4:お風呂
書きたいものを書こうとするとグダグダになるのが、僕の文章です。ご了承下さい。
私がこの屋敷にやってきた時点で既に正午に迫ろうかという時間帯だったためか、昼食を終えた頃には日が傾き始めていた。
ご主人様は窓の外を一瞥すると、苦笑しながらこう言った。
「……お掃除は、また今度にしようか」
「……はい」
ゆっくりお昼なんて食べてる時間なかったなぁ……。
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結局何も始めないまま一日がほぼ終わってしまった。
これから何か仕事をしても、中途半端に終わってしまうに違いない。
居間のテーブルで、ぐぬぬ……と唸っていた彼女は、やがて強く机上を叩き、口を切った。
「それじゃあ夕食にしよう!」
「先程お昼をいただいたばかりですが……?」
「うぅ……確かに。……それじゃあ寝よう!」
「まだ夕方ですが、明日の起床時刻は早いのでしょうか……?」
「うぅぅぅ……!」
なにか言うたび全否定されるのを耐えかねてか、ご主人様は崩れ落ちた。
この人はいちいち動きがオーバーだ、それになんとなく慣れてきてしまった自分が怖い。
「……ハッ、そうだ……ぐふふふ」
笑い方が汚い、常時の綺麗な笑みはどこへ行ったのか。
何か思いついた様子で、ご主人様は顔を上げた。
「一緒にお風呂入ろうっ!」
「え!? わ、私は先程いただきましたが……?」
「私がまだ入ってない! だから一緒に入ろう! これは家主の決定事項だ!」
「で、でも……一緒になんて……」
「うるへぇうるへぇ! これは決定事項なんだよっ! 大黒柱の意思は堅いんだぞ!」
「えぇ……」
かなり強引なやり取りを経て、ご主人様と私は共に入浴することになった。というか、された。
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「おーい! 入っていーよー!」
「うぅ……どうしてこんな目に……」
曇りガラスの向こうから、心地のいい高音が聞こえる。ご主人様の声だ。
ただいま私は貧相な体にタオルを巻いただけの情けない格好をしている。十中八九ご主人様のせいだ。
少しの間でも信じた私がバカだった。彼女は私を弄ぶ気なのだ。その証拠に、時折『でゅふ、でゅふふ……』などとお世辞にも綺麗とは言えない笑い声が浴室から漏れている。十中八九ご主人様だ。
私はもう(彼女曰く)奴隷ではないので、主からの命令に従う義理はないのだが、一応はこの屋敷に置いてもらっている身だ。家主としての彼女には逆らえまい。
泣き言が零れそうになるのを必死に抑えながら(実際涙目になっている)、私は浴室の扉を開けた。
「い ら っ し ゃ い」
「うにゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!?」
いつから隠れていたのか、彼女は扉の影に潜んで待ち構えていた。
「何を隠そうとしてるんだ、湯船にタオルは持ち込み禁止だぞ!」
「ここまだ湯船じゃないですっ! うわっ、やめっ、やめて下さいっ!」
にへにへと気持ちの悪い笑みを口元に浮かべながら、ご主人様は私の巻いたタオルを剥がそうとして来た。なんで!? こんな幼児みたいな体つきがそんなに見たい!?
「見たい」
エスパー!?
「私何も言ってないですっ! やめてっ……ホントにぃっ」
裸を見られたくない。そんな羞恥の気持ちだってあった。
それ以上に彼女には、身体の至る所にある傷を見られたくなかった。
「いいから、見せて」
「やだぁっ!」
『嫌われたくない』、そんな不可解な気持ちがあった。
やっと私のことを受け入れてくれる人に出会えた気がしたから。その人にこの体を見られて、今更軽蔑されたくなかった。
「傷、見せて」
「ふぇ……? き、ず?」
傷って……私の体の? なんで知ってるの?
よくよく彼女の顔を見上げてみれば、先程の悪ふざけの余韻などまるでない、真面目な目をしていた。
「最初に着てた服、ボロボロだったでしょ? 首元とかの、少し見えた」
「ぁ……」
迂闊だった……というか、服装が原因だったなら、あの布切れじゃあ隠しようがないじゃないか。
「最近出来たっていうより、昔からの傷跡っぽかったから。それだけ昔に付けられたなら、もっとたくさん他にも傷があるんじゃないかって」
「ぁ……あぁ……」
「ふざけてごめん。私、深刻な話の流れ作るの、苦手でさ。もし傷つけたなら、本当にごめんなさい」
得体が知れない、と思った。
そしてそれ以上に、変な人だと思った。
ただただ笑って明るいだけなのかと思ったら、こんな風に観察力があったりして。
その人相の良さと観察力、行動力があるのなら、他人を騙して良い思いをすることだって、容易くに出来そうなものを。
こんな簡単に、元奴隷に頭を下げたりなんかして。
「場合によっては治せるかもしれないの。私これでも冒険者だから、治癒力を促進させる魔法とか、覚えてるんだ」
「な、治るんですかっ」
痕が残るか残らないかなら残らないに越したことはない。無くすことができるなら無くしたい。
「かも、だけどね。だから、見せて?」
「う……はい。よろしく……お願いします……」
今でこそ慣れてしまったけれど、昔は自分の体を見るたび傷だらけで、心が痛んだものだ。
どうしてこんな目に、って。
タオルを解いて全てを曝け出すと、ご主人様の顔が歪んだ。
「……ひどい」
「っ……」
そんな言葉一つで、ホロリと一筋目から涙が溢れてしまったのは何故だろう。
「……ここは、大丈夫。ここは……ちょっと時間かかるな。ここは……少し痕が残るかもしれない。後は……」
ご主人様は、一心不乱に各部位の古傷、生傷に視線を駆け巡らせていた。恥ずかしいのはやっぱり耐えきれず、少し顔が熱くなる。
久しく感覚が麻痺していた。
今まで私の傷を見て、誰もが顔を歪めてきた。
『汚い』と。
だから、人間とはそういうものだと思い込んでいた。汚いものが嫌いな、それでいて何より自分たちが一番醜い存在。
でもこの人は違うのだ。
私を見て顔を歪めたのは、明らかな憤りから。
今までこの身体に傷を残してきた人間たちに対して、怒りを覚えてくれたのだ。
誰かに気遣われた。他者が自分のために感情を露わにしてくれた。
それがこんなにも、心を温かくしてくれる。
「––––あなたのお名前はなんて言うの?」
唐突に、そんな質問がなされた。
「私の、名ですか?」
戸惑った。私にそんなもの、あっただろうかと。
「うん。そういえば、ずっと名前聞いてなかったなーって。まさか、商品番号07なんて酷い名前じゃないでしょ?」
私の身体の隅々に視線を凝らしたまま、彼女はそう続けた。
きっと、黙り込んだままなのが落ち着かなかったのだろう。誰かと話すのが好きな人なのだ、多分。
「まぁ、はい。あれは……あの場での呼称のようなものでしたから……」
奴隷に本名などいらない。呼びつけられて、尚且つ他の奴隷と区別できる呼称さえあれば、それで事足りる。
「じゃあ、本当の名前」
「……すみません。わからない、です。覚えていません」
物心ついた時には親から化け物呼ばわりだ。そんなの、覚えている方がおかしい。
「そっか……」
「……だから、名付けていただけませんか?」
気づけばそんなことを口にしていた。
「え?」
「奴隷としての私は、ご主人様によって解放されました。それなら、立場を変えた私は新たに何か別の名称がほしいです。ご主人様に、名付けていただきたいです」
それは紛れも無い本心だった。
さっきは『一緒にお風呂に入る』発言で裏切られたような気分になったけれど、それが勘違いだとわかった今、やはりご主人様は信用に足る人物であると思えた。
恩人とも言える彼女に、名前をつけて欲しいと思った。
「……」
「私に、名前をください」
「……」
「駄目でしょうか……」
「商品番号07……」
「え?」
「ゼロと、ナナ……零と、七……れい、なな……れいな。––––レーナ!」
「は、はい?」
「あなたの名前はレーナ! レーナちゃんでどう?」
急に黙り込んだのは、私の願いに渋っていたからではなく、真面目に名前を考えてくれていたからのようだ。
「れーな」
口に出してみる。
商品番号07の、ゼロとナナを読み替えただけの一見安直なその名前は不思議と、パズルのピースが噛み合うようにしっくりきた。
私はレーナ。うん、気に入った。
「素敵な名前だと思います……!」
「うん、気に入ってもらえたみたいでよかった。それから……言い忘れてたんだけど、私の名前は純夏。家名は橘です」
「スミカ・タチバナ様……?」
「そうそう」
そこまで言って、「よし!」と彼女は頷き、視線を私の身体から外した。どうやら、傷の点検の方も終わったらしい。ふーっと息を吐けば、体に燻る熱が発散されていくようだった。
「あんまり一気に促進させすぎると死んじゃうから、毎日少しずつ魔法かけるね。見た感じ、傷痕は殆ど残らないと思う。不衛生にしてたから膿んじゃってるところもあるけど、なんとかするから」
少し前半部で不穏な言葉が聞こえたけど、こればっかりは魔法を行使する側に全面的に委ねるしかなさそう。とにかく、傷が治るなんて夢みたいだ。
「あのっ、ありがとうございました……!」
「いえいえ」
ぐぐーっとご主人様は伸びをした。少し疲れた様子だ、それだけ魔力を使って点検してくれたのだろう。
「それじゃあ、改めてよろしく、レーナちゃん」
––––素敵な名前を貰えて、傷まで治せて、その上これ以上無いくらい優しくしてもらえて。
「は、はい。よろしく、お願いします……」
「–––手始めに洗いっこね!」
––––本当にいい人……って、え?
「へ? ……あ」
そうだった、当たり前だけどここは浴場だ。
当初私たちは、一緒にお風呂に入るのが目的だったのであって––––。
「や、やはり入浴とは一人でするものじゃないかな……なんて、私は……お、思うんです。そういう訳なので、もう出ようかな、なんて」
「痩せてるけど、顔とかぷにぷにしてそうだし、抱き心地良さそうだし、可愛いし……ぐふ、ぐふふ、ぐふふふふふ」
聞いてないよ……。
さっきの悪ふざけとは訳が違う。正真正銘、私で遊ぼうとしている顔だ。
凄まじく身の危険を感じる。逃げなければ絶対隅々まで洗われる。
「ご、ご主人様っ!? 扉が、開かないのですがっ」
曇りガラスの扉は、何故か閉め切られたように開かなくなっていた。
なんでだ、入る時はスルスルと滑るように開いたのに! ピクリともしないよ!
「あーうん。施錠の魔法かけた」
魔法って便利だなぁ……じゃなくて!
「ど、どうか慈悲を……死にたくないです……!」
扉を背に後ずさる。ただし、もうこれ以上後ろに下がれそうにない。
「ふふふっ、だいじょーぶだよ」
ご主人様は、艶やかに笑った。
「––––洗い残しがないように、全部綺麗にしたげるから」
妖艶とは、こういう表情のことを言うのだろうな、なんて。
「……ひぃっ」
現実的逃避気味に、考えていた。
「うわぁぁぁぁ––––––––––––!!」
「うっぐ……ひぐ……ひぐっ……うぅ……」
––––その後のことは、己の尊厳のために記憶から消しました。
「ふー、めちゃめちゃ癒されました」
終始ご主人様がノリノリだったのと、隅から隅まで綺麗にしてもらったことだけは、うっすらと覚えています。
「じゃあ、先に上がるね。あんまり長いとのぼせちゃうから、程々にして出ておいで?」
そうして後ろから私を抱きしめていた手を離し、彼女はザバァッと波紋をつくりながら立ち上がりました。
「あ、そうそう」
「……?」
おそらく、天に召された魚の瞳のようになっているであろう目を持ち上げ、私は彼女を見やります。
「いっぱいいっぱいイイ声で鳴いて、甘々なレーナちゃん可愛かったよ」
振り向いたご主人様は、それはもう清々しいくらいにイイ笑顔で言いました。
そうして彼女は浴室を出ると、鼻歌混じりの足音を立てて、遠ざかっていきます。
湯船に残されたのは、半ば放心状態の私。
なんだかやるせなくて、たくさん涙が出てきました。
「うぅ……うぅぅぅぅっ……」
私が覚えている覚えていないに関わらず、尊厳は踏みにじられていたようです。記憶消去の意味がありません。
もう二度と誰かと一緒にお風呂に入ったりしないと、滂沱の涙に誓った瞬間でした。
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