第十六話 「赤髪シスターからの警告」
「でも」
「遠慮はいりません。路銀も節約したいでしょう」
「いいんですか!」
ソフィアさんの申し出に、俺の心は躍った。まさか元映画女優のような美女から、直接宿泊の招待を受けるとは。これは夢か、それとも現実か。
「えぇ、遠路はるばるお越し頂いたお客様をむげにはできません」
ソフィアさんは、そう言って目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。まるで聖母マリアの絵画から抜け出してきたような、神々しいポーズだった。
実に似合っている。清楚とは、まさにこの人を指すのだろう。映画女優時代の華やかさとは違う、慈愛に満ちた美しさがそこにはあった。
「じゃあ、すみません。ご好意に甘えちゃいます」
俺は感謝の気持ちを込めて頭を下げる。これで宿代も浮くし、何よりソフィアさんともっと時間を過ごせる。一石二鳥どころではない。
「えぇ、ではこちらに」
ソフィアさんの案内で、俺達は教会の奥へと向かった。廊下を歩きながら、俺は改めて教会内部の荘厳さに目を奪われる。高い天井に描かれたフレスコ画、色とりどりの光を放つステンドグラス、そして何より静寂に満ちた神聖な雰囲気。
ビトレイ神父を待つため、教会の食堂に移動する。
食堂は思っていたより広く、木製のテーブルと椅子が整然と並んでいた。清潔感があり、質素ながらも温かみのある空間だった。少なくない数の信徒が、お茶をしたり軽食を取ったり、思い思いに休憩を取っている。
年配の夫婦、若い母親と子供、修道服を着た女性たち——様々な人々が集まっているが、皆穏やかな表情をしている。まさに理想的な共同体の光景だった。
俺達はソフィアさんの案内で、窓際の席に腰を下ろす。外からは柔らかな陽光が差し込み、ソフィアさんの美しい横顔を優しく照らしていた。
「リーベルさん、少々お待ちください。ビトレイ神父への連絡と、お食事の用意をいたしますので」
ソフィアさんの配慮に感動する。本当に気が利く女性だ。映画女優時代から培ってきたホスピタリティが、今の仕事にも活かされているのだろう。
しばらくソフィアさんと談笑しながら、教会について説明してもらった。シュトライト教の理念、ビトレイ神父の人柄、そして彼女自身がなぜここに来たのかという話まで。
ソフィアさんの話しぶりからは、心の底からこの場所を愛し、この仕事に誇りを持っていることが伝わってきた。華やかなスクリーンの世界を捨ててまで選んだ道——その決断の重みを、俺は深く理解できた。
だが、そんな和やかな時間も長くは続かなかった。
「お兄ちゃん、お腹空いた」
カミラが、俺の袖をぐいぐいと引っ張りながらアピールしてきた。その瞳の奥で、危険な光がちらちらと揺れているのを俺は見逃さなかった。
どうやらソフィアさんを殺べていいのか聞いているのだ。
冗談じゃない。こんな親切で素敵な女性を殺べさせたりはしないぞ。絶対にだ。
「だめだからな」
カミラを睨みつけながら、きっぱりと言い放った。
カミラも俺の意志が伝わったのか、ソフィアさんに手を出すのは控えてくれた。しかし、その小さな肩がむずむずと震えているのを見ると、かなり我慢できなさそうな状態だった。
危険だ。非常に危険だ。
この状況で長時間カミラを抑制し続けるのは困難だろう。早めに対策を講じなければならない。
そんな俺達の様子を見ていたソフィアさんが、心配そうな表情を浮かべる。
「リーベルさん、カミラさんは本当にお疲れなのでしょうね。長旅でお腹も空いているでしょうし」
ソフィアさんの優しい言葉に、感謝の念を抱く。カミラの異常な様子に気づいても、それを咎めることなく、むしろ気遣ってくれるとは。
「おにい、おなか——」
カミラが再び口を開こうとする。
「我慢しなさい。この前、殺べたばかりじゃないか!」
慌てて制止する。ここで「殺べたい」なんて言葉が出たら大変なことになる。
「うぅ、またお腹空いた。我慢できない。ねぇ、殺べていい? 誰でもいい。贅沢は言わないから」
カミラが上目遣いでねだってきた。その表情は一見すると可愛らしい子供のそれだが、俺には背筋が寒くなるような恐ろしさがあった。
くっ、厳粛な場でなんて事を考えてやがる。こんな善良な人達の前で惨劇を引き起こさせてなるものか。
「だめ!」
少し大きな声でたしなめた。
幼い子供までいるのだ。絶対にNoである。
その時だった。
「これはこれは……このような幼子にひもじい思いをさせてはいけません。ささやかですが、食事を持ってこさせましょう」
突然、新たな声が割り込んできた。
振り返ると、そこには四十代後半くらいの男性が立っていた。頭髪は薄くなり、お腹が少々出ている小太りの中年男性だった。顔には脂汗が浮かび、どことなく胡散臭い雰囲気を漂わせている。
この小太りのおっさんが、ソフィアさんとしばらく話し合った結果、代わりに俺達のお世話をすることになった。
えっ!? ソフィアさんは?
という理不尽だとは分かっていても、内心で大きな不満を覚えた。せっかく美女との甘い時間を過ごせると思ったのに、なぜこんなおっさんに交代されなければならないのか。
無念であるが、ソフィアさんには他にも仕事があるそうで、これ以上邪魔をするわけにはいかない。映画女優から転身した彼女だって、きっと多忙なのだろう。
しょうがない。涙を呑んでソフィアさんにお別れを言った。
中年男性——確かベベさんと名乗っていた——が俺達の案内を始めた。
なんというか、脂ぎった顔をして、一癖も二癖もありそうな人物である。
本当に信用していいのだろうか?
マキシマム家の人間として培った直感が、何かしら警告を発している。
よく見ると、神父服の襟元に食べこぼしのシミがついている。袖口も少し汚れているし、全体的に身だしなみに気を遣っていない印象だ。ソフィアさんの清楚さとは対照的である。
「さて、リーベル君、カミラちゃん、食事だったね。すぐに用意させよう」
ベベさんは如何にも親切そうに声をかけてくる。ただ、その目の奥に浮かぶ光が、どうにも気になって仕方がない。
「いえ、ご迷惑をおかけするわけには参りません」
俺は丁寧に断ろうとした。
「何を言うのです。我々の仕事を取らないで欲しい」
中年の信徒、いや、ベベさんは殊勝な言葉を言う。
疑って悪かった。
人間、顔じゃない。こんな下卑た卑しい顔をしているのに。
大変嬉しい。
しかし、この場合、悲しいが、カミラの言葉は意味合いが違うのである。
「いえ、お言葉に甘えるわけにはまいりません」
「幼子にひもじい思いをさせてはいけません。遠慮は無用ですよ」
「で、ですが……」
「目の前で泣いている子供がいたら、迷わず手を差し伸べる。それがビトレイ様の教えです。どうか私の使命を果たさせてください」
ベベさんが頭を下げてくる。
なんと。見ず知らずの俺達にそこまで気に懸けてくれるのか。
大変ありがたい。凄くありがたい。
ベベさんの善意に手を合わせて拝みたい気分である。
だが、何度も言うが、妹の言葉は意味合いが違うのである。
ここは大事を取って、妹の禁断症状が大きくなる前に退散するのがベストかもしれない。手ごろな悪党を殺して、カミラの禁断症状を抑えてから、再度訪ねた方がよいかも。
ベベさんは、食事の誘いを皮切りに執拗にここでの生活を強要してくる。俺が固辞しても、しつこく引き止めてくるのだ。
あまりに熱心なので、俺達を外へ出さない気かと思ってしまう。
ベベさんが時折、ニヤリと嗤うのもどうも気に引っかかるんだよな~。
俺が逡巡していると——
「ここは私が相手をするわ」
凛とした声が響いた。
振り返ると、そこには赤髪長髪の女性が立っていた。
シスター服を着ているので、ここの職員なのだろう。つり目で少し気が強そうな印象だが、間違いなく美人だった。年齢は二十代前半といったところか。
厳しい表情の中にも、どこか正義感の強さを感じさせる女性だった。
「し、しかし……」
ベベさんが慌てたような声を出す。
「私が応対します。あなたには月初の収支報告書のまとめを任せていたはずです。終わったのですか?」
赤髪の女性の声は、有無を言わせぬ迫力があった。
「まだですが、この二人の面倒を見ないと」
「それは私がやります!」
「いや、困ります。このようなケースは、私が対処しませんと」
ベベさんが必死に食い下がる。だが、赤髪の女性の方が明らかに立場が上のようだった。
「収支報告書、確か期限は三日前でしたね。仕事の遅れ、ビトレイ様に報告してもいいんですよ」
「うっ。そ、それは……」
ベベさんの顔が青ざめる。
「あなた、前もビトレイ様にお叱りを受けていたわね。今度も遅れたとなったら、どうなるかわかりませんよ」
「で、ですが、この件を後でビトレイ様に知られたら……」
「他言は無用ですよ。あなたはこの子達に会ってない、見ていない。書類仕事で部屋に篭っていた。そうですね?」
赤髪の女性の言葉には、明確な意図があった。
「は、はい」
ベベさんが観念したように頷く。
「よろしい。その素直さに免じて、あなたの怠惰も不問にします」
「……」
「ベベ、何を未練がましく見ているのです。あなたは早く書類作成に取り掛かるべきでは?」
「わ、わかりました」
ベベさんは、そそくさとその場を去っていった。
なるほど。書類仕事をサボっていたのか。だから、あのような胡散臭い匂いがしていたのだ。
ふむふむ、執拗に俺達に絡んできたのも、書類仕事をしたくないという気持ちが含まれていたのだろう。子供達の世話をしているから、そんな暇はないと言い訳するためにね。
い~けないんだ。
あの赤髪のお姉さんではないが、ビトレイ神父に報告すべき案件だった。
まぁ、部外者の俺が口を挟む理由はない。外部の者との交流で息抜きを図ったくらい、罰が当たるほどのことではないだろう。
とにかく窓口は、この赤髪のお姉さんに移ったようだ。この人も美人だが、気が強そうだった。俺の好みのタイプは、断然ソフィアさんの方だ。
「こんにちは。俺、リーベルと申します」
俺はまず挨拶をした。第一印象は大切だ。
赤髪のお姉さんは、じっと無言で俺達を見つめている。
なんだろう?
あ、カミラを見ているのか。
「ほら、カミラも挨拶をしなさい」
カミラの頭を優しく撫でて、挨拶をするように促す。
「お兄ちゃん、お腹——」
カミラがまた例の言葉を口にしそうになる。
「わかった。わかったから、少し我慢をしろ。後で思いっきり殺べていいから」
慌てて言葉を被せる。
「本当!」
カミラの目がぱっと輝く。
「あぁ、ちゃんと兄ちゃんの言うことを聞いて、いい子にしていたらな」
「わぁい!」
テンションが上がったカミラは、赤髪のお姉さんの前に笑顔で進み出た。
「こんにちは♪」
子供らしく元気な声で挨拶をする。
「……こんにちは」
赤髪のお姉さんがカミラの挨拶に答えた。その表情は少し嬉しそうになっている。元来、子供好きなのだろう。口角が上がり、緩んだ表情を見せていた。
おっ、そんな顔もできるんだ。
先ほどの厳しい評価は少し訂正が必要かもしれない。
ふぅん♪
そんな優しい顔ができるなら、いつもしていればいいのに。もしかしてツンデレ属性があるのかな。そんなツンデレなお姉さんの心を、カミラは一瞬で溶かしてしまったのである。
外見だけで見れば、カミラは天真爛漫で愛らしい美少女だ。そんな子から無垢な笑顔を向けられたら、そりゃ好感度も上がるというものだ。
ただ、赤髪のお姉さんは、すぐにはっとしたような表情を見せ、緩んでいた表情を引き締めた。
そして——
「あなた達、すぐに帰りなさい」
厳しい口調でそう言い放ったのである。
確かに一旦外に出るつもりではあったが、そんな言い方をしなくてもいいではないか。少しばかり反発の言葉を言いたくなってきた。
「ソフィアさんからは、ここに泊まってもいいという許可をいただきましたけれど」
俺は丁寧に説明しようとする。
「だめよ。絶対にだめ!」
血相を変えて反対してきた。
「い、いや、何もそんなに大声で怒鳴らなくても。確かにここは、身寄りを失った人達の施設で、俺達がいていい場所ではないかもしれません——」
「そ、そうよ。その通り。ここはあなた達がいていいところじゃない。さっさと出て行きなさい」
いや、そこから「ですが、俺達にも何かお手伝いをさせてください」と続けようとしていたのに、全く取り付く島もない。
まぁ、でも怒るのも当然かもしれない。
ここは、戦争で難民となった人達、身寄りのない子供達のための施設である。
俺達は血色もよく、いい衣服を身に着けている。端から見たらいいとこのお坊ちゃん、お嬢ちゃんだ。物見遊山で見学に来たと思われているのかもしれない。
これは誤解を解かなければならない。
「聞いてください。俺達は、冷やかしでここを訪れたわけではありません。ビトレイ神父の尊い教えを学ぶためです。少しでも世の中の役に立ちたいという思いは、誰よりも負けていません。どうか何かしらのお手伝いをさせてください。宿泊代くらいは、自分達で働いて稼いでみせます。へへ、こう見えても俺達、力仕事は得意なんですよ」
誠心誠意、自分の想いを伝えようとした。
「くっ。そんなことは聞いていない。早く出て行け!」
「いや、待って。あ、信じてませんね。本当に力だけはあるんですって」
最低限の衣食住があれば、給金はゼロでも構わない。どうせなら志のある仕事をしたいのだ。
聖人のために働くって、素晴らしいじゃないか!
カミラの情操教育のためにも、ソフィアさんとの甘い恋物語を始めるためにも、俺はこの街に滞在する必要がある。できれば同じ教会内で寝食を共にしたい。
どうにかして、この赤髪のお姉さんに俺の気持ちを分かってもらいたかった。
「お姉さん、本気です。真剣に聞いて——」
「お兄、おなか」
シャツの袖をぐいぐいと引っ張り、カミラが割り込んできた。
「カミラ、後でたっぷり殺べさせてやると言っただろう。今、兄ちゃんは大事な話をしているんだ」
カミラの耳元に寄り、小声で諭す。
「も、もう無理。我慢ができない」
そう言ってカミラは、辺り一面に殺気を撒き散らし始めた。
こ、これは……。
見境なく殺る気か?
お、おい、ちょっと待て……。
カミラは、ゆらゆらと身体を揺らしながら移動し始める。そして、赤髪のお姉さん目掛けて、思い切り拳を振りかぶった——。
「だぁああああ! わかった。わかったよ。ちくしょう! それじゃあ失礼しますううう!」
カミラを慌てて抱え上げ、一目散に教会から退出した。
くそ、まただ、またやってしまった!
カミラの禁断症状は分かっていたはずなのに。
一心不乱に、人のいない山林へとカミラを抱えて走っていく。街の中で暴れられては大変なことになる。
振り返ると、教会の入り口で赤髪のお姉さんが立ち尽くしているのが見えた。
あはは、あの赤髪のお姉さん、さすがだな。よく分かっているじゃないか。
執拗に出て行けと言ったのは、施設にいる子供達の危険を察知したからかもしれない。
正解!
あのままいたら、カミラによって教会に大災厄が降りかかっていただろう。さらなる身寄りのない子供達を作ってしまうところだった。
まずは、カミラの禁断症状を抑えるのが先だ。
あぁ、この街にいる悪人……。
確かこの街には人身売買の組織があったはずだ。
カミラの欲求不満の解消に、一肌脱いでもらおう。