第十二話 「熊さんと遊ぼう(前編)」
聖人に会いにクォーラル市へ。
俺とカミラは列車とバスを乗り継ぎ、スウェーデン国境付近のエルフスボリまで来ている。ここまでくれば、クォーラル市は目と鼻の先である。
な、長かった。
いや、そこまで日数をかけたわけではないが、精神的に疲れる旅だったからね。何せ途中でカミラが殺しの禁断症状を訴えるから、水戸黄門宜しく、各地の悪党を狩りながら旅をしたのだ。手間がかかってしょうがなかったよ。
先日のチンピラとの一件以来、カミラの「手加減」の概念は少しずつ改善されている。少なくとも、相手の首をねじ切ろうとすることはなくなった。進歩と言えば進歩である。
とにかくエルフスボリまで来たのだ。
目的の都市まであと少し……。
だというのに俺達は、地中海から内陸へ五十キロほど入った、ここ、エルフスボリの山間地点で足止めをくらっている。
というのもここ数日、獰猛なクリズリーが山道に出没し、旅人の安全を脅かしているからだ。安全が確保されるまでは全面通行止めで、封鎖は解かれないそうだ。
クォーラル市へ通じる道はここしかない。
実に困る。
もちろん抜け出すのは容易だよ。マキシマム家にとって、この程度の封鎖、脅威でもなんでもない。腕ずくだろうが、こっそり潜入しようが、どちらでもうまくいく。
でもね、今、俺はカミラに社会の常識というものを教えている。社会の常識では、法は順守すべきものだ。緊急事態でもない限りは、法は絶対に犯したくない。だから他の行商人達と同じように大人しく通行が許可されるのを待っているのだ。
幸い関所前には、休憩できる施設が立てられている。皆、そこで事態を見守っていた。俺も、カミラと一緒にその施設で待機させてもらっている。
皆、ピリピリしてるねぇ。
緊張しているのが否が応でもわかってしまう。まぁ、熊の脅威に素人では対応しようがないだろうし、しかたがないか。
休憩所では、熊についての噂でもちきりだ。
やれ人を食い殺しているとか、一頭でなく群れで襲ってきているとか、名うての狩猟ハンター達が幾人もやられているとか。
本来、熊は刺激しなければ、大人しい動物である。だが、冬籠りに失敗した熊は、要注意が必要だ。通称「穴もたず」という奴だね。この状態になった熊は、非常に凶暴になる。
今回出没した熊もその「穴もたず」の線が濃厚だ。実際、俺達がここに到着するまでに、討伐隊が二度組織されたが、いずれも全滅の憂き目にあっているそうだ。
そして今回が三度目の正直で、ロックというベテランの狩猟者が率いるチームが討伐に赴いている。このロックさん、昔、人食い虎を退治した功績で、国から勲章をもらっているそうだ。近隣住人からも信頼が篤い。最後の砦だ。
そして……。
「や、やられたぁああ! ロックの旦那もやられたぞぉお!」
見張りをしていた青年が叫ぶ。
それから担架で運ばれてくるロックさん達。
ロックさんは血まみれで息も絶え絶えだった。顔面は熊の爪で深く裂け、右腕は不自然な角度に曲がっている。胸部の傷からは今でも血が滲み出し、担架を真っ赤に染めていた。意識はあるものの、痛みで顔を歪ませ、時折うめき声を漏らしている。
部下達の状況はさらに悲惨だった。三人とも既に息絶えており、その死因は一目瞭然だった。一人は頭部を完全に潰され、もう一人は胸部が大きく陥没している。最後の一人に至っては、腹部が裂けて内臓が飛び散っていた。
「なんてことだ……あのロックさんが……」
医者が震え声で呟きながら、ロックさんの応急処置を始める。
周囲がざわざわと騒ぎ始めた。
商人の男性は荷物を抱えたまま青ざめ、「こんなことなら別の道を……」と後悔の言葉を漏らしている。商談の約束があるのか、時計を何度も見ては役人に詰め寄っていた。
避難してきた親子連れは隅の方で身を寄せ合っている。母親が震え声で子供をなだめているが、その子供も大人たちの不安を敏感に感じ取って泣き出しそうになっていた。
老夫婦は呆然と座り込んでいた。故郷に帰る途中だったのだろう、大きな荷物を抱えたまま、ただただ事態の推移を見守るしかできずにいる。
役人たちも対応に追われていた。通行許可を求める人々と、一刻も早く避難したいという人々の板挟みになり、額に汗を浮かべながら説明を繰り返している。
「あぁ、なんてことだ。ロックさんもやられたのか」
「あの腕利きのロックさんが信じられねぇ」
「ロックさんの傷を見たかよ。ひでぇもんだ」
「これでここら辺りの有名な狩猟ハンターは全滅だ」
「あぁ、もう誰に頼めばいいんだ」
「それより、この辺も安全とは限らないだろ。逃げるべきじゃないか?」
「そ、そうだな。熊が下山して襲ってくるかも……」
近隣住民、足止めをくらっている旅行者、商人、通行を制限している役人達、共通していることは一つ。
全員が恐怖に怯えきっているという事だ。
妹以外は……。
「熊さん♪ 熊さん♪」
カミラがスキップしながら踊っている。人食い熊が現れたと知って、一人浮かれているのだ。
お前は、どこぞの戦闘民族か!
周囲の視線が痛い。先ほどから何度となく注意を受けている。俺も平謝りしているのだが、カミラのテンションは下がる気配がない。
しかも、カミラの興奮は時間が経つにつれて増すばかりだった。
「お兄ちゃん、熊さんって大きいの? どのくらい強いの? 爪は鋭いの?」
カミラが瞳を輝かせて質問を矢継ぎ早に投げかけてくる。その様子はまるで、新しいおもちゃをねだる子供のようだった。
「カミラ、声が大きい。みんなが困っているんだから、少し静かにしろ」
俺は小声で注意するが、カミラには通じない。
「でも僕、熊さんに会いたいの!」
カミラの声がさらに大きくなる。周囲の人々が一斉にこちらを見た。その視線には明らかな不快感が込められている。
「そこ、さっきからうるさいぞ!」
中年のおっさんが怒鳴ってきた。余裕がなく、ピリピリしているのが伝わってくる。
「すみません」
素直に頭を下げて謝った。
何人も犠牲者が出ている事件なのに、カミラの行動は不謹慎すぎる。
「ったく、下手したら皆お陀仏かもしれんってときに子供は暢気なものだぜ。緊急事態だってわかっちゃいねぇ」
中年のおっさんがそう言って管を巻く。どうやら誰でもいいからイライラをぶつけたいみたいだね。それからも、執拗にカミラの態度を注意された。
俺はひたすら平謝り。
当のカミラはというと……。
「ねぇ、お兄ちゃん、僕ここにいるの飽きちゃった。早く出発しよう」
この始末である。
朝からの騒ぎをまるで理解していないらしい。通行止めだって説明したよね。
「カミラ、まだ通行止めだ。しばらく待たなきゃだめだぞ」
「えぇえ! 早く熊さんのところに行きたい」
空気を読まないカミラの発言に場が凍る。
カミラ、さっきからその熊さんに皆がピリピリしているんだぞ。
もうちょっと周囲に配慮をな――。
カミラを見る。まるでわかっていない顔だ。
ふぅ~。
白い目で見る住人達にいたたまれず、カミラを連れて外へと飛び出した。
風がひんやりと吹いている。
ま、まぁ、いいや。
カミラにとって、空気を読んだ発言をするのはまだまだ難しすぎるだろうからね。それにしても、カミラが人殺し以外でここまでテンションを上げるとは意外だった。
「カミラは、熊が好きなのか?」
「うん、大好きだよ!」
カミラは、即答する。
「早く熊さんに会いたい。僕だけ熊さんと遊んじゃだめだっていつも留守番だったでしょ」
そうなのだ。うちの一家は、時折南極に熊狩りに行く。
肉食獣最強と名高い南極熊をイチゴ狩感覚で狩っていくのだ。気分はキャンプ感覚である。
装備は軽装。武器なんていらない。虎だろうが熊だろうが、素手でいわせるほどの異常一家だからね。
……いや、異常と言うべきだ。俺は前世の記憶を取り戻してから、マキシマム家の価値観がいかに歪んでいるかを痛感している。
熊を「イチゴ狩感覚」で殺すなんて、明らかに常軌を逸している。
そんな環境で育ったカミラが、動物の命を軽視するのも当然だった。
「そうだったな。カミラは、いつも留守番だったもんな」
「うん、退屈だった」
「じゃあ、カミラは熊を仕留めたことないのか」
「ううん、あるよ」
「えっ!? うちの庭に熊なんていたっけ?」
マキシマム家の庭は広大で、断崖絶壁や急流の滝、危険な動植物が生息している。人工的なトラップだけでなく、自然界のトラップもある。
多様な動物もその一つ。ほとんどが獰猛な肉食獣だ。だが、熊はいなかった気がする。せいぜい大型の狼程度だった。
「あのね、内緒だけどね。パパが熊さんプレゼントしてくれたの」
「親父が?」
「うん、始めは反対されたよ。カミラには危ないから狼にしときなさいって。でも、お願いお願いってずっと言ってたら、パパがね、誕生日に熊さんをこっそり持ってきてくれたの」
「そ、そうか」
親父はカミラに甘いからな。
娘のおねだりには、逆らえなかったようだ。
……これは完全に児童虐待だ。誕生日プレゼントに生きた熊を与えるなんて、正気の沙汰ではない。
前世の常識で考えれば、マキシマム家の教育方針は全てが異常だった。
「私、熊さん大好き。他の動物はすぐに壊れちゃうから、つまんないもん」
「そ、そうか」
「うん、いつもママに隠れて遊んでたんだよ」
もう、熊の縫いぐるみ感覚だ。
……いや、縫いぐるみどころか、カミラにとって生きた動物は単なる「壊れるおもちゃ」でしかないのだ。
これが、マキシマム家の教育の結果だった。命の重さを全く理解していない。
「まぁ、母さんに見つかったら処分されちゃうからな。それでその熊を仕留めたことがあったのか」
「うん、もっともっと遊びたかったのに残念だった。一緒に、抱いて寝てたらね、いつのまにか死んじゃってた」
なるほど。ヘッドロックで絞め殺したわけだね。
俺は内心で苦い思いを抱きながら、カミラの無邪気な体験談を聞いていた。普通の子供なら動物園の可愛い動物の話をするところだが、カミラの場合は生きた熊を「おもちゃ」として殺していたのだ。
そんな時、休憩所の方から新たな騒ぎ声が聞こえてきた。
医者のお爺さんが何やら興奮して叫んでいる。俺達も近づいて話を聞いてみると、とんでもない事実が判明した。
「……だから、白カブトが復活したと言ってるんです!」
医者の老人が興奮して叫んでいる。
「白カブト? まさか、あの伝説の……」
周囲の住民達が色めき立つ。
白カブト。俺も名前だけは聞いたことがある。二十年ほど前にこの地域を恐怖に陥れた伝説の巨熊だ。
「ロックさんが最後に言い残した言葉です。『し、白カブト』と……」
医者の言葉に、住民達の顔が青ざめる。
「二十年前の悪夢が再び……」
「あの時は軍隊を呼んでも手こずったというのに……」
「もうだめだ。この地域は終わりだ」
絶望的な声が上がる中、カミラだけが目を輝かせていた。
「でっかい熊さん!!」
カミラが、目を輝かせて声高に叫ぶ。テンションはハイマックスのようだ。今にも山を駆け上がり、走り回りそうな勢いである。
だから空気を読もうねって。
周囲の住民達は、カミラの反応に呆れ果てている。中には「この子は状況がわかってないのか」と眉をひそめる者もいた。
白カブトについて詳しい話を聞くと、確かに只者ではないようだ。
通常の熊の数倍の大きさを持ち、頭部に白い毛が混じっているのが特徴。二十年前に出現した時は狩猟ハンター達が次々と餌食になり、最終的には軍隊でようやく山奥へ追い払ったという。
完全に討伐したわけではなく姿を消しただけだった。それが今、再び現れたのだ。
カミラの興奮は収まらない。
「お兄ちゃん、早く会いに行こう! でっかい熊さんと遊びたい!」
カミラが俺の袖を引っ張る。
カミラは「遊び」と言っているが、その実態は殺戮でしかない。白カブトと「遊ぶ」ということは、白カブトを殺すということだ。
……まあ、今回は害獣だからな。人を殺した以上、退治されて当然だ。
それに、白カブト退治なら一石二鳥だ。害獣を退治して人々を救い、同時にカミラに「正当な理由での殺し」を経験させられる。
問題は、カミラが興奮しすぎて暴走しないかということだが……。
「落ち着け、カミラ。そう簡単にはいかない」
俺はカミラをなだめながら、実際のところ前向きに検討していた。
害獣退治なら堂々とできる。むしろ、人々から感謝されるだろう。
このまま封鎖が解けるまで待つべきか。それとも、何らかの手段で先に進むべきか。
カミラの様子を見る限り、大人しく待っていてくれそうにない。
いずれカミラは我慢の限界に達し、勝手に行動を起こすだろう。そうなれば、もっと大きな問題が発生する可能性がある。
ならば、俺がコントロールできる範囲で行動させた方がいいかもしれない。
ただし、その場合でも、カミラには厳格なルールを設ける必要がある。
「カミラ、もし山に行くとしても、絶対に俺の指示に従うんだぞ」
「本当に行くの?」
カミラの瞳がさらに輝く。
「まだ決めたわけじゃない。だが、もし行くとしたら、約束を守れるか?」
「うん! どんな約束でも守る!」
カミラが即座に答える。だが、その返事があまりにも軽すぎて、逆に不安になった。
本当にカミラが約束を守れるかどうか、俺は確信が持てずにいた。
ただ一つ確実なのは、カミラを普通の女の子に更生させるという俺の目標が、想像以上に困難なものだということだった。
でっかい熊さんに興奮するカミラを見ながら、俺は深いため息をついた。
聖人に会えば、何かが変わるかもしれない。
そう信じて、俺は準備を進めることにした。