河童は受験勉強できますか?
プロローグ
ある日川辺を歩いていると、上流から何か流れてきた。
見ると、それは段ボールとおぼしき箱であり、中には茶色い物体が入っているようである。
俺は瞬時に悟った。
あれは捨て犬に違いない!
そう思って川に飛び込んだのが運の尽きだったのだろう。
昨夜の豪雨によって川の流れは増していた。平泳ぎしかできない俺は為す術もなく溺れた。
当然の結末である。
濁った水の中で、俺は茶色い物体の正体を目にした。
それは捨て犬どころか、ただのトイプードルのぬいぐるみだった。
死ぬのか、俺。
十七年間の走馬灯が脳裏によぎる。
……はずだった。
その時、俺の脳内を占めていたのは強烈な肛門への違和感である。
ものすごい力で俺の肛門を突破しようとしてくる魚がいる。
しかも一匹ではない。二匹だ。ダブルフィッシュだ。メジャーリーガーの名前みたいだ。
魚たちは器用にそれぞれ役を受け持って、俺のズボン、あまつさえパンツまでも引き裂いた。
なんて執着心だ。
そんなに俺の肛門が欲しいのか。
ならくれてやる!
などという器量はもちろん持ち合わせていないので、俺は必死になって抵抗した。
やめて! そこから先は乙女の純情よ!
「あああああぁぁぁああああ!!!!!」
思わず水中でも声が出た。魚は巧みに俺の手をかわし、内部へ侵入してみせる。
痛い痛い痛い!
これから溺れ死ぬ予定なのに、なぜこれほどの苦痛を強いられなければいけないのか。
人生というのは奇妙だ。
そして同時に、不思議でもある。
「おぉう!?」
キュポン! と、突然何かが抜ける音がした。紛れもなく俺の肛門がその音の出所である。
しかし、魚たちが目的を果たしていなくなったわけではなさそうだ。
どういうことだ?
不審に思い、恐る恐る下方に目をやる。
するとそこには、驚くべきことにやつがいた。
「ヒャハハハハハハ! 尻子玉ゲットォォォォ!!!」
そいつは全身緑色に覆われた身体……ではなく、ダイビングスーツで、頭にはお皿を模した水泳帽、手には何やら光る玉を握っている。
どうやら先ほどから俺の肛門を執拗に攻めていたのは魚ではなく、
「河童……?」
社会に上手く適応できない現代河童のようで。
尻子玉を人質にされた俺はその日から、彼女の家庭教師になったのだった。
第一話 極限勉強法
命の恩人には感謝する。当たり前のことだ。たまに品物を添えて感謝を伝える輩もいるが、俺はそういうのはどうかと思う。
だってよく言うではないか「気持ちだけでも嬉しいよ」って。
今回もそれじゃダメなのか?
ダメなのか。
「オイラに勉強を教えろ」と目の前の河童はふんぞり返る。
河童といっても、見た目はほとんど中学生くらいの女の子で、異質なのは髪色ぐらいである。
そのボブカットヘアー……綺麗に首もとあたりで切り揃えられている髪は、春の草原を思わせる若草色をしていた。
両手ともに親指はない。
三十分に一度シダの葉を頭に撫でつける癖がある。人間に化けるのに必要な行為なのだそう。
俺は重々しく溜息をついた。
「わざわざ俺を川から救助してくれたのはありがたかったよ? だけど、どうして秘宝感覚で俺の尻子玉を抜いたのかな? おかげで俺の遺跡は大騒ぎだよ?」
河童は座布団に座り直した。
「そりゃ河童の習性だから。オイラが散歩してた時に溺れたあんらーが悪い。でも、勉強を教えてくれたらあんらーの尻子玉、返してもいいよ」
「なんで俺が……なんで俺なの?」
「頭いいんでしょ? あんらー」
「うっ!」
確かに俺は河童の指摘した通り、県内でも唯一の進学校に通っていた。だが、それは頭の良さに直結するかというと否!
そんなことはない。
世の中には落ちこぼれがいる。
俺だ。
学内テストでは毎回最下位。
模擬試験では常に「E」判定。
そんな俺が誰かに勉強を教えるだと?
やめておけ。
悪いことは言わない。
塾に行け。
「ドロップアウトしたくないならな!」
「どろっぷ、あうと……?」
「そもそもレールにすら乗ってなかったか……」
ドロップアウトの意味もわからないとは、もしやこの河童、義務教育を受けていないのかもしれない。
まあ、所詮、河童は河童だしな。
国民の三大義務を果たしていたら逆に驚きだ。
「なあ。どろっぷあうとってなんだ? 新しい相撲の技か?」
「なんでも相撲に結びつけるのはよせ。違うに決まっている。ドロップアウトとは基本的には「脱落」という意味で使われている。今の場合は「このままだとてめえグレちまうぞ?」程度に理解しておけばいい。あまり人様に使う言葉ではないがな」
「へえ。それ、テストに出るのか?」
「何の?」
「高校受験」
「は?」
聞き取り辛かったので、もう一度訊いてみる。
「今、なんて?」
「だから、高校受験」
「……」
本気か? この河童。
まさか本気でそんなことを言っているのだろうか?
だとしたら無謀だ。
義務教育すら終えていないやつに、高校受験なんてレベルが高すぎる。
もちろん、偏差値を選ばなければそれ相応の高校には入学できるだろう。
しかし、この河童の目標はどうやらそこではなかった。
「オイラは、あんらーの学校に入る。そう心に決めてる」
「……」
なんてやつだと俺は思った。「~したい」とか「~できたらいいな」とかではなく、こいつは今「する」ときっぱり言い切ったのだ。
きっと、よほどの覚悟がなければできることではない。
「あんらーも入れるなら、オイラにも入れるかなって」
「おい、それはどういうことだ?」
「あんらーは、見た目がアホっぽいよね」
「は、ハアァアアン!? もう一回言ってみろやハアァアアン!?」
「きゅうり食べる?」
「きゅうりなんか持ち歩いてんじゃねえよ!」
少しだけ見直そうとした俺がバカだった。さすがにここまで罵倒されてしまっては教える気など起こらない。
やーい! このアホ河童め! まずは勉強するよりも人にモノを頼む態度を……!
「おぉん!?」
ふいに肛門に激しい痛みを感じた。
痔のそれではない。
まるで蛇に絞めつけられるようなぎゅうぎゅうした痛みである。
俺はつま先立ちをしながら河童に涙目を向ける。
やっぱりだ。
「勉強教えてくれないなら、これ潰しちゃおっかな~?」
河童の手にはどこから出したのか、光る玉が握られている。
尻子玉だ。
俺の肛門遺跡から盗まれたその宝玉は、本体と離れてもなお、俺の生命と繋がっている。
一説によると、河童に尻子玉を抜かれてしまうと死ぬか、ふぬけになってしまうらしい。
しかし、残念ながら俺は死にたくも、ふぬけになりたくもない。
慎ましく生きるためなら河童の言いなりにでもなろうではないか。
「よ、よーし。よし! い、一緒に合格目指して頑張ろう!」
「やったー!」
「だから俺の尻子玉返せ」
「いやだ!」
「なんで!? 勉強教えるなら返してくれるんじゃないのか!?」
「教えてもらったかどうかは合否で決めるよ。そのほうがわかりやすいでしょ?」
「つまり、おまえは春まで俺にタダ働きさせておいて、ダメだったらまた来年頑張ればいいやぐらいに考えてるってことだな? いけませんよ! いけません! そんな甘ったれた志じゃア、志望校に合格なんてできませんよ! とにかく尻子玉返せ!」
「いやだ! だって、これ返したら教えてもらう前に逃げられちゃうもん。オイラだって人間との付き合いは長いんだよ? ……ふふふ。人の死体って、クサいんだよ?」
「ひぃっ!?」
にぎにぎ。不敵な笑みを浮かべた河童が尻子玉を握るたびに、俺の肛門がムズムズした。
なんてやろうだ。
人のケツと生命を弄んでそんなに楽しいのか。
「ヒャハハハハハハ!!!」
「めっちゃ楽しそう!」
俺はちょっとした敗北感を味わいながら、渋々座卓を用意する。
あ、ちなみにここ俺の家だから。
尻子玉を人質にされている以上、反抗するのは賢明ではないだろう。
それに、本人が望んでいるのだから教えても別にいいかと思い直したのだ。
俺にだって、情はある。
理由はともあれ、河童が勉強できない環境にあったのは何となくわかる。
よくよく考えてみれば河童に学力なんて関係ないもんな。
きゅうりで序列が決まりそうだ。
なら、いっちょ気合入れてやってみるか。
ずっと落ちこぼれだったけど、誰かにまだ必要とされるなら、力になってあげたい。
「とりあえず試験やるぞ。河童」と俺はペンと紙を座卓の上に置いた。
「今の実力を測って、それから勉強のスケジュールを組み立てるんだ。そうした方が効率的に学習できるからな」
「なるほど。で、問題は?」
「そうだな……じゃあまずはこれでどうだ? 2x×3は?」
「え、えっくす……?」
「乗算記号を知らないのか?」
「うん」
「なら2×3の答えはどうだ?」
「それならオイラにもわかるよ。6でしょ?」
「正解だ。じゃあその答えの横に残ったxを書いてみろ。それが2x×3の答えになるから」
「x6?」
「斬新な不正解の仕方! 惜しい! 6xが正解だ」
「えー、どっちも変わんないのに?」
「そうだ。何事にもルールがあるだろう? 河童よ。例えば「金曜日は可燃ごみの日」とか、別にごみくらい月曜日に出したっていいじゃないかと思うわけだ。でも、みんなきちんと金曜日に出してる。なんでだと思う?」
「……きゅうり抜きにされちゃうから?」
「おまえ、実は河童のイメージを守るために、わざときゅうりきゅうり言ってるんじゃないだろうな?」
「そ、そそそそんなことないよ!」
「めっちゃ動揺してる!」
「で、答えは?」
「切り替え早っ! でもまあ、大体合っている。つまり、それがルールだからだ。みんなで守ろうという決まりだからだ。社会はありとあらゆる決まりの上で成り立っている。数学とはその決まりを細分化して教育用にモデルチェンジしたものだ。だから数学のルールに従うことこそ、社会に適応する第一歩というわけなのだ」
「おぉ~! なんか……それっぽく聞こえる!」
「だろう? まあ俺も恩師の受け売りなんだがな」
しかし、中一のレベルで躓くとは。
正攻法では時間がかかりすぎるな。
これじゃとてもじゃないが、受験までに間に合いそうもない。
「……」
となれば。
あれをやるしか……!
「極限勉強法……」
「えっ、なんだ? それ。新しい相撲の……」
「技じゃない。極限勉強法だよ。その名の通り自らを極限状態において勉強する……奥の手だ」
「なんかこわそう」
「ああ、怖いともさ。だが、その反面効果は絶大だ。俺はそれで合格したからな」
「すごいな! ならオイラもその極限勉強法? 試してみたい!」
「わかった。準備があるからまた明日の朝、家に来てくれ。朝食はこっちで用意するから食べて来なくていいぞ」
「わーい! オイラ、人間のご飯って初めてだ! 楽しみだなあ!」
○
翌朝。
「み、水……水をください」
「まるで四コマ漫画だな……」
和気藹々と俺のアパートにやって来た河童は今、俺の部屋に閉じ込められ呻いている。
もちろん、温かい朝食など用意してはいない。
「きゅうりはその問題を解いてからだ」
「う、うぅ……」
これこそまさに極限勉強法の真骨頂である。
本来なら断食がメインなのだが、今回は河童の体質を利用させてもらった。
生死に関わる状況下では記憶力と思考力が格段に上昇するのである(根拠はない)。
極限勉強法とは、意図的にその状況を再現することによって学習効果を高めるという……いわゆる人工的な背水の陣のことだ。
「死んじゃう……オイラ死んじゃうよ……」
「我慢しろ。俺の学校に入りたいんだろ? だったら死ぬ気でやらなきゃダメだ。おまえはスタートダッシュが他のやつらに比べて極端に遅かったんだから、渡り合うには多少リスクを負って靴にブースターを付けるしかない。大丈夫だ。転びそうになったら俺が支えてやるから!」
「今まさに転びそうなんだけど?」
「それは気のせいだ! 参考書の妖精に惑わされてるだけだ! 試しに耳を澄ましてみろ!」
「はい」
「……ボクガキミヲマドワシテイルヨ(裏声)」
「……」
「な、どうだ。おまえにも聞こえただろう?」
「……!」
「待て! 無言で俺の尻子玉を握りしめようとするんじゃない! ここは俺も折れようではないか。ほれ」
俺は冷蔵庫からラップをかけたお皿を一枚取り出した。上には乾燥機にかけてカピカピの野菜が一本載っている。
「干しきゅうりだ。シルブプレ!」
「食えるかーっ!」
河童は案の定俺の手からきゅうりを叩き落した。
もったいない!
いくら干しきゅうりといえどきゅうりはきゅうりである。
「アフリカの子どもたちのことを考えろよ! いつもお腹を減らしてんだぞ!」
「知るか! オイラだってお腹ぺっこぺこだし、喉からっからだよ! なんで普通のきゅうりを用意しないの? わざわざ乾燥させるなんて、きゅうり農家に謝れ!」
「うるさい! 干しきゅうりはれっきとした料理なのだ。これが料理である以上、たとえ農家でさえ文句は言えないのだ。世間とは厳しいものなのだ!」
「言ってる意味がようわからん」
「わかるために勉強しよ?」
「きゅうりをくれたら」
「その問題解けたら」
「「いいよ!」」
「「……」」
俺と河童はすかさず距離を取った。
このわからず屋め。
人がせっかく勉強を教えてやっているというのにその態度はなんだ?
お嬢さまなの?
極限勉強法において、間食はもっともタブーとされている。
一度そうしてしまうと効力を失ってしまうからだ。
どうせお腹が空いたら何か食べればいい。
そういう邪まな気持ちが極限勉強法をダメにするのだ。
河童は尻子玉をすっと自分の顔の前に掲げた。
「オイラはあんらーを倒してでも水を飲み、きゅうりを食らう。人間風情が河童に太刀打ちできると思うなよ?」
「はっ、人間風情……か。舐められたもんだな俺も。まさか俺がこうなることを予想していなかったと思うか? 対策は万全だ! 仮に尻子玉を人質に取られても、今の俺ならおまえに勝つことだってできる。これを見ろ!」
俺は腰元から刀剣……ではなくきゅうりを引き抜いた。河童のお腹がぐうぐう鳴る。今朝取れたばかりの新鮮きゅうりである。
「おまえが尻子玉を握るのと、俺がこのきゅうりを食べるのと、一体どっちが早いだろうな? くくく、いい気分だぜ。もはや素直に従う俺ではないのだよ!」
しかし、河童は悔しがるどころか、むしろ真顔になって、
「ぎゅ~っ!」と言った。
そして「ぎゃああああああ!」と俺は悶絶した。
「いや、どう考えてもオイラが握る方が早いでしょ? あんらーはアホだなあ。なんでそこに思い至らないの? あ、きゅうり、いただきます」
「く、クソ……。俺としたことが……ヘマしちまったみてえだな。は、はは……。お墓は、町が一望できる丘に建ててくれ……頼んだぞ」
「もう大げさだなあ、あんらーは。尻子玉握られるのってそんなに痛いの?」
「痛いよ! 平均台から落ちて股間打ったような痛さだよ! つか、おまえ、きゅうり食ったな? あーあ、何やってんだよ。せっかく人がお膳立てしてやったってのに、食欲に負けるなんて。受験生の風上にも置けねえやつだな」
「勉強法が合わなかったんだよ。オイラのせいじゃないよ」
「ならばどうすればいいというのだ。極限勉強法が使えないなら、他に手は……」
「普通に勉強するのじゃいけないの?」
「それだと時間が足りねえ。三教科ならまだしも五教科だからな。例年の平均点370点を超えるぐらいまで成長するにはやっぱり……」
と、そこまで考えて、俺は大事なことを失念していることに気が付いた。
高校受験に必要なのは試験の点数だけじゃない。
中学校の成績……つまり、内申だ。
合否は「面接」「内申」「試験結果」の三つで判断される。
あれ?
ということは、こいつがいくら頑張って500点を取ったところで、内申がないならそもそも入学は不可能じゃないか?
「どうした、あんらー?」
「ええとだな……」
伝えるべきかどうか、迷う。
だが、いずれ突きつけられる現実だ。
傷は浅い方が良い。
「おまえは……今までに学校に通ったことはないのだったな?」
「うん。生まれてからずっとダイビングショップで働いてきたから、ないよ」
「じゃあ内申とかわからないよな?」
「ないしん、ってなに?」
「学校の成績のことだ。この子はどんな子で、何の部活に入って、どういう活躍をして、授業態度はどうだったのか、とか。そういうのが全部書かれてる紙だ。それがないと、恐らく受験はできない」
「え……そんな。オイラは河童だから受験できないの?」
「そうじゃない。中学校に行ってないから受験できないだけであって、河童だからとかは別に関係ないというか何というか……」
「一緒だよっ!!!!」
「っ!?」
河童は目に涙を浮かべて、若草色の髪を振り乱した。その拍子に尻子玉が床に転がってしまう。俺は肛門を押さえる。彼女は俺の胸に縋るようにしながら必死になって叫んだ。
「一緒だよ! オイラは河童だから学校に行けなかったんだ! 河童だから、人間の世界に深く関わっちゃいけなかったんだ! でも、それは昔の話。お父さんもお母さんももういない! どこにもいない! だからオイラは学校に行って、友だちを作って、きっと楽しいことがいっぱいあって、そんな毎日がやっと! やっと手に入るって思ってたのに! どうして! どうして、こんな……こんな……ひどいよ……」
「……」
かけられる言葉はなかった。
人間である俺が彼女に同情するなど、なぜできようか。
それは高みにいる者の欺瞞でしかない。
欺瞞でしか……。
――勉強を教えてくれたら尻子玉、返してもいいよ。
「……」
――すごいな! ならオイラもその極限勉強法? 試してみたい!
「……」
――死んじゃう……オイラ死んじゃうよ……。
「……」
――オイラは、あんらーの学校に入る。そう心に決めてる。
「……そうだよな」
俺が彼女に慰めの言葉をかければ、それは欺瞞でしかない。
しかし、もしそれが打開案に代わったら?
慰めの言葉が打開案に代わったら、それは欺瞞ではなく希望になる。
そうだ。
俺は決めたではないか。
やれるだけやってみようと。
そう誓ったはずだ!
「まだ受験できないと、決まったわけではない」
床に転がった尻子玉を拾い上げる。思ったより温かいなこれ。
「内申がなければ、ないで考えればいいのだ」
「できないよ……そんなの。オイラ、頭良くないから……」
「良くなくても考えることはできるはずだ。思考停止になってしまってはそれこそお終いだろう。まだ諦めるタイミングではない」
「でも、どうせ何をやったって……」
「内申がないなら作ればいいのだ!」
「っ!?」
俺はある一人の先生の顔を思い出していた。頭がハゲ散らかしたとある数学の後藤先生である。とあるは余計である。
「俺は一人だけ内申を偽造できそうな人物を知っている。後藤先生といってな。俺はやつの弱みを握っているのだ。だからできる! おまえは高校に進学できる! 一人の教師人生と引き換えにな!」
「……弱みって?」
「ああ。後藤先生は昔、怪盗だったのだ。で、俺はその下っ端。今はそれを隠して社会に溶け込んでいるが、俺はやつが怪盗だった証拠を持っている。それを警察に出されたらやつもたまったものではないだろう。そこにつけ込むスキがあるはずだ」
「つまり、脅すってこと?」
「違う。交渉だ。怪盗の下っ端は常にエレガントなのだ。まあ、だからいつも下っ端止まりだったのだがな……」
「あんらーは犯罪者だったのか」
「何を人聞きの悪いことを。下っ端といってもやったのは雑用だけだ。だから俺は犯罪者ではない! 引き出しの中に隠してあった宝石を売って得た資金を、まさか家賃として切り崩しながら使っているなんてことはありえない! 本当だよ? 信じて!」
「うわ」
「トラスト・ミ―!」
こうして元怪盗の下っ端と河童の一大作戦が開始されたのだった。
○
「ねえ、あそこにいるのが後藤先生?」と河童は鼻をひくひくさせた。
「なんか普通のおっさんの匂いがする。くせえ!」
「やめてやれよ……」
俺たちは植え込みに潜んで、花壇に水をやっている後藤先生を観察していた。
緑色のカーディガンを着て、クリーム色のズボンを履いている。
一般的な中年男性だ。
「それなに?」
俺は懐から一枚の写真を取り出していた。
「証拠だよ。これがあればあいつは俺の言うことを聞くしかなくなるのだ」
「へえ、ちょっと見せてよ」
「ダメだ。これは極めて危険なものなのだ。見たら耳たぶもぐぞ」
「地味にいたそう」
「地味どころじゃないと思うんだが……っと、動いたぞ。どうやら体育館裏に行くみたいだな。ちょうどいい」
「オイラはここで待ってるよ」
「うむ。そうしてくれ。では、行ってくる」
俺は辺りに人気がないのを見計らい茂みから出て、後藤先生の後を追った。
「待ってください!」
「?」
俺がそう呼びかけると後藤先生はまるで木漏れ日にいるような表情で、「やあ」と言った。
「ぼくに何か用かな?」
「ええ、そうです」
コホン、咳払い一つして、俺は身体から力を抜いた。
よもやこんな流れでこれを打ち明けてしまうことになろうとはな。
「あの……これ」
「これは?」
「写真です。見覚えありませんか?」
「見覚え……これは!」
その写真には若い頃の後藤先生と一緒に、女性の姿が映っている。髪が肩甲骨のあたりまである細面のご令嬢。彼女の手には小さな赤ん坊が抱きかかえられており、その子を中心に二人とも幸せそうに微笑んでいた。
「なぜ君がこの写真を持っている? これはこの世界に三枚しかない写真のはずだ。私と妻とそして……娘の三人。はっ、もしかして、君は!」
「いえ、俺は先生の娘ではありません。でも、この写真を撮ったのは正真正銘俺です。写真は四枚あったんですよ、先生」
「そんな! だがあの時のカメラマンは女の子だったはずだ! 君はどう見ても男じゃないか! そんなことがあるわけない!」
「いや、俺性別は一応女の子なんですけど……なんでよく間違えられるのかな? 髪を短く切りすぎてるせいかな? まあ、とにかくそういうわけなんですよ。だから、俺は先生が「先生」になる前に何をやってたか全部知っているというわけです。部屋には先生の指紋がべったりついた宝石がいくつか眠っています。盗品ですから警察に突き出せば終わりでしょうね」
「……な、なにが望みだ?」
「はい?」
「捕まえたいのならわざわざぼくに会いに来る必要はないだろう? 君がこうしてやってきたということは理由がある」
「ご名答。怪盗だった先生には簡単な話ですよ。内申を偽造してもらいたいんです。俺の知り合いの女の子の。もし良い答えが頂けるようなら宝石もこの写真も先生にちゃんとお返しします。だからどうですか、先生。公文書偽造、やってみませんか?」
「……」
後藤先生はだらだと汗をかきながら、校舎の窓ガラスを見た。
そこには教師としての自分の姿が映っていた。
この要求を断れば、絶対に教師を辞めることになる。
だが逆に、この要求を呑めば首の皮一枚繋がることになる。
「……わかった。やってみよう」
「ええ、良い返事ですね」
膝から崩れ落ちた先生を横目に俺は颯爽と河童のところに戻った。
○
「あんらーは女の子だったのか!」
「驚くところはそこなのか!」
アパートに戻り、軽く祝勝会を開いた。
当然、品物のラインナップはきゅうりが大多数を占めている。
俺は手酌でコーラを注いだ。
「少しはよくやったと言ってみろ。よくやったと。これでおまえはちゃんと俺の高校に受験できるようになったのだ。あとは頭の方さえ何とかすれば勝ちゲーだな」
「オイラ、もう極限勉強法はいやだなー」
「そうだな。あれに代わる勉強法を見つけねばならんな。だが、まあ今日はもういいだろう。疲れたし、疲れるし、疲れている。さっさと食べて寝ようではないか」
「なら今日はあんらーの部屋に泊まっていこうかな。きゅうりもあるし」
「おまえ、もしかしていつもきゅうりを抱きながら寝ているのか?」
「うん。河童の世界では常識だよ」
「抱き枕ならぬ抱ききゅうりか。それもイメージを守るためではないだろうな?」
「そ、そそそそんなことないよ!」
「めっちゃ動揺してる!」
夜が更けていく。
当たり障りのない日常だけど、それでもまた明日はやってくるのだろう。
人生とは奇妙だ。
そして、同時に不思議でもある。
こうして俺と河童の受験勉強がスタートしたのだった。
伏線とか考えずに、ガーッとそのまま勢いで書けたのでとても楽しかったです!