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初めてのデート

翼と陽子が初めてのデート先に選んだ場所は?

 秩父鉄道御花畑駅。

この小さな駅が二人の待ち合わせ場所だった。


翼の住んでいる上町は、この駅の影森駅寄り、西武秩父駅の線路の反対に位置していた。


陽子の住む武州中川駅は、影森駅・浦山口駅の先にあった。



御花畑駅とは名ばかりの、アスファルトとコンクリートに囲まれた駅だった。


この駅は市役所の西側にあり、秩父の中心の駅だった。



改札口で再会した二人。


陽子は躊躇わず翼の手を掴んだ。


恋人同士なら当たり前だと思っていた。

真っ先にやってみたかったのだ。


陽子はこういう、たわいもない動作に憧れていたのだった。



でも翼は躊躇する。

ドキドキしてた。

頭にカーッと血が昇り胸の奥がキューンとする。

翼は緊張のあまり体がこわばっていたのだ。



動揺が陽子に伝わり、ピーンと空気が張り詰める。


翼は震えていた。

陽子に感電したかのように動けなかった。



二人はそのまま見つめあった。





 それでもどうにか……

駅の小さな階段をエスコートしながら手を繋いで降りる。


翼の指先が小刻みに震えている。


掌に緊張感が伝わり、陽子は取り乱す。


そして翼に対する愛しさが込み上げる。



(本物だった……)


陽子の心は泣いていた。

やっと訪れた恋と、可愛い恋人に巡り逢えた嬉しさに。



(遂に訪れたのね。ああ翼……何て可愛いの。目は二つ鼻も口も一つなのになのに……外の人とは比べ物にならない位に整っている)


陽子はアイドル系の翼の容姿にに見とれていた。



初恋だった。


だから……

陽子も躊躇した。

それでも陽子は冷静さを取りつくろった。





 「あれっ!?」

翼がいきなり止まった。


行こうとした道がお店で塞がれていた。



「失敗失敗」

翼は照れ笑いをしながら、その先のもっと小さな階段を上がった。



「おかしいな? 確か前は行けたのに」

翼は久しぶりに訪れた駅で迷子にでもなったような感覚でボーとしていた。



翼が降りた階段は秩父駅方面へ向かうための階段で、翼達が行こうとした方面はなだらかなスロープだった。


そう確かに以前は其処にお店はなかったのだ。

翼が間違えるのは当然だったのだ。

でも実は……

翼はそのスロープ側から駅にやって来ていたのだ。


陽子との待ち合わせばかり気にして、他のことなど目にも入らなかったのだ。





 「どうしたの?」

陽子がハプニングを笑いながら聞く。



「西部秩父駅に行こうとしたのに、間違って降りちゃった」

顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに俯く翼。


照れている翼の可愛いらしさを目の当たりにして、陽子のハートが揺さぶられる。


翼は陽子との再会に舞い上がっていたのだった。



それでも、陽子の仕草に目がいく。


時折持ち替える重たそうなバッグ。


翼はその荷物がととも気になった。



「重そうだね。僕が持とうか?」

一応声を掛けてみた。

でも陽子は首を振った。



「大事な物が入っているから、私が持つわ」

陽子はそう言いながら、とびっきりの笑顔を翼に向けた。



――バキューン!!


翼のハートは完全に撃ち抜かれていた。



瞬間に翼は有頂天にさせられた。


次の言葉も探せ出せない位に。





 御花畑駅の横のスロープ。


その先の踏切を渡る。


秩父夜祭りのメインの坂上がり・談合坂を登ると山車の集結する広場。

右へ折れて暫く行くと西部秩父駅。


駅前のポールにぶつかるようにワザと歩く陽子。


思わず手を離した翼。

慌てて横へ行き手を繋ぎ直した。


悪戯っぽく陽子が笑う。


翼は思わず息を呑んだ。


そして……

雷に撃たれたかのように動けなくなった。


それでもやっと冷静さを取り繕い、平気な振りをして陽子に近づく。


でも陽子は翼の胸に掌を押し付けた。



「こんなにドキドキさせちゃってごめんなさい。だって翼って可愛いんだもん」


陽子はその後言葉に詰まって、後ろを向いた。


翼が陽子を心配して顔を覗くと、陽子は泣いていた。



「陽子……さん」


翼も何も言えなくなった。



「陽子でいいよ。だって、私だけ呼び捨てじゃ。何か姉さん女房みたいだから」


言ってしまってから、陽子は赤面した。



「まだ早いか!?」

陽子は泣き顔をくしゃくしゃにして、大きな声で笑い出した。





 駅前で陽子がいきなり溜め息を吐いた。


翼は陽子が心配になり、顔色を伺った。



「ね。横瀬駅の方が楽でしょう?」

突然陽子が聞く。


翼は何の質問なのか解らず戸惑っていた。



「階段よ。横瀬駅には殆ど無いの」



「へー。知らなかった」


その返事に驚いて、陽子は翼の手を離していた。



「えっ!? えっ!? え、ええーー!?」


思わず後退りをする陽子。



「横瀬駅に行ったことも、降りたこともないの?」


不思議そうな顔つきで、陽子は翼を見つめていた。



「しょうがないだろ!!」


翼は思わず大声をあげた。



「だって……何時も自転車なんだから」

ボソッとつぶやく翼。



「ごめん……」

そう言いながら、陽子は翼をハグする。


翼の全身が又震えた。

陽子はそれを肌で感じながら、愛しい翼をハグし続けた。



「これで今日のデートは横瀬に決まり!!」


陽子は翼の手を引いて、切符売り場に向かった。





 陽子の手に二枚の切符。



「あれっ陽子……確か定期があったんじゃ……」

初めて“陽子”と呼び捨てにした翼。

思わず俯いた。


陽子のハートが再度揺さぶられる。



「いいの。記念だから」


でも陽子は何もなかったかのような振りをした。


翼は俯いたまま目だけ陽子に向けた。


陽子は、はにかんだような顔を翼に向けていた。


翼は大人だと思っていた陽子の可愛らしい仕草に心を乱していた。



(こんな素敵な人とデートなんだ)


翼は全身全霊で、恋に酔いしれていた。





 「あれっ。エスカレーターがあるよ。何時の間に出来たのだろう」


翼は階段横のエスカレーターを見上げた。



「う〜ん。もう十年位は経つかな? あれっ知らなかったの」

陽子が得意そうに言う。



「だって横瀬駅にも行ったことないもん」

翼も得意そうに答える。



「でも陽子。エスカレーターで行けば済むんじゃない?」

翼が笑った。


意識して呼んでみた翼。


でも当たり前のような振りをする陽子。



「だって翼に年寄りだって見られたくないもん」


陽子は俯きながら、上目遣いで翼を見つめた。



「年寄りって……一つでしょ? 確かに学年は二つ上のだけど」

翼は笑いながら、陽子をエスコートする真似をした。





 「年寄り扱いする気ね」

冗談っぽく陽子が言うと、翼は首を振った。



「僕の大切な宝物を守るためだよ」



翼は再度エスコートする仕草をした。

陽子は今度は微笑みながらそれに従った。



陽子と翼は西武秩父の長い階段を、二人だけの時間を楽しむようにゆっくりと登って行った。



「ねぇー。やっぱりその荷物持つよ」」


翼が気を遣い言う。

でも陽子は首を縦には振らなかった。



でも反対側のホームで失敗したと落ち込んだ。


其方側には、エスカレーターは設置されていなかったのだ。



(翼助けて!)


陽子は悲鳴を上げたくなっていた。

それほど荷物は重たかったのだ。





 切り丸太の曲がり角。


自然に生えてきた植物を見ながら、楽しそうな陽子。


そんな陽子を見つめる翼。


会話は無くても、二人は心を交わし合った。



「此処、もうちょっと整理すると良いね」


たまりかねた翼が思い切って口を開く。



「ううん、此処はこのままの方がいい」


思いがけない陽子の言葉。


翼は陽子を見つめた。



「だって今日のこと、この場所が覚えていてくれる気がする」


陽子はそう言いながら、翼を見つめ返した。



愛すると言う感情は持っていた。

親兄弟への愛だったり、クラスメートへの友情だったりは。


でも姉のように、一人の男性を激しく愛する感情が持てなかった。


陽子は姉に嫉妬していたのだった。


迷惑を承知で姉夫婦の元へ足繁く通ったのは、少しでも恋愛の極意を知りたかったからだった。



陽子は翼を見つめながら、やっと訪れた愛に陶酔していた。





 明智寺に向かう緩やかな坂道を、二人は並んで歩いていた。


白いガードレールの上にまで来ると、陽子は立ち止まった。



「此処が横瀬川?」



「ううん」



「じゃあ何て川?」



「知らない。横瀬川かも知れないし、違うかも知れない」



「もし此処が横瀬川でないとしても、確実に合流するね」


陽子はその小さな川の下流を眺めながら、そっと手を合わせた。


翼との未来を流れに託すように。



「あれっ!? 名前が書いてあるよ」


突然翼が言った。


ガードレールの根元に《このまさわ》の文字。



「やっぱりね。だって横瀬川がこんなに小さい訳がないもんね」


陽子は川の名前を確認するために屈んでいる翼の頭を撫でながら言った。



「まるで子供扱いだな」

顔だけ陽子に向けて翼が笑う。



――ドキッ!



(いやーん。どないしょ。翼……可愛い!)


どんどん愛しさが増す。

陽子はどうすることも出来ずに、翼の頭に手を置いたまま固まっていた。





 明智寺の六角のお堂の中に入った二人は、祀られている仏像に手を合わせた。


その後どちらからともなくおみくじに手を伸ばした。


赤い小さなおみくじ。


代金は百円だった。



「これ位いなら僕にも払える」翼は財布から百円玉を二枚出し料金箱に入れた。



「二人分?」

陽子が聞くと翼は頷く。



「おみくじかと思ったら違うわね。みくじだって」


良く見ると赤い巻紙に“みくじ”とあった。



「へー、知らなかった。お寺だからかな?」


そんな事を言いながら、中身を取り出す翼。



「小吉か。陽子と出会って変わると思っていたのに…… でも今までが大凶だったからな」


独り言のように呟く翼。



「何々。ぐわんもう(かな)ひがたし心正(こゝろたゞ)しければ(のち)には(かなふ)(なり)。えー意味不明だな」


みくじを読んでいる翼を暖かく見守りながら、陽子も中身を取り出した。



「わあー、私の方は大吉だって」


陽子ははしゃぎながら、翼に聞こえるように言った。



「そりゃー大吉に決まってるよ。だってこんな可愛い恋人が……」


でも陽子は口ごもった。



翼は次の言葉が聞きたくて全身を研ぎ澄ました。



「日高翼……さん。……と言う素敵な恋人が出来たんだもん、大吉じゃないとおかしいよ」


悪戯っぽく陽子が笑った。





 陽子の魅力に取り憑かれ、翼はうろたえていた。


小刻みに震える手を庇いながら、六角堂横の木にみくじを結ぼうとしていた。


翼は緊張しながらも、愛する喜びに溢れていた。


でも陽子に察しられたくなかった。

こんなにも一途になれた自分が急に恥ずかしくなったからだった。



「記念にするから頂戴」


でも……、陽子はそう言いながら、それを横取りした。



「あ、あーん、それ僕んだよ」


翼はその場で地団駄を踏んでいた。


実は翼は気付いていた。

だからワザとふざけるような態度をとったのだ。



みくじをしっかりたたみ赤い筒の中に戻してから、バッグから取り出した緑色のコインパースに入れた。


翼との二つ目の記念品となった。

一つ目は西武秩父駅で買った切符だった。


駅員に記念にする旨を話して了解してもらっていたのだった。



(翼……

産まれて来てくれてありがとう)


陽子は素直に翼と出逢えた奇跡と軌跡に感謝した。





 空を白鷺が飛んでいる。


陽子はふと、三峰口駅で見た夕焼けを思い出した。

初めての恋心に揺れたあの日。

だから今傍に翼が居ること事態が奇跡なのだと思っていた。



翼も同じ鳥を眺めていた。



「僕にも翼があったらな」

感慨深げに翼が言う。



飛べない翼。

名前だけの翼。



「きっと翔が飛び立つための名前だと思う。翔はきっとさっきの白鷺のように、僕のことを俯瞰しているのだろう」


精一杯背伸びして翼が大人びたことを言う。


俯瞰(ふかん)とは、鳥が上空から下界を見下ろす意味だった。



陽子は自分のために無理をしているのではないかと心配していた。



(翔さんてどんな人なんだろう?)


考えても解らない。


そう、陽子はまだ翔には会っていない。

どんな人物なのか思いはかっても、判るはずも無かったのだ。



(でも何故? 何故翔さんのことばかり言うのだろう?)


陽子は純子と忍の結婚式で、翔の話ばかり耳にした。


翔は東大を目指すために中高一貫の私立校に通っていると言う。

でも翼は公立高校。


でも中学まではフリースクールだったとか。

だから見かねた勝と忍が勉強を教えていたのだった。





 愛された記憶のない翼は愛し方も知らなかった。


御花畑駅の改札口で待っていた翼。

陽子は当然のように手に触れた。


その時稲妻が走ったかと思われる程衝撃を受けたらしく、翼は震えていた。


陽子が笑う度、翼の表情が変わる。


愛しくて愛しくてたまらなくなる。


こんな健気な青年を何故家族はないがしろにするのだろうか。


西武秩父駅で陽子が泣いたのは、翼の過去を思いはかったからだった。


陽子の荷物を持とうとしてくれた優しい翼。


本当は頼みたい陽子。

でも、見栄を張る。


二つ年上のお姉さんとしての意地だったかもしれないけど。





 「巡りきてその名を聞けば明智寺心の月はくもざるらん」


国道に繋がる道をお遍路達がご詠歌を唱えながら歩いて来る。


白装束に“同行二人”と記してある。


翼と陽子に軽く会釈を交わしながら、六角のお堂の中に入って手を合わせる。


みくじ結んだ一人が、境内にある井戸で手を洗い出した。


其処にあることにも気付かなかった二人は見つめ合い笑った。



(――なんで気が付かなかったのだろう?)

お互い、それをアイコンタクトした。



その時、案内人らしい人が寺の言い伝えなどを語り出す。


翼と陽子は遠巻きに仲間に入って聞き耳を立てた。



「昔この地に、とても親孝行の息子が住んでいたとのことです」


案内人は小さく咳払いをして、又しゃべり出した。



「その子の母親は目が見えなかったので、このお寺に一生懸命に願を掛けたそうです」





 陽子は翼の様子が気になり、そっと視線を送った。

其処には、今にも泣き出しそうな顔をしながら聞いている翼の姿があった。



例え翼がどんなに親孝行をしたくても、孝行をさせてくれる親がいない。

それがどんなに切ないものか。


陽子は翼の心の奥の悲鳴を聞いたように感じていた。



翼の祖父の勝から聞いていた。


母親に愛されていないことや、話題にものぼらないことなどを。


でもその翼が誰よりも母親である薫を愛していることは明々白々なのだと。


自分達に気を使って、その事実を隠していること。


何故、堀内家の人々がその事実を陽子き話したのかは判らない。


でもきっと翼を思ってしたことだ。

陽子はそう感じていた。





 同情させるためなんかじゃない。

恋をさせるためなんかじゃない。

きっと愛してやって欲しかっんだ。


陽子はこの企みにまんまと乗せられた。

でもそれは自分でそうしたかったからなのだ。



(お姉さん、お義兄さんありがとうございます。翼を愛してくれてありがとう。翼に逢わせてくれてありがとう)


陽子は明智寺から見える堀内家に向かって、合掌をした。

精一杯の、感謝の意味を込めて。





 案内人の説明に神経を集中させるお遍路達。


その片隅で翼と陽子もこっそり聞いていた。



「見かねた僧侶が親子にアドバイスをしたそうです。観音経の一説を教えてた上で、このお堂の中で一心にお祈りしたらどうかと。その通りにしたところ、急に目の前が明るくなったそうです」



「それでこのお寺を明星山と名付けたそうよ」

陽子が翼に耳打ちをする。


翼は驚いたように陽子を見た。



「もしかして、おじいちゃんに……」


陽子は頷いた。



「私おじさま大好き。姉がお義兄さんと出逢った時みんな反対したの。でもおじさまだけが理解してくれて、親戚を説得してくれたの」



「十歳違いだから?」



「それもあるけど、上司だったでしょう? 部下に手を出したとか、親戚中に色々言われてね。母と一緒に説得に走り回ってくれたの」



「ふーん。そうだったんだ」



「その時のおじさまカッコ良かった。私おじさま大好き! おじさまのためなら、おじさまの病気が良くなるためなら何でも出来るわ」


陽子は強く言い切った。



陽子は地蔵堂へ向かう前にさっきの井戸で手を洗おうと近付いた。


すると翼も真似をしに付いて来た。

二人は互いにポンプレバーを押し合った。





 陽子の優しさが翼の心を暖かくしていた。



(陽子のためなら何でも出来る。陽子を守りたい!)


翼はこの時決意した。



愛された記憶のない翼。



(その心を愛で埋め尽くしてあげたい。その荒んだ心に、優しさを届けたい)


恋人たちは、互いの優しさを持ち寄って支え合うことを、それぞれの心の中で誓い合った。





 陽子は幼子を模したような布で作られて吊してある物が気になって、小さなお堂に手を合わせていた。


側にあるのは、赤い被り物の地蔵菩薩。


その横の観音様に手を合わせ、陽子は二人の行く末を願った。



「お若いのに随分熱心ですね」


一行の一人が声を掛けて来た。



「おめでた?」


陽子の耳元で囁く。


陽子はビックリして女性を見つめた。



「だって此処確か、安産祈願の観音様よ」



「えっえー!?」


陽子は首を振りながら後ずさりをした。



でもその後で陽子はもう一度祈りを捧げた。



出来るなら……

翼との子供が欲しいと。



でも陽子は戸惑っていた。


いくら何でもまだそれは早過ぎると。





 「順番が逆になりましたが、これより八番札所西善寺へ向かいます」

案内人が声を掛ける。



お遍路の一行はそれぞれの荷物を確認しあってから、次の目的地へと歩き出した。



「コミネモミジ色付いていれば良いわね」



「今回の最大の見所だものね」


皆口々に樹齢約六百年と言われるコミネモミジと呼ばれるカエデを話題にしながらの出発した。



「コミネモミジって?」


陽子が尋ねる。



「行ったことないから知らないんだけど、でっかいらしいよ」



「ふーんそうなんだ。ねえ、行ってみようよー」


翼の腕にしがみ付きながら甘えるように言う陽子。


そのキュートな仕草に胸の奥が締め付けられる。



(あーヤバ過ぎるよ)


翼は途方に暮れていた。





 「それではお嬢様。これから参りますか?」


翼は高なる思いをやっと隠して、陽子の手を取り跪いた。



まるでエスコートする紳士のようだと思った。


その途端、翼はその指先に唇で触れたくなった。


それは何時か、フリースクールのお楽しみ会か何で見た映画のワンシーン。


あの時、ドキッとした。

あの感覚がずーっと忘れられずにいた。

今自分の仕草と重ねた。



(全てはこの日のためだったのか……)

翼はひたすら、陽子の言葉を待っていた。



陽子のハートが早鐘のように鳴り響いた。


言葉など……

忘れていた。



(あー神様! こんな可愛い恋人に巡り合わせて頂きましてありがとうございます)



今いる場所がお寺だと言うことさえ忘れて、陽子は空を見上げた。





 やっと落ち着きを取り戻した陽子は、微笑みながら翼に乗った振りをしてその手の上に手を重ねた。



明智寺から出た二人は、何気なく真っ直ぐ進んだ。


でもその道は、セメント工場へ続いていた。

二人は慌てて元来た道へ向かった。


陽子はその道が再善寺への近道だと思っていたのだった。


あの切り丸太の丁字路から繋がる道があるとばかり思っていたのだった。



結局二人はヤマセミの道標を目指して、明智寺手前の丁字路を曲がり真っ直ぐに歩き出した。



「わあ、このカワセミ可愛いわね」


そう言いながらお遍路の二人が道標の前で足を止めていた。


先ほど明智寺にいた人とは違うようだ。



「あれっ、それ確かヤマセミよ」


もう一人が得意そうに言う。


翼は陽子と出逢った日の会話を思い出していた。

丁度其処へ地元の人が通りかかった。



「スイマセン。お伺いしたいことがあるのですが」


翼は思い切って、その人に声を掛けた。





 「この道標の上に付いている鳥をヤマセミだと聞いたのですが……」



「ヤマセミ? 違う違う。これはカワセミだよ」


その人は言った。


それを聞いてた陽子がニンマリ笑った。



してやったりと言いたそうな陽子。

小さくガッツポーズの真似をする。


それを見せつけられてシュンとする翼。



事情を知らない通りすがりのおじさんは、二人を見比べてキョトンとしていた。





 「コミネモミジってそう言えば新聞記事で見たことがあるわ」



又歩き出した二人。


場を繕うように陽子が言った。



「そうだろう。有名みたいだからな」


翼もやっと機嫌を治したような振りをした。



実は翼は拗ねてもいなかった。


陽子が余りに楽しそうだったので、それに乗った振りをしていただけだった。



「良かった。でも翼、拗ねた時とっても可愛かった」


顔を赤らめながら陽子が言う。



(このまま……拗ねて甘えようかな? でも、どうやったらいいのか解らない)


翼は陽子と恋人同士になれた喜びに体の芯から震えながら、悪巧みしていた。





  「さあ、待ってろよコミネモミジ。僕達のパワーで真っ赤に色付けでやるからな」


遂に……

翼が陽子の手を取る。


陽子はもっと顔を赤らめながら、翼を見つめた。



「コミネモミジを赤く出来るの?」



「二人なら出来るさ!」


力強く翼が言う。


陽子はそんな頼もしそうな翼を見て笑った。



「待っていろよ、コミネモミジ!」

調子づいて陽子が拳骨を天に伸ばした。

翼も遅れまいとして真似をする。


二人は笑い合いながら、ゆっくり歩き出した。





 「きっとコミネモミジも、今の陽子の顔みたいに真っ赤になるさ」

不意に立ち止まり、陽子の耳元で翼が囁く。

翼は陽子をおちょくるように、今度は足を速めた。


これが翼の考えた浅はかな悪知恵だった。



「こらーっ!」

陽子は顔を更に赤くして、翼を追い掛けた。



翼は逃げる振りをして、陽子を挑発した。

捕まえて、抱き締めて欲しかった。



不器用な翼にはそれが精一杯の甘える行為だった。

陽子もそれとなく気付き、乗った振りをして翼を追い掛けた。



どんどん愛しくなる翼。

更に燃え上がる恋の炎。


本当は重いバッグ。

でも苦にはならなかった。


陽子はこの至福の一時に益々陶酔していった。





 丁字路が現れた。

右に行くと切り丸太の丁字路。

その先の横瀬駅に通じる。



左に行くと、多分秩父札所八番西善寺。


でも其処は丁字路ではなかった。



今来た道のV字の形にもう一つの道があった。



「この道がさっきの工場へ続くのねきっと」


その道に目をやりながら陽子は、駅に続く道を反対に行く。



「この道は真っ直ぐコミネモミジのお寺に続いるのかな?」


陽子は少し辛そうだった。



「やっぱり持つよ」


見かねて翼がバッグに手を掛ける。

陽子は慌てて、その手を払った。



「ありがとう翼。でも大丈夫よ」

陽子は笑った。


翼は陽子の気持ちを察し、そっとバッグから手を外した。





 線路の下のガードを潜る。


その先に長い一本道。

右側に工場。


更に歩くと左側に地蔵堂。


明智寺と同じように赤い帽子を頭に被っていた。



陽子はそっと近付いて、又合掌した。

翼も後に続いた。



横には橋があり、その下に線路があった。



「さっきは上で、今度は下か……」



「それだけ上り坂だったって言うことかな」


陽子は、翼の手を取った。



「ねえ翼、賽の河原って知ってる? 群馬の草津にもあってね。でも、其処では確か西って書くらしいわ」



「名前だけなら……」



「私も良く知らないんだけどね。亡くなった子供達が賽の河原で親を思いながら石を積むと、鬼が出て来て壊すんだって。その子供達を守っているのが地蔵菩薩なんだって」


翼はその話を聞いて、目を輝かせた。



そして、一心不乱に祈りを捧げた。


その姿に陽子は温かい翼の心を感じた。


そして益々翼に堕ちて行ったのだった。



でも本当は、翼の心は泣いていた。


だから子供に戻って、地蔵菩薩に救いを求めたのだった。



賽の河原……


死んだ子供が行くと言われる冥途の三途の川のほとりにあるとされる。

父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとすると、たえず鬼に崩される。

無駄な努力とも解釈されるが、それでも子供は小石を積む。

地蔵菩薩はそんな子供を守るために存在しているのだった。

だから辻々で、子供達を見守っているのだ。





 その先は坂道に続いていた。



「此処から観ると凄いな」

翼が歩みを止めた。


翼は秩父の象徴の武甲山を眺めていた。



「負の遺産だって誰かが言っていたわ。でも秩父の人の生活の糧なのよね。みんな其処を知らないのよ」

陽子は友人の言葉を噛み締めながら呟いた。


でもどうしても友人が言ったとは言えなかった。



「負の遺産だなんて……」

陽子が翼の傍でそっと聞こえないように呟いた。



「負の遺産か……」

でも、翼も呟いた。

陽子は慌てて翼を見つめた。



この頃囁かれ始めたこの言葉を勿論翼も知っていた。

でも武甲山がそのように言われていることは知らなかった。


生活の糧と言う言葉も……


でも武甲山は決して負の遺産ではない。

そう……

遺産ではないのだ。

未だに開発され続けいるのだから。





 陽子の言葉は翼にとって刺激的だった。

だからもっと陽子を知りたいと思った。



陽子は翼に温もりを届けたいと思った。


癒されない心を包んであげたいと思った。


陽子は翼と……

翼は陽子と共に成長したいと願っていた。





 坂を下った先にやっと八番への道標。

次の丁字路を左に折れる。


次の道標は高架橋の下にあった。

それを頼りに道を渡った。


暫く行くと又川がある。


名前が違う。



「うぶがわだって」



「うぶがわ? 可愛らしい名前ね」


陽子が微笑む。。


うぶがわの先の道に又川がある。


城谷沢とあった。



「此処も沢か」

陽子が言う。



「そうだね。さっきのがこのまさわ今度が……」


翼が言いかけたら、陽子が頭を撫でた。



「良く覚えていたわね。偉い偉い」


陽子が悪戯っぽく笑った。



「こらーっ! 又子供扱いして」


翼が拳を握り締める。


陽子は大笑いをしながら歩みを速くした。



「横瀬には一体幾つ川があるんだろう?」



「一体幾つ集まって横瀬川になるのかしらね?」


二人はやがては荒川と合流する横瀬川に思いを馳せていた。





 城谷沢の先の急な坂道を登りきった先にコミネモミジの八番札所があった。



お寺の入口で陽子は入っても良いものか迷っていた。


《当山は霊場につき、物見遊山の者、酒気帯びの者境内に入ることを禁ず》


そう書かれていたからだった。



「物見遊山って、きっと私達のことよね」

陽子の言葉を聞いて、翼が手を離した。


慌てて陽子が翼を見る。



「これなら良いんじゃない?」

翼が目配せする。

陽子は頷きながら門をくぐった。


目の前にコミネモミジ。

寺の庭一面に広がる。

その堂々した圧倒感。



「凄いね〜!!」

言葉はそれ以外見当たらない。



山門をくぐり抜けると、眼下にそびえ立つコミネモミジ。


その圧倒的な存在感で身動きの取れない二人。


やっとの思いで石段を下りる。


《物見遊山》と言う言葉が陽子を捕らえて離さない。



石段を下りきった所に緑色に光る撫で佛。

陽子は頭を撫でながら、翼の手を重ねた。



『翼の方が頭が良い』


忍の言葉を思い出したからだった。



『出来れば大学に行かせてやりたい』


そう勝も言っていた。



陽子は機会があったら、そのことを翼に言おうと決めていた。





 「あっ! 見て見て」


陽子がコミネモミジを下から見上げて興奮していた。


翼が陽子の視線の先を追った。



「あっ、色付いている」



翼も雄々しい枝の一部分から目が離せなくなった。



「これが二人の愛の成せるワザだ」


翼が感慨深げに言う。

陽子は頷いた。



可愛い翼。

陽子は急に抱き締めたくなった。


でも此処は霊場。

ただ耐えるしかなかった。





 樹齢六百年と言われるコミネモミジ。


その堂々とした姿に感銘を受け、二人は暫し無言でいた。



「ねえ陽子。此処も六地蔵だね。何か意味でもあるなかな?」


耐えきれなくなったのか遂に翼が言った。


陽子も気にはなっていた。

コミネモミジの下に整列している地蔵菩薩が……



「確か六道とか?」



「六道!?」



「そう、餓鬼道でしょう。畜生道でしょう。それから確か人間道も……」



「人間道も?」



「そう、もしかしたら人間が一番罪作りなのかも知れないな」

陽子はポツリと呟いた。





 今歩いている道が、やがて国道299号線に繋がることを二人は確信していた。



でも、歩いても歩いてもそれらしい道が出て来ない。


次第に不安になった。



「この道で良いのかな?」


翼が口火を切った。



「多分……」


陽子が不安そうに言う。


二人は周りを見回した。


前も後ろも誰も歩いてもいなかった。


さっきまで八番札所西善寺にいたお遍路さん達もいなくなっていた。



陽子は翼の手を強く握り締めた。


びっくりして翼が陽子を見つめた。



「見て、この道の先砂利道になってる」


今にも泣きそうな陽子。


良く見るとその砂利道は山へと続いていた。



「やっぱり引き返そう」

翼はそう言うと、陽子の手を掴んで今来た道を引き返した。



「これも勇気のいることね」


陽子は翼の腕にしがみついた。



コミネモミジの寺の脇を通り過ぎる時、お墓参りだと思える人がいた。


手には線香と花束。



「お墓があるの?」



「きっとあるんだろな」

言ってはみたけど気になった。


二人は後を付いて行くことにした。



駐車場の端のトイレの脇の小道を暫く行くと、小じんまりとした墓所が現れた。


かなりの回り道だった。

でも思いがけない発見に陽子は興奮していた。木戸からコミネモミジが見えていたからだった。





 でも翼は神妙だった。


墓石中にある、無縁仏の墓らしき建物。

翼は思わず合掌していた。


四角いお墓。

その上には涅槃像。



「わー初めて見た。お釈迦様もきっと疲れるのね」



「そうかも知れないな」


翼はコミネモミジを見ながら言った。



「もしかしたらこの木も守っているのかな?」



「そうかも知れないね」


言ってしまってから陽子は笑い出した。



「真似してないからね!」


その言葉で翼も気付き、一緒に笑い出した。



でも陽子は気付いていた。

翼の心が泣いていることに。



涅槃……

お釈迦様の最期の姿。


そんなお釈迦様を頼って翼は泣いている。

それが何なのか、陽子は知るよしもなかった。


ただ翼を見守る位しか陽子には出来ない。


そう……

此処は物見遊山禁止のお寺だったから。





 コミネモミジの寺を出て脇の坂道を下る。


暫くいくと高架橋が見えた。


途端に二人は元気に走り出した。



「やっぱりこっちで良かったのよ」

陽子が得意そうに言う。


翼はそんな陽子を笑いながら見ていた。





 比較的大きな通りに出た二人は迷っていた。

前には店があり、その横に道があったからだった。


冒険に少し懲りた二人。

結局左に曲がることにした。


でもその道は予想もつかない場所だった。



今度はもっと大きな通りに出くわした。

それは紛れもなく、国道299だった。



右に曲がると直ぐ橋があった。

それこそ、二人が描いていた横瀬川だった。



「何時国道を追い抜いたのだろう?」

西善寺は国道より西に位置していたはずだった。

でも出くわした道はそれの東。


考えても考えても答えは出て来なかった。



「ザ・陽子マジック!」


太陽に向かって拳を突き上げる陽子。

翼が目を白黒させる。

そして翼も後に続くように拳を突き上げた。





 二人は気付かなかった。

通り過ぎた頭上に高架橋があったことに。

それが国道299号だったのだ。



国道には、松枝から西部秩父駅行きのにバスが運行しているはずだった。



バス停を見つけて、走り寄った陽子。


でも次のバスの到着までかなりの時間があった。


二人は又歩き出した。



何だか可笑しくなって笑う翼。


そんな翼を見て笑う陽子。


仲むつまじい国道のんびりデート。





 「横瀬川よ。やっと来たわ」


言ってからおかしいと思った。



「ねえ、さっきのも確か横瀬川だったわよね?」



「うん、そうだね〜?」



「どーなってるの!?」



「さあ〜? どーなってるんだろう!?」



二人は橋の上から遥か向こうにある荒川に思いを馳せながら、この疑問を苦笑していた。



この地域で横瀬川は大きく蛇行していた。

だから二つの橋がかかっていたのだった。





 信号を幾つも渡り、坂氷バス停近くになった。


斜め左に折れると、姿の池が現れた。



「おじさまに聞いたのだけど、昔はここにボートが置いてあったんだってね。何で無くなったんだろ? あったら二人で乗るのに」


陽子は沢山歩いて疲れている筈なのに、翼と二人で居られるボートに乗りたいと本気で思っていた。





 姿の池を後にして、陽子は羊山公園へと足しを向けた。


秩父市内が一望出来る小高い丘の上。


此処は秩父夜祭りの仕掛け花火の会場だった。



陽子は迷わず、ベンチに座る。



「ゴメン。お昼忘れていたね」

そう言いながら、バッグの中からサンドウィッチとポットを出す。



翼が気になった、重たそうな陽子の荷物の中身は二人分のお弁当だったのだ。



『重そうだね。僕が持とうか?』

一応声を掛けてみた。

でも陽子は首を振った。


本当は重たかったのに……



『大事な物が入っているから、私が持つわ』

陽子はそう言いながら、とびっきりの笑顔を翼に向けた。



そんな二人の朝の会話を思い出しながら、陽子は笑っていた。





 「えっー手作り? 大丈夫か?」

でも……

翼は思わず言った。



「何よ!」

その一言につい声を荒げた陽子。


しまったと思いながら、気まずい雰囲気になる。





 沈黙の時間が流れる中、やっと事情を察した翼。



「ごめん。ホラ長い間持ち歩いただろう……」

シュンとしながら言う。



「腐ってないかってこと? 大丈夫よ。バッチリ対策してきたから」


バックの中からもう一つのバック。それは冷蔵バックだった。


サンドウィッチは大量の保冷剤でガッチリ守られていた。

だからなおのこと重かったのだ。



陽子は翼に見せ付けるようにサンドウィッチを頬張った。



「ほら、大丈夫だ」


その声を聞いて、翼は笑いながらサンドウィッチに手を伸ばした。





 陽子が保温ポットからコーヒーを注ぐ。

翼は一瞬顔を曇らせた。



「コーヒー駄目だったんだよね? でもコレは大丈夫だと思うの。騙されたと思って飲んでみて」



恐る恐る口をキャップに近づける翼。

次の瞬間表情を変える。



「何コレ、苦くない!」



「陽子特製アメリカンコーヒー! 良かった。これなら飲めるのね?」


翼は大きく頷いた。



「翼のお父さんのカフェのコーヒーは本物のブルーマウンテンなの。ブルーマウンテンはレゲエ発祥地として有名なジャマイカ原産のコーヒー豆なの。貴重品なので物凄く高価らしいわ」



「だからみんな有り難かって飲んでいるって訳か?」


陽子は頷いた。



「ペーパーフィルターで入れてみたの。細口の薬缶で中心からそっと注ぐの」


そう言いながら、陽子も口を近づけ一口飲んでから言ってまっさた。



「アメリカンコーヒーだって、ただの味が薄いだけじゃないのよ。軽く焙煎したコーヒー豆を少な目に入れて抽出するから、翼のようにコーヒーが苦手な人でも比較的大丈夫なコーヒーが出来るのよ」



ちょっと自慢気な陽子。

でも目を伏せた。





 「本当はね。時間が経って酸化して、苦味が抑えられたのではないかな?」



「じゃあ、本当は失敗作だった?」


翼が皮肉ったように聞く。

陽子は思い切って頷いた。



「怪我の巧妙!」

陽子が小さくガッツポーズをとる。



「オイオイ」


翼は大笑いをしながら、陽子のサンドウィッチとコーヒーを口に運んだ。



「おいひい〜」


もごもごする口で

でも、どうしても言いたかった……


それは陽子に対する感謝と謝罪を表す、精一杯の気持ちから出た言葉だった。



「こんな心のこもったサンドウィッチ初めて食べたよ」


翼は泣いていた。

陽子の心遣いが嬉しくて。



「最高に美味しーい!」


翼の楽しそうな声が羊山公園に響いた。



「コーヒーはね熱いお湯で短期間に抽出すると、さっぱりだけど苦くなるの。少し冷ましたお湯でゆっくり注げば、甘味とコクのあるコーヒーになるの」


陽子の熱いコーヒー談義。

それはひとえに親子の確執を埋めようとする思いやりに溢れていた。





 目の前の街並みの向こうに赤い橋がある。



「あれがミューズパークに向かう所にある橋かな?」



「何時か行ってみる?」


翼が声を掛けると陽子は小さく頷いた。


でも、内心では震えていたのだった。





 小さな丘に登っただけで、見る景色が変わる。


二人は翼の住んでいる家を見つけようと競い合いながら笑っていた。



陽子の指先が又翼に触れる。

その度翼は緊張する。


又かと思いながらも、陽子は愛しさがこみ上げて来るのを止められない。



「あれっ翼。腕時計持っていないの?」


翼の腕に触れた時、思わず言ってしまった陽子。


突然の陽子の質問に驚き、翼は陽子と繋いでいた手を離した。





 「あ……。ごめん」


とてもイヤな沈黙。


家族にプレゼントして貰えるはずのない翼を、不本意な一言で傷付けてしまった陽子。



(御両親を差し置いてまで、堀内家が買ってあげられるはずもないのに)


陽子は落ち込んでいた。



「今まで困らなかったから持っていないだけだよ」


たまりかねて翼が言った。


その優しさが陽子の胸を締め付けた。


永い永い沈黙。


陽子は良い解決策がないかと頭を悩ませた。



ふと、周りを見ると戦没者慰霊碑がある。

陽子はこの苦しい時間を何とか打破したくて、その塔を見つめていた。





 「あ、そうだ!」

そう言いながら陽子はバッグの中に手を入れた。



ガサゴソ陽子が何かを探してる。


出てきたのはダイバーウォッチだった。


陽子は躊躇わずに翼の腕に装着させた。



「えっ!」

翼は思わず驚きの声を上げた。



「もう要らないから翼にあげる。ごめんね本当に」

陽子は翼を優しくハグしながら、心無い一言を誤っていた。



陽子のダイバーウォッチは翼の腕で又輝きを取り戻したようだった。





 三峰で育った陽子は,泳ぎが不得意だった。



土産物屋の自宅からロープウェイ入口駅まで行く途中に赤い橋があり、谷底を荒川が流れている。



其処から下を見ると引き込まれそうになる。



そんな場所では、遊べる訳もない。


勿論下りるための道はある。


でも陽子は怖くて近寄れなかった。



水遊びは小さなビニールのプール位だった。



だから小学校のプールでも、カナヅチで通した陽子だった。



でも保育士になるために必要だと判断して、通っていた短大の近くのプールで特訓していた。


その時使用していた物だった。



ミューズパークに向かう赤い巴川橋に反応したのは、そんな理由だったのだ。





 羊山公園を後にした二人は、羊山入り口を右に向かった。


暫く行くと秩父市役所横の駐車場に出る。

その行き着く先を右に折れると、談合坂が見える。



この先にあるお花畑駅。

二人は此処から又電車に乗った。

行き先は、陽子の住む武州中川駅だった。



男のケジメとして、陽子の両親に挨拶するためだった。

それと同時に陽子を一人で返したくなかった。



でも本音は、少しだけでも傍に居たかったのだ。





 中川の駅の反対側にある陽子の家。



「貴方が翼君?」

節子はそう言いながら翼を見つめていた。


翼は恥ずかしそうに目を伏せた。





 陽子が家の中に入っても、翼は名残惜しそうに、線路に佇んでいた。


翼は本気で陽子を愛し始めていた。


不器用な翼。

まだ愛し方も知らず、ただ一途に恋の虜になったことを喜んでいた。





 家の中に入った陽子は、そんな翼を二階の自室から見つめていた。



翼の一挙手一投足に感銘を受け、益々大好きになっていく。


陽子も、一途に恋の虜になれた喜びにその身をおいていた。





「ねえ。もしかしたらなんだけど、二人結婚したら此処で住まない?」


陽子の母親の節子が突拍子のないことを言う。



「だって翼君可愛いんだもん。お婿さん何てどう?」


節子は真面目らしい。

でも陽子は大声で笑い出した。



「い・や・よ。私だけの翼だもん」


言ってしまってから、陽子は恥ずかしそうに俯いた。





 節子には三人子供がいた。


翼の叔父・忍と結婚した長女の純子。

それに陽子の弟。



陽子はその弟が家を継いでくれると思っていた。


だから自分と翼が家に入ることだけはしたくなかったのだ。



バッグから出したポットなどを洗った後、陽子は緑色のコインパースから二人分の“みくじ”を出して愛しそうに眺めていた。






陽子の母の節子は翼を気に入ったようだった。

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