第87話 「卒業」
ちょっと短いですけれど、キリが良いので。
アルテミスを中心に白い光が幾つか放射状に広がった。黄金剣を抜き去ったアルテは慌てて彼女から飛び退き距離を置く。
ヘルドマンから聞かされていた禁術でもある崩壊の術式の効果はてきめんだった。
アルテミスが触れている部位から巨人の肉体が分子状に分解されていく。それはいつしかクリスが行使した声による術にも似ていて、対象を完全に消失させる凶悪極まりないものであった。
地に着地したアルテが慌てて走り去っていく。
そしてその様子を、崩壊の中心からアルテミスは——ヘルドマンは見ていた。まだ彼女の五体は残されている。だがフォーマルハウトの肉体が消滅したのと同時、自身が内側から崩れていく感覚を味わっていた。
——ああ、これが死か。これだけの虚ろな感覚、赤の愚者に敗北したとき以来か。
遂に四肢が崩れ始めても彼女は冷静だった。冷静に、自己の死を眺めていた。狂人が注ぎ込んでいった太陽の毒が体内を駆けずり回り、ノウレッジに刻まれた術式が活性化していく。ただそこには恐怖はなく、この作戦が成功するか否かだけを気に掛けていた。
お……さん! お……うさん!
何処かで声が聞こえる。ヘルドマンは臨死体験の際に聞くという幻聴だと考えた。徐々に薄れゆく意識の中で何の気まぐれか幻聴に耳を傾ける。
死な……いで! もうすぐお……さんがたす……来てくれるから!
声は泣いていた。その感じからそれは年端もいかない少女のものだと理解した。姿は見えなくともすぐ目の前にその存在があるかのような感覚。
私がちゃんとできなかったから、私が馬鹿だから、ごめんなさい、ごめんなさい!
誰に謝罪しているのかはわからない。そもそも何に謝罪しているのかもわからない。でもそれは他人事じゃないような気がしていて、ヘルドマンはどうしても無視をすることが出来なかった。
どうして助けてくれないの……お母さん……
視界が溶けた。それがアルテミスの肉体としての終わりだと理解したその時、ヘルドマンは自身の元々の身体へと引き戻されていく。
気がつけば彼女はアルテを送り込んだ地下遺跡の入り口に佇んでいた。空を見上げればアルテと二人で駆け抜けてきた青白い夜空が見える。
不気味なほどの静寂が世界を支配していた。
01/
文字通り、フォーマルハウトは消滅していた。その巨人が存在していた証は、超高熱に焼き尽くされた地下遺跡の残骸たちのみ。2・3度、巨人が瞬いたと思えばその姿形はアルテミスごと世界から消え失せていた。
フォーマルハウトから距離を取っていたアルテは作戦が成功したことを確認し、彼にしては珍しい安堵の息を吐いていた。3度殺した神の化け物は、今こうしてようやく完全に消滅させるまでに至ったのだ。
「あ、あああああああああ」
何かが、ゆっくりと這いずっている。砕かれた脚を痛々しく再生させながら、二本の血の帯を大地に刻みながら彼女は前へと進んでいた。彼女が目指すのは巨人が消失したその場所。
アルテミスが燃え尽きていったその地点に。
やがて脚の再生が追いついた彼女はよたよたとその場所に立った。
「ねえ、出てきなさいよ。もうそういうのはいいから。私の命令を無視したことも許してあげる。だから顔を見せなさい」
声が地下遺跡に反響していた。誰も言葉を発することができない中、彼女だけはたった一人の眷属を探して言葉を発し続ける。
「ねえ、もう耐えられないと言ったわよね。私はあんたの命を何度も助けたのよ。それを無駄遣いしてもいいなんて一言も言っていないわ。今ならまだ許してあげるから早く顔を見せてよ」
ティアナの手が焼けた土を掴んだ。指と指の間から零れ落ちていくそれはただの黒い砂塵。そこにアルテミスの残滓はなく、彼女が完全に焼け落ちていったことを意味するのみ。
「——そう。死んだのね。私との約束を反故にして、先に死んだのか」
焼けた地面が凍った。もう生命維持に必要な分の魔の力しか残されていないはずなのに、彼女の立つ大地が凍てつき始めている。
「残念だけれどもあんたの仇は取ってやらないわ。だって眷属だもの。私が気まぐれで作った従者。私は主人だからあんたの死に感傷を得るなんてみっともない真似はしないから」
不穏なものを感じたイルミが腕を構えた。ただアルテはそれを腕で制した。手出しはするな、そう視線で投げかけられては、イルミは引き下がるほかない。
「でもね、でもね。これだけは言わせて」
ティアナの氷のような瞳がアルテを見た。彼女の目尻から零れ落ちる水は、冷気に当てられて直ぐに氷の粒へと変わり果てていく。
「私、絶対にこの男を殺してやる」
瞬間、アルテの黄金剣とティアナの爪が衝突した。氷によって形成された鋭利な爪と、全てを切り裂いてきた剣の刃がぶつかり火花を散らす。
最早何故動けるのかわからないほど満身創痍であるはずなのに、アルテを確実に後退させる怪力でティアナは彼に挑んだ。
「私はお前が生きていることが許せない! 私の主人を灼き、私の眷属を焼き殺したあんたを許せない!」
互いの視線が、殆ど顔が触れあう距離で交錯する。憎悪に染まったティアナの表情はアルテが初めて見るものだった。
「殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺してやる!」
何もない空中から氷の槍が打ち出される。それらを黄金剣でいなしながらアルテは何とか距離を取ろうとしていた。だがティアナは再生した脚が再び裂けていくのも構わずに追いすがっていく。
彼女から吹き出した血液はそばから凍り付いていき、赤い結晶を周囲に振りまいていた。
腕を振るう度、前へ進む度、叫びを上げる度に世界は赤く満たされていく。
——そしてそれから数合、互いに打ち合って。
「……なんで、どうして死なないのよ。あんたみたいな奴が生き残って、どうしてあの子が死ななくてはならないのよ」
不意にティアナが崩れ落ちた。完全に魔の力を使い果たし、身体を動かすことすら困難になっている。だが例え地に倒れ伏していようと、眼光だけはアルテを射貫いていた。
「お願いよ、もっと動いて。まだやれる筈なのに、まだこいつは死んでいないのに」
弱々しく伸ばされた手から冷気がアルテに伸びていく。しかしながらそれは彼のつま先からほんの少しのところで止まり、そこまでの地面を凍らせるだけだった。瀕死のティアナは突きつけられた現実に対して絶望を抱く。
「——アルテミスはお前に感謝していた」
ティアナの身体が強ばる。よりによって仇敵の狂人からアルテミスの最期の言葉を聞かされたが故に、もう何がなんだかわからなくなっていた。そしてもうそれ以上口を開かないでと、懇願にも似た感情で表情を歪ませる。
だがアルテは言葉を続けた。
「言い訳はしない。彼女を殺したのは俺だ。お前を慕っていた、眷属のアルテミスは俺が殺した」
もう、ティアナは戦えなかった。
狂人の口から「殺した」と告げられたその瞬間、アルテミスの死が確定したような錯覚を覚えた。
この世界の何処を探しても、馬鹿で脳天気でお人好しな、たった一人の血を分けた眷属がいないことを悟ってしまった。
「うわああああああああああああああああん!! うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
凍る間もなく涙がこぼれ落ちていく。焼けた大地にいくつもの染みが生まれる。大声で、口を限界まで開き、天を仰ぎ見た彼女は赤子のように泣き叫んだ。もう意味のある言葉は出てこない。ただ自身の孤独に押し潰されそうで、今まで背負ってきたものに押し潰されそうで、怖くて悲しくて涙が止まらない。
アルテが剣を腰帯に収めた。イルミも戦いが終わったことを知り、臨戦態勢を解除する。
これ以上、かけるべき言葉は無いと二人はティアナに背を向けた。
地下遺跡はいつまでも、独りぼっちになった蒼い少女の泣き声が響き渡っていた。
02/
「良いのですか。言い訳くらいしてもバチはあたりませんよ」
遺跡の入り口で俺はヘルドマンにそんなことを言われた。多分、地獄耳な彼女のことだから遺跡内のやり取りも把握しているのだろう。俺はイルミが少し俺から離れた時を見計らって彼女に答えた。
「あの子を騙し続けたのは俺だ。これでさらに俺のことを恨んでくれればそれでいい」
「なりふり構わなくなって、イルミやレイチェルが狙われるかもしれませんよ」
ヘルドマンのそれは多分忠告だったのだろう。彼女の親切心から出てきた言葉だ。
確かに俺とアルテミスが同一人物で、アルテミスが死んだのも作戦の内だったとティアナに告げる選択肢がなかったわけではない。しかしながら青の愚者の仇が俺である以上、ティアナにいらぬ葛藤はさせたくなかった。彼女に仇敵と手を取り合っていたという残酷な事実を突きつける気にはならなかった。
ただ俺一人が恨まれて終わりならば、それで良かったのだ。
——それに、
「彼女はそんな卑怯な真似はしない。蒼く気高き氷の女王だから。いつかきっと、俺だけを殺しに来る」
ヘルドマンはそれ以上何も言わなかった。納得したのかしなかったのかはわからないが、直ぐに何かしらの思案顔になり遺跡から離れていく俺たちの後ろについてくる。
イルミは先に地上に出て俺たちのことを待っていた。
彼女は振り返りながら小さく微笑んだ。
「おかえりなさい、アルテ」
03/
それから先の話をしようと思う。
まず始めに、イルミはエンディミオンを卒業することになった。
理由は至極単純。フォーマルハウトの半身を焼き尽くすだけの術式を手に入れた人間が卒業できなければ、誰一人として卒業することができなくなるからである。
しかも全員が避難するまで時間を稼いだという立派な功績もある。これでエンディミオンに拘束される特待生という立場から解放されたわけだ。
細かな手続きはいろいろと残されているものの、大きく成長して学院を巣立っていくことになった。
続いてアルテミスだが、彼女は殉職という形で処理された。生徒を守るため地下遺跡に残り奮闘した勇士として称えられたのである。
地下遺跡で発見されたフォーマルハウトと相打ちになった形だ。身を挺して生徒を守り抜いたと、追悼の式が行われることになっている。
ついでフォーマルハウト。あれは太陽の時代の遺物として、そして暴走したそれはノウレッジの術式とアルテミスの決死の突撃で消滅したことになった。姿形は完全に消失したが、地下遺跡の惨状と消えたアルテミスが存在の証拠となっている。事実、巨人そのものの目撃者は大勢いたのでエンディミオン側がそれをあっさりと認めた形だ。
で、最後に俺だけれども、ノウレッジの厚意でアルテミスの執務室に脚を踏み入れることを許されていた。
「久しぶりだな、ここは」
「——ここにあるものは基本的にどれでも持ち出して頂いても結構ですよ。何せ、あなたのものですから」
「主様、ノウレッジ様、お茶がはいりました。この身体で奉仕できるのも今この時までですので、精一杯尽くさせて頂きます」
義手ちゃんが入れてくれた紅茶の入ったティーカップを持ち、二人でテーブルを挟む。彼女がこのメイドボディを使うのも今日が最後だ。もうじきクリスが回収に来るだろう。
「さてあれからのことですが、ティアナさんは暫く僕の方で保護させて頂きます。心が壊れた訳ではありませんが、酷く憔悴しきっていますので。——好かれていたんですね、あなた」
さて、どうなのだろうか。
いや自惚れでなければ結構優しくしてもらっていた気がする。同性というのもあったかもしれないが、彼女は文句を言いながらも面倒を見てくれていた。
そして俺もきっとそんな彼女とのやり取りを楽しんでいた。
「だからこそあなたは真実を告げない。まあ、それも良いと思います。あなたという怨敵がいるお陰で何とか心を保っているような状態ですから。——ただ一つだけ聞かせてください。あなたに再び彼女が挑んだ時、あなたはどう彼女を受け止めますか? それだけはどうしてもあなたの口から聞いておきたい」
紫の愚者ではなく、俺の勝手知ったるノウレッジがそこにいた。生徒を導く師として生きてきた賢者としての彼だ。
不思議とアルテミスの身体を使っていたときのように、呪いの影響を受けることなく俺は声を発することができた。
「——正直わからない。でも、イルミやレイチェルに危害を加えない限り何度でも相手になる。そして俺の口からアルテミスの正体を語ることは未来永劫ない。終わりのない怨恨だろうが、逃げはしない」
多分それが、ティアナに対する俺の贖罪だ。彼女を騙してきた以上、最後まで騙しきるのが俺の義務だとも思う。
「……承知しました。辛い旅路でしょうがあなたなら何とかしてくれそうですね。ところであなた、黒の愚者から聞いたのですが赤の愚者を倒そうとされているとか。そしてその過程で他の愚者を討って回っているみたいですね。——私の心臓に興味はおありでしょうか?」
茶目っ気をもってノウレッジは笑っていた。本当に、何処までも愚者らしくない愚者だと感じる。
何となく、ここまでの距離感で付き合うことの出来た人間はこの世界で初めてではないだろうか。吸血鬼だけれども。
「あくまで目標は赤の愚者一人だ。まあ、それもヘルドマンの依頼がなければ夢にも思わなかった夢物語だろうが」
これはもう少し上手く言えた気がする。どうせなら、世話になったあなたにそんなことはできないと言えば良かった。だがノウレッジは気を悪くした風もなく、「そうですか」と笑顔を見せた。
「では最後に、此度の神もどきとの戦い、本当に有り難うございました。どこの記録にも残されない我々だけが知る戦いですが、あなたの勇気と武勇は紛れもなく本物でしたよ」
そして彼は礼にと、ある魔導具を手渡してきた。紫陽花色の宝石が埋め込まれたペンダントだった。数々の魔導具を生み出してきた彼をもってして、これ以上のものは中々ないものだという。
「一度だけ致死に至るあなたへの害をなかったことにするものです。この世界のテクスチャそのものを書き換える——平たく言えば因果律すらねじ曲げるものですから取り扱いには気をつけてください。これが私からの気持ちです」
ペンダントは早々に首から下げた。αに貰った赤い指輪にヘルドマンから貰った黒い指輪、そして紫の愚者からのペンダントととんでもない贈り物が増えてきた気がする。だがこれも、この世界で生まれた縁がもたらしてくれたものだと考えると、何とも感慨深いものがある。
「ならばノウレッジ、これをティアナに渡しておいてくれないか。アルテミスの身体を使っていたときのものだ」
お返しというわけではないが、おれは執務室の机の引き出しを漁った。そして見つけたのは、いつかの洞窟の中でティアナと共に暖を取るときに使ったライター代わりの火石。たぶん、全てが消滅してしまったアルテミスとティアナを繋いでくれる唯一のアイテムだ。
「約束しましょう。今はまだ彼女が受け取るには重たすぎるものですが、時が来れば必ず」
やり取りはそこまでだった。俺は手ぶらのまま立ち上がり、執務室に置かれていた他のものには一切手をつけないままに扉に向かう。何故ならここにあるものはアルテミスのもので、アルテのものではないからだ。
そして、
「ではお元気で、ノウレッジ先生」
「ええ、さようなら。アルテミス先生」
同僚としての最後の挨拶を終えて、俺たちは別れた。
こうしてアルテミスとしての人生は取り敢えず区切りをつけたのである。
次回は本章のエピローグになります。生徒たちの反応はたぶんそこで。
 




