第96話 「いつまでも一緒だよ」
お久しぶりでごめんなさい。3話先まで書き溜めが出来たので投稿します。
煤と埃に塗れた少し長い黒髪を、ヘルドマンは指で梳いた。
どれだけ薄汚れていようとも、指通りは剃刀に触れているかのようで本質的な美しさは失われていないように見える。だがこんな有様では従者に叱られてしまうな、と彼女はシャワーを浴びることを選択した。
久方ぶりの地上。
新月故に光は殆ど無く、ヘルドマンは自身の影から生み出した「懐中電灯」で行く先を照らした。
えるいーでぃーとノウレッジが嘯いていたそれは魔導具で出来た照明器具が足下にも及ばない、昼のような明るさを彼女に提供してくれている。
焔の巨人事件から暫く経ったエンディミオンは見かけ上の平穏を取り戻していた。地下世界の発掘はロマリアーナの指示で無期限中止されているものの、その他の講義や研究はほぼ通常通り行われている。
ただ講師の一人が死亡扱いのまま今だ帰還していないだけだ。
そしてその主不在の部屋にヘルドマンは足を進める。
「——随分ともとの色を亡くしてしまいましたね、ここも。アルテが置いていった私物くらいですか、痕跡が残されているのは」
アルテミスが使用していた執務室がヘルドマンの私室となっている。彼女は4人掛けのソファーに毛布を敷き詰めてベッドとして使っている他、部屋の一角には複雑な文様の陣を刻み込んで、自身の力の解析に心血を注いでいた。ノウレッジの助力のもと、彼女はいよいよ自身の本当の権能に目覚め始めているのだ。
「そういえばあの人は健勝でしょうか。マリアの性悪が『これから連れ回します』と連絡を寄越してきたときはどうしようかと思いましたが、まああれに彼を御せるわけがないので取り越し苦労ですかね」
服を脱ぎ散らかし、熱めの湯を頭から浴びていく。肉体に蓄積していた様々な不快感が熱に溶けて流れていく感覚があった。
眼前を流れ落ちていく水滴の隙間から、ヘルドマンは徐に左手に嵌めていた黒い指輪を見た。
だからだろうか。指輪が応答を欲していることに直ぐに気がついた。
相手が誰かなど考えるまでもない。彼女は直ぐさま指輪に話しかけ、これまで幾度となく関わりを持ってきたある男の声を欲した。
だが、
『あ、よかった。繋がりました。あなた、まだエンディミオンから帰っていなかったんですね。グランディアもレストリアブールも連絡が繋がらなくて少し焦りましたよ』
は? とヘルドマンの動きが止まる。湯の流れを止め、浴室の壁に身を預けたまま彼女は指輪を睨み付けた。何故なら信頼を置くあの男に渡した品を使っているのが、よりによって不倶戴天のいけ好かない奴だったからである。
『いろいろあってアルテに依頼を頼んで、それを完遂して貰ったまではよかったんですけれどもね』
青筋が立った。いや、自身の怒りが的外れなことは理解してはいたが、それでも感情の昂ぶりばかりはどうしようもなかった。
しかしながら話の調子からしてアルテも納得ずくで依頼を受けているのだろう。ならばこちらからつべこべ言う筋合いはないと、深呼吸一つで自身の荒ぶりを沈めた。
「それに関しては言いたいことがごまんとありますが、まあ良いでしょう。で、勿体ぶっていないで早く本題を伝えなさいな」
ヘルドマンの形の良い鼻筋の上を水滴が伝い落ちていく。それが大理石の床に落ちるか落ちないかのタイミングでマリアが答えた。
『……非常に申し上げにくいんですけれど、うちの信者たちと揉めてしまってですね、事後処理のことを考えたら彼、しばらくここカラブリアから離れられないかも」
ヘルドマンが激昂することはなかった。彼女はただ、前髪に纏わりつく水気を乱雑に拭い去ると、ため息を滲ませながら静かに言葉を返した。
「助役としてクリスを向かわせます。彼女をアルテ側の仲介人に仕立ててください。あなただと、教団内での存在感が大きすぎてまとまる話も纏まらないでしょうし。今からすぐ、そちらに向かわせます」
嫌味の一つか二つ、もしくは憤怒の言葉が返ってくるものだと身構えていたマリアは思わず「マジですか」とこぼしていた。それくらい、ヘルドマンの態度は寛容で柔和だったのである。不倶戴天の天敵同士を自称する仲でもあったわけだから、自然とそう言葉が放たれていた。完全な失言ではあったが、それでヘルドマンが機嫌を損ねることはない。
「マジですわよ。あなたのところの教団はしつこいことで有名ですから、早いところ手打ちにするしかないでしょうに。一人か二人斬ったくらいならなんとかなるでしょうから」
ヘルドマンの言葉にマリアが息を詰まらせる。それはばっちりとヘルドマン側に伝わってしまっており、彼女は天を仰ぎ見ながら特大の溜息を吐き出した。そして若干の間を置いてからヘルドマンが小さな声でマリアに問いかけた。
「——で、何人なんですか?」
「先走った信者たち総勢30名です。幸い、すぐに手当と教団の治癒術を受けて死者はいませんでしたが、全員何かしらの刀疵は受けていますね」
もうため息もでなかった。ただ先ほどよりもたっぷりと間を置いてから、ヘルドマンは指輪に向かって微笑みかける。そして嫌味たっぷりに、彼女らしい呆気からんとした口調で言葉を繋いだ。対するマリアも間髪入れずに言葉を投げ返す。
「あなた、本当に使えませんね。教団の手綱くらい握っておきなさいな」
「全裸で凄んでも滑稽なだけですよ。わかってますからね。あなたが温浴していたことくらい。一度鏡見たら正気に戻るんじゃないですか?」
長い、長い沈黙が訪れる。それぞれの耳に届く音は水滴が大理石を叩く音だけだった。
沈黙が破られたのはそれから少し後。
二人ともほぼ同じタイミングで、同じ音を発した。
常人が聞けば卒倒しかねない言葉。二人のそれぞれの実力と立場を考慮すれば、聞いた誰しもが肝を冷やす恐るべき一言。
二人の声が重なって浴室内に反響する。
「『死ね』」
01/
どうして世界中何処で食べてもムショ飯ってこうも不味いのだろうか。パンはもさもさしているし、スープは臭い。飲み物もエールなど有るわけもなく、何の動物かわからない乳が木の器一杯分だけ。陶器の器は凶器にもなり得るからムショ界隈ではお目に掛かったことがない。そして代わりに支給される木製の椀はシミだらけでなんか黴びてる気がする。
というわけでどうもこんにちは、アルテです。最近すっかり忘れていたけれど、自分わりとこんな感じで投獄されることもままある人生だったことを思い出しました。
え? 何で檻の中にぶちこまれているのかって?
そりゃあ、カラブリアの中で人を斬っちゃったからですよ。
殺してはいないけれども、それなりの刀傷は与えたと思う。いつかのマリアみたいに唐竹割りにはしてない、みたいな。
30人近くは斬った張ったをしたかな? それなりに腕が立つ奴らばっかりだからついつい熱くなってしまったのは反省だ。
緑の愚者だったイシュタルのような凄腕が紛れていたらこっちの命が危なかったかもしれない。イルミ達も一緒にいたから巻き込んでしまう可能性があったわけだし。
——なんて、イキってみても仕方ないね。
はい、やらかしましたよ。久しぶりに。いや、やらかし癖はいつものことか。
でもこう、罪人扱いされるくらいやらかしたのは白の愚者殺害の容疑を掛けられたときか、グランディアで暴れすぎたとき以来か。
切っ掛けは本当に些細なこと。
ちょっとしたいざこざで、カラブリアの街に滞在していた武装していた一団と揉めてしまったわけなのです。
最初は単なる口論だったけれど、いつの間にか互いに剣を抜いていて、気がつけば斬り合っていた形だ。
ただ思っていたより相手方が弱かった。ちょっと痛めつけて退散して貰おうと考えていたら思っていたより深く傷つけてしまっていた。聖教会の治安部隊が周りの通報を受けて駆けつけたときには、痛みにうめきをあげる集団の中心に俺がいた格好だ。
最悪である。
幸い、イルミちゃんとレイチェルは俺が相手することを伝えたら静かに見守ってくれていたから、駆けつけた治安部隊に取り押さえられることはなかったけれど、俺はあっさりとご用となった。というか、治安部隊として駆けつけたのがまさかのまだ街に滞在していたマリアたちだったので、ほぼ無抵抗で降参の旗を揚げていた。イルミが少しばかり殺気立っていたけれど、レイチェルお姉ちゃんが上手いこといなしていてくれていたからまあ何とかなっただろう。
で、幾ばくかの事情聴取をマリアから受けて「ほとぼりが冷めるまでそこで反省していろ」と檻に放り込まれたわけなのである。つーかあの人、多分真剣に呆れていたよね。事情を話せば話すほど溜息を隠さなくなってくるし、途中から聴取のメモもその辺にぶん投げていたし、挙げ句の果てには机の下でスネを蹴飛ばされたし。去り際の捨て台詞は「いらない仕事を増やさないでよ。このスカポンタン」だったもんね。
折角ぼちぼちと打ち解けることができたと思っていたのに、完全に台無しである。
『——主様、誰かが近づいてきています。足音の調子から、おそらくレイチェル様かと』
ぼんやりと壁のひび割れを数えていたら義手が声を上げた。この子は流石に没収されるかな、と心配していたらなんかあっさりと同じ檻に入れられている。というかまだ右腕にくっついたままだ。普通、囚人ならこういうものは真っ先に奪われるだろうに、もしかしたらマリアが何かしらの便宜を図ってくれたのかもしれない。
「何だ、思ったより元気そうじゃないか。まあ君はこれくらいで反省したりへこたれるタマじゃないよな。ほら、これ。差し入れだ」
屈強な看守を伴って現れたのは義手の分析通りレイチェルだった。というか当たり前に足音を判別しているけれどちょっとこの子そんな機能あったの? 割と初耳なんだけれど。
「飯は不味いからな。助かる」
手渡されたのは白パンと干し肉、そしてリンゴみたいなフルーツが入ったカゴだった。檻の食事窓から彼女はそれを差し出して、そしてそのままそこに腕を乗せてもたれ掛かっていた。
「あれから次長と少し話をしたよ。これくらいの持ち込みなら黙認するってさ。流石にナイフとフォークは君に持たせると立派な凶器だから絶対に許可できないらしいが。意外なことに彼女は割とこちらの肩を持ってくれている。というよりも、あの一団に対して何かしら思うところがあるような感じだったかな」
つらつらとレイチェルはマリアとの会話を俺に語ってくれた。彼女が言うに、俺が斬り合った一団にマリアはどこかしら心当たりがあるらしい。
「——ところでイルミはどうした?」
ふと、こんなときにでもそれなりに気を遣ってくれるちみっこの所在が気になった。何かレイチェルにとことこついて回っているイメージもあるから、今日ここにいないのは正直意外だった。
「ああ、彼女は少しばかり君に顔を合わせづらいそうだ。私は別にそんなこと微塵も思ってはいないが、あの一団と揉めてしまった原因が自分にあると思い込んでしまっている節がある。君を連れて行こうとする次長に激高しなかったのも多分それが理由だな」
何だ、そんなことか。とリンゴを囓りながら安堵した。別に気にしなくて良いのに。確かに切っ掛けにほんの一ミリくらいは彼女が噛んでいるかもしれないが、殆ど俺の自己責任だろうに。
「ま、でも君がキレていなければボクがゴリアテでぶっ飛ばしていたからアルテも気に病む必要はないさ。何せあいつら、よりよってイルミのことを『忌み子』とのたまった。ボクはそういう生まれを蔑むような輩、この世界で一番許せないから」
けらけらと、いや、快活に笑う彼女だったが目は一切笑っていなかった。多分それ、ぶん殴るだけじゃ済んでないよね?
まあ言いたいこととその気持ちはよくわかるけれども。
「そもそもあいつが忌み子というのがよくわからない。俺やお前のように太陽の力を持っているならともかく、彼女は純粋な魔の力しか有していないだろうに」
白パンに手をつけ始めた頃、徐にそんなことをレイチェルに問うてみた。というか、食べ終わるまで待っていてくれる感じかな?
「ああ、それなんだが多分あいつらはあの子の莫大な魔の力を見てそう言ったんだと思う。君が気がついているのかいないのか、敢えて無視しているのかはわからないが、ちょっとここ最近のあの子が保有している魔の力の量ははっきりいって異常だ。エンディミオンを出てからこれまで、毎日のように成長しているのも不気味だな」
え? そうなん? 全然気がつかなかった。折角魔の力を知覚できるようになったのに、なんで気がつかなかったのだろうか?
「その様子だと本気で気づいていなかったのか。流石だな。ボクなんて何度あてられて体調を崩したことかわからないというのに。まああの子も必死に押さえつけようとしているからそれもあるか」
あてられる程強いん? それってかなり不味くない? とくにイルミちゃんの調子が心配になるんだけれども。
「——なあ、アルテ。彼女がいない今だからこそ君と共有しておきたい私の考えがある。もしかしたら君は下らない邪推をするボクのことを軽蔑するかもしれないが、これから三人で旅を続けるにはここいらではっきりとさせておかなければならないだろう」
レイチェルが檻の向こう側で腰を下ろした。俺と丁度目線の高さを合わせるような形だ。彼女の瞳は真剣そのもので自然とこちらの背筋も伸びた。
「あの子、ほぼ間違いなく七色の愚者の血縁者じゃないか? それも親戚とかそんなレベルではなく、親子や姉妹という関係で。そして君は多分、あの子の出自から誰の血縁者か推理できるだけの情報をもっているんじゃないか? そしてそれを黙殺と言えば聞こえがわるいが、わざと周りに隠しているだろう」
————。
「別にそれで君のことを嫌いになるなんて絶対にあり得ないよ。これでもボク、君のことは随分と好いているんだ。今までの人生で特定の誰かの側に居続けるなんてしたことがないボクがこうしている意味を考えたらわかるだろう?」
————。
「やはり君は言葉ではなくその瞳で語ってくれるんだね。大丈夫さ。口だけが回る奴なんかよりよっぽど信頼に足るから」
でもさ、とレイチェルが目を伏せる。何故かその時、互いの呼吸が重なったような錯覚を覚えた。
「やっぱり君の口から聞かせて欲しいな。君とイルミが出会ったときのことを。そして、そこであった出来事を」
02/
「この先に依頼にあった少女が囚われているらしい。もう随分と屍を築いてきたが、もうそろそろお終いだ」
薄暗い回廊の途中で俺たちは休息をとっていた。まだ俺の腕が二本とも揃っていたときのこと。まだイルミもレイチェルも旅を共にしていなかった頃。
今よりも遙かに弱かったその時、俺はクリスとともにグランディアから見て西側に位置する領国に足を踏み入れていた。目的は両国内に位置する古ぼけた古城。白亜の壁はツタに覆われ、紺碧の屋根は雨で黒ずみ所々が崩れ落ちていた。
そしてその古城にはとある愚者の信者たちが凡庸な吸血鬼と共に巣くっており、悪逆の限りをつくしているという垂れ込みが聖教会に持ち込まれていた。俺とクリスはそれを調査、解決するための先兵として古城に乗り込んでいたのだ。
「ほら、これで息を整えろ」
古城の亡者たちをもう何人斬り捨てたのか数え切れなくなったとき、そろそろ一息つきたいと願っていたときにクリスが徐にそう声を掛けてきた。そして飲みさしの水筒を手渡される。
え? これってもしかして間接キス? と戯けようとしてみせるが強力な呪いに縛られた身体は何も言うことを聞いてくれない。それどころか水筒をひったくるようにクリスから受け取ってからは、あろうことかそれを殆ど飲み干してしまった。——最悪じゃん。
「それだけ飲めるならまだまだ体力は大丈夫そうだな。お前との合同任務ももう数回目になるが、その生命力が羨ましい。私はそろそろ魔の力が心許ないから、お前の力が正直頼りだ」
ただクリスは呆れたように笑うだけだった。その笑顔は今でもはっきりと覚えている。
「いこう。この扉の向こうが恐らく最後の踏ん張りどころだ」
クリスが再び歩みを進める。彼女は大きな木製の扉に手を掛けていた。何かしらのロックが施されていたのだろうが、彼女が『開け』と命じればあっさりと錠前が回る音がした。
ドアが開けばそれまでと同じ光景。
赤い外套を身に纏った男女が一様に槍や剣を持ってこちらを迎え撃ってくる。
今ならばもっと余裕を持って相手が出来ただろうが、この時はまだその辺の凡人に毛が生えた程度の実力しかなかった。ただ思い切りの良さと瞬発力だけは自信があったので、吸血鬼から受けた呪いの恩恵をフル活用して相手の懐に飛び込んでいく。
当時からやけに切れ味のよかった黄金剣は、その場にいた人間たちを一切の例外なく血の海に沈めていった。
「——、おいアルテ! 下から何か感じないか!?」
俺と同じように外套の奴らと切り結んでいたクリスが叫びをあげる。ふと視線を足下に走らせれば格子状になっている床から地下に血潮が流れ落ちているのが確認できた。
ぶっちゃけ当時の俺に魔の力の動きなどわかるわけもなかったが、どことなく嫌な予感がしたことだけは確かだった。
そしてその予感は外していなかった。
「————————————!!!!!!!!!」
多分、遠吠えだったと思う。巨大な何かが足の下で吠えていた。ありったけの殺意と、食欲に支配された声が足裏から全身を駆け抜けていった。一瞬で脂汗が体中から吹き出たと思えば、周囲の全ての人間が動きを止めていた。クリスもまたつばぜり合いの形のまま、視線だけこちらに寄越した。
「まずいぞこれは。猟犬がいる。こんな話聞いてないぞ」
瞬間、世界が吹き飛んだ。
否、床が爆ぜて何かが飛び出してきたのだ。慌ててクリスのことを抱き寄せて、崩れそうになる格子状の床から飛び退く。動き出しが遅れた何人かの男たちはそのまま、床に空いた仄暗い穴の底に悲鳴を上げながら落ちていった。
クリスと二人で壁面の出っ張りにぶら下がった。続いて穴の中から聞こえてくる絶叫と何かが砕かれていく音を耳にして、そして今更になって飛び出してきたモノを二人で視認した。
「何だ、あれは」
「とらわれの少女の護衛だ。万が一のために彼女の姉が縫い付けていったんだと思う。あれは目に映るもの全てを食んでいく異次元の獣だ」
俺たちの視線の先には化け物染みた体躯の白いオオカミがいた。通常のオオカミの5倍近くあるそれは歯を剥き出しにして周囲の様子を伺っている。
「しかももう一匹、あの穴の中にいる。多分少女もそこだ。一匹は少女から決して離れないだろう。そういう役割だからな。くそ、いったん出直すか」
クリスの提案に俺は大賛成だった。だってあれ、いくらファンタジーとは言え存在して良いレベルのモンスターじゃないもん。今もオオカミのことが苦手なのは間違いなくこの時の第一印象が原因だ。いくらイルミの言うことを聞く大人しい存在になったとはいえ、もとの規格がヤバすぎて今でもたまに夢に見る。
「幸いあのオオカミたちは別の獲物にご執心だ。このまま入ってきた扉から全力で撤退しよう。私の上司ならばおそらく御せるはずだから、救援を要請すればいい」
クリスが持ち前の器用さを発揮して、壁から壁に飛び移った。成る程、こうしてオオカミの視覚外を維持して逃げ出す算段なのね。あったまいいー。
「ん? おい、アルテ!」
でもさ、俺こういうときやらかすのよ。まさかぶら下がっていた壁面からずり落ちるなんて普通思わないもんね。
というわけでさようなら。今まで楽しかったよ、有り難う。
はい、そんなわけで穴の中へダイブ完了。頭上では殺戮が始まったのかとんでもない量の血と臓物が降り注いできた。
波瀾万丈の人生だったけれど、まあ思い残すことはちょっとしかないよ。
「————?」
あれ? オオカミいないじゃん。もしかしてここにいた一匹は俺と入れ違いで外に出て行ったの? ならこれってチャンスなのでは? 今クリスもここに降りてきたら安全に少女を連れ出せる可能性がワンチャン!
そうと決まれば覚悟を決めて血の滝をかき分けていく。するとその向こう側で蹲る人影を一つ見つけた。おそらくこの人影が依頼で指定されていた人物なのだろう。安全確保のために人影を引き寄せて、まだ頭上に残っているであろうクリスに呼びかける。
「早く何とかしろ! テトラボルト!」
OH……。早く来てくれ、と言いたかったのに全然意味の違う言葉が口から出ていた。成る程ね、来てくれと言いたかったけれど現状を何とかして欲しいという本音も混ざっちゃったのね。こんな時だけ本音が顔を覗かせなくてもいいのに。
「なら一匹はそちらで相手してくれ! さすがに二匹同時に相手してこの式を壊すことは出来ない! ほら、今そちらに向かった!」
クリスの叫びによる返答と同時、風切り音を残してオオカミの一体が空から降ってきた。
え? 自分もこちらに降りてきてくれるわけじゃないの? このオオカミをどうにかする方向で決まっちゃった感じ? いや、それって控えめに言っても無理ゲーなのでは?
「……だめ、だめよ。あれは全てを喰らい尽くす貪欲な獣。お前も早く逃げ出さないと骨一つ残らずに食らいつくされるわ」
人影が——いや少女がそう口走った。少女の肩は微かに震えている。彼女の声は酷く枯れていて、聞き取るのはやっとのこと。
何より柳のように痩せ細った手足が彼女がどのような境遇に置かれていたのかおよそ教えてくれている。
別に自分が特別善人だとは思えないけれど、いわゆる「義憤」と呼ばれるような感情がわき上がってくるのを感じた。
自然と、少女を掴まえる手に力が入る。
「問題ない、獣ごとき俺が殺してやる」
たぶん、精一杯の強がりだった。この世界に来てからはいつだってそうだ。いつもいつもなけなしの勇気を絞り出して納得の出来ない理不尽な存在たちに抗おうとしている。それはこれまでも、そしてこれからも、——今この瞬間も同じこと。
「お前の心配事など些事も些事だ」
格好つけた言葉も自信のなさのあらわれなのかもしれない。実際は呪いの効力なのだろうが、今だけはこちらの不安が少女には伝わらないことが有り難かった。
オオカミが大口を開けてこちらを威嚇した。ぎっしりと規則正しく並んだ牙には既に人間だったモノがこびりついている。手にした黄金剣にあちらの黄色い瞳が映り込んでいた。
「こい、相手になってやる」
03/
「ふーん、成る程ね。そんなことがあったわけか。なら今彼女が連れているオオカミはその時のものか」
「ああ、クリスがあの手の術に詳しかったみたいでな。出力を大幅に落としてイルミに返したんだ」
レイチェルが差し入れてくれた食事はとっくの昔に空になっていた。今は陶器の水筒に入れられた葡萄酒をちびちびと傾けている。
「ところでオオカミはどうやって押さえたんだ? 君の口ぶりならアレは元来とんでもない化け物と言うことになるが。クリスが調伏するにしてもいきなりは不可能だろう」
レイチェルの疑問に俺は割と素直に答えることが出来た。
「ひたすら時間稼ぎに徹して、クリスの声で強制的に停止させたんだ。最大出力のアレを倒すのは今でも正直不可能だと思う」
嘘偽りの無い感想。あれから俺も随分と腕を磨き、新しい能力を手に入れて強くなった実感はあるがまだまだあの域ではない。正直アレはほぼ完全に神話の生物みたいなものだった。
「そうか。ま、君がそういうのならばそうなのなのだろうな。——じゃあ、そろそろ本題に入らせて貰ってもいいか?」
葡萄酒が切れた。空になった器を地べたに置く。レイチェルはそれを待っていたのではないだろうが、ほぼ同じタイミングで口を開いた。
「イルミのことを拘束していたある愚者の信者ども。それはおそらく赤の愚者の信者だな? そしてイルミは赤の愚者の肉親——おそらく妹と言ったところか?」
やはりこの女、回りくどいことは一切ない気持ちの良い快人物である。あれだけどう切り出そうかと考えていた結論を、こうも呆気からんと言ってのけてしまうのだから。
「——ま、その反応ならば真実なのだろうな。成る程、全て合点がいったよ。あの世界最強の愚者の妹ならば馬鹿げた魔の力の量も説明がつく。しかしあれだな、君はいつからそのことに気がついていたんだ?」
レイチェルの問いに俺は少し言いよどんだ。けれどもここでいくら隠し立てしようが意味のないことはわかりきっているので、今世界でもっとも信頼の置ける仲間である彼女には全てを伝えることにした。
「最初から。赤の愚者の信者たちが喚いていたからな。赤の愚者様の妹御をお守りしろ! と」
それまで忘れたふりをしていたことを改めて言葉にする。
レイチェルはただ「そうか」と呟き、長い長い息を吐き出した。
「——君は赤の愚者の命を狙っているんだったな? ならイルミをどうこうしようと考えたことはなかったのか?」
さらに質問が重ねられる。この質問に対しては即答が出来た。
「全く。彼女は関係ないだろう。妹である以前に、イルミはイルミだ。紆余曲折はあったがあの子は俺の旅の仲間だ」
レイチェルが「そっか」と呟いた。だが今度は柔らかい微笑みがセットだった。もしかしたら彼女もイルミをどうすれば良いのか不安に感じていたのかもしれない。しかしながらその笑みは長続きしなかった。直ぐに表情を改めると、畏まって再び問うてきた。
「ならボクたちの旅の目的はどうする? 太陽病の秘密を得るためにサルエレムを目指してはいたが、ここのところ停滞気味だ。それに赤の愚者を打倒するにしても太陽の力の秘密を得られたところでいきなり挑めるだけの力を得られる訳ではないだろう。それこそ星を掴まえるような所業に対して何かしらの計画はあるのか?」
レイチェルの言うとおり、シュトラウトランドを出てからは当初の目的に全く近づけていない現状がある。サルエレムに向かうつもりがお尋ね者になったり、緑の愚者と戦ったり、動けなくなった身体をリハビリしたり、学園で講師をしたり、今はこうして再び檻に入れられたりしている。計画通りサルエレムに向かうにしても何かしらの軌道修正はいるだろう。
けれども——、
「いや、サルエレムに向かおう。レイチェル、お前はそこに帰りたいんじゃないのか? 俺は何となくそう感じるときがある」
呪いなんてないみたいに、驚くほど思ったことをそのまま口にすることができた。
今こうして告げた言葉はずっと俺が感じ続けてきていたある種の確信のようなものだ。
これがきっかけというものはないが、間違いなく日々の積み重ねがつくりだした一種の思い。
言葉を受けたレイチェルは暫く目を見開いていたが、やがてゆっくりと瞳を伏せると檻の隙間からこちらに手を差し込んできた。そして俺の手の甲を優しく掴み取る。
「やっぱり君には適わないな。ボクのことなんかなんでもお見通しなわけだ。ああ、そうさ。認めよう。ボクはもちろん君の力になるためにサルエレムを目指しているわけだが、そこに全くの私情がないわけではない。これでも人の子だからね、故郷の土を踏んでみたくなったのさ」
でもそれは君のせいだぜ? と彼女は悪戯っぽく笑う。
「ボクは一人で生きていけるレイチェル・クリムゾンだった。でも君に負けたあの日から、君と旅した毎日からどんどん弱くなっていった。今まで切り捨ててきたもの全てが愛おしく、悲しく、そして寂しくなったのは君がいたからだ。君がボクを変えたんだよ」
告白しよう、とレイチェルは続ける。
「ボクは君を愛している。それは多分、いろんな意味でだ。だからボクは君の側にいるし、君と共に生きていきたいと思っている。だから君には来て貰いたい。ボクの生まれた場所へ。ボクの始まりの地へ。それだけでボクはとても幸せだ」
綺麗な笑顔だと思った。自然と、レイチェルに引かれるまま檻の方に近づいていく。
「——キスは止めよう。君とキスするときはいつも君が命の危機だからね。だからこれがボクと君の愛情の証さ」
コツン、とレイチェルの額と俺の額がぶつかった。互いの体温が相克し混じり合い、いつか境界がなくなっていく。
「君が最後に誰を選ぶのか、そもそも伴侶を選ぶのかはわからない。けれどもボクはずっと側にいるよ。今この時の熱は一生忘れないから」




