1:駆出−2
新地区に入った瞬間一気に楽になった。が、そこで足を止めるわけにもいかないのが遅刻者の常識だ。人々は走る俺を少し迷惑そうに見てくるが気にもしていられない。
目的地――アイツの住処はマンションの一角だ。このペースで走るならあと十分程度だろうか。近いようで遠いよな、アイツの家……。
マンションに辿り着いた。それなりに立派なオーラを醸し出している、そんなマンションに俺は駆け足をやめて歩み入る。ええと、三十二階……。
エレベーターを呼び出して「32」と描かれたボタンを押す。エレベーターが上昇する感覚と共に俺は壁へと寄り掛かった。走るのは好きなんだけどな……。
「朝からハードだ……」
暑さは強敵だった。しっかりノックアウトされた。全ては自業自得だが。
十一階でエレベーターは一度止まり、同年代くらいの女の子が乗ってきた。女の子は二十五階のボタンを押して俺に背を向ける。二十五階に辿り着いてエレベーターの扉が開くと、女の子はさっさと降りて行った。
俺がこのマンションに来る用事といえばアイツに会うことぐらいなので、アイツ以外をこのマンションで見るのは結構珍しいことだったりした。そうか、このマンション、高級マンションだけあって人入りは良いんだな。俺が遭遇したこと無いだけで。
三十二階に到着した。扉は開き、俺は外に出る。3203、3203。部屋番号を何となく口に出しながら俺はアイツの家へと向かう。着いた。
約束の九時からは四十分程度が経過している。正直、俺は頑張ったと思う。普通に来れば一時間程度はかかると思われる道程を炎天下に負けず急いだんだから。
だがそれは主観であり、客観的に見ればただのねぼすけでしかないのが残念だった。
インターホンを鳴らす。返事は無い。怒ってるんだろうか、やっぱり。
仕方ないので合鍵を使う。持って来て良かった、合鍵。ポケットからカードを取り出して鍵に差し込む。ピピッと電子音、開錠。
扉に触れると扉が右にスライドした。俺の家のように古臭くないマンションである。もっとも、自動ドアなんて別に珍しい技術じゃないけどさ。
おじゃましまーす、と小声で遠慮がちに呟きながら俺は家へと這入った。薄暗かった。空調の音に混じって軽い駆動音が聞こえる。
とりあえず、アイツの活動拠点である部屋をこっそり覗いてみる。照明は点いていないが幾つものモニターは朧な光を放っている。駆動音は部屋を埋め尽くしたコンピュータだ。空調がバッチリ動いているのは、コンピュータの放熱を打ち消すためだろう。
モニターに移っているのは黒い画面が大半であり、文字列が次々と打ち出されている。何かのプログラムを走らせているのだろう。俺には理解できないものである。
さて。コンピュータと空調の駆動音の中でアイツは寝ていた。寝息はとても静かであり、見た目のか細さと相俟ってある意味死んでいるようにも見えた。なっがい紫髪を惜しげもなくしわしわシーツのベッドにぶちまけ、そして全裸で。
さて。突っ込むべき所はどこだろうか。理解できないプログラム? いや、普段通りだ。全裸であること? いや、普段と変わらない。
突っ込むべき所。それは。
「何でお前がまだ寝てる!?」
この一点に尽きると思う。
九時には俺がこの家を訪れるはずだった。色々と勘違いがあってそれは十時近くまでもつれ込んだが、最低でもこいつは起きているはず。
……まさか、目覚ましとして俺を呼び付けた? ……。
この場合、目覚ましとして呼び付けられたことより大事な点が一つ。
俺は全くもって目覚ましとして機能していない。
「うわあああ! 起きろ! 起きろアシュリー!」
四十分遅れで目覚まし時計(俺)は機能した。……起きない。
肩を掴んで揺さぶってみる。髪が乱れまくって顔にかかって、めっちゃ怖い。そして起きん。
面倒なのでベッドから引き摺り落とすことにした。べしゃ、と床に落ちる。最近の目覚まし時計(俺)はとことんやります。あ、起きたっぽい。
カーペット仕立ての床でもぞもぞと痛そうにうごめき、むくりと頭を持ち上げる。眠そうな眼は焦点が中々定まらなかった。焦点が定まらない眼はやがて瞼という名の帳で覆い隠され、
「一旦起きたなら寝るなよっ!」
目覚まし時計(俺)によってこじ開けられた。
「ぎゃあ! 目が! 目がー!」
転げる転がる転がりまわる。床を悶えつつ転がり、壁にぶつかり、ごすんと音を立てて止まる。しばらくすると、再び寝息が……。
結果から言えば、こいつの目が完全に覚めるた頃には既に、十時を回っていた。遅れはしたものの、目覚まし時計(俺)は全力を尽くしました。
多分、こいつ――アシュリー・サイクライド史上で五指に入る程度には嫌な起こされ方だっただろうな、と。後になって思ったりもしたが反省はしない。