第91話 「有田 百合」
多分黒の愚者編は他の愚者編よりも短い構成になります。でもその分、密度は濃いかも。
#VG91
速度、精度、圧力、その全てにおいて未熟さが垣間見える一撃がクリスを貫く道理などなかった。
黒い槍を身の翻しでかわした彼女は、一気に人影に詰め寄った。そしてそのまま体当たりするように押し倒し、人体で最も強靭な筋肉がまとわり付いている太ももで人影の細い体躯を締め上げた。空いた両の手はそのまま相手のそれを握り掴む。
濃密な血の匂いがクリスの鼻腔を刺激した。
「——やはり女か。しかも子どもだ」
互いの視線がぶつかりあう。見下ろすクリスのそれは至極落ち着いていたが、見上げる赤い瞳——少女のそれは溢れんばかりの殺意に満ちていた。少女はかすれた声で、血の混じった声色で言葉を絞り出す。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる」
ただその言葉がクリスに向けられたものでないことにはすぐ気がつくことができた。少女はこちらを見ているようで見ていない。確実にここにはいない誰かに対して殺意を抱いていることは明白であった。それくらいの分別がつかなければ吸血鬼殺しのようなやくざな稼業は成り立たない。
「もう大丈夫だ。ここにあなたを傷つける存在はいない。だからそのむき出しの牙を収めてくれないか?」
返答はない。ただ言葉がなかっただけで、リアクションは返ってきた。それは追加で打ち出された黒い槍だ。今更ながらその槍が少女の血に塗れた影から打ち出されていることに気がつく。見たこともない異能にクリスは目を剥くが、あえてその槍を己の体で受け止めて見せた。
鮮血が少女に降り注ぐも、クリスは急所は貫かれていないと落ち着いて言葉を重ねる。
「大丈夫だ。私は君を害さない」
腹に突き刺さった槍は常人ならば間違いなく致命傷だろう。だが彼女は吸血鬼の呪いからくる生命力と回復力がある。流血をほったらかしにしなければ死ぬことはない。
しかしながらそのカラクリに少女は気がついていないのだろう。赤い目を白黒させながら、腹が貫かれたままこちらを見下ろす女を見て息を飲む。
だがすぐに視線を鋭く細めると、絞り出すように、唸るように口を開いた。
「——うそつき。あいつらはそういって私たちを殺そうとしたわ。父さんも、母さんもそうやって殺された。母さんは死体も残らないくらいにバラバラにされたし、父さんのそれもどこかに持ってかれたわ」
なんとなく、あの引き摺り跡はこの少女が父親を運ぼうとした痕跡であることに思い至った。だからこそ「持ってかれた」という言葉にクリスは反応する。
「持ってかれた? 誰に?」
確かに森の入り口で見つけたあの引き摺り跡はいつの間にかなくなっている。てっきり藪に紛れたものだと思っていものが、もっと手前でなくなっているのだ。ということはつまり少女は父親の死体をここからそう遠くは離れていない所で誰かに奪われたということになる。おそらくその誰かこそが此度の悲劇の下手人だろう。
「お前には、絶対に、教えない」
悪寒がした。何故ならば今ここにいない誰かに対して殺意を飛ばしていた少女の瞳が間違いなくこちらを見ていたからだ。彼女の憎悪がクリスに向けられたと感じたからこそ、クリスはとっさに少女から飛び降りる。そしてその判断は間違っていない。
少女を中心に打ち出された無数の槍は、間違いなく回復する猶予も与えぬままクリスを挽肉の塊に変えていただろう。
これは少しばかり面倒なことになったと、彼女は腰元から吊るしていた禁呪の武装——ネクロノミコンを手に取る。
痛めつけるつもりは毛頭ないが、話し合えるまでには頭を冷やさせる必要があると判断した。
「お前も大好きな父さんと母さんを殺した奴らの一人なんでしょう? 生き残った私を殺しに来たんでしょう? なら殺して見なさいよ。あの人たちのところに送ってみなさいよ。精一杯抗ってズタズタにしてやるから」
蠢く黒い槍はどこか蜘蛛の脚にも似た悍ましさを有していて、クリスは冷や汗を落とした。
01/
結論から言えば、クリスは勝利した。
忌まわしく感じていた声の力を暴力的に奮って少女を圧倒した。
確かに少女は年齢にそぐわない恐るべき力を有してはいたが、戦闘経験などまるでないのか、ただ黒い槍を打ち出してくるだけでクリスを倒すには至らなかった。
魔の力を完全に切らし、意識を手放して倒れた少女をクリスは担ぎ上げる。
聞きたいことは何も聞くことはできなかったが、このまま放っておく選択肢などなく取り敢えずは聖教会に連れ帰ろうと歩みを進めた。
よくよく観察してみれば少女はほとんど無傷で、彼女が纏っていた赤い血は全く別の誰かのものだった。きっと少女が告げた父親のそれなのだろう。死体が持ち去られたと少女は訴えていたが、何の目的で持ち出されたのかはてんで見当がつかないし、おそらくこの子も何も知らないのだろうとあたりをつけていた。
なれば今現在優先するべきことは少女の保護のみである。
そしてその行動が彼女のこれからを大きく決定付ける転機となった。
運命が動き出したのはクリスが聖教会に少女を連れ帰ってからおよそ数年後のことである。
クリスの中では少女は数多く存在している災禍の被害者という扱いで、正直言って聖教会の支部に引き渡してからしばらくはその存在のことを忘れていた。
確かに異能のことは気にはなってはいたが、たまにそのような存在が吸血鬼の呪い以外にも存在していることは知っていたので、そういうものなのだろうと深く考えていなかったのもある。
またそれ以上に、この頃のクリスは酷く無感情的で相変わらず自身を聖教会の備品くらいにしか考えていなかったこともあり、少女の境遇へ思いを馳せることなどついぞなかったのだ。
だからこそ——、
「あなたが各地を転々としているものだから随分と見つけるのに手間取りました。あいも変わらずつまらない仕事をつまらなさそうにしているのですね」
ある日、城塞都市グランディアの聖教会支部に呼び出されたかと思えば、ある女に開口一番そんなことを言われた。赤い瞳に白い肌、黒い濡れ髪を背中まで伸ばした壮絶に美しい女である。しかしながらまだまだ歳若く、成人しているかどうか微妙なラインでもあった。
はて、こんな知り合いがいたかとクリスが思い巡らしていたら彼女にいきなり距離を詰められる。
「ジョンから聞きました。あなた、自身の魂を削り取りながらあの本の武装を使っているそうですね。いい加減そんな馬鹿なことはやめなさい。そしてそんな武装なしで構いませんから私に仕えなさい」
滅多に感情を見せないクリスが困惑した。全く心当たりのない人物からいきなり上から目線の説教を受けたのだから至極当然のことである。どうしたものか、と思案すれば女についてこい、と手を引かれる。
「ここの練兵場は随分と広いですから、あなたと再戦するには丁度いいですね」
まさか、と訝しんで見れば本当に練兵場につれていかれてしまった。そしていつのまに調達してきたのか、グランディアの聖教会に預けていたネクロノミコンを投げ渡される。しかもそれはクリスの見間違いでなければ女の影から取り出されていた。
「この本を少しばかり解析させてもらいました。太陽の時代の技術を複製したものらしいですね。使用者の精神と魂を代償に、その者の力を増幅させる。——こんなものがなくともあなたはそれなりにできる人でしょうに」
いよいよクリスは困惑を深めた。ネクロノミコンの性能については聖教会の一部の上位者しか知らない秘匿事項である。しかもそれを自由に持ち出しができる人間など、それこそトップクラスの幹部にしかできえない芸当だ。
それはつまり、盗み出したものでないのならば眼前の女が聖教会の上層部であることの証左になってしまう。
「もう随分と前のことですけれど、私は貴方に完膚なきまでに敗北を喫しました。ただの世界を知らない小娘だった私は村を救いに来てくれたあなたに無礼を働き、復讐の対象すら見誤っていた。だからこそ恩返しという訳ではないですけれども、あなたをこんなつまらない毎日から解放して見せますよ」
影が槍の形に変化していく。ここにきて初めて、クリスは眼前の女がいつか拾い上げた少女が成長した姿なのだと理解することができた。だが不可解な点がないわけではない。なぜならば眼前で練られている魔の力の総量はあまりにも膨大で、世界の支配者たる愚者のそれと異色なくなっていたからだ。
「ある協力者の助言を元に、この数年間、ひたすら魔獣を殺し続けたんです。そして彼らの魔の力を蓄えていった。私みたいな存在はそれで力を増やしたり、取り戻したりすることができるんですって。——ねえ、そういえばあの日あなたから受けた問いにまだ応えていませんでしたね。私の母を殺し、父の亡骸すら奪い取っていった下手人の名を伝えていませんでした」
女が嗤った。それだけで世界の圧力が数段増したかのような錯覚を覚える。
「赤の愚者、それが私から全てを奪っていった者の名前です。私は近いうちにその者へ父と母の仇を討とうと考えています。かの吸血鬼に、父と母の顔も名前も、記憶の全てが奪われたままですから」
それから女はつらつらとあの日の事の顛末を語った。おそらく自分はあの村で家族と共に幸せに暮らしていた。しかしながら突然やってきた赤の愚者——この世界の頂点たる吸血鬼が村の住人ごと全てを焼き尽くしていき、彼女の両親をも手に掛けた。何とか肉体が残っていた父親の死体を持ち出そうとした彼女は、森の途中で赤の愚者に捕捉され父親の死体と両親に関する全ての記憶を奪われてしまったのだという。
赤の愚者の目的は何一つとしてわからないままだが、自分を愛してくれていたであろう両親のことをを思うとその仇を討たないわけにはいかないという。
クリスは女のことを狂っていると感じた。
いくら理不尽に家族を奪われたからといって、あの赤の愚者に刃向かおうとしているなど常人の思考ではないと感じたのだ。
この世界にありふれている抗えない理不尽に晒されたからこそ、壊れてしまったのだと断じた。
だからこそクリスはネクロノミコンを開く。たとえ女が何かしらの方法で愚者に匹敵しそうな魔の力を有していたとしても、ここで尻尾を巻いて逃げ出す選択肢など有ろう筈もなかった。
ただ愚直に聖教会の命令を遂行してきたからこそ、この女の勘違いは正してやらねばならないと考えたのだ。
女はクリスがネクロノミコンに魔の力を流し込み始めたのをみて、ますます喜色を深めた。
「そうやって私の我が儘に付き合ってくれる姿勢、好きですよ」
槍がクリスに殺到する。クリスが口を開く。
練兵場の中心で、二つの魔の力がぶつかり合った。
02/
結果から言えばクリスは敗北した。
完敗だった。クリスの技能の全てが潰され、何をしてもその上を行かれ、まるで遊ばれているかのように敗北した。
膝も両手も地に着くクリスの眼前に女が立つ。彼女はクリスの傍らに落ちている、魔の力が込められ活性化していたネクロノミコンを拾い上げると、それに向かって黒い影を伸ばした。
「——これはしばらくの間没収ですね。次に使うときは私の許可があるときだけにして下さいね」
女が何かをしたのだろう。活性は強制的に不活性にさせられネクロノミコンが沈黙する。物言わぬそれをクリスに返した女は、俯く彼女の顎を摘まみ上げて視線を注ぎ込んだ。
「あの日私を拾い上げたシスター。私の僕になりなさい。そしてそんな人形みたいな人生を辞めてしまいなさい。私についてくればあなたを退屈させないと約束してみせる。それが私の——何もかも失った私なりのあなたへの恩返しです」
恩返しと言われて、クリスは最初意味がわからなかった。この傲慢不遜な女に恩を売るようなことなど何一つした覚えがないから。けれども女は、「大恩ですよ、」と小さく微笑む。
「記憶も力も家族も何もかも全てを失い、森で衰弱していくのを待つばかりだった私を救ったのは間違いなくあなたです。あの頃の私は弱く、恩を返すことが出来なかった。けれども今は見て下さい」
女が魔の力を世界に吐き出していく。薄々感づいてはいたが、彼女の魔の力は可視化されており、質・量ともに卓越したそれだった。そしてこの世界でそんな大層な力を持つものは総じてこう呼ばれえる。
「黒の愚者、ブラック・ウィドウ。ある御仁から継承させて頂きました。私は今この瞬間からその名を名乗ります。赤の愚者を殺すため——そしてあなたに報いるために私が手に入れた力です。この力を持って、あなたを聖教会のくだらない備品から愚者に付き従う剣としての人生を与えましょう」
クリスはまだ女に恩を売ったという実感を得ることはできない。しかしながら彼女のその貴人のような振る舞いに惹かれつつあることも実感していた。ここまでくればこの女との最初の出会いなど最早どうでも良く、ただお前の人生を変えてやると豪語する存在がただただ眩しかった。
それまでの人生に対する不満はない。吸血鬼に殺し損なわれた存在だからこそそういう生き方しか出来ないのだと考えていた。
けれども愚者を名乗りだした文字通りの「愚か者」がその生き方を否定してきたとき、人生に対する考え方が明確に変化していくのもまた事実であった。
まだ忠誠はない。
また信頼もない。
あるのは何となく面白そうだ、という初めて抱いた希望だけ。
だがそれで十分だった。もともと空っぽだったクリスの器にはそれだけで満ち足りていた。
「——クリスです。クリス・E・テトラボルト。この家名だけが、私が吸血鬼に呪われる前から持ち続けているたった一つの財産です。それを君に、いやあなたに預けます。ですから私をもっとその気にさせて下さい。忠誠を誓わせて下さい、信頼させて下さい、希望を持ち続けさせて下さい」
女がクリスの手を取って立ち上がらせる。そしてそのまま優しく膝をつかせた。それはまるで、貴人が己が騎士に忠誠を誓わせるときの光景を思わせる仕草。
「ユーリッヒ・ヘルドマン。これは私の本当の名ではありません。黒の愚者の地位を継承させて頂いた御仁から授けられました。ですがこれが今あなたに伝えうる唯一の名でもあります。大丈夫、さっきも言いました。あなたを退屈させることなどありえない」
03/
——ということがありまして。
エンディミオンにほど近い小島の地下遺跡。太陽の時代の遺構に囲まれながら、ノウレッジとヘルドマンは小さな卓を囲んでいた。卓にはいつのまに持ち込んでいたのか、ノウレッジ特製のコーヒーメーカーが置かれている。
「成る程。一度私のもとから離れたと思えば、そうやって聖教会に潜り込んでいたわけですか。でもよくクリスさんを見つけられましたね。あなたの教えてくれたことが事実ならば、割と彼女は聖教会にとって秘匿事項だったのでは? いくら先代黒の愚者の威光があったとしても、あなただっていきなり教会の上層部というわけにもいかなかったでしょうし」
ボコボコと沸き立つ黒い液体に視線を向けながらヘルドマンが口を開く。
「まあ、最初は完全に部外者でしたしね。慮外のものと言えば良いのでしょうか。ですが彼らの目の上のたんこぶになっていた者達をいくらかぶち殺してあげればあっさりと受け入れてくれましたよ。何せ聖職者たちの癖に実利には敏感な俗物たちですから」
「本来の意味での神に仕える僕ではありませんから仕方ないですよ。あれは人々が世界に跋扈する怪物から身を守るための共助のための機関です。崇められている神は所詮は便宜上のもの」
沸騰した黒い液体をノウレッジがカップに注いだ。何処か赤みを帯びた黒い液体は不思議と良い香りがしている。初めて見るそれに対してヘルドマンは少しばかりの警戒心を見せていた。
「でも今の話で少し気になることがあります。私が知っているあなたは成人してから赤の愚者に挑み、記憶を奪われた筈です。ですが、ここまでの口ぶりでは幼い頃に一度赤の愚者に襲われ記憶を奪われた、と聞こえたのですけれど矛盾はしていないのでしょうか?」
ノウレッジからカップを受け取りながら、ヘルドマンは視線だけを先に返した。相も変わらず血のように昏く輝く赤い瞳である。
そして数秒の沈黙の後に、ヘルドマンは口を開いた。
「——最初に奪われたのは両親に関する記憶の一切だけでした。その時点ではまだ力もあったし、私自身に対する記憶はまだあったのです。ですが、始めに保護してくれたあなたたちと別れ、聖教会に潜り込むよりも少し前に私は赤の愚者に復讐を一度だけ挑みました。その時に力と私自身に関する記憶の一切を失ったのです。不思議なことに、あなたたちやクリスのことは覚えていましたが」
そういうことか、と先にコーヒーに口をつけながらノウレッジは嘆息した。
てっきり幼いヘルドマンが両親について語らないのは、人に話したくないからだと深入りしていなかったのだが、そもそもその人物たちに関連する記憶を出会ったときからまるっきり失っていたとは思ってもいなかったのである。
「ん? ということは幼いあなたから聞き出した名前をあなたは覚えていないと言うことになりますよね? てっきり先代黒の愚者から継承した名を気に入ったから名乗り続けていると思っていましたが、そもそもそれ以外に名乗りようがないということに?」
ノウレッジの言葉を受けてヘルドマンは固まった。これまで赤の愚者憎しの為に動き続け、請える助力は請うてきた彼女だが、ただ前に進むだけで歩みを振り返ることのなかったツケが溜まっていたことに気がついていなかったのだ。確かに2度記憶を奪われているのならば、1度目の時点の自身を知っている人間を問い詰めればあっさりと取り戻すことの出来る記憶もあることを失念していた。
完全な凡ミスである。両親に対する思いがあまりにも大きすぎて自分自身に関することをそこまで深く追求してこなかったことも災いした。
「んー、でもこれは教えて良いものなのか……。いや、まあ良いのか。多分事故のようなものなのだろうし」
余りの衝撃から放心したまま手渡されたコーヒーに口をつけるヘルドマンを尻目に、ノウレッジがブツブツと頭を捻った。けれどもすぐに結論は定まったようで、猫舌を発揮しコーヒーを殆ど飲み切れていない彼女に対してあっさりと口を開く。
「ユリですよ。あなたの名は。家名は残念ながらあなたが教えてくれなかったので存じ上げませんが」
その瞬間、ヘルドマンの中で何かが繋がりだした感覚があった。




