30:欺く魔法
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持っていたものはひとまず床に置き、手の甲で扉を叩く。
趣ある木製のそれからは、こつんこつんという情けない音がした。
「どーぞ」
気の抜けた声だ。万人を聞き惚れさせるほどの美声ではないけれど、私にとっては世界で一番愛おしくて暖かな声。
失礼しますと一つ呟き、私はドアノブを引いた。
「お茶とお菓子です。おやつの時間になっても降りてこられないので、持ってきました」
室内を入ってすぐ左にはクローゼット。向かいには窓があり、西向きに傾き始めた日の光が容赦なく視界に飛び込んでくる。
その右側にはベッドがあり、水色のカバー付き毛布が整った形で乗っかっている。窓を挟んで左には、書斎と見紛うような天井まで届く大きな本棚――――ただし中はあまり埋まっていない――――、そして付随するデスクがあって。
デスクの正面に腰かけ、机上とにらめっこする黒髪の少女――――ご主人様がいた。
「あ、もうそんな時間?」
パタン、と何かを閉じるような音がする。彼女の手元を窺うと、どうやら厚みのある書物を黙読していたようだった。椅子の上でクルリと上体を回し、私に向き直る。
読書の邪魔をしてしまったかもしれない――――自分の行動のお節介さを今更に痛感し、私は踵を返そうか迷った。
一応、尋ねてみる。
「はい。いりませんか?」
「いるいる! プリーズ!」
私が部屋へ入るまでの静けさなど嘘のように、ご主人様はよく耳に響く声で返答した。
いらない、という選択肢はないようだった。
「じゃあ、置いておきますね」
デスクのわきの、邪魔にならないスペースにお盆を乗せた。
「え、もう行っちゃうの……?」
「読書の邪魔をしてしまうのもなんですし」
集中していた様子だし、すぐにでも読み進めたいものだったのだろう。
コップは二つ持ってきていたが、居座るのもなんだし。予定を切り上げて、私は一階の掃除でもしていようと思った。
「邪魔じゃないよ。むしろ一緒に食べたい。一緒にいたい」
誘うわけでもなく、あくまで思ったまま、彼女は己の願望を口にする。
本人がそう言うのならと、私は端にあった椅子を引き摺ってきて、腰かけた。
「……仕方ありませんね。ここにいます」
「えへへ、あんがと」
……実はほんの少しだけ、本当に少しだけ、引き留めてもらえるのを期待していたりした。だから嬉しかった。
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「何を書いていらっしゃるのか、聞いてもよろしいですか?」
お茶は飲み干し、お菓子も食べ終えた頃、食器を片づけようとしたらご主人様にまたも引き留められた。
ここにいてほしい、なんて熱のこもった目で言われたら、私は動けなくなってしまう。
しかし、いざ読書している彼女の傍ら、ポツリと座り込んでいても、やることがない。
手持無沙汰で、カーペットの掃除でもしたいな、と思っていたころ、何気なく私が口にしたのはその言葉だった。
「あ、うん。文字の書き取り」
デスク上には、本の他に帳面が置いてあり、ご主人様はそこへ何かを書き記しているようだった。
「書き取り……文字を書く練習をしていたということですか?」
「そゆこと」
言いながら、彼女は手元の分厚い書を手に取ってこちらへ掲げてみせた。
簡易文字しか読めない私には、難易文字で書かれているだろうその題名が、読み取れなかった。
「『難易文字辞典』だよ。いつまでも簡易文字しか読めないんじゃあ、ロクに読み物もできないしね」
――――この国には、大きく分けて三種類の文字がある。
簡易文字――――幼子に教えるときなんかは、『かいもじ』なんて略称を用いたりするらしい――――に、容易文字――――同じく、略称は『ヨイモジ』――――に、今話題に上がっている難易文字――――略称『ないもじ』――――なんかがそうだ。
ご主人様は今まで、要領よく文脈の雰囲気や一部の核心的な文字から内容を推測して新聞を読んでいたようだったが、やはりそれでは限られた量の情報しか拾えない。そう考えると難易文字を覚えることは、情報を十分に得るうえでは、必須事項と言えた。
「どういう訳かは知らないけど、日本語と法則が似通ってる部分が多くてさ。意外と覚えやすいの」
「へぇ……新しく言葉を覚えてまで、読みたい書物があるんですね」
「うん! レーナちゃんの今後にも関わってくることだからさっ」
「私、ですか……?」
文字の読み書きと、私の今後にどんな関係があるというのだろう。
私が怪訝に眉をひそめると、ご主人様は『あ、いけない』というように何か失敗したような表情になり、
「ご主人様……?」
私のそんな声を聞いて、とうとうため息をつきながら口を開いた。
「様になるまで、ビックリさせたくて黙っとこうと思ってたんだけど……」
「? なにをですか?」
「魔法を本格的に習得しようしてるの」
「魔法、ですか??」
ますますわからない。魔法なんてそれこそ、私とはまるでつながらない事柄だ。
エルフは『自然』に精通した魔法が得意だと聞くけれど、血の薄れた私にもそれが適用されるとは思えない。第一、魔力を操る心得がなかった。
「魔法を覚えるにしても、深く教えてくれる人の伝手がないし、なら本で一から学ぼうと思ってね。でも、私簡易文字以外ロクに読めないから、魔導書買っても意味ないしで……だからまずは難易文字のおべんきょー」
「あの、ご主人様。いまいち掴めないのですが……それで、魔法と私の今後に、一体どんな関係が……?」
「――――幻惑魔法」
「へ?」
「レーナちゃんが、買い物に行くたび顔隠さなきゃいけないの、流石にどうにかしなきゃって、今更ながらに思ってて。……方法が見つかったから、っていうのもあるんだけど」
「あ……」
方法。幻惑魔法。
その二つの言葉から思い起こされるのは――――王都からの使者、クォラ様の話。
――――その程度の雑な小細工では、全身を流れる魔力の質の差でわかる者にはわかってしまう。それこそ、幻惑系の魔法で欺きでもしない限りな。
方法が見つかった、という発言の前提が、かの召喚術師の話ならば。
――――ご主人様は、また私の為に何かしようとしてくれている……?
「クォラさんの話、って言えばわかるかな? あの人、幻惑系の魔法がどうとか、言ってたでしょ? ちょうどいいことに、私が今使えるのは『治癒』とか『施錠』とかみたいな『属性に割り振ることができない魔法』だからさ。『幻惑』も、そういうカテゴリーの魔法だし向いてると思うんだ」
「……」
「私が行使できるようにさえなれば、レーナちゃんは息苦しい思いしないで、素顔のままもっとのびのび暮らせるはずでしょ。今まで窮屈な思いいっぱいさせちゃってただろうから……これからは、お外だろうと堂々としていてほしくて――――って、え……!?」
ご主人様は、私の顔を見て慌て始めた。
それは多分、私の目が潤んでいて、さらに言えば数粒水滴が垂れていたからだろう。
「れ、レーナちゃん……なんで、泣いて……?」
「……ご主人様は……いつもいつも」
私の素顔を――――多種族を、受け入れる人間など、この国にはいないに等しい。
そう悟ったのはもう随分前のことで。
だから、村の方々にだって、厳密には誰一人に心を許してはいない。ソフィちゃんだって、八百屋の奥さんにだって。
ご主人様やクォラ様のような非差別主義者が、この辺境にも実はたくさんいて、それこそ村人の皆さんがありのままの私を受け入れてくれる――――なんていうのは、頭の悪い夢物語。そんなの現実には有り得ない。
実の両親にすら拒絶された容姿だ。あくまで他人である村の人々に、幻想は抱かない。そんな妄想を胸に抱いて生きるなど、とうの昔にやめている。
素顔を見せれば、村で築き上げた人間関係は崩壊し、全て悪意に塗り替えられたものに変貌する。
覆らない大前提。
しかしそれが、覆せるのならば。
――――顔を隠すことなく、周囲の目を欺く魔法が存在するのなら。
惨めに袋を被らずに、村を闊歩することができる。
ご主人様と、堂々と外を歩ける。
ご主人様と、村の中でも笑い合える。
それはなんて――――心躍る想像だろう。
私が感激しているとはつゆ知らず、ご主人様は頭に手を当てて涙目でオロオロしていた。
「だ、黙って勝手に計画してたのが気に障った? あ、あ……な、泣かないで……泣かないでよ、レーナちゃん……あ、謝るからっ……泣かないで……」
私の欲しいものをまるでお見通しであるかのように全てくれるのに、何で泣く理由には疎いのだろう。私を想って文字の勉強までしてくれているのに、それの何が気に障るというのか。逆に説明してほしいくらいだ。
ご主人様はわたわたとあわてた様子の中、ポケットからハンカチを取り出しては、私の涙を拭おうとして何故か躊躇ってと、またわたわたする。
鋭いようで、本当に鈍感な人。
「悲しいんじゃ、ありません。……嬉しいんです。これは、嬉しくて涙が溢れてるんですよ」
うれし涙の存在を知ったのは最近だ。悲しさ以外の理由で流れる涙は、まるで心が雫となってあふれ出しているかのように、温かい。
「喜んでくれてるのっ……?」
「……当たり前です。私のためにここまでしてくださっているのに、何故気に障ったなどと思うんですか」
「お、お節介だったかなぁって。もしかしたら、価値観押し付けてたかもしれないって」
「そんなはずありません」
「ほんとに?」
「本当ですってば。少ししつこいです」
それを言うなら、私だってさっき、お茶を持ってきた時お節介だったかもしれないと思った。けれどもそれは杞憂だった。ご主人様は笑ってくれた。一緒に食べたいと言ってくれた。
私は、例えお節介だったとしても、私のために尽力してくれているという事実が、たまらなく嬉しいんだ。
「気が早いかもしれませんが……顔を隠さずに村に行ける日が来たなら……その、初めての日は二人で手を繋いで行きたいです」
ぱぁぁっと表情が明るくなって、ご主人様は椅子から立ち退いて私に突進してきた。
「ぐはぅ!?」
「……うんっ! そうしよう! 約束っ! それに、気が早いなんてことないよ! すぐにでも魔法覚えてやるもん! そして、レーナちゃんは村で堂々とお日様の光を浴びるんだから! うわぁ……なんかやる気出てきたかも、今夜は徹夜しようかな……!」
ご主人様は、ギチギチバキバキという破壊音が聞こえてきそうなくらいの力で、私を抱く。
「ぎゃぁっ……いたいたいたいたい……! 背骨が折れます死んじゃいます離してください……!」
「あっ、ご、ごめん!」
「がふ……」
解放されて、私はへたへたと椅子に座り込んだ。死ぬかと思った。
「と、とにかく、頑張るからね!」
「……は、はい……」
それを最後に、ご主人様はまたデスクと向かい合い、ぐいっと食い入るように辞典へと視線を戻した。
多分、目は血走っていると思う。危険だから、今はあまり刺激しないほうがいい。
「ほ、程々に、ですよ?」
「程々に全力で死ぬ気でやるよー!」
「死んじゃだめですよ!?」
徹夜程度で死ぬ人ではないが、つい私はそう突っ込むのだった。
「レーナちゃんのためだもん! 流石に死ぬのは嫌だけど、死にかけるのなら本望だぜ!」
「死にかけもダメですよっ!!」
冗談を言っている雰囲気ではないのが、返って私の不安を煽った。
––––ありがとうございます、ご主人様。でも本当に、無理はしちゃダメですからね。
心中そう呟くと、はいはい、とご主人様はおざなりに返事をした。
……当たり前のように心の声と会話するのは、ちょっとやめてほしい。
ブックマーク数が……ブックマーク数が……
いつもありがとうございます本当に嬉しいですブクマ&評価ありがとうございます本当に。




