表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/30

第十六話 「赤髪シスターからの警告」

「でも」

「遠慮はいりません。路銀も節約したいでしょう」

「いいんですか!」


 ソフィアさんの申し出に、俺の心は躍った。まさか元映画女優のような美女から、直接宿泊の招待を受けるとは。これは夢か、それとも現実か。


「えぇ、遠路はるばるお越し頂いたお客様をむげにはできません」


 ソフィアさんは、そう言って目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。まるで聖母マリアの絵画から抜け出してきたような、神々しいポーズだった。


 実に似合っている。清楚とは、まさにこの人を指すのだろう。映画女優時代の華やかさとは違う、慈愛に満ちた美しさがそこにはあった。


「じゃあ、すみません。ご好意に甘えちゃいます」


 俺は感謝の気持ちを込めて頭を下げる。これで宿代も浮くし、何よりソフィアさんともっと時間を過ごせる。一石二鳥どころではない。


「えぇ、ではこちらに」


 ソフィアさんの案内で、俺達は教会の奥へと向かった。廊下を歩きながら、俺は改めて教会内部の荘厳さに目を奪われる。高い天井に描かれたフレスコ画、色とりどりの光を放つステンドグラス、そして何より静寂に満ちた神聖な雰囲気。


 ビトレイ神父を待つため、教会の食堂に移動する。


 食堂は思っていたより広く、木製のテーブルと椅子が整然と並んでいた。清潔感があり、質素ながらも温かみのある空間だった。少なくない数の信徒が、お茶をしたり軽食を取ったり、思い思いに休憩を取っている。


 年配の夫婦、若い母親と子供、修道服を着た女性たち——様々な人々が集まっているが、皆穏やかな表情をしている。まさに理想的な共同体の光景だった。


 俺達はソフィアさんの案内で、窓際の席に腰を下ろす。外からは柔らかな陽光が差し込み、ソフィアさんの美しい横顔を優しく照らしていた。


「リーベルさん、少々お待ちください。ビトレイ神父への連絡と、お食事の用意をいたしますので」


 ソフィアさんの配慮に感動する。本当に気が利く女性だ。映画女優時代から培ってきたホスピタリティが、今の仕事にも活かされているのだろう。


 しばらくソフィアさんと談笑しながら、教会について説明してもらった。シュトライト教の理念、ビトレイ神父の人柄、そして彼女自身がなぜここに来たのかという話まで。


 ソフィアさんの話しぶりからは、心の底からこの場所を愛し、この仕事に誇りを持っていることが伝わってきた。華やかなスクリーンの世界を捨ててまで選んだ道——その決断の重みを、俺は深く理解できた。


 だが、そんな和やかな時間も長くは続かなかった。


「お兄ちゃん、お腹空いた」


 カミラが、俺の袖をぐいぐいと引っ張りながらアピールしてきた。その瞳の奥で、危険な光がちらちらと揺れているのを俺は見逃さなかった。


 どうやらソフィアさんをべていいのか聞いているのだ。


 冗談じゃない。こんな親切で素敵な女性をべさせたりはしないぞ。絶対にだ。


「だめだからな」


 カミラを睨みつけながら、きっぱりと言い放った。


 カミラも俺の意志が伝わったのか、ソフィアさんに手を出すのは控えてくれた。しかし、その小さな肩がむずむずと震えているのを見ると、かなり我慢できなさそうな状態だった。


 危険だ。非常に危険だ。


 この状況で長時間カミラを抑制し続けるのは困難だろう。早めに対策を講じなければならない。


 そんな俺達の様子を見ていたソフィアさんが、心配そうな表情を浮かべる。


「リーベルさん、カミラさんは本当にお疲れなのでしょうね。長旅でお腹も空いているでしょうし」


 ソフィアさんの優しい言葉に、感謝の念を抱く。カミラの異常な様子に気づいても、それを咎めることなく、むしろ気遣ってくれるとは。


「おにい、おなか——」


 カミラが再び口を開こうとする。


「我慢しなさい。この前、べたばかりじゃないか!」


 慌てて制止する。ここで「殺べたい」なんて言葉が出たら大変なことになる。


「うぅ、またお腹空いた。我慢できない。ねぇ、べていい? 誰でもいい。贅沢は言わないから」


 カミラが上目遣いでねだってきた。その表情は一見すると可愛らしい子供のそれだが、俺には背筋が寒くなるような恐ろしさがあった。


 くっ、厳粛な場でなんて事を考えてやがる。こんな善良な人達の前で惨劇を引き起こさせてなるものか。


「だめ!」


 少し大きな声でたしなめた。


 幼い子供までいるのだ。絶対にNoである。


 その時だった。


「これはこれは……このような幼子にひもじい思いをさせてはいけません。ささやかですが、食事を持ってこさせましょう」


 突然、新たな声が割り込んできた。


 振り返ると、そこには四十代後半くらいの男性が立っていた。頭髪は薄くなり、お腹が少々出ている小太りの中年男性だった。顔には脂汗が浮かび、どことなく胡散臭い雰囲気を漂わせている。


 この小太りのおっさんが、ソフィアさんとしばらく話し合った結果、代わりに俺達のお世話をすることになった。


 えっ!?  ソフィアさんは?


 という理不尽だとは分かっていても、内心で大きな不満を覚えた。せっかく美女との甘い時間を過ごせると思ったのに、なぜこんなおっさんに交代されなければならないのか。


 無念であるが、ソフィアさんには他にも仕事があるそうで、これ以上邪魔をするわけにはいかない。映画女優から転身した彼女だって、きっと多忙なのだろう。


 しょうがない。涙を呑んでソフィアさんにお別れを言った。


 中年男性——確かベベさんと名乗っていた——が俺達の案内を始めた。


 なんというか、脂ぎった顔をして、一癖も二癖もありそうな人物である。


 本当に信用していいのだろうか?


 マキシマム家の人間として培った直感が、何かしら警告を発している。


 よく見ると、神父服の襟元に食べこぼしのシミがついている。袖口も少し汚れているし、全体的に身だしなみに気を遣っていない印象だ。ソフィアさんの清楚さとは対照的である。


「さて、リーベル君、カミラちゃん、食事だったね。すぐに用意させよう」


 ベベさんは如何にも親切そうに声をかけてくる。ただ、その目の奥に浮かぶ光が、どうにも気になって仕方がない。


「いえ、ご迷惑をおかけするわけには参りません」


 俺は丁寧に断ろうとした。


「何を言うのです。我々の仕事を取らないで欲しい」


 中年の信徒、いや、ベベさんは殊勝な言葉を言う。


 疑って悪かった。

 人間、顔じゃない。こんな下卑た卑しい顔をしているのに。


 大変嬉しい。

 しかし、この場合、悲しいが、カミラの言葉は意味合いが違うのである。


「いえ、お言葉に甘えるわけにはまいりません」

「幼子にひもじい思いをさせてはいけません。遠慮は無用ですよ」

「で、ですが……」

「目の前で泣いている子供がいたら、迷わず手を差し伸べる。それがビトレイ様の教えです。どうか私の使命を果たさせてください」


 ベベさんが頭を下げてくる。


 なんと。見ず知らずの俺達にそこまで気に懸けてくれるのか。


 大変ありがたい。凄くありがたい。


 ベベさんの善意に手を合わせて拝みたい気分である。


 だが、何度も言うが、妹の言葉は意味合いが違うのである。


 ここは大事を取って、妹の禁断症状が大きくなる前に退散するのがベストかもしれない。手ごろな悪党を殺して、カミラの禁断症状を抑えてから、再度訪ねた方がよいかも。


 ベベさんは、食事の誘いを皮切りに執拗にここでの生活を強要してくる。俺が固辞しても、しつこく引き止めてくるのだ。


 あまりに熱心なので、俺達を外へ出さない気かと思ってしまう。


 ベベさんが時折、ニヤリと嗤うのもどうも気に引っかかるんだよな~。


 俺が逡巡していると——


「ここは私が相手をするわ」


 凛とした声が響いた。


 振り返ると、そこには赤髪長髪の女性が立っていた。


 シスター服を着ているので、ここの職員なのだろう。つり目で少し気が強そうな印象だが、間違いなく美人だった。年齢は二十代前半といったところか。


 厳しい表情の中にも、どこか正義感の強さを感じさせる女性だった。


「し、しかし……」


 ベベさんが慌てたような声を出す。


「私が応対します。あなたには月初の収支報告書のまとめを任せていたはずです。終わったのですか?」


 赤髪の女性の声は、有無を言わせぬ迫力があった。


「まだですが、この二人の面倒を見ないと」

「それは私がやります!」

「いや、困ります。このようなケースは、私が対処しませんと」


 ベベさんが必死に食い下がる。だが、赤髪の女性の方が明らかに立場が上のようだった。


「収支報告書、確か期限は三日前でしたね。仕事の遅れ、ビトレイ様に報告してもいいんですよ」

「うっ。そ、それは……」


 ベベさんの顔が青ざめる。


「あなた、前もビトレイ様にお叱りを受けていたわね。今度も遅れたとなったら、どうなるかわかりませんよ」

「で、ですが、この件を後でビトレイ様に知られたら……」

「他言は無用ですよ。あなたはこの子達に会ってない、見ていない。書類仕事で部屋に篭っていた。そうですね?」


 赤髪の女性の言葉には、明確な意図があった。


「は、はい」


 ベベさんが観念したように頷く。


「よろしい。その素直さに免じて、あなたの怠惰も不問にします」

「……」

「ベベ、何を未練がましく見ているのです。あなたは早く書類作成に取り掛かるべきでは?」

「わ、わかりました」


 ベベさんは、そそくさとその場を去っていった。


 なるほど。書類仕事をサボっていたのか。だから、あのような胡散臭い匂いがしていたのだ。


 ふむふむ、執拗に俺達に絡んできたのも、書類仕事をしたくないという気持ちが含まれていたのだろう。子供達の世話をしているから、そんな暇はないと言い訳するためにね。


 い~けないんだ。


 あの赤髪のお姉さんではないが、ビトレイ神父に報告すべき案件だった。


 まぁ、部外者の俺が口を挟む理由はない。外部の者との交流で息抜きを図ったくらい、罰が当たるほどのことではないだろう。


 とにかく窓口は、この赤髪のお姉さんに移ったようだ。この人も美人だが、気が強そうだった。俺の好みのタイプは、断然ソフィアさんの方だ。


「こんにちは。俺、リーベルと申します」


 俺はまず挨拶をした。第一印象は大切だ。


 赤髪のお姉さんは、じっと無言で俺達を見つめている。


 なんだろう?


 あ、カミラを見ているのか。


「ほら、カミラも挨拶をしなさい」


 カミラの頭を優しく撫でて、挨拶をするように促す。


「お兄ちゃん、お腹——」


 カミラがまた例の言葉を口にしそうになる。


「わかった。わかったから、少し我慢をしろ。後で思いっきりべていいから」


 慌てて言葉を被せる。


「本当!」


 カミラの目がぱっと輝く。


「あぁ、ちゃんと兄ちゃんの言うことを聞いて、いい子にしていたらな」

「わぁい!」


 テンションが上がったカミラは、赤髪のお姉さんの前に笑顔で進み出た。


「こんにちは♪」


 子供らしく元気な声で挨拶をする。


「……こんにちは」


 赤髪のお姉さんがカミラの挨拶に答えた。その表情は少し嬉しそうになっている。元来、子供好きなのだろう。口角が上がり、緩んだ表情を見せていた。


 おっ、そんな顔もできるんだ。


 先ほどの厳しい評価は少し訂正が必要かもしれない。


 ふぅん♪


 そんな優しい顔ができるなら、いつもしていればいいのに。もしかしてツンデレ属性があるのかな。そんなツンデレなお姉さんの心を、カミラは一瞬で溶かしてしまったのである。


 外見だけで見れば、カミラは天真爛漫で愛らしい美少女だ。そんな子から無垢な笑顔を向けられたら、そりゃ好感度も上がるというものだ。


 ただ、赤髪のお姉さんは、すぐにはっとしたような表情を見せ、緩んでいた表情を引き締めた。


 そして——


「あなた達、すぐに帰りなさい」


 厳しい口調でそう言い放ったのである。


 確かに一旦外に出るつもりではあったが、そんな言い方をしなくてもいいではないか。少しばかり反発の言葉を言いたくなってきた。


「ソフィアさんからは、ここに泊まってもいいという許可をいただきましたけれど」


 俺は丁寧に説明しようとする。


「だめよ。絶対にだめ!」


 血相を変えて反対してきた。


「い、いや、何もそんなに大声で怒鳴らなくても。確かにここは、身寄りを失った人達の施設で、俺達がいていい場所ではないかもしれません——」

「そ、そうよ。その通り。ここはあなた達がいていいところじゃない。さっさと出て行きなさい」


 いや、そこから「ですが、俺達にも何かお手伝いをさせてください」と続けようとしていたのに、全く取り付く島もない。


 まぁ、でも怒るのも当然かもしれない。


 ここは、戦争で難民となった人達、身寄りのない子供達のための施設である。


 俺達は血色もよく、いい衣服を身に着けている。端から見たらいいとこのお坊ちゃん、お嬢ちゃんだ。物見遊山で見学に来たと思われているのかもしれない。


 これは誤解を解かなければならない。


「聞いてください。俺達は、冷やかしでここを訪れたわけではありません。ビトレイ神父の尊い教えを学ぶためです。少しでも世の中の役に立ちたいという思いは、誰よりも負けていません。どうか何かしらのお手伝いをさせてください。宿泊代くらいは、自分達で働いて稼いでみせます。へへ、こう見えても俺達、力仕事は得意なんですよ」


 誠心誠意、自分の想いを伝えようとした。


「くっ。そんなことは聞いていない。早く出て行け!」

「いや、待って。あ、信じてませんね。本当に力だけはあるんですって」


 最低限の衣食住があれば、給金はゼロでも構わない。どうせなら志のある仕事をしたいのだ。


 聖人のために働くって、素晴らしいじゃないか!


 カミラの情操教育のためにも、ソフィアさんとの甘い恋物語を始めるためにも、俺はこの街に滞在する必要がある。できれば同じ教会内で寝食を共にしたい。


 どうにかして、この赤髪のお姉さんに俺の気持ちを分かってもらいたかった。


「お姉さん、本気です。真剣に聞いて——」

「お兄、おなか」


 シャツの袖をぐいぐいと引っ張り、カミラが割り込んできた。


「カミラ、後でたっぷりべさせてやると言っただろう。今、兄ちゃんは大事な話をしているんだ」


 カミラの耳元に寄り、小声で諭す。


「も、もう無理。我慢ができない」


 そう言ってカミラは、辺り一面に殺気を撒き散らし始めた。


 こ、これは……。


 見境なくる気か?


 お、おい、ちょっと待て……。


 カミラは、ゆらゆらと身体を揺らしながら移動し始める。そして、赤髪のお姉さん目掛けて、思い切り拳を振りかぶった——。


「だぁああああ! わかった。わかったよ。ちくしょう! それじゃあ失礼しますううう!」


 カミラを慌てて抱え上げ、一目散に教会から退出した。


 くそ、まただ、またやってしまった!


 カミラの禁断症状は分かっていたはずなのに。


 一心不乱に、人のいない山林へとカミラを抱えて走っていく。街の中で暴れられては大変なことになる。


 振り返ると、教会の入り口で赤髪のお姉さんが立ち尽くしているのが見えた。


 あはは、あの赤髪のお姉さん、さすがだな。よく分かっているじゃないか。


 執拗に出て行けと言ったのは、施設にいる子供達の危険を察知したからかもしれない。


 正解!


 あのままいたら、カミラによって教会に大災厄が降りかかっていただろう。さらなる身寄りのない子供達を作ってしまうところだった。


 まずは、カミラの禁断症状を抑えるのが先だ。


 あぁ、この街にいる悪人……。


 確かこの街には人身売買の組織があったはずだ。


 カミラの欲求不満の解消に、一肌脱いでもらおう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ