24:覗き見ればそれは愛情〈前〉
今朝、何か夢を見た気がしたけれど、内容が思い出せない。
楽しかった夢ほど、起きた途端に抜け落ちるみたいに忘れてしまうのだから、記憶とはままならないものだ。
さて、今日はのどかに日差しが照る。
ふと麦わら帽子をズラして頭上を見上げれば、太陽サンサン洗濯日和。
植物たちへの水やりを終え、屋敷の中へ戻る。
もう春も間近に迫ってきた今日この頃、蕾を付けた彼らは、すくすくと育ってくれた。近いうちに花を咲かせてくれるだろう。その時が来たならば、真っ先にご主人様へ教えなくては。
「ふふふんっ」
最近、この語尾を下げる形の笑い方が好きだ。自然と上機嫌になれる。
スキップしながら廊下を進む。階段もリズミカルに上っていけば、すぐ二階に到着だ。
この後は廊下拭きにシャンデリアの清掃に窓拭きに洗濯にクローゼットの整理に……と、自分に課す労働の数に喜悦していると、
「……あれ?」
いつもは仕事へ出る前に鍵をかけていくはずのご主人様の私室の扉が、少し半開きになっていた。
「ふふっ。ご主人様、閉め忘れてますよ……」
うっかり屋な同居人に独り言で注意を呼びかけて、私は扉へ近づいた。
すると、
「……あれ?」
扉の隙間から、窓も開けたままになっているのが伺えた。ひらひらと、カーテンが風に踊らされている。
「あそこも、閉め忘れ……?」
窓は早急に閉めた方がいい。もし室内の物が風に揺られて外に飛ばされでもしたらマズイ。
でも、勝手に人の部屋へ入っていいものだろうか。
休日の、ご主人様が在宅している時のみ、掃除することの許された空間。
「……ちょっとだけ。ご主人様だって、きっと許してくれる」
正直、何で平日に施錠していくのか気になっていたというのもある。
自分がいない時、何か私に見られてはマズイものでもあるのではないか。
好奇心がなかったと言えば、まぎれもない嘘になる。
「……ちょっと、入るだけ。窓を閉めて、この部屋の扉も閉める、だけ。それだけ……」
私は、施錠を免罪符とし、好奇心に白旗をあげるのだった。
****
「……ん?」
窓を閉めた後、そのまま部屋の外へ出ようとした時。
机の上に、何かが置かれているのが見えた。
「『わたしのにっきちょう』……?」
近づいてよく見てみると、それは黒色の革装丁が成されたそれなりの厚みがある本だった。
題名の欄に『わたしのにっきちょう』と丸みのある字で書かれており、その名が示す限りだと本の中身は日記帳の役割を担っているらしい。それも、明らかにご主人様のものだ。
少し擦れたような跡があるから、多分少し使い込まれている。まるっきりの新品ではない。そもそもこの王国において古びた本すら高価だというのに、何故ご主人様はこんな値の張りそうな書籍を持っているのだろう。
「こんなもの、書いてたんだ……」
お世辞にも、あの人は律儀に日々の記録を綴るようなこまめな性格には見えない。日記なんて以ての外だ。
しかし、引き出しに入っているでもなく机上に放置されているということは、最近この帳面は開かれたということ。案外わかりづらいだけで几帳面なところもあるのかもしれない。
「……」
見たい。すごく見たい。
この屋敷へやってきてからというもの、私は感情のセーブが下手くそになってきている。ご主人様は、そんな私を素直だと言ってくれるけれど、私自身としてはそうは思わない。ただ単に、ご主人様が優しいから、自分を抑える必要がないだけ。露骨に甘やかされていると感じることが多々ある。
今の私は考えていることが表情に漏れやすいようで、それを彼女は可愛い可愛いと煽てて…………自分で考えていて恥ずかしくなるからやめよう。私は可愛くなんてない、可愛くなんてない……。
意識を、目の前の帳面に戻した。
「……私のこととかっ……か、書いてあるのかな」
日記の中に一つでも私の名前があったら嬉しいな……なんて。
そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振った。
人の気持ちの捌け口を覗くだなんて最低だ。もしご主人様にバレてしまえば、きっと嫌われる。それだけは絶対に嫌だ。
踵を返して扉の方を向いて、固まる。
でも見たい。私の知らないご主人様の一面が、きっとそこには記されている。
だけど、勝手に読んで、絶対にバレないとは言い切れない。バレたら嫌われるかもしれない、嫌われたくない。……でも、やっぱり見たい。バレたら軽蔑される。読んでみたい、嫌われたくない、見たい……!
背反する感情によってか、そこで私の脳裏にピピピと閃きが走った。
「バレたら嫌われちゃうなら、バレずに読めばいいんだ……!」
なんて名案だろう。自分らしくもない天才的閃きに涙が出そうになる。
第一ご主人様が帰ってくるのは夕方なんだ、それまでにはなんとか読み終わる厚みだし、何を恐れることがある。
考えすぎて一周回ってバカちんな発想に至っていることに、この時の私は気づいていない。
「ひ、開くぞ……!」
他でもない自分自身にそう宣言しながら日記帳に触れる。
つい左右上下前後と視線を巡らし誰かに見られているのではないかと警戒してしまう。そんなわけはない。今この屋敷にいるのは私だけだ。
しばらく首を縦横無尽に回してホッと一息。そしてとうとう、日記帳の表紙をめくった。
「……私にも読める」
奴隷の識字率が著しく低いこの王国において、商品価値を少しでも上げるため教育された私は、最も簡単な『簡素文字』なら読むことができる。
幸いなこと(?)に、この日記帳は簡素文字で文章が書き込まれているようだった。或いは、異世界出身のご主人様も簡素文字しか読み書きできないのかもしれない。
「……えぇと」
––––じゅうのつき さんのひ
わたしは きょうも ひとり
にほんにおける ひらがな といってもいい かんそもじ という もじをしゅうとく したので にっきでもかいてみることにした
ひとりってやっぱりきらいだ かぞくもともだちもいない にほんにも かえれない
みんなにあいたい なんで わたしだけこんなめに あわなきゃ いけないんだろう
さいきん さびしさとどうじに じぶんへのきょうふしんが こころを しはいするようになった
ひとびとのてきとはいえ いきものを ためらいなく きりきざんで ころせるようになった じぶんがこわい あっちでは ほうちょうもろくに にぎったことなかったのに かえりちをあびても ぜんぜん とりはだたたなくなった––––
「……」
一頁目で、心が潰れそうになった。
一度はご主人様自身の口から聞いたことがある苦悩だったけれど、当時の心境そのままに綴られた文字を見ると、また違った心痛がある。
安い同情に違いなかったけれど、私は彼女の苦しみをもっと知りたくなっていた。知った上で、できることなら助けになりたかった。
もはや未知への好奇心は消え失せ、ただ当時の彼女を知りたい気持ちでいっぱいになっている。
私は、頁をめくった。
––––じゅういちのつき さんのひ
まいにち かいたら またそのときそのしゅんかんの くるしさをおもいだしそうだから つきにいっかいだけ かくことに した
まあそれじゃあ かくいみ ないかもしれないけどさ つづけることに きっといみがあるんだ
きたばっかりのころは よくながれた なみだも さいきんは かれたみたいに めっきりながれなくなった
もりでは かわらず かりをつづけている ちょっとだけ おかねが たまってきた
てきだと さだめた いきものに やつあたりみたく けんをふりおろせるようになったのを ふっきれたとみるべきか じぶんが ばけものに なってしまったと ひかん するべきか–––––––
捲っても捲っても。
––––さびしい でもがんばりたい
––––––––くるしい やっぱりむり
––––––––––––しんだら ひとりじゃなくなるかな
不穏な言葉ばかりが、文章を支配していて。
ペラリ、またペラリと頁の捲れる音が間を置きながら部屋の中に広がる。
私は、私がこの屋敷へやってきたそのひと月前の分まで読み込んでいた。
あんまりだと思った。
なぜご主人様は家族と引き離されなければいけなかったのだろう。
王国の召喚術師は、なんて身勝手なのだろう。
私は魔王討伐なんて正直よくわからない。それほど重要視されるべき事柄なのかも判断できない。けれど、如何なる問題だろうと、その解決を他の世界の住人に委ねるなんて、お門違いもいいところだと思う。
こんな憤りを振りかざしたところで自己満足以外のなんでもないけれど。
件の勇者たちと共に、彼女が召喚されていなかったなら、私たちが出会うことはなかったのだけれど。
それでも、こんな理不尽が許せなかった。
「次から、多分私がここにきた頃の頁……」
ひっそりと唾を飲んだ。
私がこの屋敷へやって来たのは去年の三の月上旬。今までの記述される期間の法則からして、次で三月の記述に入るころだと推測される。
意図せず、体が強張る。
私のことを記載しているのだろうか。私と過ごす中で、己の境遇を悲観したご主人様は、一体どんなことを考えていたのだろうか。
頁を、捲った。
––––さんのつき じゅうごのひ
てんし がこのせかいには いた
わたしは うまれてはじめての ひとめぼれをたいけんした
あいては もとどれいで えるふのせんぞがえりで さつしょぶんなんて ぶっそうで さいていな てに かけられそうになっていた どうじょうのよち ばかりの おんなのこ
でも わたしは はじめてあのこ のかおを みたとき こえをきいたとき どうじょうよりさきに ききほれて みとれていた
もちろんわたしは どうせいあいしゃでも なんでもなくて なのに こい したあいては ぎんぱつの おんなのこで
あのこをおもいうかべるだけで ほおがゆるんだ むねがくるしくなった みちのかんかくだ
ああ こんなにも こころを ゆりうごかされたのは ほんとうにひさしぶりだ
ここちよくて あったかい このかんじょう におぼれていたい
かわいいかわいい わたしの どうきょにん
あしたもきっと あのこは わたしのこころを ゆりうごかしてくれる––––
捲る。
––––さんのつき にじゅうごのひ
つきいち なんて やめだやめ
れえなちゃん が かわいすぎる もっとあのこ のことを かきしるしたい
はんざいてきな あいらしさだ
あのこが きてからというもの きぶんがずっと こうようしてる
さびしさ は まだのこってる けど たえられない ほどじゃない
だって れえなちゃん が いるから
––––よんのつき じゅうろくのひ
れえなちゃんのたいどが すこしずつ やわらかくなってきてる
そのまま ふにゃふにゃに でれてくれたら もっとかわいいのに
いまのままでも このよでいちばん かわいいけど
––––
––––––––
捲る、捲る。
––––はちのつき にじゅうはちのひ
おおけがを おってしまった
れえなちゃんが とりみだして かほご になった
わたしのこと きずがいえるまで つきっきりで かんびょうするって いってくれた
うれしいって いったら れえなちゃんにわるいけど いつになく せっきょくてきで きはずかしくもあった
でも やっぱり ふだんの れえなちゃんに もどってほしい どうみても こころが ふあんていになってる
ちょっとまえのわたし に にてるけど べつものの あやうさ
ほんとは こうやって ぺんを もつのも えぬじぃ なんだろうけど いまのきもちを かきとめたかった
しんぱいかけちゃったから はやく なおして あんしん させて あげなきゃ
あぁ だれかに しんぱいしてもらったのなんて ほんとにひさしぶりだ
––––
––––––––
––––––––––––
捲る、捲る、捲る。
––––じゅうのつき じゅうのひ
じんせいさいこうの たんじょうび だ
れえなちゃんが わたしのために おかねをためて ぷれぜんと をよういしてくれた
てぶくろと まふらぁ うれしすぎて また なけてきた
わたしは ほんとうに いいこ に であえたと おもう
いつも ありがとう れえなちゃん だいすき––––
捲る––––。
––––いちのつき いちのひ
こっちでは にどめの としこし
いま べっどを よっぱらった れえなちゃんが せんりょうしている
さっき ふたりそろって はじめての いんしゅに ちゃれんじ したのが げんいん
わたしは へいきだったけど れえなちゃんは あるこぉるに よわいみたい
そのしょうこに かおがほてったみたいに まっかだったし いつもありがとう って きゅうに おれい もいわれた よっぱらってると がぁど が ゆるむのかな なぜか れえなちゃんのほうから わたしをだきしめてくれた
さっきまで いやだいやだと だだをこねて うでをといてくれなかったし かなり できあがるとみた
もう れえなちゃん には あるこぉるは ひかえさせた ほうがいいかも
じゃないと そのうち わたしが がまんできなくなって よっぱらったれえなちゃんを おそっちゃうかもしれないし
しょうきじゃない あのこを おそうのは ほんいじゃない––––
「わ、わたしのこと、ばっかりだ……!?」
困惑した。どれだけ私のことを好きなんだあの人は。
ほぼ毎日、私のことを主題に日記を書いている。それも、内容が薄くてかわいいかわいいとばかり書き込まれたひどい文章。それでも不思議と熱意が伝わる。あと一握りの狂気も。
「記憶がないと思ってたら、そんなことが……」
年越しの後、お酒を飲んでから寝るまでの記憶がない。酔ってそのまま眠ってしまったのだと思っていた。
彼女の日記の記述が正しいなら、私は少し、いや、かなり恥ずかしいことをしている。
「……見て良かったような、見なければ良かったような」
前半ではご主人様の気持ちが知れて良かったと思うけれど、後半では恋だの愛だの好きだの愛してるだのと、かなり深い気持ちが書き綴られていた。盗み見た私が恥ずかしくなるくらいだ。
正直、あの時はこんな変態的なことを考えていたのかだとか、あの時はこんなに私を気遣ってくれてたのかとか。知らない方が良かったようなことが沢山あって。
……ふらりと、体を反転する。
「……出よう」
何も見ていない体を装って部屋を出ようとすると、これまた気になるものがあった。
ベッドの上に、彼女の寝間着が置きっぱなしになっていたのだ。
「……ご主人様、洗濯物たまっちゃいますよ」
ガサツな彼女は、こうしてたまに洗濯物を出してこないことがある。脱ぎっぱなしにしてしまうのだ。
私がいなかったらまともに生活できないのではなかろうか。
「ふふふっ」
自分が彼女に必要とされていることの理由の一つを痛感して、頰が緩む。
全く、どうしようもない人だ。あの人は家事もダメダメだし、これから先も、私が生活の助けになっていかなければ。
考えるのはそこまでにして、私は寝間着を手に取った。
恐らく昨夜のものだったと思うが、長らく放置されていた可能性も捨てきれない。
ちょっとした試すような感覚で、私はなんとなく寝間着の匂いを嗅いだ。
普段ならこんな行動は取らなかったろう。しかし、ご主人様にバレずに部屋へ入ることが出来たという謎の自信が、私を変な方向へと大胆にさせた。
「……ん」
ご主人様の匂い。
あったかくて、安心するような、春の日差しみたいな。
包まれると、涙が出そうなくらい嬉しくなる、あの。
「ご主人様……」
もっともっと、嗅いでいたい。
変な気分だ。急に孤独感が込み上げてくる。
平日は殆ど家にいないご主人様。それを寂しく思う自分。一人でとる食事、誰とも会話しない日中––––。
降って湧いた虚無感を満たして無くしたくて、私はより一層寝間着を鼻に押し当てた。
「ご主人様っ……ご主人様……っ」
あぁぁ、いい匂い、好きな匂い、安心する匂い、大好きな匂い……。
変態だ、こんなことしちゃいけないのに、もしバレたら嫌われちゃうのに、止められない。
柔らかいご主人様の体。抱きしめられて胸の中にしまい込まれると、窒息しそうになるくらい苦しいけど、ふかふかで気持ちがいい感触。
かかる彼女の息遣い。よく頭を撫で回してくれる、剣を握っているとは思えないくらい指の細い手。
匂い一つで、その全てが鮮明に思い浮かぶ気がして––––、
「––––れ、レーナちゃん……?」
「……あ」
––––その時、今一番聞きたくなかった声が鼓膜を揺さぶった。
なんで……もう……帰って来て……?
一瞬で頭が混乱状態に陥った。
まだ昼間で今頃は私の作ったお弁当を食べながら休憩でもとっていそうな正午過ぎなのに。
その声は、耳に鮮明に届く距離から紡がれている。
仕事中のはずなのに。屋敷にいるはずがないのに。だからこそこの部屋に入り込もうだなんて魔が差したようなことを考えたのに。
なんで? なんで? でも、でも、でも––––。
帰ってくるのが、早すぎる。
なんでもうあなたがいるんだと、ギチギチ錆びた歯車のような動きで扉の方を振り返ると、
「へ、部屋の鍵閉め忘れてたの思い出して、日記が、えっと、大急ぎで、ええと、だから、さ……えぇと、なんかお取り込み中みたいだったから……その、声掛けづらくて、さ。あは、あははは……は」
戸惑ったように目を泳がせて苦笑したご主人様が、開きっぱなしになっていた扉を挟んで、寝間着に鼻を押し付けたまま固まっている私を射抜いた。
……あぁ、おしまいだ。
服の匂い嗅いで悶えてる女の子とかどストライクです。




