満ちたその瞳を見てしまえば、水を差すような気にはならなかったため、素直に受け取った。
「実は、結構楽しみにしてたんだよね。気にしてないフリしてたけど」
「えっ……そうなんですか?」
「うん。やっぱり好きな娘からチョコレート、貰いたいもん」
「……好きな娘」
ふへへぇ、とレーナちゃんの表情が緩んだ。
咄嗟にその頭へ手を伸ばしそうになったが、もし撫でたら違う表情に変わってしまいそうだったので、しばらくそのほわほわとした幸せそうな顔をじっと観察してみる。
「……って、あ、ぁあ、っ、み、見ないでくださいっ、今だらしない顔してます!」
が、長くは続かず、我に帰ったレーナちゃんが赤面し、こちらに背中を向けてしまった。
「えぇ、私そういう表情好きなのにぃ、つんつん」
「っ、後ろからほっぺ、押さないでくださいっ」
主に、幸せいっぱい、という感じのするところが好き。こちらまで、胸がぽかぽかと温かくなるのだ。
––––今になってようやく、バレンタインの真価に気づいた気がする。
好きな娘に、自分も同じくらい想われて、チョコレートを貰える––––自分のために、気持ちを伝えるために、わざわざ手間暇かけて作ってくれるのだ。
こんなに嬉しいことはそうそうない。
「……まぁ、ずっと同じ家で同じもの食べて生活してるわけだから、こんなドキドキする必要も無いんだろうけど」
しかし理性と感情はイコールになり得ない。どれほど近くにいても、レーナちゃんはやっぱり可愛いし、彼女から貰えるものは何から何まで宝物だ。
「わざわざ、作ってくれてありがとねぇ」
わしゃりと、ふわふわの髪の毛を撫でてやると、彼女は少しだけ身を寄せてきた。おおう、ふわふわぼでぃー。
「いえ、わざわざだなんて、そんな……作り方はむしろ簡単なものなので、手を抜いた、と思われてしまうかもしれませんし……」
「思わないよぅ。中身、見てもいい?」
「はい、どうぞ。もうそれは、ご主人様のものですから」
「やたっ!」
差出人の了承を受け、私はきつく締まったリボンを解いていく。
しゅるしゅるしゅるりとそれが完全に解かれると、中からより濃厚な香りが漂ってきた。
覗き込むと、そこには––––、
「チョコクッキー?」
焦げ茶色にコーティングされた、クッキーが入っていた。
形はお星様だったり、まん丸だったり。他にもナッツが軽くまぶされていたりと、それぞれ少しずつ特徴の違うチョコクッキーが、少なくとも八枚。
「はい。クッキーを、溶かしたチョコレートで、こぉ、こぉてぃく……」
「……コーティング?」
「そう、そうです。こーてぃんぐしました。美味しくできているといいのですが……」
「食べてみていい?」
「どうぞ」
試しに、一枚つまんで取り出す。まん丸で、普段食べているものと同じ形のものだ。
窓から覗く陽光にかざして眺めたり、ビターな匂いを存分に堪能した後、いただきますと勢いよく噛り付いた。
咀嚼すれば、やや苦味濃いめながら確かな甘みあるチョコが、ジワリと舌の上で溶けていく。それはクッキーのミルクな風味と混ざり合って、噛めば噛むほど、口いっぱいに濃厚な味わいが広がって。
「……おいひい」
率直な感想を零す。
めっちゃうまい。天才だ、やっぱりレーナちゃん天才だ。
「んもぅ……さすが私の未来のお嫁さんっ!」
「わぇ……!?」
こんなに美味しいお菓子を作ってくれた手腕を褒め回したくなって、私はレーナちゃんの小さな体を抱きすくめる。
最近は、もう嫌がられることもなくなった。そっと何も言わずに細い腕で抱き返されて、思わず額にキスしてしまう。
「……びっくり、する、ので、いきなり抱きしめないでください。体温と感触が心臓に悪いんですから」
そう言いつつ、ぼふっと私の胸に顔を埋めた。
「驚かせると面白い顔するからつい。鳩が豆鉄砲食らったって表現、結構的を射てるよね」
「ハトさんにそんな酷い事しちゃダメですよ……」
「言葉の綾だよ〜」
むにむにと、もう一度ほっぺを触ってみる。やはり弾力が凄い。炊きたてのお餅みたいな感触だ。
「やへへくらはいっ。ろーひてひゅぐにひろいろとひゃわるんれすかっ」
……怒られちゃったのですぐやめた。半分くらい何言ってるかわからなかったけど。
「なんかテンション上がっちゃって……でも、おふざけ無しで本当に美味しいよ」
「ありがとうございます……ふふ、やっぱり気持ちを込めた分、喜んでもらえるとこちらの感慨もひとしおですね」
素直に賞賛すれば、にへらにへらと笑みを深める最愛の女の子。
チョコレートも嬉しいけれど、こういった表情こそが一番のプレゼントだと思った。
「……これと釣り合うものなんてこの世に存在しないけど、ホワイトデーは、ちゃんとお返しするからね!!」
もしもチョコがちゃんと貰えたら、ホワイトデーに何かお返ししようと思っていたのだ。けれどもこれに見合う何かなんて、用意できるわけはなく。
「ホワイト……?」
「バレンタインのチョコのお返しをする日だよ。何か欲しいものない? 何でもいいよ!」
一生分の愛情からレーナちゃん専用のお城まで。流石に気持ちの対価にお金を渡すのはタブーだとして、私の持っているものや手に入れられるものなら何でも差し上げますよ。
「えっ、そんな……わ、私は、そんな打算的にチョコレートを贈ったわけじゃ……っ」
ただ気持ちを伝えたかっただけなのに、と彼女は続ける。
これだ。謙虚さの中に見え隠れする、この純粋さが私は好きなのだ。
自分の得なんて度外視で……レーナちゃんがその気にさえなれば、私なんて上手いこと口車に乗せてなんでも言う事聞かせられるのに。
その気が無いからこそ、私は彼女に見返りを贈りたくなる。
「お返しなんて、いらないですからっ」
「いやいや」
「だ、第一、今回のチョコレートは貰い物ですし、クッキーだって普段通りのものです。私が特別感謝される要素なんてこれっぽっちも……」
「作ってくれた事実さえあれば十分だよ〜」
「うううう……!」
「ほれ、とにかくなんか言ってみ?」
「いらないですっ」
おのれしつこい奴め。
「何でもいいから。『私がレーナちゃんに一生従僕権』とかも結構オススメだよ。生涯レーナちゃんの犬になるよ〜」
しつこく食い下がり続けると、もうこれは自分が折れた方が早く終わると悟ったらしいレーナちゃんが、ため息混じりに私に言った。
「はぁ…………本当に、何でもいいんですか?」
「うん!」
「じゃあ……一つ、お願いがあるのですが」
「うん!」
「毎日は、流石に多すぎると思うので……今日のような特別な日。時々でいいので、スミレちゃんと、ご主人様と、私で……しゃしんを、撮って頂けませんか」
「うん! …………うん? え、そんなことでいいの?」
「はい」
勿論、この世界に元々写真なんてない。
私の使える魔法の一つである『施錠魔法』は、発想次第で様々な分野に応用ができることが最近わかってきた。
空気をロックして宙を歩いてみたり、壁を作ってみたり。
視覚情報をロックして、紙などの媒体に貼り付ければ、擬似的に写真紛いのものを創り出すことまで可能だった。スクリーンショットのようなものである。
余談として、多分、『施錠』以外の魔法も使用者の発想力次第で様々な形に化けるのだと思う。基本的には法則に従った呪文を使う一方、柔軟性の高い分野なのだ。
「知らず知らず、記憶は色褪せてしまいますから……少しずつでも、形にして取っておきたいんです」
大切で、幸せな時間ですから、とレーナちゃんは続ける。
「撮っても全然いいんだけど……ってか、私は自分の姿写せないよ? ダメじゃん」
そこなのだ。私の視覚情報なので、自分自身を写真に収めることができない。ダメダメじゃん。
結果、私の部屋に厳重な管理施錠のもと収納されている数多くのレーナちゃん&スミレちゃんコレクションの中でさえ、ただの一つとして私が写り込んだものがない。カメラマン一直線なのだ。
問題点を提示すると、レーナちゃんは口元に手を当て、ふむ……と熟考し始めた。なんか可愛い。否、この子はいつも可愛い。
「え、と……視界に入り込むものが対象なら、姿見なんて使ったらダメなのでしょうか。左右が逆にはなりますが、ちゃんとご主人様の姿が写りますし」
「あ! なるほどぉ〜、天才か」
いや、私がバカなだけだった。
そうだ、鏡だ。自分を直接見られないなら、反射した自分を見ればいい。何故、今まで思いつかなかったのか。
「ふぁぁ……む? なんか部屋の雰囲気が甘っこいのですよ」
「あ、おはよ」
「おはようございます」
「おはよーなのです、スミカにレーナ」
そんなやりとりをしていると、とことことあくび混じりに小さな女の子が居間へと入ってくる。
癖っぽくぴょーんと何箇所か髪の毛が跳ねているその子は、勿論スミレちゃんだった。
「またイチャイチャしていたのですか。朝から盛ってるやがるのです」
「……口が悪いな幼女」
スミレちゃんは実はあまり朝が強くない。普段テンションが高い分、三日に一回くらいのペースで人を殺しそうな目つきで二階から降りてくるのは軽く言ってホラーだった。
「……おや、物理的にも甘い香りがするのです。……何か二人でスミレに黙って食べたのですね?」
怖い怖い睨まないで。
「チョコレートだよ。レーナちゃんに貰ったの。スミレちゃんも食べる?」
敏感にお菓子の匂いに反応した幼女の眼前に、覗き込ませる形でチョコの袋を差し出してみる。
相変わらず人を殺しそうな目でそれを眺め、くんくんと鼻を動かすスミレちゃん。
「んん…………なんなのですかこれー! めっちゃ美味しそうなのですよぅっ!」
「あ、テンション戻った」
スミレちゃん完全覚醒である。
「でも、それはスミカのモノなのでは……?」
え、いや別に独り占めしようなんて考えてないよ! ……いやほんとだよ?
内心でよく何者かに反論していると、レーナちゃんがスミレちゃんをナデナデしながら囁いた。
「その点は安心してください。スミレちゃんの分も、ちゃんと準備してますよ」
「わーい! レーナちゃんだいすきなのです〜!」
そんなこんなで、美味しいチョコレートを皆で食べて、コレクションの中にようやく私も写った一枚の加わったバレンタインなのだった。




