第8話 「プロポーズ/死刑判決」
ヘルドマンは俺をベッドの上に座らせて、その向かい側に自分も腰掛けた。
そして持参してきたカードゲーム……もとの世界で言うようなトランプのようなものを広げて見せた。
「この遊びに心得は?」
「嗜む程度には」
気が付けば馬鹿正直に答えていた。
ヘルドマンが部屋に訪れてからすでに数分が経過している。最初に「責任を」と宣言したきり、彼女はその話題には触れてこない。
何を考えているのか全く読めないヘルドマンの行動に俺はただただ困惑していた。
「賭けをしましょう。あなたはこれから七つの手番で私に投了します。もしも外れたら私に好きな願い事を言って貰っても構いません」
そう言ってヘルドマンは自分と俺にカードを配り始める。
彼女が始めようとしているゲームは所謂二人用大富豪のようなものだ。手札にあるカードがある組み合わせになった瞬間、負けが確定する。
この世界では割とポピュラーな遊びだが、ここでヘルドマンが俺と遊ぶ意味がわからなかった。
特に賭けの内容が理解できない。
これはつまりそういうことか?
俺がこの賭けに勝てば先の不貞を許して貰えるのだろうか。
見たところ、ヘルドマンが試験の事故を恨んでいるようには見えない。確かにあの時は困惑しただろうが、この人物は七色の愚者と呼ばれる吸血鬼だ。
そんな些細なことを後生まで引き摺るわけでもないだろう。
「では始めましょうか」
思考の海に埋没していたらヘルドマンがカードを捨て始めていた。それを見て俺は反射的に手札を切る。
こちらが乗ってきたことが嬉しかったのか、ヘルドマンは上機嫌にカードを切った。
「……あなたは私が吸血鬼だから、あのような真似をしたのですか」
そして上機嫌のまま問うてきた。
余りにも自然だったから、一瞬言葉を失った。や、もともと饒舌に話せる身体ではなかったけれども。
切ろうとしたカードが中空をさまよう。
「わからない」
さまよったカードがベッドの上に落ちた。言葉も同じように口から零れた。
何も考えずに話したら、たった一言だけ話すことが出来た。
なんだ、「わからない」って。
どうして胸を揉んだのか、と聞かれて「わからない」ってなんだ。
ここは不可抗力だったとか、無我夢中だったとか、柔らかかった、とか、ご馳走様でした、とかとにかくヘルドマンに対する釈明を話すべきではないのか。
正しく心情を伝えることが出来ない呪いが、本当の意味で呪いになりそうだった。
ヘルドマンは何も話さずカードを捨てた。次に俺がカードを捨てたら手番としては六つ目。つまり次のヘルドマンの一手で賭けの結果が実を結ぶ。
彼女はすでに宣言している。七つ目で詰み、だと。
俺は半信半疑のままカードを二枚捨てた。
「ふむ」
ベッドに詰まれたカードを見て、ヘルドマンが考え込むような仕草を取る。実はヘルドマンの宣言が気になって、俺はイカサマをした。
本来ならば捨てられる筈のカードを敢えて一枚捨てなかったのだ。
戦略的には有り得ない悪手。
イカサマとは言っても厳密にはルール違反にならないような、そんな手だった。
ヘルドマンが手札からカードを手に取った。
俺の眼前にそれが突き出される。
「成る程、そうきましたか。やはりあなたは聡明ですね。勝利条件を履き違えていない。
このゲームにおけるあなたの勝利条件は私に勝つことではありません。私の予言をどうにかしてかわすことです」
ゆっくりとカードがひっくり返された。
「ですが、あなたのイカサマ込みの予言ならば、……あなたが私にしたように、それすら罠だったらどうしますか」
にやり、とヘルドマンが嗤ったような気がした。
試験前にも感じた、嫌な笑みだった。
最後のカードが捨てられる。
俺はそれを見て静かに手札を伏せた。投了の合図である。
予言は的中した。
七つ目の手番で俺はいわゆる詰みの状態に追い詰められた。
言葉は何も出て来なかった。
「私が勝利した場合の条件を提示していませんでしたね。まあ、あなたと同じ、相手の願い事を叶えること、でよろしいですか?」
あらかじめそう決めていたのだろう。ヘルドマンは臆面もなくすらすらとそう言ってのけた。
俺はただ黙って頷くしかない。彼女に今ここで刃向かうということは決して賢明なことではないのだ。
願い事とはなんなのだろうか。
やはりあれか。責任を取れとかそういうことなのだろうか。
金なら今までの討伐で稼いだものが幾分か。謝罪ならば五体投地で答えよう。こちらの命を差し出さなければならないのなら……イルミを回収して全力でここから逃げだそう。
そんなことをつらつらと考えていたらベッドの上に広げられたカードを踏み越えて、ヘルドマンがこちらに身を乗り出してきた。
鼻腔を女性独特の甘い香りがくすぐる。
彼女の陶器のような白い手がこちらの頬に触れた。
彼女は俺と鼻頭が触れるか触れないか、の距離で口を開いた。
「狂人アルテ、私から提示する願いはただ一つ。七色の愚者の第一階層、スカーレットナイトを殺してください」
その瞬間、止まってしまったのは俺とヘルドマン、どちらの時だったのだろうか。
気まずさとはまた違う、互いに言葉を失う不思議な感覚と時間が、ただただ過ぎていった。
気が付いたら眠っていた。
ヘルドマンとの賭けに負け、彼女の願い事を一つ叶える羽目になってからの記憶がない。
思えば試験からずっと不眠不休だったから、疲れが溜まっていたのかもしれなかった。
硬直して気だるさの残る筋肉をほぐしながら、ベッドから起き上がる。すると俺の膝の上に頭を乗せるようにしてイルミが眠っていることに気が付いた。
思わず彼女の艶やかな銀髪を撫でてしまう。
ヘルドマンは既に部屋から消えていた。部屋に備え付けられたテーブルの上に食事が二人分置いてある。
どうやらヘルドマンが退室した後、イルミが食事を持って帰ってきてくれたのだろう。
なんだかんだいって優しい娘なのかもしれない。
彼女が影に飼っている二匹の狼は滅茶苦茶怖いけれど。
「ん、」
眠っているイルミのあたまを撫でること数分、彼女の深紅色の瞳が薄ぼんやりと開かれた。
まだ覚醒しきっていないのか、虚ろな視線のままだらりと寝転がっている。
だがやがて自身の頭が俺の膝の上にあることに気が付くと、水を掛けられた猫のように飛び上がった。
転がり落ちるようにベッドから降りていったイルミは、俺から少し距離を取ったところに待避していった。
「えと、おはよう?」
目が完全に覚めた瞬間、こうやって逃げられたことは地味にショックだったが、出来るだけ表情には出さないようにする。
まあ、もともと表情の変化には乏しい身体なんだけれども、気持ちだけ。
「……うん、おはよ。もう傷は痛くない?」
恐る恐るといった調子で近づいてきたイルミが服の上から俺の身体をまさぐった。
包帯に巻かれた傷はもう殆どふさがっていて、完全回復とまではいかないものの、それでも随分と良くなっていた。
これも吸血鬼ハンターとしての肉体を手に入れたことによる恩得である。吸血鬼の呪いを刻まれた身体はそれだけ死ににくく、頑丈だ。
「この調子なら三日ほどで出発できるな。明日はクリスに頼んで旅の用意をしてもらうか」
ブルーブリザード用に用意していた魔導具のいくつかは対ヘルドマン戦に使用してしまっていた。最悪手に入らなくても仕方がないが、出来うる限りこの街で補充したい。
しかしながら出歩きが著しく制限されている身では、まだ理解のあるクリスに頼むしか方法がなかった。
ん? イルミに頼めばいい?
無理無理。
彼女の機嫌を損ねることだけはどうしても避けたい。だってほら、今もこうして微妙な距離を取られてるし。
「そう。じゃあご飯食べて」
ずいっ、とテーブルの上に置かれていた食事のトレーを渡される。
俺がそれを受け取ると、最早用事はないと言わんばかりに彼女は部屋から出て行った。
またしても一人になってしまった。
「……やっぱ嫌われてるのかもしれない」
それからしばらく一人でのんびりしていると、今度はクリスが部屋を訪れて来た。
来客の実に多い一日である。
「元気そうだな。その様子だと」
思い出せば試験中、俺はクリスに思いっきり殴られていた。
ヘルドマンの胸を揉みしだいたから、仕方のないといえば仕方がないのだけれど何処か気まずい。
よくよく考えればこんな彼女に買い出しを頼もうとしていたなんて、図々しいにも程があった。
「ヘルドマン様とは和解したらしいな。彼女から聞いたよ。だから私から言うことは何もない」
ぽすっ、と果物が詰められた籠が膝の上に置かれる。
見舞いとして持ってきてくれたようだ。
ヘルドマンとの件は、和解といって良いのか少しばかり微妙なところだが、ヘルドマン自身がそう吹聴してくれているのなら、おとなしくそれに従っておこう。
「しかしまあ、驚いたよ。いくら能力が制限されているとはいえ、あのヘルドマン様に勝ったのだから。五年前からただ者ではないと感じていたが、まさかここまでとは思わなかった」
籠からリンゴのような果物を一つ取り、彼女は持参したナイフで器用に皮をむき始めた。
しゃりしゃりとした小気味良い音が耳に届く。
「おまえなら、やれるかもしれんな」
何が、と聞けるほど俺は空気の読めない男ではなかった。
今まで出会ってきた殆どの人物が、七色の愚者の討伐に対して否定的な立場を取っていた。
だが俺がイレギュラーとはいえ、ヘルドマンを下したことが再評価につながっているのだろう。
今回のことでブルーブリザードの討伐がし易くなったのもまた事実だ。
「ヘルドマン様から指令が出た。お前と私に一つずつだ。お前はもちろんブルーブリザードの討伐。そして私はお前について行ってそのサポートだ」
綺麗に皮がむかれたリンゴが手渡される。皿のような気の利いたものは用意されていなかった。
そのことに内心苦笑しつつも、黙ってリンゴに齧り付く。
「お前は嫌がるだろうから、先に私から宣誓しておこう。お前が命じれば私はブルーブリザードに一切手出しをしない。ただ、奴の取り巻きの雑魚共を集中して狩ろう」
嫌がるなどとんでもない。
クリスの実力は何度か仕事を共にしたからわかっている。
彼女の声に魔力を乗せ、事象を発現する能力は非常に強力だ。それ以外にも、純粋なハンターとしての実力も高い。
ブルーブリザードの討伐でパーティーを組んで貰えるのなら、これほど有り難いことはなかった。
だが悲しいかな。この身体はそういった喜びを素直に外界へ伝えることが出来ないので、口をついて出てきた言葉はとても無粋なものだった。
「好きにすればいい」
俺のあほー。
ただ曖昧に苦笑するクリスの表情を、直視することなんてとてもじゃないが出来なかった。
「狂人アルテ、私から提示する願いはただ一つ。七色の愚者の第一階層、スカーレットナイトを殺してください」
声は予想以上に響いた。
互いの沈黙の中、私の心臓だけがはち切れんばかりに鼓動を刻んでいる。
こうして覗き込むアルテという男はおよそ狂人らしくない、どこにでもいる青年そのものだった。
実年齢は五十を超えていると聞くが、それでも私には遠く及ばない、取るに足らない一人の人間だ。
だが何故だろう。
こうして見つめ合っていると、恐怖以外の感情が鼓動を乱れさしていることに気が付く。
恐れでは決してない、そう……何処か恋にも似たようなもどかしい感情が私の内面を支配していく。
たぶん、私はもう戻れない。
スカーレットナイトに刻まれた傷と同じ傷をこの青年から刻まれた。
今身体で感じる、この青年の熱が私を焼いたのだ。
だから私は青年に請う。
私を悪夢として縛り続けるあの女をなかったことにするために、私の記憶から、身体から、あの女の全てを消し去ってくれるように。
殺して、あの女に刻まれた私の傷をあなたが上書きして。
声として、思いは伝わらなかった。
けれど行動としては伝えようとした。
アルテの手を取り、己の左胸に押しつける。彼から受けた傷を、彼に押しつける。
そして、震える唇で告知。
「お慕いしますわ。我が君よ」
クリスも去って行った。
また一人になった。
今頃になってようやっと、ヘルドマンとのやりとりを思い出した。
うはっ、胸揉んだら告白されたったwwwww
え、だってそういうことだよね?
お慕いしますって、好きってことだよね。
これって、あれか。ヘルドマンの貞操観念は元の世界でもほぼ絶滅していた大和撫子のそれと同レベルなのか。
たぶん、あれだ。
胸を揉まれた。もうお嫁に行けません。だからあなたが貰ってください、とかそういう感じなのだろうか。
けれど、彼女は七色の愚者の一柱という立場がある。
いわば滅茶苦茶強い吸血鬼の有名人だ。
その理屈を押し通すには俺の地位やら名声やらが圧倒的に足りてない。
なら、七色の愚者を嫁に出来るくらいの地位や名声とは何か?
それがヘルドマンよりも上の階層、すなわち第一階層の「スカーレットナイト」討伐なのだろう。
……え? 無理ゲーじゃね。これ。
この世界に来て数十年。
吸血鬼ハンターとして全力で生きることによって、強靱な身体と強靱な戦闘力は手に入れた。
だが第七階層の「ブルーブリザード」ならまだしも、第一階層の「スカーレットナイト」を相手取るならまた話は別だ。
彼女の噂は少しばかり聞いてはいるが、完全に別格だ。
だって、歩いただけで地形が変わったとか、話しただけで万を超える生き物が絶命したとか、天災以上の話しか伝わってきていない。
もちろん誇張が大部分を占めているだろうが、ほかの愚者たちはそんな話、一つも聞いたことがないのだ。
ということはつまり、スカーレットナイトだけ異次元の強さを保持していると考えられる。
実際、残りの愚者の殆ど全てがスカーレットナイトに対しては純粋な恐怖を抱いていると主張する輩も多いのだ。
まさにラスボス。
さすがにそんな相手に挑んで無事に済むと思えるほど自惚れてはいない。
だからヘルドマンの提示してきた条件はハードモードを通り越してナイトメアモードだ。
無理ゲーと嘆いて何が悪い。
ん? もしかすると最初からヘルドマンは、俺がスカーレットナイトに勝てないことを考えに織り込んでいるのだろうか。
となると、あの台詞の意味は完全に様変わりする。
「お慕いしておりますわ。だから死ね」
あばばばばば。
一時の幸福の代価は予想以上に、高くついてしまった。