12:家族愛
休養を始めて四日程経った。
全身にできた裂傷も大半は塞がり、後は深いものの完治と、痕が残らぬように塞がった傷の様子見も兼ねて三日前後安静に過ごせば、晴れて完全復活である。魔法様々の回復力だ。
「あっ、あのっ。私、お皿片付けてきますっ!」
私の体は問題なくとも、新たな問題というか悩みのタネというか。
レーナちゃんが、最近ちょっと困ったことになっている。
「ねぇ、レーナちゃ」
「し、失礼しますっ」
私の声になど聞く耳持たず、レーナちゃんは早足で部屋を出ると、バタンと強く扉を閉めて去ってしまった。
悩みのタネは––––あからさまだった。
「近づけたと思ったら、今度は避けられるとは……」
ちゅんちゅんちゅんと変わらず能天気に囀る小鳥が疎ましく思えるような、ある朝の一幕だった。
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心当たりなんてまるでない。何かを溜め込んでいる様子もなかったし、ある時突然、奥深くに眠っていたものが噴き出したように、彼女は態度を豹変させた。
以来滅多に顔を合わせてくれなくなり、私の口元へ向けられるスプーンは少し震えたりしていた。そろそろ自分の手で食べたい。
笑う回数が減り、代わりに、目も合わせてくれないのにチラチラと紅潮した顔で私のことを盗み見るようになったり。
一体どんな心境の変化が起こったのか。私が何かやらかしたのか、それとも彼女が自己完結した末にあの状態なってしまったのか。
またベッド横でアルップを剥いてくれている(美味しかったと言ったら大量に買ってきた)レーナちゃんに、私は短く声をかけた。
「ねぇ」
「……は、はいっ……!? ……痛っ」
過剰なまでに大きなリアクションで私の声に反応したレーナちゃんは、その拍子に果物ナイフで指を切ってしまう。
「あ、ご、ごめんっ。刃物使ってる時に声かけるのはまずかったよね……傷見せて、治癒かけるから」
今のは流石に私が悪い。気遣いが足りなかった。
今日、己にかけた治癒魔法の残りの魔力をレーナちゃんの傷の治癒に行使するべく、私は彼女の腕に手を伸ばした。
「っ! あ、あぅあっ……」
腕を掴んで固定、切れてしまった指の先を注視する。変なあうあう声が上から聞こえた気がした。
切れたのは指の薄皮一枚。痕一つ残さずすぐに治る程度の軽傷だ。
「良かった、深く切れてはないね。これならすぐ治る……って、なんで顔逸らすの」
軽く傷に干渉するに留まり顔を上げると、アルップの皮のような色になった彼女は明後日の方向を向いていてしまった。
「な、なんでと言われましても……」
なんで目を合わせてくれないのかと彼女の視線の向いている方向へ移動すると、
「っ!」
今度はまた別の方向を向いてしまう。意地でも顔を合わせる気がないようだ。
「むむむ……」
いくらなんでもこれはおかしい。もごもごとハッキリしないし、その潤んだ瞳は羞恥に震えているようにも見える。
「私何か悪いことしたかな」
問いただすべく顔を近づけると、
「っ!? ち、ちかっ、近いですっ……やめてください、離れてください……」
もはや全身の血液が集まっているのではと錯覚するくらいに顔を紅潮させて拒絶された。うぐ、ちょっとショック。
「……嫌なら、答えて?」
ハッキリと拒絶されたことに傷つきながら、再度顔を近づけて尋ねた。
「ご主人様は何も、してないですっ、わたしが、お、おかしいだけで……! ですからっ、離れてください……」
「というと?」
顔を離すと露骨にホッとされた。そんなに嫌なのか、そんなに私の心をズタボロにしたいか。
「変なんです、ご主人様のお顔が見られないんです。直視した途端、恥ずかしくなって……」
「……それで?」
何故そんなことに? と首を傾げつつ、続きを促す。
「何かの拍子にドキリとしますし、何より、その……ご主人様の声から仕草まで、前にも増して愛らしく見えてしまうんです……胸が苦しくなります……」
「んん……? なんだろ、どこかで聞いたような症状だな……」
「……呪術か病の類いなのでしょうか……?」
そんな命の危機に瀕するようなものではない気がするけども。
****
この頃、私はおかしい。
ご主人様を直視できない。ご主人様の声に過剰に反応してしまう。その上、ご主人様に手を握られると頭が痺れるような感覚に襲われる。
とうとう怪しまれて問い詰められたので、事情を話したところ、彼女にはどうやらこの症状に覚えがあるらしい。
「呪術か病の類いなのでしょうか……?」
そんなものに万が一かかってしまっているのなら、ご主人様に迷惑がかかる。どこかへ隔離してもらわねば、もし移ったりしたら私は罪悪感に負けて死ぬ。
精神を蝕むものについて推察していると、ご主人様はピースのハマらぬパズルに苛立つように、頭を抱えて始めた。
「いや、待てよ……ちょっと身に覚えが……んー…………あっ、もしかして!」
しばらくうーうー唸ったのち、思考のパズルは無事完成したらしい。目を見開いて嬉しそうにうんうん、と頷く彼女の顔は、達成感に満ち溢れていた。
「何かわかったんですか……?」
「……レーナちゃんのそれ、『親愛』、じゃないかな」
「しんあい?」
「または『家族愛』、とか?」
親愛。親しみを覚えたり、他者へ愛情を抱いたりすること。家族愛は、家族へ向ける愛情。
親愛と家族愛。どうやらそれが、この気持ちの根源らしい。
私自身でさえまるで分からなかったというのに、彼女は何故こんなにも早く正体に辿り着けたのだろう。
「すごいです……! どうしてわかったのでしょうかっ」
「あ、えっとね……」
尋ねると、彼女は一瞬寂しげに目を伏せた。それは、この屋敷で今まで過ごしてきた中で、何度も目にした表情で。
孤独感に苛まれた、迷子のようなものだった。
「私と、妹の話なんだけどね。……あっ、妹がいることは前にも言ったよね?」
「……はい」
「私ね、正直妹ができたばっかりの時は、嬉しいとかより面倒くさいって気持ちのが大きかったんだ」
「……意外です。ご主人様は、お優しいですから」
「あはは、そんなこと言うのレーナちゃんくらいなんだけどね」
「だって、事実ですから」
私は少し驚いた。少なくとも、ご主人様は幼い子供を邪険に扱うような冷たい心の持ち主ではないだろうから。それが血の繋がった家族なら尚更。むしろ彼女自身が童女のような無邪気な側面を持っているくらいだ。それは流石に失礼だから言わないけども。
「だってその時十歳児だったからねぇ……どっちかというと面倒味が良かったわけでもないし。まぁ、そんなわけで妹のことはあんまり好きじゃなかったんだけど……というか親のこと独占されて正直面白くなかったしハッキリ言って嫌いだったんだけどね」
「……」
「初めてあの子が私のこと呼んでくれた時。『ねぇねぇ』って言いながら、擦り寄られたら、今まで嫌ってたのがバカらしくなるくらい可愛く見えちゃってさ。私、単純なんだよね。もうそれからはずっと遊び相手させられて、私も喜んで遊び相手して。こっちに来るその直前まで結局頭が上がらなかったなぁ……今、何してるんだろ……」
「……」
ご主人様の故郷は、どうしようもなく離れた場所にあって、彼女が自力で帰還するのは、不可能に等しいのだという。
この国に来た経緯など私には知る由もないが、少なくとも彼女が家族と決別して、自らの意思でやって来た訳ではないのは明白だった。その点では、奴隷として売られたり、自らの意思と関係なく様々な場所をたらい回しにされたりした私と通ずるものがある気がするが。
そこまで話し終えて、気づけばご主人様の表情に寂寥の翳りはもう見当たらなくなっていた。代わりに笑みが浮かべられているということは、また気持ちをしまい込んでしまったらしい。
故郷でのこと、家族とのことはまるで教えてくれず、独りになってしまった訳すら、まるで教えてくれない。
あくまで私は、部外者だと言わんばかりに。
私のことを家族だと形容したのは、あなた自身なのに。
「ま、とにかくね。長々と話してしまったわけですが、私には、レーナちゃんが家族愛的なものを私に抱いてくれたように見えるんですよ」
へらへらと笑いながらそう結論を述べる彼女が、私にはとてつもなく寂しい存在に見えてならなかった。
いつか、その孤独を拭い去りたいと強く願うのは、ただの私の傲慢なのだろうか。
****
台所で食器洗いをしながら、そのままおやつのメニューを考える。
けれど真っ先に浮かぶのは先の会話のことばかりで、まずはそれを纏めなければ別の思考に移れそうになかった。
「家族愛……か」
ご主人様の言い当てた、私の気持ちの根源。私が彼女へ向ける、感情の本質。
特定の名称を与えられ、不確定な気持ちは正しく形を得たように思えた。
そうか、これが、この想いが家族愛なのか、と。
胸元へ手を当てると、確かな温かみを帯びるそれが、僅かに息づいているのを感じられる。
「あれ、でも……」
家族相手にドキリとするなんてこと、あるんだろうか。それに、顔が熱くなるなんてことも。
不意に、違和感が湧き出て来る。
「……」
しかしまぁ、ご主人様が言うのだから家族愛で合っているのだろう。すぐに違和感を否定する。
彼女は私に立場をくれた。居場所をくれた。着るものも与えてくれて、食事も三食きちんと食べられている。それらは決して、奴隷の身にはあり得なかったものばかりだ。
私に与えられた様々なものたちは、総じて私に幸福を届けてくれている。ならば、この気持ちの名称もまた例に違わず、私を幸福にしてくれる正しきものであるのだろう。
そうした結論を経れば、もうそれ以上の違和感も湧いてこない。
私は私の家族となった彼女を、好ましく思っているのだ。
そこまで纏まれば、他の思考の邪魔をするほどの、感情の奔流もない。不明瞭の正体が分かって、整理がきちんとついたのだろう。
「今日のおやつは、パンケーキを作ろう」
ふと、思いついたのはご主人様の好物第一号だ。
彼女は、シロップをたっぷりとかけてバターを乗せたパンケーキが大好きなのだ。最後に食べたのは二週間ほど前だから、そろそろ食べたがる頃合いだろう。
「喜んでくれるよね」
笑ってくれる家族とともに、美味しいものを食べられる。
それ以上の幸福を、私は知らない。
手早く食器を片付けて、私はどこか晴れやかな気分でフライパンを取り出した。