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第四話 「決死の脱出劇(後編)」

「やめんか!」


 雷鳴のような声と共に、俺の拳は鉄の万力に挟まれたかのように止まった。


 祖父だった。


 いつの間に現れたのか。まるで影から実体化したかのように俺の前に立っている。その手は俺の拳を軽々と掴み、ピクリとも動かすことを許さない。


 なんという反応速度。

 なんという膂力。


 これが伝説の暗殺者、アルフレッド・マグヌス・マキシマムの実力か。


 全力で拳を引こうとするが、祖父の握力は万力のように俺の手を締め付けてくる。骨がギリギリと軋む音が聞こえた。しかし祖父の表情には、孫を叱る優しさすら浮かんでいる。


 もう六十五歳だというのに、この化け物じみた力は何なんだ。


 つい先ほどまでエスメラルダとの激戦で息を切らしていたとはいえ、俺がまるで子供のように軽々と制圧されている。エスメラルダも祖父の登場と共に戦意を失い、恭しく頭を下げていた。


 周囲の執事達も一様に緊張している。平素は冷静沈着な彼らが、祖父の存在に明らかに萎縮していた。これが、マキシマム家の絶対的権威というものか。


「八万の軍勢を単身で蹴散らした男」

「一国を滅ぼした暗殺者」

「死神の異名を持つ伝説」


 そんな数々の武勇伝が、今この瞬間に現実味を帯びて俺に迫ってくる。


 祖父は別に殺気を放っているわけではない。むしろ孫を心配する、慈愛に満ちた表情すら浮かべている。だが、その存在そのものが放つ圧倒的な威圧感は、まさに天災のようだった。


 まだ諦めるな。


 俺の脳裏に反抗心が湧き上がる。祖父一人なら、まだ何とかなるかもしれない。


 だが、その希望的観測は瞬時に打ち砕かれた。


「カミラ、そこまでにしておけ」


 親父の声が響く。気がつくと、カミラは親父に後ろから抱き上げられ、空中で手足をばたつかせていた。


「パパー! まだ遊んでたのに!」


 カミラが不満そうに抗議するが、親父の腕力の前では子猫同然だった。つい先ほどまで執事達を一方的に蹂躙していた化け物じみた妹が、今度は親父によって軽々と無力化されている。


 この光景を見て、改めて自分の置かれた状況を理解した。


 詰んだ。


 祖父だけでも勝ち目は薄かったのに、親父まで加わっては絶望的だ。しかも、物陰から母さんの気配も感じる。あの超高速レイピアの使い手も、静かに様子を窺っているのだ。


 マキシマム家の化け物トリオが勢揃いでは、もはや抵抗は無意味だった。


 俺とカミラの実力を合わせても、この三人には到底敵わない。それどころか、三人の中の誰か一人とでも真剣勝負をすれば、命の保証はない。


「まったく、せっかちな奴じゃ。リーベルよ、一日も待てなかったか」


 祖父が呆れたような、それでいて愛情のこもった声で言う。その声音には、暴れた孫を諭すような温かさがあった。


「ああ、そうだよ。話し合いじゃ埒が明かないから、実力行使に出たんだ」


 素直に答えた。もう隠す意味もない。


 ここまで来てしまえば、もはや嘘をつく意味はなかった。俺の真意は、昼間の議論で既に家族に伝わっているはずだ。


「無理にでも家を出てやるってね」


 周囲の執事達が一斉に警戒態勢を取る。その緊張感が空気を震わせた。エスメラルダも短剣を握り直し、いつでも戦闘に移れる体勢を整えている。


 だが、そんな殺伐とした空気の中でも、祖父だけは別格だった。まるで嵐の目のように、静謐な威厳を保っている。


「リーベル、お前まさか——」

「じいちゃん、みなまで言わなくていい」


 俺は深いため息をついた。


「わかってる。親父達が出てきた時点で、もう勝負あったんだ。降参、降参」


 両手を上げて降参のポーズを取る。これ以上の抵抗は無駄だった。


 いや、無駄どころか危険ですらある。この状況で暴れれば、本当に大怪我をしかねない。マキシマム家の人間は、身内に対してすら手加減を知らないのだから。


「暴れたりしないから、手を離してくれよ」

「そうか。賢明な判断じゃ」


 祖父が満足そうに頷き、俺の手を離す。


 瞬間、血流が戻って手がジンジンと痺れた。握力だけでここまでの圧迫感を与えるとは、さすがは伝説の暗殺者だ。


「リーちゃん、お怪我はない?」


 母さんが心配そうに俺を見つめる。その眼差しには、息子を案ずる母親の愛情があった。


 この人達は、いつでも俺達を救えるように待機していたのだ。本当に危険な状況になれば、即座に介入する準備を整えて。


 結局、家族想いなんだよな、この人達。


 やり方は完全に狂っているが、根底にある愛情は本物だった。俺達兄妹を心から大切に思っている。だからこそ、こんな異常な教育を「愛情」だと信じて疑わないのだ。


 決死の脱出作戦は、あっけなく失敗に終わった。


 これで監視がさらに厳重になるだろう。次の機会はいつ来るのやら。いや、そもそも次があるのかすら怪しい。


「はあ……どうして俺の気持ちをわかってくれないんだ」


 地面に座り込み、頭を抱えた。


 疲労感が一気に押し寄せてくる。エスメラルダとの戦闘、そして家族総出での制圧。肉体的な疲労もさることながら、精神的なダメージが大きかった。


 カミラを救いたい。

 ただそれだけの願いが、どうしてこんなにも困難なのか。


 その時だった。


「あ~リーベル、その件じゃが」


 祖父が口を開く。


「行ってもよいぞ」

「……えっ?」


 自分の耳を疑った。


 今、何と言った? 行ってもよい?


 俺の聴力なら、隣町で落とした硬貨の音まで聞き分けられる。だが、この言葉だけは信じられなかった。あまりにも予想外すぎて、脳が情報を処理しきれない。


「じいちゃん、今なんて?」

「だから、外出を許可すると言ったのじゃ」


 祖父が穏やかに繰り返す。その表情には、重大な決断を下した者の覚悟が宿っていた。


 慌てて親父と母さんの顔を見る。二人とも静かに頷いていた。


 親父は複雑な表情を浮かべながらも、確かに同意の意を示している。母さんは明らかに不満そうだが、諦めにも似た表情で息をついていた。


「本当に? でも、どうして急に……」


 俺の混乱は深まるばかりだった。ついさっきまで脱出を阻止していた家族が、なぜ急に方針を変えたのか。


「このまま温室で育てても、カミラのためにならん」


 祖父が真剣な表情で続ける。


「昼間のお前の言葉、よく考えてみれば最もじゃった。ワシも常々、息子のカミラへの甘やかしに懸念を抱いておったからのぉ」


 甘やかし?

 毎日殺人を強要する家庭が?


 思わずツッコミたくなったが、口には出さない。何はともあれ、外出許可が下りたのだ。今ここで余計な発言をして、許可を取り消されては元も子もない。


 それにしても、祖父の決断力は凄まじい。昼間の議論から一晩も経たないうちに、家族の方針を一八十度転換させてしまった。


 これが、マキシマム家の実質的な権力者たる所以か。


「私は今でも反対ですけどね」


 母さんが不満そうに呟く。


「お義父様があまりにも仰るものですから、渋々承諾したんです。カミラは病弱なのに……」


 母さんの心配は本物だった。カミラを溺愛する母親として、娘を危険な外の世界に送り出すことに強い不安を感じているのだろう。


 だが、その「病弱」という認識が、どれほど世間とかけ離れているかを母さんは理解していない。カミラの「病弱」とは、極地や砂漠で体調を崩すレベルの話なのだ。


「母さん、そう言うな」


 親父が苦笑いを浮かべる。


「俺も親バカだったようだ。実戦に勝る修行はなし。家で訓練ばかりしていても、井の中の蛙になるだけだ。まさかリーベルに気づかされるとはな」


 親父の言葉に、俺は複雑な気持ちになった。


 完全に勘違いしてる。


 俺はカミラを殺し屋として鍛えるつもりなど毛頭ない。この殺伐とした世界から救い出したいだけなのに。


 親父は俺の真意を「カミラをより強い暗殺者に育てたい」という風に解釈している。そして祖父も、同じような理解をしているようだ。


 うん、それでいい。真実を知られて追手でも差し向けられたら元も子もない。


 勘違いのおかげで外出許可が下りたのなら、それに越したことはない。俺の本当の目的は、外に出てからゆっくりと達成すればいいのだから。


「準備は今夜のうちに済ませておけ。長旅になるぞ」

「はい、じいちゃん」


 素直に答えた。内心では喜びに震えている。


 ついに、ついに外出許可が下りた。カミラを救う第一歩を踏み出せるのだ。


「わーい! お外に行けるの?」


 カミラが親父の腕の中で嬉しそうに手を叩く。


「そうじゃ、カミラ。お前も強くなるのじゃぞ」

「うん、がんばる!」


 カミラの無邪気な笑顔を見て、俺の決意は更に固まった。


 この子を、普通の女の子にしてみせる。殺しなど知らない、平和で幸せな人生を歩ませてやる。


 こうして、意外な形で外出許可を得た俺達は、翌朝の出発に向けて準備を整えることになった。




★⭐




 その夜、俺は自分の部屋で荷造りをしていた。


 マキシマム家での最後の夜。明日の朝が来れば、この異常な日常から解放される。


 リュックサックに必要最小限の荷物を詰め込む。着替え、食料、簡単な医療用品。執事達が用意してくれた暗殺道具の数々は、全て置いていくことにした。


 今回の旅には不要だからだ。いや、むしろ邪魔になる。


 俺の目的は暗殺ではない。カミラの更生だ。殺人に特化した道具など、持参する意味がない。


 コンコンと部屋のドアがノックされた。


「入ってくれ」

「失礼いたします」


 エスメラルダが静かに入室してくる。先ほどの戦闘で服が少し乱れているものの、既にほぼ完璧な身なりに戻していた。


「リーベル様、先ほどは失礼いたしました」


 エスメラルダが深々と頭を下げる。


「いや、君は職務を全うしただけだ。気にするな」


 荷造りの手を止めずに答える。


「ありがとうございます。それで、お荷物の件ですが……」


 エスメラルダが俺のリュックサックを見つめる。その眼には、明らかな困惑の色があった。


「何か問題でも?」

「いえ、その……武器をお持ちにならないのですか?」

「ああ、今回は持参しない」

「ですが、外の世界は危険です。せめて護身用の短剣ぐらいは……」


 エスメラルダの心配は理解できる。マキシマム家の人間が武器を持たずに外出するなど、彼女にとっては理解の範疇を超えているのだろう。


「大丈夫だ。本当に危険な状況になれば、素手でも何とかなる」

「……承知いたしました」


 エスメラルダは納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。主人の判断に従うのが、執事の務めだからだ。


「それから、カミラ様のお荷物についてですが……」

「ああ、カミラの分は俺が用意する。余計な物を入れられても困るからな」


 俺の言葉に、エスメラルダの表情がわずかに曇った。


「拷問器具とか、爆弾とか、毒薬とか、そういう『おもちゃ』は一切不要だ」

「……承知いたしました」


 エスメラルダは渋々といった様子で頷く。


 カミラの部屋には、見た目は可愛らしいが実際は殺人兵器という「おもちゃ」が大量にある。それらを旅に持参させるわけにはいかない。


 普通の旅行用品だけで十分だ。


「では、失礼いたします」


 エスメラルダが部屋を出ていく。


 その後、俺はカミラの部屋に向かい、妹の荷造りも済ませた。案の定、カミラは様々な危険物を持参しようとしたが、全て制止した。


「えー、これもだめなのー?」

「だめだ。これは手榴弾だろう」

「でも可愛いリボンがついてるよー」

「リボンがついていても手榴弾は手榴弾だ」


 そんなやり取りを繰り返しながら、何とか普通の旅行荷物を準備した。




 そして迎えた朝。


 太陽が昇り始めた頃、俺とカミラは正門前に立っていた。


 それぞれリュックサックを背負い、旅支度を整えている。総重量は五十キロほどだが、マキシマム家の人間にとっては軽い荷物に過ぎない。


 正門前には、家族と執事達が勢揃いしていた。数百人による盛大な見送りである。


 まるで王族の出発式のような豪華さだった。執事達は全員正装し、整然と列を成している。その光景は、一つの軍隊を思わせるほど壮観だった。


「リーベル、カミラ、気をつけて行くのだぞ。多くを学び、多くを経験してこい。そして強くなって帰ってくるのだ」


 祖父が厳かに言葉をかける。


「はい、じいちゃん」


 俺は深々と頭を下げる。


「うん! じいじ」


 カミラが元気よく答える。


「リーベル、お前なら大丈夫だ。だが油断はするな」


 親父が俺の肩に手を置く。その手は、息子を送り出す父親の複雑な心境を物語っていた。


「カミラを頼む。あの子は……特別だからな」


 親父の言葉には、深い意味が込められている。カミラの異常性を、誰よりも理解しているのは親父だった。


「わかってる。任せてくれ」

「クスン……リーちゃん、カミラちゃん、いつでも帰っておいで」


 母さんがハンカチで目を拭いている。愛娘を手放すことの辛さが、その表情に如実に現れていた。


「お怪我だけはしないでね。何かあったらすぐに帰ってくるのよ」

「うん、ママ、心配しないで」


 カミラが母さんに抱きつく。母さんは涙を流しながら、娘をぎゅっと抱きしめた。


「行ってらっしゃいませ、リーベル様、カミラ様」


 エスメラルダをはじめとする執事達が一斉に頭を下げる。


「どうかご無事で」


 その光景は圧巻だった。マキシマム家の威信と権力を象徴するような、厳粛な見送りの儀式。


 俺は改めて、自分の育った家の異常さを実感した。これが「普通」の家庭だと思って育ってきたのだから、恐ろしい話である。


「それじゃあ、行ってきます」

「パパ、ママ、じいじ、みんな、行ってくるね! バイバイ!」


 カミラが元気よく手を振る。俺も軽く手を上げて挨拶した。


「うむ、気をつけて行くのじゃぞ。成長を期待しておる」


 祖父の最後の言葉を背に、俺達はついに正門をくぐった。


 振り返ると、家族と執事達が整然と並んで見送ってくれている。その光景は、確かに美しかった。愛情に満ちた家族の絆を感じさせる、温かな別れの場面。

 それと同時に、その愛情の歪んだ形にも気づかずにはいられない。


 この人達にとって、俺達を「強い暗殺者に育てること」が愛情表現なのだ。そして俺達の旅も、「修行の一環」として理解されている。


 誤解だらけの出発だった。それでもいい。


 カミラにとって初めての外の世界。そして俺にとっては、妹を救うための長い戦いの始まりだった。


朝日を背に、俺達兄妹は新たな人生へと歩き出した。マキシマム家の影響が及ばない、自由な世界へと。


 カミラを普通の女の子にする。その決意を胸に、俺は歩き続けた。

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