32:喧嘩するほど何とやら〈後〉
百合作品に出てくる寝取りチャラ男は総じて死すべしです。聖域を穢すな。
「ふんだっ、レーナちゃんなんて知らないよ!」
怒ったご主人様は、そのまま屋敷を出て行ってしまった。
それをキッカケに、徐々に頭の芯が冷えていくような感覚を覚えながら、
「ぁ……」
私は、半ば無意識に彼女の消えていった方角へ腕を伸ばそうとしていた。
脱兎の如き素早さで丘を駆け下りて行ってしまった彼女の姿は、もう見えない。
「ご主人、様……」
言ってはならないことを、口にしてしまった。
****
私にはご主人様も知らない日課がある。
それは、彼女の寝顔を静かに眺めることだった。
その無防備で可愛らしい顔を、世界で私だけが知っている。見つめている。事実上の独占状態。私だけが完全に独り占めできる姿。
それらの要素が、私の気分をどうしようもなく高揚させる。たとえ疲れが溜まっていようと、吹き飛んでしまうくらいに。
「ふふふん……今日もご主人様は愛らしいなぁ」
その日も、いつものように愛らしい寝顔を晒して眠るご主人様をしばし見つめた後、
「ご主人様、起きてください」
「ん、んぅ……?」
体を揺さぶって目覚めさせ、寝起きの彼女の抱擁を慣れた動きで回避し、台所に戻った私。
––––また見られてる。
背後から、テーブルに着くご主人様が私を見つめる温かな視線を感じ、胸が同じくらいの熱でぽかぽかと暖かくなっていくのがわかる。
あぁ、今日も幸せだ……と多幸感を噛み締めていると、
「レーナちゃんにも、たまには休日気分を味わってもらいたい」
不意に、ご主人様がそんなことを言い始めた。
それが全ての始まりだった。
私は休日なんていらなかった。その日もただ、ご主人様に平日の疲れを癒してもらうべく、お世話をしたくて。
そんな些細なことなのに、あなたは許さないというのか。奪おうと言うのか。
実際にそういう意図は無かったはずだけれど、私の心は、まるで奈落に突き落とされたように荒んだ。
そこからは、受け言葉に買い言葉。思ってもいないことを、いくつも彼女にぶつけてしまったと思う。
天寿を全うしろ、なんて酷いことも言ったし、大嫌いなんて最低な言葉も吐いた。
そして気づいたら、私に背を向け走っていくご主人様がいて。
昼時になっても、彼女は戻ってこなかった。
****
いつだったか、夕食時になってもご主人様が帰宅しなくて、泣いた日があったなと、私は嗚咽を漏らしながらぼんやりと考えていた。
あの時は、ご主人様は休日なのに緊急で仕事に出ていて、確か大量発生したモンスターの討伐に向かったんだ。
それで、夜になっても戻ってこなくて、色々と最悪の状況を想像したりして、次の日の朝、ようやく帰ってきたと思ったら、お医者様のお世話になるような大怪我を負っていて。
しばらくの間、ご主人様がいなくなるのが怖くなって、もっと存在を感じたくて、過保護になってしまっていた。
––––では、今回のこの状況はなんだろう?
仕事というわけでもなく、何か用事があった訳でもなく、今朝の言い争いののち、ご主人様は私に愛想をつかしたように、いなくなってしまった。酷く激怒していたことをハッキリと覚えている。
命の危険がある仕事に赴いたわけでもない。ただただ、私が彼女の思いやりを受け入れもせず、押し返して、加えて酷い言葉も添えただけ。
なんてことはない。ただ、私が原因の仲違いじゃないか。
それで帰ってこないということはつまり、
「きらわれた……っていうこと」
ここに戻らない理由なんて、それしかあり得ないじゃないか。
ようは、私の顔なんて見たくないのだ。私がいる場所になんて、戻りたくないのだ。
何度思考を洗っても、それ以外の理由は見つからない。
「きらわれた……きらわれちゃった、のかな」
そう反芻すると、また熱いものが涙腺から漏れ出しているのがわかって、私は鼻をすすった。
「やだ……やだやだやだ……ぐずっ、そんなの、やだ……っ」
私は弱い。それは、この屋敷に来て何度も痛感したことで。
愛情に弱い、温情に弱い、恋情に弱い、拒絶に弱くて、そして何より孤独に弱い。
感情を抑えるだの、元は奴隷だから平気だのと、虚勢を張っても結局私の本質は脆い。
独りは嫌だ、寂しい、辛い。
ご主人様がいてくれないと、私は、耐えられない。
謝る機会が手に入るのなら、私はいくらでも頭を下げる。彼女の望むものは、何だろうと明け渡す。
謝罪はどこまで言っても自己満足でしかない。そんなのはわかってる。私は、許してもらいたくて謝りたいんだ。その考えが汚れていることなんて、わかっている。
それでも、探しに行く、なんて選択肢は、怖くて取れなかった。酷く臆病だ。
もし彼女を探し出せたとして、また拒絶されたら、きっと私は比喩でもなく死んでしまう。
だから私は情けなくも、その場を動かずご主人様の帰りを待ち続けることしかできなかった。
謝罪の機会が与えられるのを、ただ扉の前で待ち続けることしかできない、弱くて意気地のない、最低なやつだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい…………ぁ」
それから数時間後、静かに目の前の扉が開かれて。
私は思わず、その先に見えた彼女へと、飛び付いていた。
****
「改めて、たっ、ただいま……レーナちゃん」
「おかえり、なさいませ……ご主人様」
ご主人様は帰ってきた。帰ってきてくれた。
けれども気まずい雰囲気だった。すべて私のせいだ。
こんな時でも、ご主人様は優しかった。
私がみっともなく泣き喚いてる間も、どこか痛いところでもあるのか、何故泣いているのか、なんて躊躇いがちながらも聞いてくれたり、その時以外はずぅっと無言で私が泣き止むのを待ってくれた。
––––酷いこと、たくさん言ったのに。
きっと、片時だけ自分の憤りを取り繕って、気遣ってくれてるんだ。
––––本当にたくさん、悪口言ったのに。
その事実から、私は向かい合ってから、一度もご主人様の目を見れずにいる。顔を背けてしまう。
この期に及んで、まだ怖いのだ。どんな目で、見られているのかが。
きっと冷たい軽蔑の目をしている。とうとう私は、恐怖で目を強く瞑ってしまった。
誰かと喧嘩をするなんていうのは初めてだった。今まで私の周囲にいたのは全員が私より上の立場の人間で、彼らは総じて私に罰を与える権利を持っていた。だから言い争いなんて起きるはずがなかった。
私の意見を真摯に聞いてくれる人なんて、ご主人様が初めてだったんだ。
なのに付け上がって、挙句怒らせて。
私は最低だ。思いやりも理解できない最低なやつだ。
––––謝らなくてはいけない。
ご主人様は私の体を気遣ってくれたのに。勝手に存在意義を奪われたような気になって。
謝りたかった。ご主人様に決別されたら、私は生きていけない。ご主人様が大好きだから、ご主人様がいてくれなきゃ、もう私は生きてはいられない。
––––今ここで、謝ろう。
頭を下げるその直前まで、目を瞑ったままでいた。
「……レーナちゃん」
彼女の静かな声だ。私を咎めるでもなく、ただ名前呼んだような声。
それに私はそっと包み込まれるような安心感を覚えて。
「……ご主人様」
踏ん切りが付いた。
そっと彼女を呼び返して、頭を下げながら、謝罪を勢いよく口にする。
しかし––––、
「「ごめんなさい!」」
……え?
私の声はもう一つ別の声と重なって、霞んでしまっていた。
––––ご主人様の、声?
何故か私の『ごめんなさい』に、ご主人様の声が重なっていた。
「「へ? なんで」」
疑問さえ重なる。
どういうことだと閉じたままだった目を恐る恐る開けると、
「……」
何故か、足元に私を見上げる態勢になったご主人様がいて。
その黒い瞳には、瞠目した私の顔がしっかりと写り込んでいた。
これは…………一体どういうことなのだろうか。
どうやら、事は私の一方的な謝罪では解決しないものらしい。
「……」
「……」
混乱が重複する。
困惑して、私たちは向き直る。
最初に口を開いたのはご主人様だった。
「な、なんでレーナちゃんまで謝るの?」
「へ……だ、だって、私が悪くて……ご主人様のお心遣いを無下にしたりしてしまって。……ご主人様こそ、何故謝るんですか?」
「それは私が悪いから……」
「えぇっ!? 今朝の話ですよね!? それなら明らかに私が悪いじゃないですかっ」
「そんなっ、それは違うよっ! だって、私が勝手にレーナちゃんは望んですらいないのに仕事奪おうとしたんだよ? 落ち着けがましいにも限度があったでしょ? だから全部、私が悪くて……!」
「いえ、それを言うならご主人様に散々酷いことを––––」
「いやいや、なら私だってレーナちゃんに最低なこと言ったし––––」
「えぇぇ……?」
「えぇ……?」
そこで一旦話は区切って、互いに首を傾げてしまう。
互いに互いの心境を正しく理解していなかったことだけは、よくわかった。
「ご、ご主人様は、怒ってないんですか?」
怖くて一度も確認できずにいたこと。
「いや、私は別に。レーナちゃんこそ、怒って、ないの?」
「今朝の言葉は殆どが勢いで言ってしまった言葉です。本心じゃありません。怒ってなんか、あるわけないです……」
「そっ、か。そう、なんだ…………よかったぁ」
ご主人様は力の抜けた笑みで、ホッと息を吐いた。
だんだんと、空気感が普段の温かいものに戻りつつある。
和解しそうな雰囲気にこそなっていたが、私たちはまだお互いに伝えなければいけないことがあった。
「私は、きちんとご主人様に謝りたいです。悪いのは、私ですから」
「私も、謝りたい。全部、私のせいだし」
頑なに己に非があると断じ、相手の非を認めない。
互いに誤解が晴れたとしても、傷つけたという事実がある。謝罪を交わさないわけにはいかなかった。
「折角のお気遣いを無駄にした挙句、酷いことばかり言ってごめんなさい! ご主人様のことを嫌いになったことなんてありません! 今もっ、ごれがらもっ、ずっとずっど大好ぎでずっ!」
今度の先手は私だった。それに、すぐさまご主人様が続いて、
「疲れとか勝手に決めつけて無理やり休ませようとしてごめん! 優しくできないとか知らないとか言ってごめん! レーナちゃんのこと本当は大好ぎだがらぁっ! ごめんなざいいいっ!!」
後半は私もご主人様もみっともないくらいに涙声だった。
お互いに、かどうかはわからないけれど、少なくとも私はご主人様に嫌われるのが心底嫌だった。だから、また元の通りに彼女の接することができるのが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
二人揃って鼻をすすりながら、勢いよく頭を下げる。
「「今朝は、本当にごめんなさい!!」」
かくして、私たちの初めての喧嘩は終わりを告げた。のだと思う。
反省しなきゃいけないのに、言葉をぶつけ合ったことでまた一つ親しくなれたような気もして、ちょっぴり嬉しい複雑な気分だった。
****
「で、仲直りって、これでいいのかな」
軽く腰に腕が回されていて、抱かれているような状態。
私を膝の上に乗せながら、ご主人様は曖昧に笑った。
「……私は、人と喧嘩なんてしたことなかったので、よくわかりません。ひと段落は、ついた気がします」
「……そっか」
直後、頭部にふわりとした感覚が走る。撫でられているのだ。あぁ、気持ちいい。
「ふふふ」
「レーナちゃん笑った。かわいい」
「ご主人様に撫でられるのは、大好きですから」
「レーナちゃん何気に甘えん坊さんだもんね」
「……はい。甘えん坊です。もっと甘やかして下さい」
「あ、デレた」
自覚はあった。けど、みっともないような気がしたから、認めてこなかった。
でも、それは違うとわかった。大好きな人になら、みっともなくたって、甘えたい。甘えられる人がいることが、何より幸せなんだ。甘えられるなら、存分に甘えればいい。
「私たち、喧嘩したの初めて、なんだよね」
「そうですね。初めてです」
一年もの間、同居していたと言うのにだ。
私はまだ鬱憤を溜め込むのには慣れていたけれど、ご主人様はきちんとした環境で育った人間。溜め込んだものは、適度に吐き出さなくては決壊してしまう正常な感性の持ち主で。
きっと、今まで無意識のうちに気持ちにセーブをかけていたのだろう。でなければ、毎日ただ笑い合うだけで済むはずがない。私に対して苛立ったことだってきっと一度や二度ではないくらいにあるはず。それがたまたま、今朝爆発しただけであり、
「これからも、またこんなことがあるかもしれないけど」
仲違い、罵倒の応酬、激昂からくる勢い任せの拒絶。
「––––」
「それでも私は……ちゃんとレーナちゃんが好きなままだよ。酷いこと沢山言っちゃうだろうし、こんな軽々しい性格だからレーナちゃんも私のこと憎んだりするかもしれないけど」
「ご主人様に対して、そんなこと––––」
「今まで生きてきたのとは違うんだよ。––––レーナちゃんはもうこの屋敷で普通に暮らしてる女の子なんだもん。奴隷じゃないの。全部全部、溜め込んで目を逸らそうとする必要ないんだよ」
「––––っ」
咄嗟の否定は遮られ、己の人権を他者から説かれる。
「……だから、対等に恋人として、家族として、これからも同じ家で生きていく者として」
ご主人様は、ほんの数瞬俯いて、
「たまにでいいから……私とまた、喧嘩してくれませんか?」
射抜くような決意の瞳を持って、私に訴えかけた。
「……」
喧嘩してくれ、なんて変な話だ。けれども健全に、互いを本当の意味で尊重し合うのなら、上辺だけを取り繕ったただ楽しいだけ、ただ幸せなだけの関係でなく、喧嘩も仲違いも憎悪も嫌悪もひっくるめた、本音のやり取りが確かに必要であり。
「……いいん、でしょうか」
弱々しく漏らしたのは、躊躇が色濃い私の声音。
「私、学も語彙力も無くて、興奮したらきっと、今朝みたいに同じような悪口ばかり喚きます。ご主人様を、怒らせます」
「バカとアホとか、別にいいと思うよ。そういう言葉しか言えなくなるのも、結構可愛いと思う」
思考が停止している。変人だ。バカみたいだ。この人は、いつだって今だって、私の全てを可愛い可愛いと持て囃す。感性が狂ってるとしか思えない。
それに、その『可愛い』は全て本心だとわかるから、余計にタチが悪い。世辞の入る隙がないのだ。
「……溜めるだけして生きてきたので、適度な吐き出し方だってよくわかりません。些細なことで急に、大声を出すかもしれません」
「大声って、出すとストレス解消になるんだよ? いいじゃん、それって立派な吐き出し方だよ。どんどん叫べばいいよっ!」
こじつけたような微妙にズレた返し。何が何でも己の意見に正当性を持たせようとするそれは、彼女の口から出ると不思議な説得力を持つ。
「……そうやって、私が何を言っても受け入れようとするんですか?」
全肯定だ。ご主人様は、私を否定しようとしてくれない。どこまで私をつけ上らせたいのだ、この人は。
「当たり前じゃん! そういう諄いところだって、レーナちゃんの可愛いところよ?」
「……ご主人様はそればっかりですね。可愛い可愛いと、それしか仰りません」
「んへへ。私、諄いでしょ」
私を形容した言葉を、敢えて自分にも当てはめる。
けれどもまさしく当てはまる言葉だと思い、素直に首肯した。
「はい、諄いです。……でも、嬉しいです」
諄いからといって、言葉が軽いだなんて思わない。ご主人様はその発言一つ一つに気持ちを込めてくれている。態度での感情表現が苦手だと自称する彼女は、その分だけ声音に情を乗せてくれる。
「レーナちゃんも私も、どこまで行ったって普通の人間なんだよ。喧嘩だってする。そんな当たり前を今まではしてこなかっただけ」
「……はい」
「だから、だからさ……もっともっと喧嘩しよう。気に入らないところがあれば指摘して、指摘されたらそれを直してさ。互いに、もっともっと好きになれるように」
「……私が、ご主人様を?」
「そう。それで私がレーナちゃんを」
「喧嘩、して」
「そう。喧嘩して」
「……なんだか、そんな風に仰られると喧嘩が良いことのように聞こえるのが不思議です」
「良いこととまでは言わないけど……喧嘩するほど、仲が良いってね」
「……」
今朝は、初めて心の底から、真っ向から、言葉をぶつけ合った気がする。言い争いというには稚拙なやりとりだったけれど、それでも貴重な時間を過ごせた。
喧嘩するほど仲が良い、という言葉を聞いた。そんな関係に、なれたらいいと思う自分は確かにいて––––、
「私、喧嘩頑張ってみます」
––––それだけで、彼女の願いを受け入れるには、十分だった。
「……うんっ。なんか言葉がおかしい気がするけど、二人で頑張ろう」
「はいっ」
喧嘩の仕方は難しい。相手のことは、否が応でも傷つけてしまうし、その逆も然りだ。そもそも、仕方なんて考えてる時点でおかしいのかもしれない。上級者は喧嘩なんて自然と行えてしまうものなのだろう。対等な人間関係は複雑だ。
けれど、もうご主人様に拒絶される恐怖はない。仲違いしてしまったなら、ただ仲直りすればいいのだと。
至極単純なことを、私はこの日身を以て知ったんだ。
「ご主人様。今朝の件で、妥協案があるんです」
「えっ、なになに?」
「二人で、分担して家事をしませんか? 落とし所としては、これが一番なのではないかなと」
「––––うん! それ、いいと思うっ。レーナちゃんがいいなら尚更」
「じゃあ、決まりですね」
この後めちゃくちゃ部屋散らかした純夏に二度と家事やらせない宣言したレーナちゃんでした。




