第7話 「責任取って貰おうか(暗黒微笑)」
身に纏っていた筈の魔の力が正体不明の蒸気によって霧散したとき、ヘルドマンは言いようのない不安に襲われた。
絶対強者として君臨し、諸事情から力の九割を封印された今でも、彼女は他者を蹂躙する立場にあり続けていた。
それがアルテという、稀代の狂人を相手取ったとき、ヘルドマンは恐怖や不安といった、およそ戦いに於いて不利にしかならない筈の感情を抱いてしまったのだ。
視力を完全に奪われ、二匹の蜘蛛の制御まで手放してしまったヘルドマンは咄嗟にその身を庇うように身を縮めた。
それと同時、蒸気の向こう側からアルテの手が伸びてきた。
手はヘルドマンの胸部、丁度心臓が位置する場所を鷲掴みにしている。
「あっ」
どくん、と己の心臓の鼓動をヘルドマンは感じた。
鼓動が狂人の手の中にあることを感じた。
ちりちりとアルテの手の平が熱を帯びている。それが彼が身に宿した太陽の毒の作用であると気が付いたとき、ヘルドマンは声にならない悲鳴を上げた。
昔、ヘルドマンはとある吸血鬼と戦って完敗している。
その吸血鬼は七色の愚者、第一階層、すなわちこの世界最強の称号を持つ吸血鬼だ。
称号名を「スカーレットナイト」という吸血鬼は、唯一太陽の毒を克服した吸血鬼として広く知られている。
吸血鬼最大の弱点を見事克服し、あまつさえ太陽の力を一部行使できる「スカーレットナイト」は全ての月の民に於いて畏怖の対象だった。
そんなヘルドマンから見ても神に等しい存在に、彼女は無謀にも挑んでしまった。
結果は先ほど記したとおり、文字通りの完敗。
傷一つ付けることすら出来ず、逆にヘルドマンは力の九割を失ってしまう後遺症を得た。
その時の光景を、彼女は鮮明に覚えている。
そう、あの時もこうして「スカーレットナイト」に心臓を鷲掴みにされた。
そしていたぶるように、嬲るように、じわじわと太陽の毒を直接流し込まれたのだ。
恐怖のフラッシュバック。
トラウマの再燃。
ヘルドマンの赤い瞳が狂ったように見開かれ、アルテを振りほどこうと四肢をよじる。
だが絶望と恐怖に塗り固められた彼女の身体は一切の言うことを聞いてくれなかった。死刑宣告にも等しい時間が無情にも流れていき、ヘルドマンは遂に両足を屈した。
それでもアルテはヘルドマンの心臓から手を離そうとはしなかった。
竜の翼膜で作られた防護スーツを通り越して、ヘルドマンの皮膚に直接太陽の毒が流し込まれ始める。
痛みと苦しみ、さらに凄まじい吐き気に侵されたヘルドマンは両の目尻から涙を零した。
あとはただ心臓を灰に焼かれるまでただ待つのみ。
しかし運命はまだヘルドマンを見捨ててはいなかった。
練兵場に木霊する一つの『声』が彼女を救った。
『そこまでだ。狂人アルテ。これ以上は私が許さない』
救世主は部下として重用していたシスターのものだった。クリス・E・テトラボルトという、シスターとハンターの二足の草鞋を履く女性は声の力を使って、アルテの凶行を止めに入った。
魔の力が乗せられた『声』はほんの一刹那、アルテの動きを拘束する。
その一瞬で、クリスは全身全霊を込め横からアルテを殴りつけた。
未だ充満する蒸気の壁を突き破って、アルテは練兵場を囲むように設置された結界に再び身体を叩きつけられた。
だがこれで終わったとは微塵も考えていないクリスは腰からぶら下げた剣を抜き放ち、アルテが起き上がってくるのを待った。
「ヘルドマンさま。試験の終了を宣言してください。さもなければあの狂人はあなたを殺すまで止まりません。……あいつはそういう男です」
地面に捨てられていた黄金剣を拾い上げ、アルテはゆっくりとした動作でこちらに向かってくる。
クリスは震える両手両足を叱咤しながらヘルドマンに語りかけた。
「早く!」
呆然と座り込んでいたヘルドマンは左胸を庇うようにして、息も絶え絶えに立ち上がった。
そして己を庇うように立っていたクリスの前に歩み出て、アルテと再び対峙する。
懇願にも似た声が練兵場に響き渡る。
「……私の負けです。狂人アルテよ。どうか、どうかその剣を納めて下さい」
試験開始の時と同じようにヘルドマンが頭を垂れる。
しかしながらその仕草は余裕と優雅さを持って行われた一度目とは比ぶべくもない、無残なものだった。
練兵場にいた全ての聖教会の職員、そしてイルミが息を呑んだ。
たとえ力を九割方制限されていても、絶対強者として君臨し続ける神の一柱が敗北した瞬間だった。
おっぱい揉んだら泣かれた上に殴り飛ばされたったwww
いや、全然笑い事じゃないのだけれども。
試験も終わって、夜も明けようかという頃合。俺は古城の一室でイルミに傷の手当てをされていた。
手加減でもされていたのか、二匹の蜘蛛に囓られた部位はそれほどの重傷ではなかった。どちらかというとクリスに殴り飛ばされたダメージの方が大きいくらいだ。
まあ、あれだけ盛大に胸を掴んでしまったのだ。クリスの怒りはご尤もだし、ヘルドマンには悪いことをしたと思う。
まさかマジ泣きされるとは思わなかったけれど。
いやー、でもヘルドマンはマジで強かった。
後から聞いた話だが、あれでも本来の実力の十分の一くらいしか出していないらしい。
さすがは七色の愚者の第三階層。空恐ろしい強さである。
全力ならばたぶん数分でこちらがミンチにされるに違いない。それほどのレベル差を今回の模擬戦で俺は感じ取っていた。
やはりこの世界の強者は完全に元の世界とはスケールが違う。
一人で人類国家を容易に滅ぼせるだけの能力を有するとか何というチート。
ヘルドマンの、「質量を持った影を操る能力」というのも、威力、範囲ともに本来ならば十倍だろうから、数キロに渡って能力を行使し、破壊を繰り返すことが出来るわけだ。
くわばら、くわばら。
と、現実逃避はこれくらいにしよう。
さっきから一言も言葉を発しないまま、包帯を巻き続けるイルミがとても怖い。
俺を殴りつけたときのクリスの目も殺気に満ちていて普通にびびった。
そりゃそうだ。
公衆の面前で乙女の胸を揉みしだいたのだ。時代が時代なら即豚箱行きの重要犯罪である。
それが原因で試験合格を取り消されないか、と一人冷や冷やしているのも内緒だ。
「アルテは……」
いい加減沈黙に耐えかねたとき、口を開いたのは意外にもイルミからだった。
彼女は俺の瞳を覗き込むように、こちらに身を乗り出して問いを口にした。
「アルテは本気で戦ったの?」
ぐさり、と目には見えない言葉の刃が突き刺さる。
当たり前か。
模擬戦のテストと銘打っておきながら、端から見たら俺はヘルドマンの胸を揉みしだいただけの変態。
イルミも嫌みの一つや二つは零したいだろう。
というか、練兵場に魔導器具を設置するのを手伝って貰っておいて、この結果は余りにも酷すぎた。
だから俺は精一杯弁解することにした。
たとえこの内情が全て伝わらないと知っていても。
「当たり前だ。俺はいつものように、いつも吸血鬼相手にそうするように戦った」
あれでも本気だったの。と口にしようとしたら以上のような台詞に変換されてしまった。
だが大筋では間違っていない。魔導器具を埋め込むというのも、格上の吸血鬼を相手取るときよく使う戦法だし、拳を使わずに掌底を叩き込むのも、あの場面では理に叶っていた。
俺はイルミの深紅の視線を真っ向から受け止めた。
ここでやましさに駆られて目を反らそうものなら、一生彼女に軽蔑されるだろう。
それだけはなんとしても避けなければならない。なんだかんだいって長い付き合いの仲間なのだ。
つまらないことで仲違いはしたくなかった。
ちりちりと肌を焦がすようなプレッシャーを感じながら、無限にも似た時間が流れていく。
やがてイルミは俺から視線を外して、再び手当を始めた。
言葉はない。
うん? 許して貰えたの?
地平線の向こう側から太陽が昇ってくるのを、ヘルドマンは古城の一角に設けられた自室で静かに眺めていた。
吸血鬼である彼女はその光を直接浴びることは出来ないが、部屋の隅に座り込むことによって何とかやり過ごしていた。
傍らでは包帯と薬効がある液体が入ったビンを手にしたクリスが控えている。
「情けない姿をお見せしましたね」
ぼそりと、ヘルドマンは今にも消え入りそうな声で呟いた。
クリスはそんなヘルドマンには何も言わず、彼女が身につけていた革製の防護スーツを上半身だけ脱がした。
そして小さな悲鳴を上げる。
惜しげもなくさらされた白いヘルドマンの肌。その左胸に位置する部分が真っ赤に焼けただれていた。
この症状をクリスは知っている。
太陽の毒に侵された月の民が煩う重度の火傷だ。
クリスは手持ちの道具では手当が出来ないことを今更ながらに悟った。
「太陽の毒を克服した月の民、ですか。何から何まであの女と同じで嫌になります。……この胸の傷も五十年掛かってやっと完治したと思ったのに、またこうして刻みつけられてしまった」
ヘルドマンが「スカーレットナイト」と敵対した、という事実はクリスにも知らされていた。
そこで受けた、能力を制限される後遺症のことも同じように。
だが傷のことは知らない。ただ、ヘルドマンの口ぶりから察するに、「スカーレットナイト」からも今回と同様の傷を刻まれたようだ。
つまりそれは、狂人アルテが、「スカーレットナイト」のようにヘルドマンを痛めつけたということ。
「どうやら油断していたのは私のようです。彼が太陽の毒を克服したという報告は聞いていました。ですがあれほどとは夢にも思いませんでした。彼は自由にその力を行使できる域に達しています」
焼けただれた左胸をヘルドマンはそっと撫でる。
「あなたも感じたでしょう。彼の手の中に収束していくおぞましい力を。……恥ずべきことですが、私はあのとき、恐怖によって完全に支配されていました。
スカーレットナイトに殺されかけた時と同じです。私は彼の中に彼女の幻影を見てしまった」
「どうしよう。もう忘れたと思っていたのに、また思い出してしまった。たぶん、これから二度と忘れることは叶わない絶望を味わってしまった。
知っていますか、クリス。私たち七色の愚者は絶対強者であるが故に、死というものを人一倍恐れています。
たとえ仮初めとはいえ、それを一度でも味わってしまったら回復まで恐るべき時間が掛かる。
そう……いまの私のように」
クリスはヘルドマンのここまで弱り切った姿を見るのは初めてだった。
彼女が知っているのは、たとえ力が十分の一に制限されても、強者として君臨する七色の愚者の一柱としてのヘルドマンだった。
だから掛けるべき言葉が見つからない。
掛けるべき慰めを探すことすら出来ない。
「格好つけて七色の愚者、第三階層と名乗りましたが、「スカーレットナイト」に敗北した私は実質最下層にも等しい存在でした。
けれどもたった一人の人間に負けるつもりなど毛頭なかった。
でも現実はこの有様。……もしかしたら月の時代は神話の時代になるのかもしれませんね」
何もできないまま、ただ立ち尽くしていたクリスをヘルドマンは優しい視線で労った。
そしてやんわりと退室を促す。
特に反抗も出来ずに、クリスは渋々とヘルドマンの自室から出て行った。
一人残されたヘルドマンは練兵場でそうしたように、よろよろと立ち上がって脱がされていたボディスーツを着直した。
「彼が時代を変えるのか、それとも私たちが自滅して終わらせるのか、楽しみでは、ありますね」
部屋に差し込む日光から逃れるようにヘルドマンも自室の扉へ手を掛けた。
魔灯に照らされた真っ暗な古城の廊下が、まるで地獄の入り口のように目の前に広がっていた。
イルミは現状を全く理解できないでいた。
ヘルドマンが手加減していることくらい知っていた。アルテを間違って殺さないよう、彼女なりに配慮していることも知っていた。
けれど、それでも、たった一度の攻防でヘルドマンが破れた現実が今でも夢のようだった。
ヘルドマンが七色の愚者の一角であると名乗ったとき、何かの間違いだと思った。
だが可視化された黒い魔の力を見てしまったとき、それが事実であると言うことを嫌でも認識させられた。
周りにいた聖教会の職員もとくに驚いたそぶりは見せなかった。それはつまり、聖教会内では「ヘルドマンが七色の愚者」であることは周知の事実だったのだ。
いくらアルテでも無理だ、と思った。
彼女の中では七色の愚者は絶対の存在だった。
たとえ狂人で、太陽の毒を克服したアルテでも片手で捻られると思った。
実際、ヘルドマンが手加減していてもアルテは着実にダメージを受け、ついには敗北寸前まで追い詰められた。
魔導器具による目くらましも、ヘルドマン相手ならものの数秒効果があれば良いほうだと考えていた。
……結果は予想を遙かに裏切ってきた。
アルテはあろうことかその数秒でヘルドマンに肉薄し、吸血鬼の弱点とされる心臓の位置を捉えた。
そして端から見ていても寒気がするような威力の、太陽の毒を流し込み始めたのだ。
あれほどの量の太陽の毒を、アルテが行使するのは初めて見た。
文字通り七色の愚者ですら身を焼かれるような、普通の月の民ですら死に至らしめてしまう、そんな猛毒。
イルミはそのとき、己がまだまだ狂人を侮っていたことを知る。
精々武器等に纏わせるだけと考えていたアルテの毒は、その身を介して相手に直接送り込めるのだ。
それも想像に尽くしがたい密度と量を。
即死しなかったヘルドマンの生命力と防御力にも肝を抜かれた。
さすがは七色の愚者。さすがは絶対強者と、改めて畏怖の念を抱いた。
だがそれ以上にそんな力を行使したアルテに対して、新しい特別な感情をイルミは抱き始めていた。
それは崇拝だった。
イルミは目の前で繰り広げられた攻防を見て、アルテならばもしかしたら七色の愚者を本当に討伐することが出来るのではないか、と思い始めていた。
第一階層のスカーレットナイトのような化け物は無理にしても、ヘルドマン以下の第四階層、さらに言えば第七階層の「ブルーブリザード」ならば……。
見てみたい、と思った。
神とも崇められる七色の愚者が、たった一人の狂人によって討伐される瞬間を、この目で見てみたいと思った。
ヘルドマンが両足を屈したとき、イルミが得たのは言葉に言い表すことが不可能なほどのカタルシスとエクスタシーだった。
自分の主人であるアルテが七色の愚者を下した。
その事実を目の当たりにしたとき、イルミはアルテに対する畏怖を全て忘れていた。
代わりに芽生えたのはただ崇拝の念のみ。
傷を負ったアルテを治療しているときも、彼の言葉の一つ一つがイルミの心を捉えて放さなかった。
あのとき、練兵場でアルテに捕らわれたのはヘルドマンだけではなかった。
アルテに対して恐怖し、ただ怯えから付き従っていた一人の少女を完全に束縛してしまったのだ。
もちろんアルテはそのことに気が付いていない。
ただ身勝手に、ひょうきんに生きている彼はそんなイルミの変化に何一つとして気が付くことはなかった。
食事をとってくる、と俺の手当を終えたイルミが部屋から出ていった。
特にすることもなかった俺は、ぶらぶらと手荷物の中から「ブルーブリザード」の討伐依頼が記された羊皮紙を当てもなく眺めていた。
数分ほどそうしていたら、静かに部屋の扉が開かれた。
イルミかと思って視線をやったら、ボディースーツの上に黒い外套を羽織ったヘルドマンが立っていた。
呆然とする俺にヘルドマンは微笑みかける。
「傷の、私に刻まれた傷の責任を取ってもらいに来ました」
ああ。ごめんなさい、お父さんお母さん。
あなたたちの息子は、決して取り返しのつかないことを、どうやらしでかしたみたいです。