5:お菓子と紅茶と散髪と変化
「ふぃー……はぁ、美味しい」
「本当ですねー……」
かれこれこの屋敷に来て一週間が経過した。
初日に風呂場でトラウマが出来たことと、三日に一回のペースで添い寝をさせられること以外、この生活には何な問題はない。……いや、問題だらけじゃないかそれ。
現在何をしているかといえば、オヤツの時間にお茶会紛いのティータイムと洒落込んでいた。
「もうすっかりレーナちゃんもここに順応したねー、また一緒にお風呂入るー? ……あ、紅茶切れちゃった」
大皿に出されたビスケットを咀嚼しながら、キラキラと期待するような顔でご主人様は言う。
願望を踏み躙るように、私は断固拒否した。
「嫌です。……あ、お代わり淹れましょうか?」
手厳しいなぁ、なんて肩を竦めるも、すぐにこちらにカップを傾けて、催促してくる。切り替えが早いのではなく、もはやこのやり取りも冗談のようなものになっているからだ。
「お願いしまーす。いやぁ、レーナちゃんのお陰で同じ茶葉でも格段にいいお茶が飲めるよー。プロフェッショナルだねぇ、職人万歳!」
私はお茶淹れ機ですか。
内心少し傷つきながら、カップを受け取る。けれども実は少し照れてもいる。やはり命令されるのではなく、頼ってもらえるのは嬉しい。
私が照れていることに気づいたのか、瞳を覗き込むようにご主人様が顔近づけて来た。
「うーむ……せっかく可愛いのに、目元に髪の毛かかっちゃって顔がよく見えないのが、ちょっと……いや、かなり残念」
「……私のことを可愛いと言って下さるのなんて、ご主人様くらいです」
「だって本当だもん! 最近じゃあ仕草にまで可愛さが溢れ出てるし、もはや暴力的なくらいだよ?」
べた褒めが過ぎる。お世辞にも限度があるというものだ。
しかしそれを全て本心で言っているようにしか見えないのが、この人の凄いところであると思う。
時折間に受けて、本気にさせられそうになるくらいだ。
「もう……調子いいんですから……」
今だって、ちょっと顔が熱い。
「そうやってはにかんでる姿が、一番可愛いけどね」
「〜〜〜〜〜〜!!!?」
ちょ……追い打ちは卑怯だ。
「ちょ、おーいっ!? 紅茶ぁっ! 紅茶溢れてるよ!?」
気がついたら、テーブルの一部が水浸しになっていた。
****
テーブルを拭いていると、ご主人様はこんなことを提案して来た。
「なんなら髪の毛、整えようか?」
「はい?」
久しぶりの自己嫌悪に陥っていた時のことだった。
紅茶なんて、奴隷時代には絶対に飲めないものだったのに、それを無駄にしてしまった。
ご主人様は気にしないと言ってくれたけれど、私が気にしてしまうのだ。
未だ私が紅茶たちの無念を悔いているとはつゆ知らず、彼女は続ける。
「レーナちゃんの髪の毛。綺麗だけど、伸び方がなんだか無造作だし、整えたらもっと可愛くなるよ」
椅子から立ってトテトテとこちらへ歩んで来て、私の頭髪をくるりと指に巻き取る。
この人は、なんの躊躇もなく私のことを『可愛い』『綺麗だ』と形容する。絶対そんなわけないのに。
その特殊性癖には同意できないけど、髪の毛がお仕事の邪魔になっているのは事実だった。
いつまでもゴムで留めたりするのだって見苦しい。そろそろ潮時なのかもしれなかった。
「……ご主人様が、切って下さるのですか?」
ここに来て私が学んだルールは、『常識的かどうかではなく、とにかくご主人様の言うことは極力聞く』だ。じゃないとまた浴室で酷い目に遭わされる。
彼女の感性は、少し、いやかなり世間一般のそれからズレている。常識が通用しないのだ。
だから私には似合わない、ドレスみたいな給仕服を着せるし、命令(というかお願い)完遂の度にそれはもう気持ちよく頭をなでなでしてくれる。
今日のご主人様も例に漏れず常識に囚われない。またおかしなことを言い出した。
「うん、レーナちゃんのこともっと可愛くしてあげたい」
「可愛くなんて、本当にないですから……」
「私は可愛いと思ってるの!」
「ぁあぁぁあっもうっ……! なんでっ、いつもっ、そんなにっ、恥ずかしげもなく……!!」
テーブルを拭く力が図らずも強くなる。ぐらぐらと脚部が大きく揺れた。
「ぜぇ……ぜぇ……」
「と、とにかくどうかな? レーナちゃん次第だよ。可愛くなりたい?」
今の私には意思決定権が委ねられている。
今までの私の人生においては命令遂行、その四文字が、軸に置かれていたように思う。
可愛くなりたいか、という問い。
私は可愛くなんてない。それでも人並みになりたいという願望はあるし、今の醜い容姿から解放されたいという意味では、自分を変えたいという強い欲求がある。でも、結局可愛くなるなんて、どだい無理な話だから。
「ご主人様に、可愛い、と、思っていただきたい、です……」
こんな台詞、自分が言うことになるなんて思わなかった。
恥ずかしいけれど、でも、唯一私を『可愛い』と形容してくれたあなたに、もっともっと、気に入ってもらえたらなって。
彼女の中でだけでも醜くなく存在できるなら、それで満足だ。
羞恥に震える私を見て、
「……すごく、キュートです」
ご主人様が赤い顔で鼻を押さえていたのには、どういう意味があったんだろう。
****
春の日差しは心地よくて暖かだ。気分が高揚して、私は大好きな季節である。
屋敷が大きいからか、それに伴うように庭の面積もそれなりだ。
使われていない煉瓦の花壇は屋敷を囲むように設置されていて、伸び切っているとまではいかないまでもあまり手入れがされていないことが一目で見て取れる雑草がたくさん。……これは、今度手入れしなくちゃ。
多分言い出したらご主人様も一緒にやろうとし出すから、二人で楽しく賑やかにやれたらいいな。
こんなこと、少し前の私なら、考えることもできなかったことだけれど。
さて、現在私は庭で椅子に座って待機している。ご主人様が、「散髪に使えそうなもの一通り取ってくるからー!」と言ってドタドタ屋敷に戻っていったけど、後どれくらいかかるのかな。
「……きもちいいなぁ」
やっぱり春は四季で一番大好きだ。夏のように暑さに疲弊することもないし、秋のように寒さの前兆もなく、冬のように凍え死ぬ危険性もない。
ふわりと軽く頰に当たるそよ風が、この上なく心地よい。
やがて、風音とは全く異なる、草を踏む音が鼓膜に届く。
「––––おまたせ、待った?」
振り向いた先には、鋏や櫛などの入った木箱を持ったご主人様がいた。思ったより本格的だ。
「いえ。そよ風が気持ちよくて、あっという間でした」
「そっかぁ」
ここは風通しが良くていい。家事を終えてご主人様の帰りを待つ平日などは、ここで日向ぼっこをするでもいいかもしれない。
ガサゴソと木箱の中を探る彼女。そこには、鋏から始まり、ダガーナイフなどの刃物も混じって––––えっ?
「だ、だだだだダ、ダガっ、ダガーナイフっ!?」
「あ、これ?」
ご主人様は笑顔で箱の中の刃物の一つ––––ダガーナイフを取り出した。
シャリィィィン、と鉄の擦れ合うような音がして、鞘から引き抜かれる。
「ひぃっ! そ、そんな物騒なものを使うのですか……?」
頭皮剥ぎ取られたらどうしよう。血塗れは嫌だ。
「あははー、まっさかぁ! こんなの使ったら手元狂うだけで私の指ズパン、だよ」
冗談交じりに鞘に刃を戻して、箱の中にしまい込んだ。もう出さないで、お願いだから。
「初めて満面の笑みのご主人様が怖いと思いました」
「ん?」
職業柄、刃物に抵抗がないのだろうけれど、包丁のような日用品しか握ったことのない私には、それが散髪に使われる時点で恐怖しかない。
その後はどのくらいまでの大きさの鋏なら使ってもいいか私に尋ねながら吟味して、ご主人様は一通り道具を選び取った。
「それじゃあお客さん。今日はどうされますかー?」
「へ? え? あの……?」
「どういった髪型がお望みですかー?」
ごっこ遊び、なのだろうか。
ご主人様が床屋さん役で、私がそのお客さん役。
なんだか不思議な感覚だ。
「えぇと、ご主人様の、お好きなように、お願いします……」
ご主人様に好かれたいんだから、ご主人様の好きなように整えてもらわなきゃ、意味ないもんね。
「はーい、わかりましたー、頭をあまり動かさないようにしてくださいね?」
「は、はいっ」
「もっと可愛くしてあげますからね」
実は変な風に切られちゃうんじゃないかって、少し不安だったりする。
後、
「可愛くなんて、本当にないですから……」
****
チャキチャキと、小気味いい音が、庭の片隅で生まれては途切れる。
切り始めて二十分ほど経っただろうか。
ご主人様は木箱からおもむろに手鏡を取り出し、私へ手渡した。
成果を見ろ、ということらしい。
「わぁっ……!」
いざ自分の顔を映しこんでみると、前髪が眉毛にかかる程度で切り揃えられていて、とても綺麗に散髪がなされたことが一目にわかった。
「うわぁ……すごい……すごいです……」
うわ言のように呟きながら、指でひと束毛を摘んで長さを見てみたり、耳元の長さ調整の抜群さに感嘆したり。
化け物の容姿でもそれなりに見栄えが良くなった気がして、それが嬉しくて。何よりお礼が言いたくて、ご主人様の方を振り向いた。
「ありがとうございましたっ……! 慣れていらっしゃるんですね……! どなたかのご経験があるのですか?」
何かに感心したのは久しぶりだ。優しい主人の長所をまた一つ発見できて、尊敬の念が深まっていくことを感じる。
けれども彼女に喜んだ様子はなく、どこか寂寥感を覚える雰囲気を纏っていたのは、一体何故なのか。
「ご主人様?」
「……あ、あー、うん。年の離れた妹がいて、よく髪の毛切ってあげてたからそこそこ慣れてるんだ」
「そうなんですねっ!」
「……もう、会えないんだけどね」
「ぇ––––––?」
瞬間、これは良くない話題だったのではないかと、察してしまった。
万が一彼女のトラウマになっているような悲しい出来事があったのなら、無意味にその心を傷つけることになってしまう。
「すごく遠くにあるんだ、私の生まれた国。私の力じゃ、絶対帰れないくらいに。だから、家族とも、ね」
もう会えないんだ。そう、ご主人様の瞳は物語った。
予想通り、それは悲壮感に包まれた表情だった。
彼女の容姿は、私とはまた違った形で特殊だ。
この国ではまず見かけない、肩口までで整えられた漆黒の髪。肌は健康的に焼けているだろうか。大きくパチリとした目もまた、髪色同様に珍しい黒瞳だ。
加えて発育のいい、女性らしい凹凸を持った均整のある体つき。最低でも、私より一歳か二歳は年上であると思われる。
言葉選びもどこかふざけた様で道化じみているが、それは裏を返せばまともな言語教育が施された事から来る豊富な語彙の現れであると言えた。
それらの身体的、言動的特徴から、彼女がどこか遠く離れた国から来た衣食住に困らない富裕層の人間であると、私は当たりをつけていたのだが。
想定していない方向で、彼女は複雑な事情を抱えているらしい。
––––無為に傷つけてしまった……。
自戒の念に囚われる私は、何を思ったかほぼ反射的に言葉を紡ぐ。
「……あ、あのっ! いつか、帰ることができればいいですね……!」
何故こんなことを言ったのかはわからない。無意識に最適解だと思われる言葉を口にしたのか。
少なくとも、いつも笑顔な彼女には、哀しみで顔を歪めて欲しくなかったから。
「……うん、そうだね。帰れたらいいなぁ……」
「帰れますよ」
「レーナちゃん……」
「その時は、私もご主人様のご家族に会ってみたいな、なんて……」
「レーナちゃん……大好き! 一緒に挨拶行こうね!」
「うわぁっ……ぐるじいでず離れでぐだざい……」
次の瞬間、花開くように笑みを取り戻したご主人様を見て、ホッと息を漏らした。ただし抱きすくめるのはやめてほしい。首が絞まって死んじゃう、本当に死んじゃう。
「ふぐ、ぐ……」
主人を想って安堵するなんて、以前までならあり得なかったことだった。
励まそうとするのなんて、以ての外。
––––私の心は、何らかの形に変化を遂げようとしていた。
確実に、ご主人様の影響で。
ブックマークが増えているのは素直に喜ばしい事です。読者の皆様ありがとうございます。
ランキングから名前が消えて半分残念、半分ホッとしています。技量もなければ身の丈にも合わないと思っているので、いつか相応の文章力がついた頃に載りたいです。