ルイズのしたこと
「リアナ」
と泣きそうな顔で王太子は婚約者に呼びかけた。
子どもの頃に婚約が決まって十年。この、才能に恵まれ、自信に満ち溢れ、人を魅了する天賦の才を持った朗らかな王子が、こんな顔をすることがあるのか、とリアナはぼんやりと思った。
「婚約を破棄しなければならない」
絞り出すように言って、王太子はそっとリアナの手を握る。
「そなたには何の咎もないのに……俺を恨んでくれていい。無力な、俺を」
「なにを、仰いますの。エリウッドさまを恨むなど。婚約がなくなるのは、当然のことですわ」
「俺はそなた以外の誰も妃になどしたくないんだ!」
「エリウッドさまは、次期国王。亡き母君もいつも仰ってましたでしょう? 王たる者、私情を捨て国に尽くさねば、と。どうかわたくしのことはお忘れになって、相応しい妃をお迎えになってください。わたくしは、どこか遠くからひっそりと、エリウッドさまのご治世に神の祝福授かること、お祈りしております」
「リアナ!!」
無私の言葉に心を打たれ、王太子は思わず、婚約者を……否、元婚約者を抱き寄せ、その菫色の瞳に見つめられたいという誘惑に勝てず、厚いヴェールを除けようとした。だがリアナは反射的にその手を振り払う。部屋の隅に逃げる。
「お許しになって」
泣き咽ぶ声に、王太子は絶句した。
―――
公爵令嬢リアナ・バートンと王太子エリウッドの婚約は、王太子が11歳の時に整えられた。
リアナの父バートン公は国王の右腕、宰相。エリウッドは、一年前に立太子されていたが立場は弱かった。国王がこよなく愛した彼の母、先の王妃は二年前に病で亡くなり、後添いの現王妃の権力が増大してきていたからだ。隣国の出身である現王妃の力が更に強まると、エリウッドは難癖をつけられ廃嫡の流れに呑まれるかも知れない。案じた父王は、国内の貴族の束ねであるバートン公の娘を、息子の妃に望んだのだ。
四つ年下の公爵令嬢はまだあどけない幼子のようでありながらも利発で、将来夫となる王子を兄のように慕い、自らも夫に相応しい王妃になろうと努力を重ね、そのいじらしい姿に国王や宰相は微笑み、ふたりの行く末を楽しみにしていたものだった。
――事件が、起こるまでは。
リアナには、ルイズという親友がいた。ルイズ・アスキス公爵令嬢はリアナと姉妹のように仲が良く、エリウッドもルイズを婚約者の友人として家族のように親しく交流していた。銀の髪のリアナと金の髪のルイズ、ドレスの好みまで良く似ていて、ふたりが宮廷に姿を現すと花が咲いたようだと言われたものだった。
しかしリアナの17歳の誕生日に、それは起きた。リアナは呪いをその身に受けたのだ。一夜にして、老婆の姿になる呪い。
国中の魔導士が集まっても、その呪いを解く事は出来なかった。リアナは本物の老婆になったのではない。心と体力は17歳のまま……呪いが解けなければ、彼女はあと数十年の寿命を老婆のまま生きなければならないのだ。
呪いは解けないけれど、呪いをかけた者は特定された。リアナの親友ルイズ。
『リアナ、私は本当はずっとずっと貴女を憎んでいたの。貴女さえいなければ、私がエリウッドさまの婚約者に選ばれていた筈。そしていま、これが私のした事と露見しなければ、貴女は婚約破棄され、私が次の婚約者に選ばれていた筈……』
『どうして、どうして言ってくれなかったの! そんな事で私にこんな事を!』
『言ってどうなると言うの? 私は命を賭けて貴女を排除しようとして成り代わろうとし、その夢は破れた。でも、私が処刑されたって、貴女はそのまま。その呪いは、決して解けないの』
『そんな! 私は何も悪い事なんてしていないのに!』
リアナは泣き崩れ、ルイズは地下牢に繋がれた。リアナが望んだことではなかったけれど、王太子は愛するひとに死にも等しい苦痛を与えた令嬢を許さず、処刑を命じた。
『私は、満足よ』
それがルイズが最期に遺した言葉だった。
そしてルイズが死んでも呪いは解けなかった。
老婆を王太子妃にする訳にはいかない。エリウッドは抵抗の意志を示したが、王太子として、王妃の務めを果たせぬ娘を娶る事は許されないと、他ならぬリアナの父親から説得され、婚約破棄を承諾することとなった。
―――
リアナの両親は娘を愛していたが、老婆の姿となり国中の噂になっている娘を都に置いておくのは娘の為にもならぬと思い、彼女を田舎の領地の館に住まわせる事にした。リアナももう王都へ戻るつもりはない。生涯の別れと思い、夫となり添い遂げる筈だった王子と面会した。決して顔を見られぬよう、厚いヴェールを被り、皺だらけになった手に美しい絹の手袋を嵌めて。歳をとったのに、彼女の声だけは、若い娘のままだった。それが幸いなのかどうか、彼女にもよく判らなかった。
ずっと愛していると涙ながらに言い続けるエリウッド王子に、リアナは、新しい婚約者を愛さなければ幸せになれないと説く。エリウッドはふと、こんなに心の清い彼女は、自分の見えない所に行ったら死を選ぶのではと不安になった。
「リアナ、私に手紙をくれ。会えなくても、とにかくそなたがこの世界に居てくれると思えば、私は絶望に呑まれないでいられると思う」
「駄目ですわ。お妃が不快に思われます」
「私の心の妃はそなただけなのだ!」
「困ったおかた。手紙などなくても、わたくしは死んだりしません。魔導士たちも、わたくしは寿命を生きると申しているではありませんか」
「しかし……」
「……それに、わたくしが自死したりしたら、ルイズの業が深くなってしまいますもの」
リアナの声は、元凶の女の名を形にする時、僅かに震えた。エリウッドは唖然として、
「ルイズのため? あの女にまさかまだ友情を持っているのか?」
「……」
その問いに、リアナのヴェールは揺れ、手袋の上にぽとりと涙が落ちた。
「いいえ、いいえ……。ああ、エリウッドさま、これが最後だというのに、わたくしは嘘を吐きました。せめてわたくしを、心の美しい女として記憶に留めて欲しいと、愚かな考えを……」
「リアナ? どうしたんだ?」
「ルイズのためなんて嘘です! わたくし、ルイズが憎いのです。小さい頃から一緒だったのに、どうしてこんな酷いことを。そして、自分が殺されることになってさえ、わたくしを不幸に出来て満足だとまで。ああ、憎い。わたくしはこんな容貌のままなのに、ルイズは美しいまま死んで、妬ましい! わたくしは、今さら死んだところで元のわたくしに戻れる訳でもない」
「リアナ、死なないでくれ」
「エリウッドさま、どうして? わたくしはこんな醜い思いを持っているのです。姿だけでなく、こころまで醜くなってしまいました。でも、こんな風になっても、なったからこそ、死ぬのは怖いのです」
「醜くなんてあるものか。そなたにはルイズを憎む資格がある! そんなことで苦しむな。そなたは既にひどく苦しんでいるのに」
「エリウッドさま」
「リアナ。いつか、きっと迎えに行くから。私が私の務めを果たしたら、きっと。泣くな、リアナ。そうだ、そなたの歌を聞きたい。なにか歌ってくれないか」
リアナの美しい歌声は、これまでも皆に愛されてきた。王子の言葉にリアナははっとする。
「わたくし……わたくしには、まだ歌う事が残されていた。思ってもみなかった。ありがとうございます、エリウッドさま」
立ち上がると、胸に熱いものがこみ上げる。それは哀しみではなく。
永遠の愛を誓う、凛とした歌声が館に響き渡り、両親も館の者たちも皆、涙した。
―――
リアナが王都を去った翌月には、エリウッドに新たな縁談が持ち上がった。彼は激怒して父王に抗議した。
「冗談じゃありません。よりにもよって、ルイズの妹のテレーズだなんて! あの女の家族など、二度と顔も見たくなかったのに! 王都から追放したいくらいだった!」
息子の言葉に、王は疲れた顔を向ける。
「済まない。だが、バートンにはリアナしか娘はいないし、その次に王家の力となるのはアスキス家だ。悔しいが、隣国に付け入らせない為には、有力貴族との婚姻は今の王家にとって不可欠なのだ。だから、罪はルイズ一人に被せた。あれが、本当にルイズひとりで考えて実行した事なのかもわからぬままだったが……」
エリウッドは初めて聞く話に愕然とした。
「アスキス公がリアナを陥れる策を練った、ということですか?!」
「わからん。全てはルイズと共に土の中だ。だが、そうだとしても、今はアスキスの力に頼るしかないのだ。そうしなくては、我が国はいずれ王妃により引き入れられる隣国の貴族どもに牛耳られてしまう。堪えてくれ、エリウッド」
そうして、テレーズ・アスキスとエリウッド王太子は結婚した。
「テレーズ。そなたに罪はないと理性ではわかっているが、私はそなたを愛せない」
初夜の床でエリウッドははっきりと新妻にそう告げた。心無いことかと、妻は悲しむかとも思ったが、意外にも反応は冷ややかだった。
「そうですか。それは、助かります」
「助かる? どういう意味だ。私はそなたを妻にしないと言っている訳ではない。そなたとの間に子を儲けるのは私の務めだ」
「そんな事は承知しております。殿下が愛しておられるのは今もリアナ。それでわたくしを愛せないのでしょう? 構いません。だって、わたくしも殿下を愛せませんもの」
「どういうことだ」
「わたくしは、殿下に嫁ぐ為に、整っていた婚約を破棄させられたのです。おあいこですから申し上げてもお怒りにならないで下さいね。わたくしは今でもその相手を愛しているのです。彼の身分が低く、何年もかかってようやく父を説得出来た矢先でしたのよ」
テレーズの、姉によく似た青い目は怒りに燃えている。ルイズが自分の妃になりたがっていたので妹もそうだと思い込んでいたエリウッドは絶句する。
「それに、エリウッドさまは、わたくしのたった一人の姉を殺しました。もちろん、姉が極刑に値する罪を犯した事はわかっていますし、許して欲しかったと申している訳ではありません。でも、姉の代わりにわたくしを罰して頂けたならば、喜んでわたくしが死罪を賜りたかったくらいです。姉は、早くに母を亡くしたわたくしの母親代わりのようなものでしたから」
「ルイズのせいで、そなたも意に沿わぬ結婚を強いられたのに、か」
「姉は、最初からこうなると判っていたと思うのです」
「なんだって?」
「姉は、自分の為に親友を裏切ったのではありません。妹のわたくしを王妃に、それがわたくしの幸せだと、そう、思い込んでいたのです。姉は、自分の考えを曲げないひとでした。わたくしの婚約者を身分が低いと蔑み、わたくしを騙していると言い張っていました。リアナを追い落とし、自分が罪を被り、わたくしを王妃に。これが、姉の望みだったと、わたくしはそう思っております」
不意に、エリウッドはぞくりと寒気を感じる。薄暗い寝所に、己が処刑を見届けた女の妹とふたり。妹にあのルイズがのりうつって執念を語っている……そんな錯覚に陥りそうになった。
「しかし、それはルイズの身勝手ではないか。そなたの望みと違う」
「ええ、違います。でも、それでもわたくしは愚かな姉の望みに沿ってきっと国母となりましょう。皆から忌まれて首を刎ねられた姉……父さえも見捨てて、縁を切ったけれど、わたくし一人くらいは、姉の死を悼み、姉を愛し続けていたいのです」
「テレーズ」
「わたくしを醜くおぞましい女とお思いでしょうか。でも、殿下はわたくしを抱かない訳にはいきません。これが、わたくしなりの復讐なんですわ。もうひとつ言うなら、リアナへの復讐でもあります。リアナではなく、わたくしが殿下の御子を産むのですから」
「なんだと! リアナが何をしたと言うのだ!」
「生きている」
ぽつりとテレーズは声を落とした。俯き、その表情は見えなくなる。
「姉は死んだのに、何故まだリアナは生きているのですか。醜くても、リアナは生きている。それだけでわたくしはリアナが憎い。あんな事が起きるまでは、リアナを姉のように慕う心を持っていたのに、やはり本当の姉ではありません」
「勝手なことを! ルイズさえ何もしなければ、誰も不幸になる事はなかったのだぞ!」
この女の言う事は理解出来ない。エリウッドは結局その日はテレーズと共に休む事は出来なかった。
しかし、ずっとそのままという訳にもいかない。皆が、世継ぎの誕生を待ちかねている。翌年には即位も決まっている。
結局、エリウッドはテレーズとの間に三人の子を儲けた。
―――
「お婆さん。ずっと一人で寂しくないの?」
村の少年が言った。老婆はヴェールの下で優しく笑む。
「寂しくなんてないわ。だって、わたくしには歌があるもの。歌えば、村の人たちが喜んでくれるもの」
村はずれの館に、通いで勤める世話係しか置かずにひとりで暮らす老婆は、美しい歌で、最初は遠巻きにしていた村人の心を掴んでいた。少年の父が少年だった頃から、老婆は今のままだという。どうして、こんな綺麗な歌声と優しい心を持っているのに、このお婆さんには旦那さんや子どもたちがいないのだろう、と少年は不思議に思ったのだ。
「それにね、歌にはいつも願いを込めているの。王さまの治める世の中が平和で、みんなが王さまに感謝して暮らせますように、って。その願いが叶っているから、なんにも寂しくも辛くもないのよ」
「そうなんだ。でも、王さまは代替わりしたって、町の人が言ってたよ」
「えっ?」
その時、老婆の部屋の扉が開いた。
「リアナ! 俺がわかるか。待たせて済まなかった!」
初老の男がそこに立っている。老婆の曲がった身体に震えが走った。
「まさか……陛下?」
「もう、陛下じゃない。リアナ、俺は王の務めを果たした。子を成し、教育し、俺を超える男に育て上げた。もう俺がいなくても国は大丈夫だ。だから、そなたの所に来た」
「そんな……まだ、わたくしなんかの事を覚えていらっしゃったなんて」
「忘れる訳があるか。俺の妻はそなただけだと言ったろう」
エリウッドの髪にも白いものが混じっている。
「でも、テレーズは? 王妃さまは?」
「最初は憎み合っていたが、子どもたちを育てていくうちに、愛はなくとも同志のようなものになった。彼女にも、想う相手がいたんだ。残念な事にその男は早死にしてしまってもういないのだがな。しかし、彼女は子どもたちの傍で見守って生きるから、俺は好きなようにすればいい、と言ってくれた。女としての幸せはなくとも母としての幸せは得られた、と。人生にどれだけ残りがあるかはわからないが、後の人生は俺のものだ。俺と共に生きてくれるか、リアナ」
「はい……」
村の少年はあとで、人々に、そこには美しく貴い男女の姿が見えたのだ、と興奮気味に語った。
それから、何年かの間、仲睦まじい老爺と老婆の姿を村人は見た。老婆は、以前と変わらずに歌い続け……歌声が途絶えたある日、村人が館に様子を見に行くと、まるで花婿と花嫁のように幸せそうに、老いたふたりは寄り添って、永遠の眠りについていたのだった。