第92話 「有田 アリス」
#VG92
そもそも可笑しな話だった。
赤の愚者は自身の家族と記憶を奪い取った怨敵である。けれどもかの愚者はいつもアルテに倒された愚者の心臓をヘルドマンに手渡してきていた。緑の愚者こそヘルドマン本人が回収したが、よくよく考えずとも敵に塩を送る行為そのものである。
それに加え、赤の愚者はいつだってヘルドマンに対して敵対的ではない。
ヘルドマンは一切信じてはいないが、「ユーリッヒ」という名も赤の愚者が用意した偽名だと言っていた。そもそもこの名は幼かったヘルドマンを庇護してくれたある没落貴族の男がくれたものであるし、ヘルドマン姓も黒の愚者の称号とともに引き継いだものだった。しかしながらあの話が真実なのだとしたら随分と話は変わってくる。
それはつまり、赤の愚者がヘルドマンの保護先として先代黒の愚者を用意し、先代愚者を通して偽名を送ってきたという仮説が成り立ってしまうのだ。
だとすれば赤の愚者と自身の関係性の意味が全くわからなくなる。
敵対していないのだとすれば、何故赤の愚者はヘルドマンから記憶と力を、そして家族を奪っていったのか。
そして何故、今頃になって奪った力の代わりに他の愚者の力を分け与えるような真似をするようになってきたのか。
何もかもわからないことだらけだ。考えれば考えるほど深みにはまっていく、そんな複雑に絡み合った不気味な真実。
——しかしながらヘルドマンの中で一つだけ繋がったことがある。
赤の愚者と紫の愚者 アリアダストリスとノウレッジから聞かされた話を組み合わせた推論。
アルテがヘルドマンの名前の一つだと語って見せたアリアダストリス。
ユリがあなたの本当の名前だと教えて見せたノウレッジ。
二人の言葉を真に受けるのならば、ともにそれぞれヘルドマンが名乗るべき名と言うことになる。
「ユリ……アルテ…………ユリ、アルテ? いや、アルテ、ユリ」
ふと対面に腰掛けるノウレッジとヘルドマンの目が合った。紫の瞳は困惑を、赤い瞳は思考の底に沈み込んでいる。
ノウレッジはまさか、と声を漏らした。
「——もしかしてそのアルテという名は赤の愚者から伝えられましたか?」
ここまで何かに対して恐る恐るといった形で問いかけるノウレッジを、ヘルドマンは初めて見た。一度別れたとはいえ、まだ成人する前はそれなりに顔を合わせていたというのに、ここまで何かに驚き、そして怯えているこの男は見たことがなかった。
ヘルドマンは視線を外すことなく首肯を返した。
そしてそれを受けたノウレッジは天を仰ぎ見た。
「あー、これは完全に私のミスなのか、いや、そもそもいつかは破綻する定めだったのか。いや、それは仕方がないのか。全ての情を捨てきることが出来なかった彼女ならばではの帰結ということか」
それから暫く、何か自分を納得させるかのようにノウレッジは唸った。どういう訳か彼なりに判断のつかない事態に直面しているらしい。けれどもそれほど葛藤は長く続くことはなく、諦めたかのように大きな息を一つ吐き出して彼は言葉を紡いだ。
「アルテ……正確にはアリタ。それがあなたの本来持っていた筈の家名です。ユリと組み合わせればユリ・アリタ。いえ、あなたが触れていたであろう文化的意味を考慮すればアリタ・ユリ。それがあなたの本当の名前だと思います」
衝撃は意外なことになかった。
心の何処かで、ノウレッジから名を聞かされたときにその推論に辿り着いている自分がいたからだ。
おそらくそういう名なのだろうと、腑に落ちている自分がいた。
ヘルドマンは、いや、ユリはもう一度ノウレッジに問いかけた。
「ならば同じ名を持つあの狂人は何なのです? 彼もまたアルテ。それが彼の名か家名かはわかりません。けれども意味もなく同じ名前であるという都合の良いことが果たしてあっていいのですか?」
やはりと言うべきか、ヘルドマンの次の関心はアルテに向かっていた。
アリアダストリスからアルテの名を教えられたときからずっと気になっていたことだ。自分と同じ髪の色をした黒い狂人。
ヘルドマンは彼が何処で生まれ、どのように成長し、どんな経緯で吸血鬼の呪いを刻まれたのか全く知らない。
だからこそ彼女はかの狂人と自分の唯一の共通点である「アルテ」の名の意味についてずっと考えてきていた。ただそれはついぞ結論がでないままで、ここまで先延ばしにしてきた事実でもある。
「——残念ながらその質問には答えられません。きっとそれは私の口から語ってはならないことでしょうから」
ノウレッジは決して目をそらさなかった。例え実力で遙か上をいく上位者であるヘルドマンに対して貫いた彼なりの誠意だった。ヘルドマンが少しでも気を悪くし、力を振るえばノウレッジはたやすくバラバラにされるだろう。けれども彼は彼なりの義を果たすべく真っ向からヘルドマンの問いに立ち向かって見せた。
ヘルドマンの赤い瞳が細められる。彼女の影が蠢き、ここ数週間で力を伸ばした権能たちが滲み出てくる。それでもノウレッジは最後までヘルドマンを見つめ続けた。
先に根負けしたのは赤い瞳だった。
「わかりました。このことについては私自身で探求させて頂きます。おそらく赤の愚者に口を割らせれば何れわかることでしょうから。ではノウレッジ、代わりに私からの願い事を一つ聞いてくれませんか?」
先ほどのノウレッジとは対称的に、ヘルドマンは小さな息を一つだけ吐き出した。そして彼女の周囲に広がりつつあった影たちを全て霧散させていく。ノウレッジは「私にできることなら」と前置きを一つだけしてヘルドマンの言葉に耳を傾けた。
「あなたが何処かで赤の愚者と繋がっていることは薄々わかっています。ですからあなたに頼みます。赤の愚者を私の目の前に呼び出して下さい。残りの聞きたいことは全てあの忌々しい吸血鬼に問おうと思います。そして願わくば私の恩讐を完遂させてみせましょう」
ノウレッジは「億が一にも勝てませんよ」と眉を歪めた。しかしながらヘルドマンの頼みを否定はしなかった。
「いいえ、勝てる勝てないではない。ここまでかの吸血鬼にコケにされているとわかった以上、私はアレに挑まねばなりません」
「あなたが自らの陣営に引き込んだキーパーソンのうち、アルテだけはここにいませんよ。彼抜きで戦うのですか?」
ノウレッジの言葉に、ヘルドマンは柔らかく笑った。
「もともと彼を手駒にするつもりだったことは事実です。でも、何ででしょう? いつからかそんな小間使いにあの人を使いたくなくなったのです。好きという感情とは少し違うんですけれど、間違いなく好感は抱いている。どことなく大切にしなければならないような気がして、いい加減、私の個人的な復讐に付き合わせるのも嫌になってきました」
それに、とヘルドマンは付け加える。
「不思議と私はね、全てが終わった後にあの人に会いたいのです。そうすれば私は一番満たされることができる。きっとあの人はぶっきらぼうにでも褒めてくれるだろうから」
01/
移動に使ったのは陸上用の騎竜に牽かせる騎竜車だった。しかも一台だけでなく、人員を運ぶために二台。物資を運ぶために三台。レイチェルの魔導人形であるゴリアテを運ぶために一台という大所帯だった。
もともと俺たちのパーティーとマリアだけで現場に向かうと考えていただけに、いざ当日になって聖教会に赴けばかなり驚いた。
「さすがは聖教会のナンバーツー。権力が何たるかがすぐにわかるな」
こら、レイチェル。本人が向かい側に座っているのにそんなことを言うんじゃありません。この御仁、見た目は愛くるしい幼女だけれども、中身は鉄塊としか言いようのないハンマーを振り回すバーサーカーですからね。いまだにシュトラウトランドで痛めつけられたのは結構なトラウマだ。ヘルドマンに並んで、絶対に勝てない一人というイメージがこびりついてしまっている。
「——使えるものはなんでも使うべきでしょう。例えそれが肉親の威光やコネであろうとね」
ちらっとマリアの方に視線を向ければつまらなさそうに窓から景色を見ているマリアがいた。彼女の目線の先には朧気な月明かりに照らされた村落と森が見える。まだ街からそう遠くまで離れていないためか、人里の気配が色濃い。でもそのうちこの地方独特の密度の濃い真っ黒な森林地帯が広がっていくのだろう。
足下に広がる街道も、聖教会の勢力内では石畳で舗装されてはいるがすぐに土のそれに切り替わるに違いない。
「今回、聖教会はあなた方の力をそれだけ頼りにしているということだ。少しでも英気を蓄えて、現場で十全の力を発揮してもらえればこの投資は決して無駄にならぬということ」
マリアの両サイドに腰掛けている二人組の内——巨漢の男がそう口を開いた。確かトンザとかそんな名前だった彼は体格に似合わない随分と理知的な眼をしている。事実、荒事専門かと思えば、マリアからはブレインとして重宝されている場面がちらちらと見えていて見た目通りの男ではない気がする。
そして反対側に座している痩せ型のちょっとした色男はユズハというらしく、彼もまたどことなく頭の回りが良さそうな雰囲気があった。ただし彼の場合はこちらとの間合いの取り方や足運びが完全に荒事に慣れている人間のそれで、自然と俺の様子を観察しているようだった。多分余計な動きを見せれば直ぐに斬ることの出来る心構えでいるのだろう。
まあ俺も、イルミやレイチェルにいらぬことをされないようにいつでも黄金剣を引き出せるような座り方はしているのだけれど。
さすがに30年も切った張ったをしていたら、ぼんくらな大学生でもそれなりにはなれるものだった。
「そういうことなら依頼の詳細を教えてくれないか? こちらにも心構えや準備というものがあるだろう」
こういうとき、口下手を極めた俺とは違って、コミュ力マックスのレイチェルがいてくれると本当に助かる。さっきマリアに噛みついて見せたのも、両サイドの従者二人に何かを喋らせるための布石だったというのは今何となくわかった。
確かにこの騎竜車に乗り込んでからマリアは殆ど口を開くことなく、俺では会話の糸口が何一つ掴めなかっただろうし。イルミも似たり寄ったりのコミュ障なのでマジで俺たちパーティーの外交担当である。
「このペースで半日ほど北に向かったところに小さな村があります。小麦の畑と狩猟で成り立っていた村です。勢力圏としてはロマリアーナが該当するでしょうか。そこの村が何かに襲撃されて焼け落ちていると、カラブリアにやってきた行商人が教えてくれたのです。我々は十人程度の調査隊を派遣したのですが、期日になっても彼らは帰ってきませんでした。次に、それなりの腕を持った実戦部隊を同じ規模送り込んだのですが、こちらも同様。そこでたまたまカラブリアまできていた私の所に話が持ってこられたというわけです。単身向かっても良かったのですが、そこの狂人が依頼を探し回っているという噂を耳にして誘ってみたのですよ」
窓の外を見たまま、淡々と答えたマリアに対してレイチェルは「それはおかしくないか?」と疑問を呈して見せた。
「あなたはアルテを吸血鬼の討伐と言って誘ったのだろう? 今の口ぶりでは吸血鬼が犯人であると確定できないのでは?」
そういえばそうだ。
現場を確認しに行った人間が誰も帰ってきていないのならば、その事件の犯人が吸血鬼である確証はどこにもないことになる。いや、まあお金が貰えるのならば最悪魔獣やその他の亜人の仕業でも全然構わないのだけれど。
「——いえ、吸血鬼ですよ。我々が討たねばならないのは間違いなくそれです。グールでも魔獣でも亜人でもない。この世界で絶対数こそ極小ですが、それがもたらす災厄は決して無視することの出来ない抗いがたい理不尽、吸血鬼がそこにいます」
随分はっきりと言い切られたものだから、俺もレイチェルも次の言葉が暫くでてこなかった。まあ俺は最初から会話には入れないままずっと黙っていたのだけれどね。
すぐに気を持ち直したレイチェルが再度問いかける。
「証拠がない割にはずいぶんなご自信だが、どうして?」
本当に凄いよレイチェルは。全く会話に参加できていない俺やイルミとは大違いだ。
今まで窓の外の景色を追うだけだったマリアが初めてこちらを見た。
「ロマリアーナにいる私の父親がタレ込んできたんですよ。あの吸血鬼は時折そうやって聖教会にとって脅威になり得る何者かをどうやってか察知して伝えてくるのです。これがまたありがた迷惑な話で、タレコミを聞いてしまった時点で無視ができなくなりますからね」
02/
「……こんなところにも扉が残されていたのか。でもどうして聖教会の、しかもただの人間であるあの男がこれの存在を知っていた?」
場所はレストリアブールの宮殿地下。数多の聖教会の人間によって厳重に警備されたその最深部に女が一人いた。
銀の長髪を揺らしながら、赤い瞳を細める彼女こそが世界の頂点たる赤い吸血鬼、アリアダストリス・A・ファンタジスタである。
「エンディミオンの地下は今ノウレッジが管理している。ロマリアーナの旧教皇庁は黄色の奴が居座っている。他の入り口は全て神に消されたと思っていたがこんな抜け道があったのか。しかもαの報告が正しければ、私自身が鍵になっている可能性がある」
いつかヘルドマンが氷の柱によってぶち抜いた天井は木の板で覆い隠されていた。そしてジョンが開け放った扉はそのまま放置されている。再調査の前にヘルドマンはエンディミオンに飛び、もともと興味が全くなかったマリアはほったらかしにして己の勢力圏に戻っていったためだ。今はただの人間であるジョンがレストリアブール臨時総督としてこの地に留まっているだけ。彼もまた、ヘルドマンやマリアの護衛なしでは扉の向こう側へ進もうと思わなかったのだろうか。
「——いや、人間の英智を舐めてはいけない。いつだってこの世界の住人は自身の手で世界を開拓してきた。歪で、醜い紛い物の世界でも生き抜いてきていたんだ。誰かがこれの存在を伝え残していても不思議ではないか」
アリアダストリスが壁の一部分に触れた。すると眼前にあった入り口のようなものが少しずつ閉じられていく。周囲の積み上げられた石たちが動き回ることでもとの壁に戻ろうとしていた。
「いい加減、もう先延ばしにはできないのか。デウス・エクス・マキナの再起動には失敗し、エンディミオンでは神の末端端末が暴走したという。準備が整うまで神を眠らせておくつもりだったが、あれは自分自身の手で目覚めようとしている」
入り口が完全に塞がって音という音が途切れる。残されたのは溜息を吐きだしているアリアダストリスの息づかいだけだった。
彼女は元来た道を戻ろうとして踵を返した。
すると不意に耳元に違和感を感じる。彼女が髪を掻き上げてみせれば、左耳にだけつけていた赤いリング状のピアスが微かに明滅していた。それは離れた場所にいる人間と会話をするための魔導具である。
そして相手は勝手知ったるノウレッジその人だった。
「どうした。緊急か。もうエンディミオンにあった端末はないはずだ。いい加減、あなたはそこを離れてもいいんだぞ」
一息でそう言い切ってみせたアルテミスに対して向こう側にいるノウレッジは「別件ですよ」と、小さく笑っていた。
『私はここが随分と気に入っていますからもう暫くは離れませんよ。それよか直ぐさまあなたに伝えなければならないことができたのでこうしてめったに使わない直通の魔導具を使わせて頂きました。もう回りくどい説明は嫌なので単刀直入に言いますね。——黒の愚者が自分の名を取り戻しました。私が教えたためです。そして彼女は私にあなたを呼び出せと要求してきた。あなたを討ち取ってから全てを聞き出すみたいですよ』
しばらく。
アリアダストリスは身動き一つしなかった。彼女は目を見開いたままその場に立ち尽くしていた。
数秒間、呼吸すら止まっている。
だが不意に息を吐き出したか、と思えば静かに「そうか」と嘆息してみせた。
「伝えたということはあなたが良いと判断したからなのだろう。だが私はあの子をこちら側の戦力にはカウントしていない。あくまで一生、仇敵でいるつもりだ。だからこそ、あの子が私を超えられなければそれまで。そしてあの子は絶対に私には勝てない」
『……相変わらずその頑固さだけは健在ですか。私も、前の黒の愚者もユリには真実を伝えるべきだとずっと主張してきました。あの子は間違いなくあなたに並び立つ存在になれる。あなたが突き放していればその時は一生訪れませんよ。それにあなたも迷っているのでしょう? わざわざ管理者たる愚者たちの心臓を食べさせているのも、来たるべき時に助けてくれるという願望があるからでは?』
ノウレッジの言葉にアリアダストリスは「違うよそれは」と首を横に振った。
「それはあの子が生き残るためだ。あの子は純粋な吸血鬼ではなく、しかも本来あってはならない生まれの子だ。もし神が目覚めてこの世界が書き換えられるのだとしたら、間違いなく一番先に消されてしまう。その時に少しでも自分自身で抗えるよう、私が与えたのではない、世界そのものを操るための力を受け継がせているんだ。決して私の手駒にするためではない」
アリアダストリスの否定の言葉に、ノウレッジは「それは違いますよ」と食い下がった。
『あなたはユリの成長を待っていただけだ。あなたが彼女から様々なものを取り上げて二十年余経ったが、あれから彼女は随分と成長している。あなたの中であの子は十歳の小さな存在だったかもしれないが、そこから二十年、もう立派な大人だ。過保護はいい加減に辞めて現実と向き合うときでしょう』
彼女は何も答えなかった。
ただ、「少しだけ時間をくれ」と告げてノウレッジからの通話を切る。一人地下遺跡に取り残された彼女は見えないはずの月を見上げた。
「まさかこの年になって全うに説教されるとは。まあ何も言い返せはしないか。全て独断と独尊だけでやってきたんだ。全く、彼をこの世界に引きずり込んだ時から、私という存在は随分と人間くさくなってしまったのだな」
徐にアリアダストリスの手がその腹部に伸びる。そして2、3度そこを少しだけ撫でた。
「……本当に、戻れるのならばあの頃に戻りたいよ。アルテ、私には見えない狂った人。君は今、どこで何をしているのだろうな。君が英雄になってくれるのがこれほど待ち遠しいとは」
呟きは砂に乾燥した石の壁に吸い込まれて消えていった。
タイトルで少しずつネタバレしていくスタイル。
 




