1:駆出−3
ベッドに胡坐で座り、ベッドの淵に腰掛けるアシュリーの長い紫髪を櫛で梳かす。不機嫌そうに不貞腐れているのは俺の起こし方に対するものではない。髪を梳かそうとしたところ、どうにも数週間髪を洗っていない様相だったためにバスルームに叩き込んだことに対する不満だろう。もちろん、起こし方に対する不満も少なからずあるとは思うが、そういったものも含めてバスルームで洗い流した。
「奏、もうちょっと丁寧に梳かしてよ。痛い」
「無駄に長いのが悪い」
「さっきの目潰しだって痛かったし、髪の洗い方だってガシガシって乱暴で、身体の拭き方も投げ槍だよ」
ダメだった。全然不満は消えていない。鬱積する一方のようだった。ただ、まあ、言われるだけなのもつまらないので言い返す。
「あれはお前を起こそうとした結果であって目潰しじゃない。あと、髪の洗い方はともかく、身体くらい自分で拭け」
「いーやーだー」
何でだよ。
と、心の中で呟く。呟きはすれども理由はある程度分かるんだが。
こいつ、アシュリー・サイクライドは異常であり異質であり異能な存在であり、それが直接的なきっかけとなって世間に馴染めない。この部屋は一種の隔離病棟のような有様となっており、外との直接的な交流をアシュリーは拒み、部屋に引き篭もる。一言で言ってしまえば、社会不適合者。異形ではないがその在り方はそのまま普通では有り得ない。
隔離病棟、というのはこの家が高級マンションであり隣人が存在することを踏まえると奇妙な響きに感じるのだが、他の誰でもない、アシュリー自身が言い出した比喩なので俺があれこれ口出しをできる領域でも無い気がする。
外との直接的な交流を拒む、といったが間接的な交流はむしろ常に行っている。こいつの趣味はコンピュータいじりであり、ネットワークに生きている。ついさっき俺がこの部屋に這入った時、良く分からないプログラムが走っていたことからもそれは汲み取れるかもしれない。
その面においてこいつは正しく異能――天才であり、俺の常識を超えている。それを踏まえてしまえば、一人で風呂にも入れず一般的に正しい生活を送ることができない点も飲み込めてしまう……と思う。
もっとも、他人の身体を洗うだとか拭くだとか、そういう分野は俺にとって管轄外なのであまり期待を掛けられても困る。
「……ムチャクチャな生活送ってるくせにやたらと髪が綺麗だから腹立つ」
ちゃんと毎日洗えばもっと綺麗になるんじゃないか、などと深い紫色の長髪を眺めて考えたりもする。
注文に出来る限り答え、丁寧に髪を梳かすとアシュリーは気持ち良さそうに目を細める。このまま寝たらまた無理矢理起こしてやる。
なんて思っていたら髪を大体梳かした頃には半分寝ていたので、髪を引張ってみた。後ろ髪を引かれた勢いで顔が上を向き、「ぐえ」と呻いてアシュリーは目を覚ました。
「お前、何時に寝た」
油断すると寝る辺り、相当夜更かしをしたんだろうと思って訊いてみる。
「何時だっけ……? 六時?」
「出掛ける予定があるならそれ相応の時間に寝ろよ!」
どこまでもズレた人間だった。良く考えると時間の概念が抜け落ちている可能性もある。この部屋には時計が無いし、ブラインドも閉め切ってあるため光も入らない。やっぱり世間から隔離されているのか。
「……ま、いいや。今更だし。……髪結う前に服着ろ。十一時には出たいんだろ?」
「服……。何着ればいい?」
「何でも良いよ」
「うーん……」
面倒そうな、それでいて楽しさも滲ませる声を発してから、アシュリーはベッドの淵から腰を上げ、部屋を出て行った。多分衣裳部屋に向かったんだろう。
衣裳部屋というのはアシュリーの親父さんがアシュリーに買い与えた服を押し込んである部屋だ。外に出ようとしない、引き篭もり体質の娘でも親父さんにとっては目に入れても痛くない大切な存在らしく、頻繁に何かしら買い与えているようだ。大体、アシュリーがこうやって外界との交流を絶って高級マンションに引き篭もっていることができるのも親父さんのおかげだ。その辺りはアシュリーも十分認識しているようだが。
一分という短い時間の後、機器で埋め尽くされた寝室へと戻ってきたアシュリーは赤色のワンピースを抱えていた。きっと最初に目に留まった服をそのまま持ってきたんだろう。
アシュリーが服を着るのを眺めているのも心地が良いものではないので、適当に部屋を見渡す。見渡したところで、そんなに興味を持てるシロモノがあるわけでもないのだが。
どうでも良いことだが、何でアシュリーの使用しているモニターやキーボードには投影式の物が無いんだろうか。あれは収納スペースがそんなに必要にならないし、結構便利だと思うんだが。CATに内蔵されてるのも納得の汎用性だ。
だらららら、と黒背景をバックに流れる白文字を意味も分からず眺めていると、アシュリーが服を着終わった。正確にはまだだった。
「奏、ボタン留めて」
「はいよ」
前面ならともかく、背中までは手が回らないらしい。背面のボタンを一つずつ留める。良く見るとこのワンピース、腰の辺りにリボンを模したベルトが巻いてあってそれなりに可愛らしかった。
「留めたぞ。んじゃ、髪結うから座れ」
俺が言うとアシュリーはベッドの淵に再び腰掛けた。俺もまたベッドの上に胡坐で座り直し、紫髪へと手を掛ける。
髪を結う、なんて言いはしたが俺に大層な細工はできない。期待されても困る。だから、いつもアシュリーの髪型はポニーテール。少なくとも俺はそれしか見たことが無い。
ポケットから服の色と同じ、赤色のリボンを取り出して紫髪を結い上げる。別のポケットからヘアピンを取り出して、目にまで架かっている前髪を上げる。これくらいしか俺にはしてやれないのが少し残念でもある。
「できたぞ。……ん、時間的にもちょうど良いか」
あと十分程度で十一時、出発予定の時刻だ。
アシュリーは再び立ち上がり、髪の様子を確かめるように何度か後ろを振り向く。その度に髪の束は揺らめき、その様子が自らの尻尾を追い回す小動物のように見えて俺は少し笑った。
暫く髪型の様子を気にしていたアシュリーはふと思い出したように部屋を出て行く。再び寝室へと戻ってきた時は手に靴下を手にしていた。何度目かはもはや忘れたが、またしてもベッドの淵に座り直して今度は靴下を穿く。黒色のシンプルな物だった。膝より上まで靴下をしっかりと穿き、アシュリーは俺を見た。
「ん、もう準備できたか?」
「うん。あとはCATを持てば……多分、大丈夫」
壁際に放置されていたCATはコンピュータと接続中だったのか側面の小さなランプが点滅していたが、アシュリーがキーボード(旧いタイプの型だ)をカシャカシャと何度か叩くと切断されたのか、ランプは消えた。それを手に取り、腕に着ける。
今やネットワークの無い生活なんて考えられないなあ、と何となく思った。それはネットワークに生き、ネットワークに依存するアシュリーだけではなく、全ての人々が。CATが必需品として扱われているのがその根拠だろう。もちろん俺だって例外ではなく左腕にはCATが装着されている。CAT無しで、どれだけ生活のリズムが崩れるか、考えるだけで嫌な予感しかしない。
「行こう、奏」
「ああ」
寝室から出て、廊下を歩いて、玄関口で俺はスポーツシューズを履いて、アシュリーは壁の収納から適当にローファーを出して履く。
自動ドアが横へとスライドする。外に出る際に暑さを感じない点だけを見ても、気候管理って最高だと思える。夏は暑いものだ、とか言ってしまえばそれまでだけれど、三十年前以降気候が全体的に狂い気味だから仕方が無い。壊したのは人間だけどさ。
3203号室を出て、エレベーターへと向かう。誰ともすれ違わなかったのは偶然だろうけど、アシュリーからしてみれば安心できるようだ。社会不適合の中には恐らく対人恐怖も含まれている、と思う。
エレベーターを呼び出して中へと入り、一階へと降りる。とりあえずの目的地はターミナル。セントラルストラクチャに向かうためにはターミナルからパブリフィックを利用する必要がある。
久しぶりの外、明るさに立ち眩みを起こしそうになったアシュリーの手を引いて、俺はターミナルへと歩き始めた。やや覚束ない足取りで、アシュリーは付いて来る。




