10:休養
今は八月四日の二十五時。つまり日付は変わってない。四日の内に投稿できたんだ…!
静まる寝室に響くは、規則正しい寝息と、布の擦れる音。
やがてはそれらも途絶えて、うち片方を立てていた張本人である青年は、ふっと息をついた。
「上腕三頭筋が……っと、筋肉の名称についてはどこまでご存知で?」
小綺麗に整った髭を持つ、柔らかな雰囲気の男だ。そして、柔らかさと同等以上の冷たさも瞳に宿す。どこまでも理性的で、冷静さを欠かない印象を覚えた。
彼の質問に対し、麻袋越しでも否定の意が伝わるように、私は首を振った。
「いえ、そういった知識は持ち合わせていません」
期待はしていなかったとばかりに青年は首肯する。
「そうですか。では、簡単に。左肩から腕にかけて計三箇所、右肩から腕にかけては計六箇所。その他、左脚には計三箇所、右脚計7箇所。胸部二箇所、腹部一箇所。頰にも一箇所。合わせて二十五箇所もの深浅様々な裂傷があります」
「……はい」
それは簡単に止血した時に確認したものだ。近しい人物の凄惨な有様など、目を背けたくなるし目に入る度辛くなる。
奴隷生活で培った、生々しい傷への耐性、図太さといったものが役立った。それでも内心穏やかではなかったが。
「特に右の二の腕と、左太腿の損傷が激しい。腕に関しては利き手をやられたということ、脚に関しては右脚の裂傷の数からして、途中から庇って戦っていたのかもしれません。聞けば冒険者に名を連ねる方だそうで、治癒能力を促進させる魔法もお持ちでしょうから……無理に過剰な魔力は使わず、一週間は安静に、少しずつ治癒を促していけば、傷も元どおりになるでしょう」
「……はい。ありがとう、ございました」
「いえ。何かあれば、またお呼びください」
不謹慎さを感じさせない程度に笑みを浮かべながら、青年––––お医者様が、ベッド脇の椅子より立ち上がる。
心細さと不安に苛まれていた私にホッと肩の力を抜かせる程度には、手慣れた配慮だった。
****
「ん……ん、ぁ……? あさ、ごはん……?」
呑気な第一声を発して、それを境にご主人様の意識は浮上する。
眠そうに瞼を持ち上げている彼女に何らおかしな点はない。そこで私はようやっと危機が去ったような気になった。
「あれぇ……れぇなちゃん……どぅしてここにいるの?」
「……」
「ていうか、私ベッドの上に瞬間移動してる。なんで? ……って、ありゃっ!? 包帯ぐるぐる巻き!?」
ご主人様の全身は、いくつかの例外を除いて全て包帯を巻かれていた。
裂傷のある二十五箇所のうちの数箇所は、血が滲んで赤く染まっている。
「ミイラ男ならぬミイラ女……いやはや、今日がハロウィンだったらお菓子大量収穫だった可能性がなきにしもあらず……? いやいや。そんなことはどうでもいいとして……」
意識が鮮明になってきたようで、段々と目の焦点も定まってくる。
いつもの戯言から始まり、やがては思い出したような神妙な顔で私を見据えた。
「……ご主人様、おはようございます」
「……おはよう、レーナちゃん。私、倒れたんだね」
赤く染みた包帯をもう一度一瞥して、ご主人様は悟ったような表情になる。
察しがいい、どうやら眠り込む間際の事は覚えているようだ。
「気持ちよさそうに寝ていらっしゃいましたよ」
「うっ……呑気なもんだなぁ、私」
「……本当ですよ」
咎めるように私が突き刺すと、ご主人様はしょんぼりと肩を下げて、俯いた。
「……ごめんね、レーナちゃん。心配かけたかな……」
「はい、心配しました」
「本当にごめんね」
「申し訳ないと、そう思いますか」
「うん。百回土下座しろって言われたらするくらいには」
人の心を揺り動かす行為は、一歩間違えれば大いに相手を傷つけることなる。
弁えている、何でもどんと来い、と言わんばかりの彼女へ、私は唯一の要求を口にした。
「なら、笑ってほしいです」
「へ?」
それはいくらヘンテコな冗談を言う彼女でも、予想できなかった要求のようで。
してやったりと、私は内心ほくそ笑んだ。
「私は……笑顔のご主人様が一番好ましいですから。心配をかけた、申し訳ない、とそう思うのなら、笑って見せて私を安心させて下さい。そしてこれからはもう絶対、二度と、血だらけで帰ってくるなんてこと、無いようにして下さい」
「そんなことで、いいの?」
そんなこと、とあなたは言うけれど。私には、勿体なさすぎるくらいのことなのだ。
私の顔を見てなお笑ってくれた人は、ご主人様だけだったから。
私にはとってはこの世でたった一人のみから送られる、この上なく尊い祝福なのだ。
「そもそも私に怒る権利はありませんし、ご主人様は身を挺してお仕事に勤しみました。責める道理も、責められる道理もないと思うんです」
「レーナちゃん……うんっ、わかった! 笑う! 笑顔は私の専売特許だよ!」
そう言って、彼女は頰に目元に口元にと、顔をふにゃりと綻ばせた。
本当に、変わり身の早い人である。
「にっこり!」
「……」
しかしこうも簡単に、あっさりと笑顔を作られてしまうと、逆に軽薄に感じてしまうのは何故だろう。
なんだか無理に笑わせているみたいで全然好ましくない。
まぁ、事実私が無理に笑わせてるんだけども。
「あ、あれ? レーナちゃん、あんまり嬉しそうじゃない……?」
「それはニセモノ笑顔です。本心から笑ってください」
「本物だよっ!?」
****
どうやら私は玄関で寝落ちしてしまったらしい。
長時間の緊迫した空間から解放されて疲れがドッと溢れたのか、或いは可愛らしい少女の安堵したような顔に私もまた安心したのか。
少なくとも、今ベッドの真横で林檎に酷似した果物を剥いている雪のように真っ白で綺麗な少女––––レーナちゃんのいるところが、私の安寧の場であることは確かだった。
軽く、果物ナイフの通る音が室内を支配する。
不意ににんまりした口元を隠しもせず、レーナちゃんは誇らしげに胸を張った。
「ご主人様、アルップが剥けました。兎さんの形ですよ、とてもうまくできましたと思うんですっ、ほらっ見てください!」
「う、うん。可愛いですね……」
普段見ないくらい積極的な彼女に、私はつい敬語を使ってしまう。
なんかアップルみたいな名称のフルーツですね、異世界にも林檎ってあるんでしょうか、なんて現実逃避気味な独白はナンセンスだ。それ以上に私には考察すべき事柄がある。
だって、おかしいじゃないか。
「ほら、それじゃあお口開けてください。入れられないじゃないですか。アルップ、美味しいですよ?」
食べ物を自分からあーんしようとするなんて、レーナちゃんは熱でもあるじゃないだろうか。
「あの、自分で食べま」
「ダメですよ?」
なんだその笑顔は。黒いぞ、レーナちゃんの背後に黒いオーラが見える。なまじ本当に嬉しい時くらいしか笑わない子だから、怖すぎる。
「ご主人様は……今疲れていらっしゃいます。変に体を動かしては、お加減を悪くしてしまいます。だから、ね?」
ね? じゃないよ、果物ナイフ持ちながらじゃただの脅しだよ。
なおも真っ黒い笑みを顔に貼り付けたままのレーナちゃんを見て、私は忙しなく頭を回転させる。
何故だ……一晩家を空けただけでレーナちゃんに何があったのか。
たかが一晩だけ……いや、待てよ?
––––一晩だけ、ではないのだろうか。
「……じゃあ、食べさせてもらおっかな」
観念して私は、あーんと口を開ける。
なんだろう、いつもは私からおねだりしてるわけだけど、レーナちゃんから求められると、結構恥ずかしいな。攻守逆転するとなんだか慣れない。
「わかっていただけましたか。どうぞっ、瑞々しいのでとても美味しいですよ。あーんっ」
若干顔を赤らめながら、レーナちゃんは私の口元までアルップとやらを運んで来る。可愛い。
むしゃりと齧り付き、もぐもぐ咀嚼した。おっ、美味しい。そのまま林檎じゃないか。
「どうですかっ」
律儀に一々感想を求めて来るレーナちゃん、今までにないタイプで可愛い。
「……美味しいよ」
「ふふっ、良かったですっ。たっくさん剥くので、どんどん食べて栄養つけてくださいねっ」
「うん……」
そこで、レーナちゃんは鼻歌なんて歌いながら、まだ一切れしか食べていないにも関わらず、他のアルップも丸ごと一個剥き始めた。おいおいおいどれだけ食べさせるつもりなんだ。
……まあそれはさておき。思考の続きをしてみることにする。
私にとっての一晩と彼女にとっての一晩の価値観が、同等ではないと一つ仮定してみる。
共に一つ屋根の下で数ヶ月暮らすに連れ、レーナちゃんもまた私に対してほんのちょっぴりくらいは情を抱いてくれていると私は信じている。
「あの、レーナちゃん」
その上で仮定を重ねることになるが、彼女は寂しかったのではないだろうか。
自意識過剰と考えればそこで終了だが、私はこの世で一番レーナちゃんを見て、聞いて、彼女と対等に話せていると思う。過去も含めて全部の中ででだ。
「? なんでしょう?」
そんな対象が、ある日突然、日々の習慣––––私の場合は狩りか––––から外れて、帰ってこなくなったら?
もし私がその立場だったなら、とてつもなく不安だ。捨てられたのかとまず考えるし、帰らぬその人の安否を疑うかもしれない。
「私、さ」
「はい?」
そこからさらに予想を重ねるなら、今のレーナちゃんは不安に揺れた心を満たして、生まれてきた孤独感を拭い去ろうとしているのかもしれない。だから、普段にも増して私に寄り添うように接して来る。自分からあーんなんてして、距離を縮めようとして来る。
私の存在を、感じようとしている。
存外、的外れな考察でもないと思うのだ。
「しばらく……だいたい二週間くらい? お仕事休もうかなって思うんだ」
それなら、私もまたレーナちゃんに寄り添おう。
一人が寂しいのは私も同じだ。私を一人にしないでいてくれるのはレーナちゃんだ。それなら、私はレーナちゃんを一人にしたくない。依存でも何でもしてくれていいから、寂しさなんて忘れさせたい。
「レーナちゃんは、このオサボリ、どう思う?」
「どう、とは……?」
「私がこの屋敷に毎日いるとなると、かなり煩くてウザったらしいことになっちゃうわけだけど、それでもいいと思う?」
私は心理学だの精神科だのの専門家でもないし、詳しくないから正しい方法なんてわからない、けど。
一時的にだとしてもレーナちゃんの不安を取り除いてあげることが、間違いだとは思わない。そして二週間私がこの屋敷にいれば、彼女もまた元どおりに戻る気がした。
「……い、いいんじゃないでしょうか。私は別に、お仕事に勤しんでお金を稼ぐべきだと思います、けど。でもご主人様は今までに平日のお仕事を欠かしたことはありませんでしたし、二週間くらい、誰も咎めないと思います。冒険者稼業には基本的にノルマも強制労働もありませんしっ。私は、別に、ご主人様がどうなさってもと、構わない、ですけどっ。ご主人様がお休みしたいと仰るのなら、別に止めませんよっ!」
別にって言いすぎでしょ、やたら早口だし。本心が見え透いて見える
でもまぁ、
「……ツンデレっぽくもなっちゃってるのが、また可愛いかもしれない」
「つんでれ? かわいい? へ?」
「そういうトボけたようなとこもかわいいよ」
「か、かわっ……!? ……もう、御世辞にも限度がありますよ?」
「あははぁ、顔赤くしちゃってかぁいいねぇ」
うん、照れ隠しに顔を逸らすのも最高だ。見ていて癒される。
「揶揄わないでくださいよ……」
最近知ったけど、レーナちゃんのその尖った耳は、羞恥、緊張、その他諸々の感情に敏感で、少し照れるだけで真っ赤になってしまう。お耳まで可愛い。
「揶揄ってない。ノーカラカイ」
「うぅ……」
かくして私は、家に引きこもることにした。
仕事に囚われないゴロゴロダラダラ生活の始まりだ。
ブックマーク46件ありがたいです。拙作に目を通していただき、誠にありがとうございます。