第81話 「マハリ ユワレ」
お待たせです。
それからの行程に何かしら特筆すべきものはなにもない。
こなれてきた魔獣の処理を続け、適宜休息を取り、時にはノウレッジとのんびりと語り合っていたら、彼の言うところの目的地にたどり着いていた。
そこは鋼鉄のフェンスで覆われた、だだっ広い平地だった。
「太陽の時代の要塞ですよ。今でこそ荒れ果てた平地ですが、当時はここに太陽の時代の民の叡智が注ぎ込まれていたのです。もう死した遺跡ですが、くれぐれも遺物には触れないでください。どのような効能があるのかまるでわかっていないものだらけですから。おそらく私の一生を捧げても解析しきることはないでしょうね」
ノウレッジの言葉を背に受けながら、俺はフェンスを眼前に呆然と立ち尽くす。
――もう言い訳ができないところまできてしまったのかもしれない。
俺の視線はフェンスからぶら下がる板きれに固定されていた。アルミのような軽い金属でできたそれに降り積もった埃を拭い去ると、赤い塗料で刻まれた文字が確認できる。
ああ、これは俺が知っているものだ。いくら不勉強な学生だったとはいえこれくらいは読める。理解ができる。
『警告・空軍基地に無断で立ち入ることを禁ずる』
果たして俺の下手くそな英語はノウレッジに通じていなかった。たぶん彼からしたら突然訳のわからない言葉の羅列をつぶやいたように聞こえたのだろう。
だがそんなことに気を遣っていられないくらいには、俺は思考のすべてを掻き乱されて何も行動を取ることができなくなっていた。
可能性はずいぶん昔から考えていた。
世界に点在するヒントたちが教えてくれていた。
月の民が語る太陽の時代とは一体何なのか、と考える度にその結論にたどり着いていた。
猿に支配された惑星に迷い込んだ主人公が目の当たりにした現実を笑うことができなかった。
どうせなら自由の女神やエッフェル塔を見て気がつきたかった。
間違いない。
ここは、この世界は。
――遙か時の彼方にある地球だ。
01/
いくら未来と言ってもフェンスはフェンスでしかなく、ヘルドマンの権能を行使すればあっさりとそれらを両断することができた。
鋭利な切断面に触れないよう、ノウレッジと共にフェンスの向こう側に足を踏み入れる。
大層な警告文とは裏腹に、あっさりと俺たちはその敷地内へと進んでいた。
これならば月の民たちが行使する結界やなんやらの方が遙かに強靱だろう。
「行きましょう。向こうの建物です」
ついこの間、ノウレッジが語った世界の防御機構。それがこの先にあるらしい。
彼が言うには防御機構は世界の創造神が作成したらしいが、俺が生きていたよりも未来の世界では神がいたのだろうか。
科学で支配され尽くされた世界を生きていた俺としては、正直神の存在など信じ切ることができない。
ただ、俺の科学的な知識が一切通じない不思議であふれている今の世界だ。もしかしたら未来の地球は何らかの要因でファンタジーが現実になってしまったのかもしれない。それこそ異世界からの侵略を受けたのだ、とか宇宙人がやってきて地球を乗っ取られたのだ、とか。
「ありました。ここですよ」
たどり着いたのは平べったい、だだっ広い建物。前の世界の知識から類推すると航空機の駐機庫だろうか。だがそこにあるはずの機材の残骸等は一切なく、天井からつるされた大型の照明たちは物言わぬ骸と化している。
足を進める度に、降り積もった塵たちに足跡が刻まれていった。
「アルテさん、あなたの説明が正しければその仮初めの体は黒の愚者の魔の力を媒介に稼働しているのですよね」
ノウレッジの問いに是と返す。
この体は愚者クラスの魔の力がなければ動かせない特注品だ。保有量、質、ともにあり得ないものを要求される。
「ならここの床の文様に触れていただけませんか。私は魔の力をほとんど封印に回してしまっているので、駄目なんですよ」
ノウレッジが言うには、ここから先に必要とされる鍵は愚者の魔の力らしい。
視線を彼の足下へと移せば、小さな円の中にびっしりと何かしらの文様が刻まれているのが確認できた。
いつか俺がマリアに刻まれそうになった隷属の刻印をさらに複雑にした感じだ。いわゆる魔方陣と呼ばれるものか。
近代的な建屋の中にあって、その存在だけが随分と浮いてしまっているように見える。
「さあ、どうぞ」
促されるままに文様の中心に触れた。
変化は劇的だった。それが黒く光り輝いたかと思えば、自分たちが立っていた床面が小刻みに振動を始めたのだ。
「ノウレッジ先生、これは?」
焦って彼に問いかけてみれば、落ち着いた調子で「大丈夫ですよ」と苦笑されてしまった。
「開くんですよ。入り口が」
周囲の壁が視界の上方へとせり上がっていく。
否。
壁ではなく地面が動いていた。地面が下へ下へ、少しずつ降りて行っているのだ。言うなれば建屋全体の大きさのある化け物みたいなエレベーターか。
「――以前、私が調査研究に訪れたときと同じようで安心しました」
やがて床の振動が止んだ。そして眼前には巨大な通路が出現していた。建屋の地下を横に掘り進めているトンネルのようだ。ちょうど、大型のトラックが対向できるくらいの大きさである。
かつん、かつんと二人分のブーツが音を鳴らす。反響の具合からトンネルはそう長くはないように感じた。
「お疲れ様です。ここが最終目的地ですよ」
景色が開ける。そこは巨大な縦穴だった。地下鉄工事のための縦穴と形容すればいいのだろうか。何やら意味不明の構造物で埋め尽くされた不可思議な穴だ。
そして穴の中心に、小さなビルほどの大きさの円柱がそびえている。
「あの塔の袂に我々の探しているものがあります」
ノウレッジに連れられて塔へと足を進める。意味不明の構造物だと思っていたものたちは、近づいてみればケーブルのようなものがたくさん繋がれた機械類だった。
とは言っても用途などなるでわからないが。
「――おそらく驚くなという方が無理だとは思いますが、決して取り乱さぬよう願います」
塔の根元にたどり着けば、ノウレッジが何かしらのハンドルを回した。途中まで人力で回していたそれはいつの間にか勝手に回転を始めている。そしてハンドルの動きに連動して、塔の外壁の一部が観音開きに開き始めていた。鈍い金属音とともに開いていくそれの隙間からは青白い光が漏れ出ている。
「これが、この世界の調和を保たんとする神の一部です。今は眠りについていますが、あと一人愚者が死ねば目を覚ますことでしょう」
防御機構と聞かされて、怪物と聞かされて、俺は得体の知れない化け物を想像していた。
だがそれは大きな間違いだった。
これは、こいつはそれらとは大きく違った生き物。
「――ノウレッジ先生、これ」
「もしかしたらあなたはご存じかもしれませんね。おそらくあなたが考えている推論は正解です」
俺はこいつを知っている。
それなりに前から知っている。
レストリアブールで死闘を繰り広げ、一度殺されかけたりもした。
ヘルドマンのスカートの中から殺して見せたのが、つい昨日のことのように感じられる。
そう。塔の外壁の向こう。水晶のような青白い壁の向こうに眠っていたのは、かつて何度も殺し合ったβやαと同じ顔をした存在だった。
「赤の愚者が使役する眷属たちはおそらくこれを模したのでしょう。ですがこいつは、あれとは比べものになりませんよ。私の魔の力のすべてを持ってしても眠らせるのがやっとなのですから」
神々しい、というよりも禍々しい存在だった。一糸まとわず眠り続けるそれはまるで死体のよう。だが内に渦巻いている魔の力の強大さは隠し切れておらず、世界の秩序を保つための防御機構という言葉が虚言でないことを知ることができる。
呼吸することも忘れたまま、俺はそれに見入っていた。
「――これを破壊するためには太陽の力を注ぎ込む必要があります。これを構成している物質は吸血鬼のそれと酷似していますから、同じモノが弱点というわけです。今あなたの体はアルテミスのものですから、本体が到着するまで今しばらく待ちましょうか」
どうやら今回はお披露目だけのようだ。ノウレッジの言うとおり、今の体は太陽の力とやらを行使することはできない。あくまでこれは魔導人形で人を限りなく模したまがい物だからだ。随分と操作にこなれてきた肉体だが、根本が違う以上致し方のないことである。
そんなことをつらつらと考えていたら、ノウレッジが外壁を再び操作した。
逆再生のように扉が閉じていく。だが地面はせり上がることなく、そのままだった。彼曰く、このまま野営地を設置してしまうとのこと。
薄い扉一つ隔てた向こう側にあれがあるのは正直薄気味悪いことではあるが、ここは我慢するほかないということか。
「さて、ささやかながら宴を催しましょうか。実は少しですがお酒を持ってきたのです。ですが、今日は裸踊りだけはしないでくださいね」
遠慮がちに唱えられたノウレッジの提案に頷き返しながら、俺は背負っていた背嚢を地面に下ろす。休めるときに休むことこそ大事なことだから。
01/
多分その時、彼女が目を醒ましたのは本能的なものだった。
愚者クラスの強大な魔の力がほんの一瞬だけ、エンディミオン周辺を駆け巡る。
常人ならば知覚することが困難な世界の変化を、彼女は確実に感じ取っていた。
木陰で身体を休めていた彼女——ティアナ・アルカナハートが立ち上がる。地下洞窟で変な女に出会ってからいく暫く。彼女はまだエンディミオンの周辺に滞在していた。
理由はもちろん魔獣たちを食らって力を蓄えるためである。
「——紫の愚者が行動を起こした? いや、それにしては魔の力が雑すぎる。一体何が」
彼女の瞳は真っ直ぐエンディミオンの方角を見据えていた。
己の感覚が正しければ、力の根源はエンディミオンの中心から感じられたのである。
「そういえば、あの馬鹿な女もエンディミオンから来たと言っていたっけ」
地下洞窟で生み出した初めての眷属。弱っちいくせに、馬鹿なくせに色々と首を突っ込んでくる間抜けな女。
あれから無事に森から出ることは適ったのだろうか。
最低限の食料を上手いこと使うことができたのだろうか。
——案外、取るに足らない魔獣に襲われて骸を晒しているのかもしれない。
無意識の間に吐き出されていたのは小さな溜息。いつの間にか指先はガリガリと後頭部を掻きむしっていた。
ティアナはもう一度エンディミオンの方角を見据えると、一拍、呼吸を止めた。
ふらり、と世界がブレる。
魔の力の行使は刹那の時だった。
ティアナの姿は幻のように忽然と姿を消しており、人の気配はもう何処にもない。
ただ鳥のさえずり声だけが木漏れ日を満たしている。
この世界で彼女だけが持ちうる外法が、彼女を世界から隠した。
行き先はもちろん、魔の力が震えたエンディミオン。
二代目青の愚者——ティアナ・アルカナハート。
自身が先代を大きく凌ぐ存在になったことに気がつくこともなく、ただ先代の無念を討ち果たさんと生き続けるヴァンパイア。
ただ、ここに来て初めて。
復讐以外の動機で自身の行き先を決定した。
ほんの気まぐれの小さな変化。
本人の意識の範疇には決してない齟齬。
けれどもそれが、彼女の運命を大きく変える最初の一歩だったのは間違いない。
02/
ノウレッジが用意した焚き火がパチパチと揺れている。彼は周囲の建造物を見て回ってくると言い残して小一時間ほど前から姿を眩ましていた。俺は地面に簡易の寝袋を敷いてその上で寝っ転がっている。特に何かをするわけでもなく、ただぼんやりと時が過ぎるのを待つだけだ。
ただ、この世界に来て培われた直感のようなものだけは正確に働いていた。
何か来る、と本能が教えてくれる。無意識のうちに動いていた手は、枕元の剣を握りしめていた。何度も生死の境を彷徨ってきたからこそ培われた能力は、こういう時に役に立つ。
「——へえ、私がここに来るのわかっていたんだ」
いつの間にかそこにあった影。
気がつけば顕現していた蒼色の吸血鬼。いつか感じた冷気はそこになく、愉快げに目を細める美貌だけが存在していた。
——予期せぬ来客に、俺は言葉を完全に失ってしまう。
「でもその間抜け面だけはいただけないわ。私の眷属である以上、もう少し気を引き締めなさい。ここ、良くない場所だから」
良くない場所。
それが防御機構の存在のことを指しているのだとしたら、彼女の直感の方が俺よりも数倍上手に違いない。事実、存在を知らされていなくとも、ティアナの瞳は真っ直ぐ俺の背後、女が収められていた柱を視ていた。
「ま、でもあんたもそれを理解してここにきてるんでしょ。大方、紫の愚者に誘われてのこのことついてきた感じかしら?」
驚いた。
まさかこの少女が紫の愚者が誰であるのかを知っているとは。命の恩人とは言え、俺は静かに警戒の度合いを上げていく。重心を少し下げ、握りしめた剣の鞘に指を滑らす。
「……馬鹿な真似は辞めなさい。あんたがその剣を抜くよりも先に、私は確実にあんたを殺せるわ。ほら」
視界からティアナが消えた。移動した気配は一切ない。いや、それどころか人が移動したときに感じることの出来る空気の流れすら知覚できなかった。
そして声は耳元後ろから。
「ね。今一回死んだわよ。あなた」
氷の刃が首筋に突き立てられていた。刃の触れたところから滲んだ血が流れ落ちていく。否、流れ落ちた側から凍り付いてシャーベットのようになっていた。
冗談抜きでこのままだと血管まで凍らされて死にかねない。
ここは大人しく剣を手放すことにした。
前々から感じていたことだが、この少女強すぎません?
「素直でよろしい。格の違いを理解できる生き物は長生きするわ。——さて、突然で申し訳ないけれども少しばかり血をよこしなさい。何度も転移を繰り返したお陰で魔の力が足りないのよ」
密着するように脅しを掛けていたティアナが、すっと身体を離していく。同時に体中を覆っていた冷気の類いは霧散していた。
ところで今、この子なんて言った? 転移? え? それってどこかで見たような?
「世界の何処へでも跳べる、あの人から頂いた素晴らしい能力だけれども、いかんせん魔の力を使いすぎるのよね」
あの人からもらった? それはつまり吸血鬼の呪いということ? というかあの人って多分、ティアナの冷気を操るという能力から考えるに——?
「光栄に思いなさい。あなたは二代目とは言え、青の愚者の初めての眷属よ。私に血を献上する栄誉、噛みしめなさいな」
まさかの仇敵の忘れ形見である。しかもこの子、ちょっと前に復讐とかなんとか言ってたよね。多分それって青の愚者と殺しあった俺のことだよね。そっか、あいつ逃げたあとに死んだのか。
そういえばこの子、雰囲気こそは随分と変わっているけれども、青の愚者と一緒に転移した女の子の面影があるじゃん。なんで今まで気がつかなかったの俺。
本当、今が仮初めの体で良かった。本当の肉体を使っても正直勝てる気がしないし。
青の愚者の能力+転移とかチートやん。
「グズグズしないで早く寄越しなさい。殺すわよ」
しかもナチュラルに物騒なことを仰ってくれる。あなた少し俺に厳しすぎやしませんかね。
まあ逆立ちしても勝てっこないので、言うとおりにはするけれども。
「ん、相変わらず魔の力は気持ち悪いくらい上質ね。よく私以外の吸血鬼に襲われない人生を歩めたものだわ」
前回と違って、血の補給は首筋ではなく指先から行われた。ナイフで斬りつけた指をティアナが吸う形だ。
この仮初めの肉体に宿っている魔の力はヘルドマン由来のものなので、上質なのは至極当たり前のことである。
それがティアナの能力を強化する可能性は大いにあるが、今はそんな辛い現実から目を背けることにする。
「よし、7割方といった所かしら。良い子ね。褒めてあげる」
ちろり、と小さな舌が名残惜しそうに指先を舐めた。
俺を殺そうとしている存在相手に何をしているんだ、と叫びたくなる。が、ティアナはそんな俺の葛藤をよそにふと視線を俺の背後に向けていた。
「あら、ようやく帰ってきたのね。ごちそうさま。あなたの同僚の血はもう既に頂いたわよ」
まさか、と思って振り返ればそこにはノウレッジ先生——紫の愚者が立っていた。彼は困り果てた表情で頬を掻きながら言葉を漏らす。
「できれば私とあなたが知り合いであることはあまり口外したくないんですけどね。アルテミス先生は信用のおける方ですが、誰が聞き耳を立てているかわかりませんよ」
「こいつは私の眷属よ。呪いを刻んだ言わば所有物」
「それはついこの間、あなたから聞かされたので知っていますよ。ですが前にも説明したとおり、吸血鬼の呪いは特に拘束力はありません。アルテミス先生はいくらでもあなたに抗おうと思えば抗えますから、主従関係だと侮っていると足下を掬われますよ」
めがっさ頭が痛くなってきたんだけれども。何これ。ティアナとノウレッジ先生は知り合いだったということか?
俺を挟んでなされる旧知のようなやり取りは尚も続く。
「でもこいつの命を救ったのは私よ。流石に頓馬のお前でも誰に恩を返さなければならないかくらいわかっているわよね」
「恩というよりか恐喝に近いですけどね。あなた、なまじ強くなりすぎて周囲に与える威圧感に鈍くなっていませんか?」
二人のやり取りに割って入るには多大な勇気を要したが、放っておいたらいつまでも続きそうだったので、俺は意を決して口を開いた。でもやっぱり怖いからノウレッジに対して。
「あの、ノウレッジ先生。この少女とは知り合いだったのですか?」
「ええ、何を隠そう魔の力を枯渇させて死にかけていたところを助けたのはフィールドワーク中の私ですから。そこから魔獣相手から魔の力をドレインする術を伝えたのも私です」
ホーリーシット。唯一の仲の良い同僚が俺の仇敵を助けていたとは。いや、まあこの少女は何にも悪くないんだけれども。
「まあその点については感謝しているわ。お陰様で様にはなってきたから。でもまだあの人の二代目を語るには力が足りていない。何より狂人を殺すにはもっと力が必要よ」
俺は多分、久方ぶりに殺意の籠もった目を誰かに向けていたと思う。
ただそれを正面から受け取ったノウレッジは涼しい顔をして無視をしてくれた。お前、そういうのをダブルスタンダードっていうんだぞ。そういうのよくないんだぞ、本当に。これでティアナに正体ばれて殺されそうになったら真っ先にお前を何とかしてやるからな。
——今思い出した。もう一日程度経てば俺の元の肉体がここに到着するんだけれども。早いところティアナには何処かに行って貰わないとマジで殺し合いが始まるのだけれども。
「ところでティアナさん。今まで自己鍛錬にしか興味のなかったあなたが何故ここに? まさかアルテミス先生の様子でも見に来たのですか? 彼女はすっかり呪いが定着して元気ですよ」
「馬鹿ね。そんなもの露程も興味はないわ。私はここを中心に世界に広がった魔の力の揺らぎを感じて、その正体を探りに来たの。愚者クラスのそれが広がっていたわ。あなたたちは何も感じなかったの?」
吐き捨てるように紡がれたティアナの言葉。
それを聞いた俺はなんのこっちゃさっぱりと、沈黙を貫いていたが、ノウレッジだけがぽつりと声を漏らした。
「——なんですって」
初めて耳にした、彼の絶望の言葉だった。
03/
からん、と乾いた音がしたのでヘインは視線を隣に走らせた。
意外とどんくさいところもあるイルミが木炭を落としたと思ったのだ。
果たしてヘインの予想は正解で、彼の足下まで木炭の棒が転がってきていた。
彼はそれを拾い上げると、慇懃無礼な態度で「拾ってやったぞ、感謝しろ」と宣う。
が、返答は一向に来ず、訝しんだヘインが顔を上げれば、木炭を手放したイルミは頭を押さえてその場に蹲っていた。
「おえっ」
続いて足下に広がったのはイルミの口からこぼれ落ちた吐瀉物。
ヘインはそれに嫌悪感を示すよりも先に、弾かれたようにイルミに駆け寄っていた。一瞬、二頭のオオカミの姿が頭をよぎったが、彼の足を止めるまでには至らない。
「おいっ! しっかりしろ! 具合が悪いのか!?」
イルミは答えない。
だが目尻に涙を浮かべながら浮ついたように言葉を漏らした。
「——来る。あの人が。赤の愚者がやってくる」
04/
同刻。
アルテ——いや、アルテミスの顔は真っ赤に彩られていた。
彼女は頬を伝っていく赤い液体が、ノウレッジから吹き出たものであることに数秒気がつかない。
ゆっくりと崩れ落ちていく彼の背後から、何かがこちらを視ていた。
いつの間にか開いている柱の封印。
見えようによっては銀色に見える光を纏ったそれは、黒い何かを握りしめている。
黒い何かは見間違えでなければ、アルテミスが少し前から胸元に隠しているいわゆる拳銃というものに酷似していた。
拳銃からは煙が上がっていて、弾丸が放たれた後であることを知ることができる。
「つ! ぼんやりするな!」
ノウレッジを貫通した弾丸は小さな氷の盾に受け止められていた。それがなければ纏めてアルテミスも胸を穿たれていただろう。
ティアナの咄嗟の行動が、アルテミスを救っていた。さらにティアナはアルテミスの襟首を引っ掴むと、その場から思いっきり飛び退く。
銃声と、氷の盾が砕ける音が断続的に響いた。
「嘘でしょ!? 何あれ! あんな小さいのになんて威力!」
アルテミスを抱えたまま、ティアナは盾を断続的に展開する。だがそれらの全ては弾丸を受け止めた瞬間に溶解を始め、盾としての力を瞬く間に消失させていた。アルテミスはようやく剣を抜くと、ティアナの拘束を抜け出して正体不明の何かに斬りかかる。
「——まじか」
ヘルドマンの権能を間借りした全てを切り裂く黒い刃が防がれていた。しかも防いだそれは、アルテミスの——いや、アルテの知識が正しければアサルトライフルと呼ばれる長物の銃火器だった。堅いレシーバー部分に黒い刃が少しだけ食い込んでいる。だがそれ以上、進むことも引くことも出来ない。
さらに——、
「うぇ!」
眼前にライフルの銃口が出現する。突如として現れた殺意の筒から逃れるよう、身体を反らしてみればその真上を弾丸が通過していった。
「まさかこいつ、銃器を——」
その場で出現させている、とは続けなかった。何故なら再び背後からティアナに抱きかかえられたアルテミスは言葉を吐き出すよりも先に世界から消失させられていたからだ。
理由は至極明快。ティアナが回復した魔の力を使って世界を跳んだのだ。
数瞬、静寂が訪れる。
後に残されたのは瀕死のノウレッジと、銀の光を纏った何かだけ。
「——とっくの昔に目覚めていたというわけですか。やはりお前は、どこまでも底意地の悪い駄神だ。小細工ばかり弄する臆病者ですね」
言葉を発する度に胸に空いた穴から血液が噴き出していく。
ノウレッジは荒い息を零しつつも、しっかりと何かを見据えた。
何かは銀色の光を一時的に収束させその姿を現した。まさしくそれは柱の中で眠っていた女その人だった。
「いや、青の愚者に異変が起きたことがたった今確定したからこそ目が覚めた。ここではない別の場所に青の愚者の反応を感じていたが、先ほどの娘——彼女からそれと同じものを感じたのだ。同一の愚者が世界に二人存在するなどあり得ない。ならばどちらかは偽物で、それはすなわち世界の危機となる」
女の言葉をノウレッジは嘲笑する。
「何が世界の危機ですか。たとえどちらかが偽物であろうと世界は相変わりなく回っていますよ。そんなんだから、この世界の創造主のくせに赤の愚者に裏切られるんですよ」
ノウレッジの嘲りに女は無感情な瞳を向けた。
「彼女は最初から味方ではないし、彼女だけがこの世界で自由意志を持ちうる存在だ。だからこそ彼女の行いに私は関心がない。ただ私は決められたルールに従って偽物の愚者を修正するだけだ。——偽りの身体で活動を続けているお前はもう死ぬ。ならあとはあの青の愚者を語る娘のみ」
「腹立たしいくらい傲慢なやつだ。なら私の本体があなたの妨害をしても文句は言わないでくださいね」
「無論構わない。いくらでも足搔けば良い。私は偽物を修正する、それ以外に今、関心がない」
一歩、前に進む女に対してノウレッジは「だから駄神なんですよ」と嘯く。
そして愉快げに笑った。
「あなたはね、自身の創作物に対して寛容が過ぎる。取るに足らない存在だと、我々の勝手を許してしまう節がある。あなたのルールに触れなければ良いと視界にすらいれない性格がある。だからこそ、今ここにあるセンサーまがいのあなたは本体と切り離されていることに気がつかない。そして、私の最後の足掻きを見逃してしまう」
ノウレッジが己の手を心臓のある胸に突き刺した。赤い血肉に塗れたそれが引き戻されたとき、そこに握られていたのはカーキ色の箱状のもの。
「——太陽の時代のありったけの爆薬ですよ。この空軍基地に残されていた遺物たちです。それが今、我々のこの足下に埋まっている」
ここにきてはじめて、女が表情を変化させた。目を見開き、驚愕に顔を歪めている。
「爆ぜろ、太陽の時代の残りカス」
 




